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【あなたの“ikigai”なんですか?】当たり前にある日常の大切さを、歌に載せて届るまでの物語

「私にとって生きがいとは、一言で言うなら”愛”だと思っています。震災を通して当たり前の日常や生活がどんなに愛おしくて、どんなに尊いものだったのかをものすごく気づかされました。それが私が歌を始めるきっかけにもなりましたから。当たり前の日常に感謝して、愛をもって生きていきたいです。」

そう話すのは、聞き手を優しく包み込むような言葉を表現し、シンガーソングライターとして活躍する牛来美佳(ごらいみか)さん。その言葉もさることながら、歌や立ち振る舞いも愛に満ちあふれ、周りにいる人の心を動かすのだろう、そんな印象を受けた。

牛来さんは初めから歌手になったのではなく、震災がきっかけだったそう。「どうしたらこの想いが伝わるの?」

震災後、原発事故によって故郷だった浪江町に帰れない苦しさを感じていた。昨日まで普通に生活していたところに帰ることができなかった。
そんな現状の中、 避難先の離れたところから見える景色を眺めていると、 本当になんともなかった当たり前の日常がなくなってしまった経験の中で、 伝えるべきことを伝えたい、伝えるための歌を歌いたいと決心し、幼少期に夢見ていたシンガーソングライターになったそうだ。

「2015年に発表した代表曲、“いつかまた浪江の空を” は、第一線で活躍されているアーティストにも楽曲提供している、音楽家の山本加津彦 (やまもとかつひこ)さんとつくりました。浪江の空の下で、またたくさんの人が集って、当たり前の生活がそこに戻ることを願い、歌に込めました。」

「震災後に戻ったとき、生活の音もなく無音だったんです。また自然の鳴き声や人が生活している音が、故郷に戻ってくること。浪江の空の下で繰り広げられますようにって。」

福島県浪江町は、原発事故により一夜として廃墟と化した。6年後には避難解除され、現在が移住者を含めて約2,000人もの人々がまちで暮らし(2024年現在)、少しずつ活気を取り戻してきている。その一方で、震災前の本来の町に戻ることは難しい面もあり、どちらかと言えば新しいまちづくりのために動き出しているのではないだろうか。

「“元の未来探すけどどこにあるの”という歌詞がありますが、"元の未来"という言葉自体、この一言だけでも何かを物語っている表現だと思っています。きっと今後、どんどん新しい形で復興していくと思います。」

新しい浪江町として復興していく誇らしい気持ちがある一方で、近年解体がどんどん進んでいく故郷を見て、思うことが沢山あるという。
イベントで浪江に戻ると「前はこの場所からあの建物は見えなかったな」というくらい、更地になっている状態だと。

「でもだからこそ、この曲は、新しく復興していく浪江町と私たちにとっての元の未来が、ずっと同じ軸で続いているような感覚です。バックグラウンドには震災のことはあるけれども、希望の歌、希望の気持ちなんです。だからこそ、ずっと未来まで残る曲であってほしくて、私も歌い続けています。」

浪江のシンボルになるくらい受け継がれる楽曲になりたい。この心の中にあるもの、過去と未来のずっと交わることないような二重の線が、どこかで交わるようなものに。そんな想いを歌に託し、牛来さんは音を届けている。

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震災直後は抜け殻のような状態。現実と心がバラバラだった日々から、希望の祈りを込めた歌ができるまで。

牛来さんのアパートと実家は海から離れていたため、津波で家族の命を落とさずにすんだ。しかし、浪江町の沿岸部では、津波によるい甚大な被害があった。「救助隊も入れず手付かずのままで放置されたあの異様な光景は、すごくリアルな映画撮影セットみたいでした。」という言葉が印象的だった。大きな揺れによって、傾いたり倒壊した建物もありますし、道も凸凹でアスファルトがおもちゃのようにうねって割れてたり。道路が落ちていることもあったそうだ。

「その記憶から消せるものなら消したいですが、ずっと残っているものだと思います。やっぱり震災直後に遡れば遡るほど、起こっていた現実と自分の頭の中と心がバラバラで、もう一致することがないというか。だって、普通に暮らしていてた生活が一変した上に、住んでいた場所に帰ることさえできない経験ですから。」

町から人がいなくなったときの風景や情景は、まさにゴーストタウンだったと語る。震災後しばらく、命は助かったとはいえ、牛来さんはどこに行っても心ここにあらずで抜け殻のような状態だったそうだ。人生の中で今まで感じたことのない、本当の無力というものを感じたという。

「何ともない普段の日常や、自分が当たり前のように存在していること。それが本当は奇跡の中になるものなんです。」

そして震災から2年後、音楽家の山本さんと歌詞を共作しながら、牛来さんは本格的に曲をつくり始めた。しかし当初、震災当事者である自分の言葉は強すぎたと振り返る。

"今はこんな姿になっている。街に誰も人がいなくてこんなに朽ち果てて。それでも浪江は存在している。"

どうしても思いが前に出てしまい、訴えかけるような言葉や表現が多くなってしまったという。

「しかし、山本さんと色々話しているとき、彼も演奏のために浪江町にきた時、本当にすごく空が綺麗だと仰っていました。野外ステージの際、町民の人たちがビール瓶のケースをひっくり返して、それをテーブルにして地面に座っていて。田舎町の暖かさをとても感じてくださっていました。"あの綺麗な浪江の空の下で、またいつかたくさんの人々が会えるように。" そんな願いを込めて歌をつくらないかという話になり、制作が始まりました。」

こうして生まれた、"いつかまた浪江の空を"。
山本さんが、ふわっと祈りと願いを込めるような柔らかさを持ちながら、未来に託した思いに表現に考えたり、アドバイスをしてくださったからこそ完成した曲だと語った。

