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あなたの周りでは、発達障害に対する理解はすすんでる?

「学校が子どもの特性を理解してくれない」

「家族が分かってくれない」


こんな相談をよく受けます。そうなんだよ。これすごく課題だなって思ってる。


支援ていうのは当事者に関わる人たちが共通の認識のもとに、当事者が生活しやすいようにカスタマイズされて成り立つものだと思ってる。これにはやっぱり『知識』と『理解』が必要なんじゃないかなって。


学校ってところは、教員と生徒の比率、仕事量、知識量、専門職の配置など、未だ日本は改革の余地が山ほどあると思う。時代にそぐう待遇や教育って見直さないといけない。高齢化社会の難しさもあるよね。高齢者も子どもたちも命は同じ。どちらかを軽んじることなんてできない。(コロナという命の選別が必要な事態に陥って、私たちは思い知らされたよね)


でも、実は子どもに対して国が使ってくれてる予算て少ないと思わないかな?将来的に人材を育てるのってこの程度の価値なの?って疑問に思わざるを得ない。会社だったら『後続が育たない、先の見えた会社』のシステムが全く改善されない感じに近いんじゃないの?って思ってる。


日本の教育スタイルって何十年も前のアメリカの教育スタイルのままなんだよね…。これ自体が今のスタイルに合わない。ましてや、個々人を立てて考えるって日本はあまり慣れ親しんでない。学校の中って『みんないっしょ』『同じように』が基本。


うちの子どもたちはその点はすごく恵まれた環境にいられた。学校が受け入れがよく、家庭と密に連絡を取り合ってくれていた。こちらが検査結果を提出して、支援の方法を提示してお願いしたら出来る限りやってくれたし、先生から『このやり方どうでしょう』って提案も何度もいただいた。OTやST、臨床心理士なら方々にも散々ご協力いただいた。本当にありがたかった。


長女にとってはノイズキャンセラーの導入やパッドの持ち込み、苦手な部分への声かけや、不安な時の対応などが功を奏して、一時的に学校が辛くなった時もあったけど持ち直した。


でも次女は同じ条件でも不登校になった。


では支援が合わなかったのかって考えると、決してそういう問題ではないなと私は感じる。


ここでこのお話の前半部分を思い出してください。確かに日本の教育現場は遅れてる。支援には当事者に関わる人たちの知識と理解と協力が必要。でももう一つ。

当事者が支援を受け入れられる気持ちなるかどうかってこと。

どんなに周りがあれこれ支援を提示したって、当事者が現実に絶望している時には必要なものであっても支援できないって現実がやってくる。

当事者が『自分という人間』と『他のみんな』を比較して、『同じようになりたい。』『どうして自分だけこれだけ特別なことをしてもらってもみんなと同じにできないんだろう』ってなってしまう環境。どの子も苦手がある。だからその子にあったやり方のカスタマイズを提示されるのが当然って環境だったら、子どもたちは『みんなと違う自分』をもう少し受け入れやすくなるんじゃないのかな…


当事者の自己理解もできればあったらいいなと思う。でも周囲理解や、困っているならどの子に対しても『その子にあうやり方』や『環境』のカスタマイズを提案していかれる体制は、教室で発達の子が『異質さ』を感じず、クラスが居場所として感じられるための前提条件になるんじゃないかなぁ…


高望みしすぎかなぁ。


『発達障害』という言葉認知度は上がったと思いますが、実際の発達障害児の生活や家庭内の状況ってなかなか実感していただけないなぁと思い、書き始めました。 子育てに必要な勉強を続けていくために、「投げ銭」という形でご支援いただければ励みになります。 よろしくお願いします。