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人は二度生まれる。一度は存在するために、二度目は生きるために

「人は二度生まれる。一度は存在するために、二度目は生きるために」
とはルソーのありがたいお言葉である。二度目は自我が芽生えて社会の一員としての自覚を持ちはじることを指し、第二の誕生といわれる。


第二の誕生はだいたい二十歳前後と言われ、価値観が定まってきて自分の頭で物事を考え始める。その頃はちょうど学校教育から社会に出る段階で、知らないことだらけで無知な自分にある意味感動し、自己成長欲求に駆られていろんなインターンとかボランティアとかセミナーとかに参加したり、自己啓発本などを沢山読んで社長になりたいとか有名になりたいとかお金持ちになりたいとかの大きな夢を持ち、色々試行錯誤をする。人の話をよく聞き、よく質問し、よく勉強し、スポンジのように物事を吸収し、活発的に行動するあの「若い」時期。

人によってその時期の有り様は多種多様だろうが、ぼくにもそういう時期がはっきりとあって、研究を始めたことがきっかけでだんだん自我が芽生え自分の頭で物事を考えるようになった。同時に、学会などを通じて研究者方のお話を沢山聞いては感心し、有難いことに自身の研究に没頭しこれを通じてフロイトのいう「大洋的感覚」を少しながら味わうことができた。その一方で、自分のちっぽけさや阿呆さを痛感し、それら劣等感の穴を埋めるように寝る間も惜しんで研究に励み論文を読み、色んな本を読んだりランニングをしたり食事やお菓子制限をしたりFXをしたりインターンに参加したりライフハックに興味を持ったり、とにかく異常なモチベーションに駆られて試行錯誤していた。

この期間で多くの事を学んだが、やがて身体がついていかず、睡眠不足に苛まれ皮膚が荒れ、特に首元や肌がこすれる部分は目も当てられない状況になり、
「あれ、なぜこんなに頑張っているのだろう」とふと疑問に思うようになった。そして、その疑問は「頑張る意味は何なのだろう」から「そもそもなぜ生きているのだろう」に形を変えた。
「人は生きる意味を求めずにはいられない」とは心理学者V. E. フランクルのお言葉だが、その言葉通り見事に生きる意味に囚われ、大きな反動を受けるようにして身体はどんどん重くなり布団から起き上がれなくなり、やる気の火は跡形もなく消え、研究室にやっとの思いで遅刻して行き、行った後も食堂に逃げてひたすら寝て時間を過ごす日々を過ごした。

このようにしてぼくの第二の誕生は、劣等感に基づく異常なモチベーションを発生させ嵐のように自分を襲い身体を荒らし、地面をそぎ取って多くのやる気の芽を奪い、過ぎ去っていった。
もう二度と同じようなことは繰り返したくないとつくづく思う。

現在は以前と比べてかなり回復して、睡眠も十分にとれて、朝はやはり遅刻するが研究室に行って楽しく実験し、お肌も健康になり、新たなやる気の芽が生えてくる感覚がある。


やはり、頑張りすぎるのはよくない。

焦らず、少しずつ。


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