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「都市の余白」を供給する、ローカルなプチブルによるエリート統治、としてのまちづくりの話

まちづくり=まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり説

私はこれまで、まちづくりを「まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり」の略であるという定義を採用し、まちづくり活動をする上で生じる様々な楽しさや喜び、可能性、あるいは困りや悩み、限界といった現象のメカニズムを説明してきた。

詳しくは拙著「モテるまちづくり」シリーズに詳しい。キンドルアンリミテッドで無料で公開している。

私の友人が書いてくれたとても詳しい解説があるのでそちらも参考になる。

さて、私はこのように、まちづくりをまちの人なら誰でも使える公共財づくりであると説明するが、類似する考えを「都市の余白」という別の言葉に置き換えて説明するのが、大森文彦『まちづくりにおける余白としての公有地・私有地・郊外』だ。

まちの公共財としての「都市の余白」が出現「しにくい」理由は政治的、経済的に説明できる

まちづくりが人々の期待するほど供給されないことは私は繰り返し解説してきたが、同様に「都市の余白」も成立しづらい。それは本論文の著者も以下のような経験を述べている(P14)。

著者は、不動産企業に勤務していた際、再開発建物と隣接する空地を含めて企画したイベントで使用するキャンプ用品収納する場所を探したが見つからなかったというんだ。というのも、あらゆる倉庫は用途も、所有者も管理区分も定められているためだ。じゃあ通路や階段に置いたらいいか、というとそれもできない。消防法の規定から、防災上危険とされているからだ。

このような経験から、<これほどの巨大建築物であっても、「何か新しい取組を行う際の余地」言い換えれば「余白」と呼べる空間がほとんど無いことに愕然とした記憶がある>と述べている。

この「誰でも自由に使える空間」とはまさに「まちの人なら誰でも使える公共財」である。まちづくり活動をするためには、こういうまちの公共財と言える空間が必要で、だからまちづくり活動者からくる相談内容の定番の一つが「安く使える空間はないか」というものだったりするわけだ。

この「自由に使える空間」のことを本論文では「都市の余白」と呼び、それがなぜ成立しづらいのか、どこに成立可能性を見出せるのか、ということを事例を豊富に交えながら論じていく。

この論文では、都市に余白が生まれにくい理由を、以下のような論理で説明している。

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