はるや

多くの本を読みます。ノートは思ったこと感じたことを余裕があるうちに書いていきます。批判…

はるや

多くの本を読みます。ノートは思ったこと感じたことを余裕があるうちに書いていきます。批判怖いけど、声は出さなきゃ届かない、って公園にいた人が言っていたので、思い切って伝えたいことを、書いていきます。 Twitter @nofriends999

最近の記事

  • 固定された記事

ワンピースを着た女

洗濯が終わる15分前に柔軟剤を入れに行かなければならない。厚い雲に覆われた朝の空は暗く、外はほんの少しだけ涼しい。一人暮らしになって洗濯する回数が減ったのに、こんな日に限って、曇りがちであるなと感じる。 ロックを解除し、柔軟剤を入れた。残りの時間を待たなければならない。コインランドリーの特徴ある臭いから逃れるようにして、外にある椅子に座った。通勤中のサラリーマンや登校中の小中学生たちが忙しなく右から左へ流れていく。思考は停止中で、ぼーっと流れを眺めていた。 ふと、彼らの行

    • 別つ春

      調布に着き、僕は葉子が電車から降りていくのを、手を振って見送った。新入生歓迎活動前日の決起飲み会は新入生に主役が奪われるかもしれないということを危惧した新2年生が暴れて幕を閉じた。「明るい未来に乾杯」と後輩とともに声を荒げて酒を浴びるようにして飲んでいた健司はひどく酔っており僕の横で寝ていたが、僕の手を振る腕が当たり目覚めてしまったようで、去りゆく葉子の後ろ姿に慌てて手を振っていた。 「もう調布なのか。」 「うん。酔いすぎ、」 「バイバイぐらい言いたかったなぁ。起こしてよ。

      • 21歳的貧乏

         私の家はそれほど裕福ではない。クリスマスプレゼントはきまってハードカバーのハリー・ポッターシリーズだった。申し訳ないが、財政については、もっと厳しい家庭のかたもいるだろう。ただ私も、小学校の周りの友人と比べると良いとは言い難かった。  このような家庭で育った故、性根に貧乏さんが住んでいる。貧乏さんは良いところがある。人生に幾度なく訪れる選択の機会にそれとなく顔をだし、その選択の重要性と必要性をいつも問いかけてくれる。持ち合わせる資源を無駄にしないように。  しかし、貧乏

        • 和?

           小学校での大便は大変リスキーであった。大便個室から出てくると、一日「ウンコ様」と敬うわけもない蔑称を付けられる危険性がある。当時は、つけられた異名を笑いに変えれるほどのボキャブラリーとメンタリティは持ち合わせていなかった。  何より、個室で用をたすに至らない理由があった。  個室の設計に問題があった。なぜか、個室の床は他の床より高く位置づけられていたのだ。無念にも外側からヤンキー座りであの10㎝くらいの隙間をのぞき込めるようになっていた。  私は、個室に入ったのち、半

        • 固定された記事

        ワンピースを着た女

          ナイトメア

           エッセイは、著名な人が書いたものだから価値があり、読もうとするものらしい。確かに。無名な若者が目指そうとするものは面白いかタメになるもの2択ということか。ならやりやすい。  ほんだい  限定された社会には、多様性というものは認められにくい。今よりも、小学生のときのほうが人の目を気にして、画一化が激しかったと思う。  必須アイテムはDSかPSP。「どちらかを持たざる者排斥すべし」といわんばかりの流行。小学生のヒエラルキーというのはセンシティブでシビアである。人と違うと捉

          ナイトメア

          強い人の印象

          『私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道である。なぜなら弱者の道はわかりきっている。暗いけれども無難で、精神の大きな格闘が不必要なのだ。』___坂口安吾 恋愛論 より抜粋  この場合での弱者と強者とは、物理的な他人と自分の競争結果の比較ではなく、自己との葛藤による自身の選択の結果と考える。ある意味勝ちと称していることは、自分に厳しくすることである。すなわち、負けるという事は、自分に優しくするということである。  日々の選択と行動の間に絶え

          強い人の印象

          親友

           冒頭の文章というのはどうも苦手である。この文章の完成度等が一目で判断されてしまう危険性を孕み、興味を引くかを大きく問われる。  さであるならば、いきなり本題にはいるべきなのであろうが、それもまた、苦手である。伝えたいことをそっくりそのまま伝えるのであるならば、箇条書きで事足りてしまう。回りくどさが文章を構成にするにあたって楽しいことなのだ。推敲して、それらに合った言葉を選びを連ねていくのが、難しくやりがいがあることなのである。  と、いうことで、いい加減な文章で冒頭を埋