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娘とふたりで避難先を転々とし、今や太田市は第二のふるさと。道の駅の副駅長、歌手、そしていち住民としての顔。

群馬県太田市に住み始めたのは、震災から2ヶ月後、2011年5月末。牛来さんは5歳の娘をもつ母子家庭だった。両親のこともあり、福島からあまり離れていないところを探す中、片道2時間の距離にある太田市の話を知り合いからきいて決めたそうだ。地元のことを聞くと、温かく応援してくれたり、プライベートでも支えてくれたりと、もう第二のふるさとのようだと話す。

「ここで出会った方やいまお繋がりがある方って、 音楽をしていなければ確実に出会えてない人がほとんどです。そういう風に思うと、音楽を通して皆さんと出会わせていただいている。そう感じています。私もなるべく距離が近いスタイルで音楽をしているので、 街中で声を掛けられたり、私も見つけたら声かけたり。すごく大好きな場所です。」

大袈裟でもなく、筆者にとって牛来さんは太陽のように輝き、女神のように優しい方だと思った。きっと町のみんなが虜になるだろう。そんな牛来さんは、2019年の6月に「道の駅太田」の副駅長に就任した。2024年からは移動販売にも携わっている。

「音楽の活動を最優先で構わないなら、可能な時間で道の駅の方にもとお話をいただきました。もうこれ以上ない、ありがたい状況で関わらせていただいてます。移動販売は、配達する地域は決まっていますが、お年寄りが多いところなので、そういった方々の安全確認も含めています。近くでお買い物ができるように、そして安全を確認するためにも始まりました。」

牛来さんに憧れの人はいるのかを尋ねてみると、「わたし、この質問はいつもパッと出てこないんですよね。」そう朗らかに笑いながらも、あるご夫婦について話してくれた。

"群馬の父母"と呼んでいる松山夫妻という、家族ぐるみで応援してくださる方がいるそうだ。70半ばの群馬の母が、近所の1人暮らしのお年寄りを病院の送り迎えしたり、スーパーに連れて行ったりしているという。

「老老介護みたいだねなんて、みんな言っているんですけれども(笑) 
人のために、時間だけじゃなくて心で行動できることって、本当に素晴らしいことだなと思っていて。ここで出会って"群馬の父母"と呼んでいる松山夫妻のことをものすごく尊敬してますし、私も2人のような年の取り方をしたいなと思います。」

お日さまに照らされたみたいに心がじんわり温かい。副駅長や歌手として、というより、いつもありのままの"牛来美佳"として、一人ひとりに向き合っているのだろう。そう感じた。

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わたしにとって、生きがいは"愛"。当たり前の日常に感謝して、自分で道を切り開いていきたい。

故郷の浪江町や、太田市を中心に活躍する牛来さん。応援してくださる方と近い距離で関われる、今の音楽活動が好きだと言う。

「故郷、浪江町でワンマンライブをいつかやりたいという夢があります。また、この想いと一緒にもっと日本中をまわって歌いたい、そんな漠然とした夢があります。海外にもこの歌が流れてほしいなという願いもありますし、まだまだ音楽で挑戦したいことはたくさんありますね!」

牛来さんは心を躍らせながら、そう意気込んだ。まっすぐな言葉を届る牛来さんは、例え震災を経験しなくとも、大切な人や故郷をもつわたし達の心をグッと掴むのだろう。きっと、国境や言語を越える愛の力がある。

震災当時、幼い5歳の娘を母子家庭で育てていて、避難生活で全く知らないところにきた牛来さん。その時はものすごい無力感と計り知れない不安の中で、強制的に人生が180度変わったと振り返る。こんな小さな娘連れてきて、ほんとに2人ぽっちになってしまった、と。

「歌で想いを伝えると決心して、全く今までしたことのない作業を含めてシンガーソングライターになりました。きっとこれからもこれまでもそうですし、 震災があってよかったなと思うことは決してないです。けれども、震災がなければこの人たちと出会えなかったなって、ある時気づいたんです。簡単ではなく、ものすごく複雑な意味をもつと思います。」

なんでもないこの日常の中で、いろんなことで悩んだり苦しんだり、どうしようもない気持ちにぶつかったりすることは、誰もが必ず経験すること。
しかし、幼い子どもを連れた母子家庭で、全く知らないところに来て、それでも気持ち一つでぶつかって進んだ時に道が開けたと振り返る、牛来さん。

「何かひとつでも信じて、自分で道を切りひらいていくと、本当にかけがえのない出会い、大切なもの、大切な人が見えてくるはずです。
みなさんにも当たり前の日常を大切にしながら、"どんなことがあっても絶対に切り開いていく、切り開くことが人はできる" ということを信じて生きてほしいです。」

あとがき / Writer 南條 佑佳
牛来さんの記事を執筆して、何度も"おもい"という言葉が出てきた。
その度に私は、この"おもい"(想い?思い?憶い?)の裏には、たくさんの感情が交差してきたり、あるいは居場所が見つからないまま胸に留めてきたりしたのだとうと思った。

牛来さんが歌を制作し始めたばかりのこと、表現が強すぎたというように、ときに言葉はおもいの形を変えてしまうこともある。私もそんな経験をしたことがあり、ひどく共感できた。

歌が好きだから書くというより、震災当時は書かなければいけないという気持ちだったのかなと思う。牛来さんは歌を"生み出した"に近いのかな。
だからこそ、柔らかな曲調ながらも、魂を感じるようなその歌詞に何度も心を打たれたので、ぜひ聴いてほしい。

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【浪江の記録】筆者の移住日記はこちらから。



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