21歳的貧乏


 私の家はそれほど裕福ではない。クリスマスプレゼントはきまってハードカバーのハリー・ポッターシリーズだった。申し訳ないが、財政については、もっと厳しい家庭のかたもいるだろう。ただ私も、小学校の周りの友人と比べると良いとは言い難かった。

 このような家庭で育った故、性根に貧乏さんが住んでいる。貧乏さんは良いところがある。人生に幾度なく訪れる選択の機会にそれとなく顔をだし、その選択の重要性と必要性をいつも問いかけてくれる。持ち合わせる資源を無駄にしないように。

 しかし、貧乏さんは、かつては金遣いを荒くさせてしまう難癖があった。まるで矛盾しているかのように見える。貧乏なのにお金遣いが荒いだなんて。。。

 貧乏さんと私の21年間を振り返り、なぜ貧乏さんがいるとお金遣いが荒くなってしまっていたのかとどのように乗り越えたかを述べていこう。

 小さなころのお小遣いが極端に少なかった。当時、小学6年生1か月のお小遣い500円。毎日外で遊ぶ12歳にはだいぶ厳しい。ジュースは飲めない。水は公園の水道水に限る、あとはたまに良質な公民館か図書館のウォータークーラー。マジうまい。

 主な収入源はお年玉のみ。私の家では、お小遣いは自己裁量が採用されているという利点があった。他の家では両親に没収されることも多くあったらしい。

 このお年玉で1年をのりこえなければならないのであるが、これまた不思議、驚くべき早さで無くなる。例えるならば、筋トレを決意した彼女なし男性の弱い意志くらいの早さで無くなっているのだ。

 なぜ、あっという間にお年玉は消えうせてしまうのだろうか。

 お年玉をもらう前はお金がない状態が常であるからして、欲しいものがわんさかある。「ナイトメア」記したように、小学生の狭い社会では、同一化が優先され、流行は常に変わり続ける。諸行無常だ。そりゃ、新しいゲームソフトもでるし、漫画の新刊もでる。周りの友人に追いつき追い越すために、お金を費やす。

 お金がない人間にとっては流行と狭い社会は酷だ。おいていかれている劣等感を抱いた気持ちは、はちきれんばかりに溜まりつづけていく。

 そうして、お金を手にしたら、使ってしまうのだ。

 優越感。

 物欲解放のみならず、友人たちへの優越感を満たす働きも担っている。名状しがたい感覚に襲われる優越感は、計り知れないエネルギーをもっていると感じている。寂しかった気持ちの裏腹、みんなに尊敬されたい、つまり構ってほしいのだ。儚い夢のようなの束の間の名声。この働きにより、忽然と手元からお金は消えている。

 しかし、徐々に年を取るにつれて、貧乏さんとの共存はできそうにある、とおもっている。コミュニティも増え、所属する社会が限定的ではなくなり、多様性が認められるようになってきた。ここの場合では劣等感を抱くかもしれないが、他の場合では優越感につながるかもしれない、と考えられるようになってきた。Vice versa。

 当時は、貧乏さんが絶対、悪いと思っていた。「ウチにお金がないのが悪い!」と。しかし、元凶は生粋の寂しがり屋であった私の心にあったのだ。みんなについていきたい気持ちが、劣等感のみならず、いらない優越感まで発生させてしまっていたのだ。貧乏さんは悪くない。悪いのは劣等感を人との比較で優越感で埋めようとするあくどい自分の本性にあったのだ。

 貧乏は比較でしか認識できない。比較でしか認識できないからこそ、そこで踏ん張るのではなく、幅を広げていくことが必要である。そうして、貧乏であったことが利点と思えるまで、耐えるしかないのかもしれない。ちいさな世界にしか属すことができない小学生にとっては、大分酷だろう。金持ちであることに越したことはない。が、骨身まで染み渡る貧乏さんはいずれ大きな糧になると思う。負けず嫌い、努力家になるんだ。劣等感を糧にバネにして努力する力がついているのだから。

 ときれいごとでまとめているが、劣等感もとい、優越感はもうでてくる心配はない。ただ貧乏さんのいいところだけを引き継いでいる。やっぱり高いモノの購入は、命を削っているような気分だ。持てる財産は大切に☆

 このように貧乏さんと一緒に楽しく暮らしていこうかな。貧乏を絶対悪にしてもいいことないし~。比較なんだからさ。おしま~い





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