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とある街での記録 24/07/20

現在は、北の街から列車の乗り換えた線路の先にある、あのお寺のある例の街に来ている。天気は、曇り。気温は程々。また、今日は朝から子供食堂のボランティアの日であった。子供食堂では今日もまた、見事に道化を演じきった。私の道化としての質は毎週向上している気がしていて、最早、言葉の選びから、表情の選択、腕の動かし方等、あらゆる事がオートマチックではなくマニュアルである。ただ、私は、新時代に訴えたい。道化は、何故道化たろうとするのであろうか。その理由の一つに「道化でありたいから」というものがあったもよいのではないだろうか。私が道化である己を純粋に嫌悪しておれば、こうして一年近く毎週子供食堂のボランティアへ通う事も無かったであろう。

このお寺のある街に来たという事は当然、今日はお寺に行くという事である。この街の鉄道駅から更にバスへ乗ってお寺へ向かう。ここ一年程、私はこの、寂れてはいるが歴史と伝統と庶民の生活が確実に存在している、山脈の麓にある本線から取り残された街に降り立つ事で、何かを精算している気がする。その精算は、自戒でもあり、俯瞰でもあり、過去との比較でもある。何れにせよ、この街に初めて降り立った去年の夏から今日に至るまで、私は心の中でこう呟きながら、その小さな駅舎を出るのである。「私は、人生に迷って、ここに来ました」季節は変わっても、それだけは変わらない。

お寺の法話会は日が沈んでからである。なのでそれまでの間は、駅前のこの地の中心商業施設と思われる建物の中のイートインで、ダラダラと読書でもしながら時間を潰そうと思っている。このイートインには以前にも滞在した事があるが、買い物に来ている主婦さんや、仲間と一緒に座る場所を求めている高校生、他方ではPCを開いて黙々と作業をしている若者等、様々な人が居て、こういう部分からも、私は確かにこの街の生命を感じるのである。そういう私は、駅から真っ直ぐ伸びる一本道の街灯の明かりが俄に灯ってきた頃になってから、前述の通りバスに乗る事にする。今はまだ、蝉が鳴いている時間帯である。

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