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ボランティアは市場取引であり効用を生む消費とは本来別だが、取引自体が快楽を生む消費行為ならどうか、問題

ちょっと前の話になるが、とあるシンポジウムに登壇した。そこで話をしていて連想したことをメモしておきたい。

市場経済ではタイムイズマネーなのでボランティアはともすれば機会コストがかかって損になる


地域のまちづくり活動は市民の有志によるボランティア活動っていうものに依存している。例えば「学生がボランティアで高齢者にスマホを教える」みたいな話が典型的だ。

さて、このようなボランティア活動を眺めた時、抽象的な問題が浮かび上がる。ご存知の通り私たちは資本主義経済の中に生きているわけだが、資本主義経済では、自分の時間を売って収入に変えるというゲームが駆動している。その中ではタイムイズマネーとばかりに、時間の価値が測られてしまう。だから本来であればバイトで時給に交換できたかもしれない時間をボランティアで高齢者にスマホを教えることに使うと損やん、というはなしになってしまう。こういうのを経済学では機会コストという。この機会コストがあるにもかかわらず人がなんらかボランティアをすることが経済的な合理性を持つとするならば、翻って、人々には利他の精神が内在している、と想定することになるって、シンポジウムの登壇者はいうんだね。

利他の精神、というのは、つまりは内在的な規範であり報酬機構である。いうなれば宗教的信念、信仰に近い。だから、そういう信仰を持っている人は持っているだろうけど、持っていない人は持っていない。なので、これをマスに広げようとするとどうしても弱い。なぜなら信仰の自由があるから、政策的なコントロールができないからだ。もう少し、なんというか、ゲンキンな話が必要なのだ。

じゃあ、そういうボランティア活動を推進する政策というものがあるとして、これにはどんな経済合理性があるかを考えてみる。例えば、高齢者にスマホを使ってほしい自治体なり地域団体なりがあるとする。例えば自治体は、高齢者がスマホを使えるようになると、広報や広聴、行政手続きをオンライン化できるので、事務的なコストを節約できるようになる。その節約分を下回る範囲のコストが、行政主催のスマホ教室の実施に向けて投資されることになる。

そこに参加する学生にとっては、例えばそこでの体験が就活で取引に使える「ガクチカ」として獲得できる。つまり、部分だけ切り取ると、無償労働的なボランティアに見えるかもしれないが、帳簿の記録を見ていけば、最終的に決算で金銭的な利益が出るように組み立てられているものだ。と、少なくとも一度は考えるのが、資本主義に生きている人間の思考だ。

取引で得することを繰り返せば、僕らはパブロフの犬ばりに取引自体に快楽を覚えるかもしれないが、ツケ払いは時に忘れられる

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