強い人の印象

『私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道である。なぜなら弱者の道はわかりきっている。暗いけれども無難で、精神の大きな格闘が不必要なのだ。』___坂口安吾 恋愛論 より抜粋

 この場合での弱者と強者とは、物理的な他人と自分の競争結果の比較ではなく、自己との葛藤による自身の選択の結果と考える。ある意味勝ちと称していることは、自分に厳しくすることである。すなわち、負けるという事は、自分に優しくするということである。

 日々の選択と行動の間に絶えず生じ、挑戦の機会から訪れる成功と失敗の狭間に揺れる自己の葛藤。それはたわいもないことから、決断が難しいことまで、さまざまに現れてくる。

 そこで、忸怩たる自分は、他人からの評価や羞恥心に襲われ、自分が傷つくの恐れ、保身をかける。その結果、失敗しても否定されても許される寛容の世界へ向かっていく。自身の主観が己を認めれば、なにもかも肯定できるという、劣悪な精神世界へと。

 本質的な成功に基づく自己肯定ではないため、一時的な逃避行動に過ぎない。そのうえ、精神の大きな格闘が不必要であるからして、成長は見込めない。そして、一度失われた葛藤は、再び同じように生じても、同じパターンを踏襲しやすいということ。

 そしてなにより怖いと感じたのは、自分を許し優しくすることの終着点は無く、いつまでも自分をかわいがることができるということだ。いちど甘えてしまえば、どこまでも堕ちていくことができるということである。

 気づけば、その考えが心の中に根を張りめぐらしていた。一時の成功体験に味を占め、失敗を毛嫌いし、反省するどころか、自分が恥ずかしい思いをする可能性がある挑戦は放棄してきた。

 自分に自信がないのは見ての通りである。思い切った挑戦から逃避し、大きな成功体験もなければ、失敗から得られる、自己成長の機会を生かそうともしなかったのだから。

 なぜこんなことを思い返したかというと、改めて生涯の目標を立て直してみた。それは「立派な人間になること」である。誰もが目標としているものであるが、実現は難しいだろう。あまりにも抽象的で、時期もよくわからない、あまりにも幼稚であほらしい。

 しかし、それが私らしいと思う。アホで醜いからこそ、成長を怠ってはならないのである。そして、強者としてのメンタリティを持って、挑戦する機会を得ていくのだ。葛藤の末、挑戦の機会すら持ち合わせないのが人生一番寂しいのではないだろうか。絶えず、努力して、緊張して刺激のある日々を送る。

 てな感じで、2021年は弱者メンタリティの脱却を目指そうと目標においたが、マイナスからゼロだと、なんだか乗り気がしないので、強者メンタリティの獲得を目指して一年を過ごしていきたいと思う。

あけましておめでとうございます。今年は頑張ります、って声だしとかないとがんばらなさそうだから、先に言っときます。






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