キャロル

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書評投稿サイトでウサ晴らしをしています。アタマのリハビリを兼ね、ときおり英語をかじるようにしています。興味ある方は→へどうぞ。https://ameblo.jp/tsukienosavac

最近の記事

『科学の伝え方』桝太一著を読む

サイエンスコミュニケーションとは、そっくりそのままわたしたちレビュアーにも当てはまるビヘイビア・アイデンティティなのだ。 桝太一さんといえば、テレビでよく見るアナウンサーである。 評者は「真相報道バンキシャ!」(家内が必ず観るので)という番組でお眼にかかっていたが、名前までは知らなかった。むしろ、夏目三久アナウンサーのほうが記憶に残り、この二人が一緒になるものとばかり思っていたのだが、結局は桝氏のほうは番組を去り、いまは「サイエンスコミュニケーター」となるべく同志社大学ハ

    • いくら悪人だからって、殺していいってことにはならない。どんな理屈を並べ立てたって、人殺しが正当化できるわけじゃない。たとえ「愛の名において」であっても……。

      あれは、何十年前のことになるかしら……。 そう、かれこれ70年以上も前のことになるかしらね。昭和も13年過ぎたいまとなっては、記憶も薄れ、このお祖母ちゃんには憶い出せもしなくなっているわ。だから、あの時はどうだった、この時は……なんて、色々と訊かれたって答えられはしないわ。 だから、お書きになるのはご自由だけれど、思い違いや勘違いの類いはたくさんあって、間違いだらけの調べものになるかもしれないわね。それでもよければお手伝いさせてもらうけれど……。そう、あなたがそうおっしゃるな

      • Rita Hayworth and Shawshank Redemption

        キングは読者の想像ならぬ、創造力に任せてくれる。この話の先は、あなた自身が綴るのだ。 あれは、何年前だったろう。邦題が『ショーシャンクの空の下』(?)だったかの映画をテレビで観て、いたく感動した。そのころはまだスティーヴン・キングの名前すら知らなかった。だが、そんなに遠い昔ではない。おそらく20年も経っていないだろう。 映画好きではあるけれど、生まれつきのビンボー人であるため、カネを払って映画館へ行くタイプではない。なので、決まって映画鑑賞はひとより10年くらいは遅れて愉し

        • 大切なのは、なにかの到来を「待つ」のではなく、情況を「選び取る」ということなのだ。そこにこそ自由はある。

          この本を読み始めたころ、わたしはある本を思い描いていた。 それは、1997年に読んだスティーブン・R・コヴィーというひとが書いた『7つの習慣』(The Seven Habits of Highly Effective People)という本だった。この本は、ハウツーものを嫌うわたしにとって稀有の存在となった本だ。 案の定、その本は暫くすると、世界中に流布し、歓迎された。わたしもそこに書かれてあることに感動し、ある企業での研修教材として用いさせてもらったくらい、感銘を受けた書物

        『科学の伝え方』桝太一著を読む

        • いくら悪人だからって、殺していいってことにはならない。どんな理屈を並べ立てたって、人殺しが正当化できるわけじゃない。たとえ「愛の名において」であっても……。

        • Rita Hayworth and Shawshank Redemption

        • 大切なのは、なにかの到来を「待つ」のではなく、情況を「選び取る」ということなのだ。そこにこそ自由はある。

          言語は生得的なものではなく、「わたし」と「あなた」という個体の共時発生的な二人関係のなかから生じてきたものなのだ。

          生来ズホラで、何事にも億劫なものを感じるわたしにしては、とてつもなく辛気臭く、かつ長大な本を読んだ。参考文献のページだけでも35ページもあるし、本文も「訳者あとがき」を含めて308ページもある本だ。題して、そのタイトルは『なぜヒトだけが言葉を話せるのか:コミュニケーションから探る言語の起源と進化』とある。 口下手なわたしが甚く関心を持つ言語に関する書物とあれば、いかな高額書籍であろうと、身銭を切って読まざるを得ない。大枚4,000円(税別)を払って読むことにした。 ――と言え