          小学生の時のことなんてもうあまり覚えていない。楽しかった思い出のみ断片的に残り、華やかな少年時代を彩っている。  ごく小さな田舎の少年の完結したコミュニティで生きていたため、社会の仕組みは知らず、自身で想像できないこと、納得できないことは理解ができなかった、しようともしなかった。触れずにも、生きれることを知っていたから。  難しいこと、理不尽なことは理解できずにいたからこそ、辛い思い出は消されているか、あまり覚えていない。そのほうが、楽であった。  しかし、10歳のとき

          ガキ論 3おわり

          前回のつづき(独断的に切り取られたガキイズム)  「ガキ姿勢」を取り除く理由とはなんなのだろうか。なぜ、あってはならないものだろうか。心の安寧秩序を乱さないためにこれがあってもいいものではないだろうか?  私は、その理由としてこれ挙げる。「自己内省のきっかけを得るため」だと。経験の失敗が「ガキ姿勢保険」により、思考を放棄させ言い訳にし、人間的に大きく飛躍する成長する機会を手放してしまっているのだ。  my favorite authorの坂口安吾が言うように、自身の恥ず

          ガキ論 3おわり

          ガキ論 2

           貧乏ゆすりするひとの精神作用ってどうなってるんだろう。人様迷惑系ランキング、1位の受動喫煙の次にランクインすると思うんだ。明治大学受験時に、前の席に座っていたロン毛貧乏ゆすラ―は永代にして呪ってやる。 前回のつづき(ガキなり姿勢定着の背景)  何事にも言えることだが、保険をかける行為に将来的な成長は見込めない。挑戦に付随する失敗を見込むような精神的保険に言えることだ。ミスではない失敗はいずれ成功につながるとかいうけど、失敗する目論見ありきの保険を包含した挑戦は果たして、

          ガキ論 2

          ガキ論 1

           コロナの自粛期間で旧友と久しぶりに関わる機会が増えた。当時はいじられキャラで立ち振る舞っていたからこそ、存分にいじられる。大学ではありえないこの感じ。すごく良い。何よりも笑いがとりやすい。唯一の欠点は、キャラで笑いをとるようになるため、トークで落とせなくなってしまうことだと思う。うーん、二刀流で活躍したいなぁ。  6歳のときであった友人とはもう15年の歳月が経ち、21歳、大学四年生になった。学生ではなく生徒であった中学や高校よりは、自分自身の選択行動に責任が伴うことは理解

          ガキ論 1

          あとがき 下

           人事のお姉さんがかわいいというのは、また一つ就活のやる気の持続に関連するものではないだろうか。学生とは全く異なるファッション、化粧、しゃべり方や精神の余裕さ。これが社会人への美しい憧れである。一面性の社会の華やかな部分を見て、心が躍り、奮起する僕みたいなアホな学生は多いのではないでしょうか。 (あとがき2の続き)    なぜ「あとがき」を読んでしまうのかを考え、必要性を挙げていき、「あとがき」の生存の道を描いていこう。  まず、前回にもいったように、自らの考えを正解

          あとがき 下

          自己紹介

           「あとがき」についての記載に疲れたため、僕の自己紹介を挟んで気分転換を図ろうというもの。まぁあとがきは続くけどもうちょい。  「21歳学生」と申します。自粛期間のアウトプットのために、note活用を目標に挙げていたのにかかわらず、パソコンを開くのすら億劫であったため、3カ月以上放置しておりました。  しかし、「あとがき」についての不満が溜まりにたまったため、これを契機に21歳の日々の活動を提供していきたいと思っている。  一生サイトに残り続けると考え、将来の自分が見て

          自己紹介

          あとがき 中

           ハゲる遺伝子を持つというのはいささか人生に嫌気がさす。意地らしく生きて富を得たとて、ハゲで失う権利を将来の資産で穴埋めすると考えると、笑えてくる。遺伝子工学の発展に乾杯! (あとがき1の続き) (あとがき不要論) 現存しない文豪たちの名著にある「あとがき」に対して、非常に憤りを感じる。その道に権威があるとて、その名著を土台に飯を食うかんじも鼻につく。そもそも、亡くなった作家は「あとがき」にある、論を否定することができないのだ。  次に、私自身に悪影響を及ぼす。それは、

          あとがき 中

          あとがきについて 上

           いらない。ケツ穴の回りの毛くらいに必要ない。脱毛という自然に身を任せることができず、人間改良に手を差し伸べなければならないなんたる屈辱。しかし、この毛は不必要であり、消滅しなければならない。高齢になって白髪で表れてきたら笑止千万。孫に顔をみせれたものでない。   それ以上に前々から思っていたことが主題である。 多くの小説や論評の巻末にある、「あとがき」は必要なのであろうか。   「あとがき」に対する不満と、もし「あとがき」が存在し得るものとするならば、あとがきの存

          あとがきについて 上