人を助けたい=傲慢?
20代の終わりからしばらくアロマセラピーの勉強に没頭していた時期があります。
植物から抽出するオイルについて勉強したのかなと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それはもちろんのこと、
生物(植物)のほかに、化学、物理学、世界史、薬草に関する様々な歴史、地理、解剖生理学、コンサルテーション(東洋医学的な視点からの問診のようなもの)、そしてもちろんトリートメントの実技など様々なことを学びました。
そしてアロマセラピストとして仕事を始めてしばらくした頃に、とある尊敬している人物からこう言われました。
「人を助けようだなんて、そんな傲慢なことを考えるなよ」
と。
誰かの役に立ちたい、助けになりたい、と思っていた当時のわたしは、言葉の意味するところがうまく理解できず「え、、???」と思考停止に陥ったことを今でも覚えています。
尊敬している人の言葉だったのでインパクトがとても大きく、その時以来長い間「人を助ける=傲慢」という言葉が頭にこびりついて離れることは
ありませんでした。
でも今のわたしはハッキリ分かります。
たしかに人を助けることなんてできないし、「助けたい」というのはこちらのエゴであって決して「人のため」ではないということが。
もしかすると当時のわたしのように「え?」となっている方もいらっしゃるかもしれませんので、もう少し具体的に説明してみたいと思います。
さて、その昔テレビ番組でどこかのお医者さまが次のように仰っていたことがあります。
「わたしには患者さんを助けることはできません。できるのは、彼らの回復しようとする生命力をサポートすることだけです」と。
また、以前よく視聴していた「GLOBIS経営大学院」のYouTubeチャンネルで「オイシックス・ラ・大地」(有機野菜のオンラインデリバリー)の高島宏平さんが講演された際に
「僕たちは、人の役に立ちたいだなんてそんな高尚な人間じゃないんです。「人の役に立ってる俺たちカッコイイ」が気持ち良くてやってます」というようなことを仰っていました。
彼の言葉を聞いたときに「なんて健全なんだろう!」と思ったことを覚えています。しかも彼らは実際多くの方の役に立っているのです。
みなさんは、このお二人の言葉を読まれてどのような感想をお持ちになられたでしょうか。
そもそも「人を助ける」とか「人の役に立つ」というのはとても不思議な言葉で、こちらが人助けをしたつもりでも広い視野と長い時間軸で見たときにはかえって相手の助けになっていない場合もあるし、
こちらが役に立ちたいと思ってやったことが迷惑になっていることも十分あるなぁとわたしは思っています。
つまり、「助かった」とか「役に立った」ということは受け取った相手が決めることであって、こちらには決定権がそもそもないという点がかなり重要なのではないかなと思うのです。
わたしの尊敬する方はこのことを「傲慢」という言葉を使って伝えてくれたのかなと思いますが、この答えにたどりつくまでにずいぶん長い時間を要しました。
さて、以上のことから今のわたしは、
「自分の好きなことや興味のあることにできるだけ広い視野で取り組み、とにかく自分が楽しむ=自分のため」が1番、
そして「結果的によろこんでもらえたらラッキー!」が2番、
という感覚で様々なことに取り組んでいます。
とはいえ「人を助けたい」「人の役に立ちたい」
という思いは決してダメなものではないと思っています。
むしろある意味ではとても健全で尊い想いでもあると思いますし、とても力強いモチベーションにもなるという素晴らしい面があるとも思っています。
ただ、本質的にはどういうことなのか、そこまで考えることができると、よりのびのびと生きていけるのかなと個人的には思っています。
「わたしはお節介が好きなんです。エゴです^ ^」くらいの軽ーいノリでいけたらいいなぁ。。
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