見出し画像

明日もまた聖人君子のフリをして、素知らぬ顔で生きていかねばならぬ。

なんのことはない。わたしは図らずも、あの小娘に恋をしてしまったのだ。

口では偉そうに惚れてはいないことを強調するように抗弁しているが、その実は、まっとうに恋心を抱いてしまったのだ。だが、齢30にして、たった16や17の小娘に懸想をしたとあっては小説家としての名が廃る。いかに売文家の身とて、それなりな自尊心はある。

しかし、自尊心なるものは畢竟、虚栄心のなせる業なのだ。くだくだぐちぐちと言い訳がましい口上を述べるのも、それを認めたくがないゆえのこと。小説家と自認する我に、さして美しくもない小娘に心を動かされたとなれば、それが絶世の美女ならいざ知らず、十人並みにちと毛が生えたくらいの少女に耳のほてりまで感じるほどの体たらくでは、なんのことはない。自らの軽薄さを露呈している以外の何ものでもないであろう。

さすがに己の体たらくを認めるに偲びず、こうしてああだこうだと無駄口を弄して、列車に揺られている自分ほど惨めなものはない。いっそ、引き返して、あの停車場に戻ろうか。それとも、このまま知らぬ顔をして、明日また出会いざまに奇妙なお辞儀を取り交わして素知らぬ体をし続けるか。ああ、いや、それはできぬ。できぬとわかっていながら、わたしは、あのジャン・リュパンのように彼女に接吻がしたい。唐突な接吻が彼女にどのような驚愕を与えるかは知っている。

しかし、それでもなお、わたしのなかの疚しくも高潔な精神はそれを望んで止まない。ああ、接吻が、キッスがしたい。あの日の光を透かした雲のような唇に口づけをしたい。花をつけた猫柳のようにしなやかな肢体を抱き寄せ、わが胸に強く いだきたい。その かいなも四肢もすべてわが物としたい。だが、ああ、それはできないのだ。

なぜかなら、わたしは三文文士であるとはいえ、革命精神に燃え立った、硬骨誉れ高いイギリス紳士を描く廉潔の小説家なのだ。それがどうして、そんなふしだらな妄想をかき抱く、人品卑しい輩であると告白することができよう。このグラスゴウのパイプから立ち昇る一筋の煙のように、気高くすっくと背を伸ばし、明日もまた聖人君子のフリをして、素知らぬ顔で生きていかねばならぬのだ。




芥川龍之介『お時儀』【本が好き!】noelさんの書評より転載。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?