          言語は生得的なものではなく、「わたし」と「あなた」という個体の共時発生的な二人関係のなかから生じてきたものなのだ。

          「京ことば」は、『階層社会を生き抜く言語技術』を高度に洗練させたものである。

          常々著者に私淑するファンの一員であると公言する身として、これは応募せずばなるまいと応募してみはしたのだが、まさか本当に当たるとは思っていなかった。むしろ、当たらないのを見越したうえで、oldmanさんに願いを託したのだったが、果たしてoldmanさんのほうはどうだったのだろうか。 なにはともあれ、当たらずとも遠からず(なんのこっちゃ)拙評を書くと宣言していた以上、ここはやはり書かずばなるまい。 ――と、意気込んで、書こうとしたものの、よくよく考えてみれば、その宣言はトム・スコ

          「京ことば」は、『階層社会を生き抜く言語技術』を高度に洗練させたものである。

          言語は生得的なものではなく、「わたし」と「あなた」という個体の共時発生的な二人関係のなかから生じていくものなのだ。

          生来ズホラで、何事にも億劫なものを感じるわたしにしては、とてつもなく辛気臭く、かつ長大な本を読んだ。参考文献のページだけでも35ページもあるし、本文も「訳者あとがき」を含めて308ページもある本だ。題して、そのタイトルは『なぜヒトだけが言葉を話せるのか――コミュニケーションから探る言語の起源と進化』とある。 口下手なわたしが甚く関心を持つ言語に関する書物とあれば、いかな高額書籍であろうと、身銭を切って読まざるを得ない。大枚4,000円(税別)を払って読むことにした。 ――と言

          言語は生得的なものではなく、「わたし」と「あなた」という個体の共時発生的な二人関係のなかから生じていくものなのだ。

          ああ、自分も弥助にすればよかったのだ。

          なんだかだいって、結局、時間を費やしただけだった。俺は思った。こんなことなら、本当に朝日ビイルを片手に弥助をたらふく口にすればよかった。 それなのに、アホが足らいで、あの札ビラを風に飛ばしてしまうなんて……。なんて、愚かな俺だろう。あの落書きをした者のように自分も寿司を食おうかと悩みつつ、風のなかで、十文字に筋の入った十円札を眺めたのがいけなかった。 粟野さんの前に威厳を保てたとしても、結局は、あの十円に俺は食われてしまったことになるのだ。五百部の印税は確かに月給日までの足ら

          ああ、自分も弥助にすればよかったのだ。

          正直に言おう。イングリッド・バーグマンの美しさ、可愛さに改めて魅入られてしまった!

          本評は『本が好き!』のコンセプトが読んだ本の感想発表にあることに鑑み、敢えてハヤカワ新書『白い恐怖』(『The House of Dr. Edwardes』2004年刊)を読んだカタチにして発表するものである。 ちと言い回しがややこしいが、この評は本に関してのものではなく、映画に関してのものだからである。書評に対して映評というものがあるのだとしたら、まさにそれを指す。したがって、評者がこれからつらつらと書き綴っていくことは、書物においてのそれではなく、映画を観てのそれであるこ

          正直に言おう。イングリッド・バーグマンの美しさ、可愛さに改めて魅入られてしまった!

          まるで定年後の我が家のような構図

          紅い芥子粒さんのレビューに感銘を受けて、さっそく読んでみました。 これは、嫁と姑の物語でありながら、世上よくある体のものではなく、実に立場の逆転した「嫁姑問題」の啓示であった――。 なぁんて、エラそーに始めましたが、読めば読むほど、我が家の構図と全く同じなのではないかと思え始めました。 我が家は、ちなみにわたしと家内しかいませんが、その関係がまさにこの二人と瓜二つなのです。家内は働き者で、それこそこの民さんのように片時もじっとしていません。いつも何やかやと動き回っていま

          まるで定年後の我が家のような構図

          明日もまた聖人君子のフリをして、素知らぬ顔で生きていかねばならぬ。

          なんのことはない。わたしは図らずも、あの小娘に恋をしてしまったのだ。 口では偉そうに惚れてはいないことを強調するように抗弁しているが、その実は、まっとうに恋心を抱いてしまったのだ。だが、齢30にして、たった16や17の小娘に懸想をしたとあっては小説家としての名が廃る。いかに売文家の身とて、それなりな自尊心はある。 しかし、自尊心なるものは畢竟、虚栄心のなせる業なのだ。くだくだぐちぐちと言い訳がましい口上を述べるのも、それを認めたくがないゆえのこと。小説家と自認する我に、さ

          明日もまた聖人君子のフリをして、素知らぬ顔で生きていかねばならぬ。

          おれの心はサーカスどころではなく、もっと別のサーカスを愉しみたくなっていた。

          いくらお調子乗りのおれだからってね。まさかあの小娘に袖にされたって言えないじゃないか。それで、他人ごととして書きはしたのだが、どうにも後味がよくねえ。 なぜったって、当人が当世でいうロリコン趣味があったって口が裂けても言えねぇじゃねぇか。え、そうじゃないかえ。たかが小娘のひとりやふたり、泣かせはしても泣かされるってほど情けないことはありゃしない。 しかも、当世、作家を張ってるいい歳をしたおっさんが、ネギの二束に負けたとなりゃ、とんだお笑い草だもんな。

          おれの心はサーカスどころではなく、もっと別のサーカスを愉しみたくなっていた。

          薔薇の名残 最終章 愁嘆編

          第六章 愁嘆  一 きみからの電話  風船のなかの空気が抜けるように、あちこちの企業が倒産して行った。  それは、土竜のような生活をしていた私にとって、さらに閉塞した時代の到来を意味した。確固とした心の準備がないままに未踏の地に降り立った私だったが、ここにきてますます、その閉塞した空間が息苦しくなってきていた。  まず私に課せられた当面の課題は就職先の確保だったが、新卒の若者ですら就職できず、ニートや派遣社員といった新形式の雇用形態がメインとなった超不況時代に、私のような

          薔薇の名残 最終章 愁嘆編

          薔薇の名残 第五章 転落編

          第五章 転落  一 自堕落な男の罪滅ぼし  それから二年もしないうちにサ社は、業績が傾きだした。  例のゲーム機やその関連設備の類いが売れなくなってきたのだ。――というより、テーブルを用いたそれに代わって、卓上のそれが出現したのだ。  それまでは、ゲーム機といえば、喫茶店やゲームコーナー、あるいは悪ガキどもの溜まり場とされるゲームセンターに置かれていたテーブル筐体のそれだったが、折から登場したそれは、あっという間に市場を席巻した。  しかも年代もさらに下の、小学生でも遊べ

          薔薇の名残 第五章 転落編

          薔薇の名残 第四章 籠絡編

          第四章 籠絡  一 一昔前の小説世界のような空間  会社に行っても、以前ほど楽しいとは感じなくなっていた。  勤労意欲そのものはあったが、昔ほど積極的ではなくなっていた。毎日が、さほど面白くなく、無意味なものに思えた。胸のなかにぽっかりと深い穴が開いていた。汝の存在が私にとって如何に大切なものだったか。それを思い知らされた気がした。  深い穴は、読書や小説書きなどで埋め戻すことはできなかった。なにかで埋めようとすれば、その分だけどこかに空洞ができた。まるで土竜叩きのようだ

          薔薇の名残 第四章 籠絡編

          薔薇の名残 第三章 決別編

          第三章 訣別  一 畳の上の力持ち  また春がきて、院の結果発表があった。結果はわかっていた。案の定、私の名前はそこになかった。いくら若干名の募集とはいえ、一名でしか選ばれていなかった。  試験が終わったあとの面接で、あの先生の代わりに面接官になってくれた先生が、大きな机を挟んで向かい合った私に告げた……。  きみは文化論向きだから、桜慶大学を受けたほうがいい。なんなら、ぼくから紹介状を書いてあげてもいい。本宮光廣先生というんだが、きみも聞いたことがあるだろ。その分野では

          薔薇の名残 第三章 決別編