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薔薇の名残 最終章 愁嘆編

第六章 愁嘆

 一 きみからの電話

 風船のなかの空気が抜けるように、あちこちの企業が倒産して行った。
 それは、土竜のような生活をしていた私にとって、さらに閉塞した時代の到来を意味した。確固とした心の準備がないままに未踏の地に降り立った私だったが、ここにきてますます、その閉塞した空間が息苦しくなってきていた。
 まず私に課せられた当面の課題は就職先の確保だったが、新卒の若者ですら就職できず、ニートや派遣社員といった新形式の雇用形態がメインとなった超不況時代に、私のような四十も半ばを過ぎた男にまともな仕事が見つかるわけもなかった。
 またぞろ職探しだった――。少し進んでは数歩下がる。数歩下がっては、少し前に進む。こんなことの繰り返しだった。
 一体、いつになったら、私はこの負のループから抜け出せるのだろう。
 もう数年もすれば五十を過ぎてしまう歳だというのに、私はいまだまともな定職に就くこともままならず、またあの履歴書を送り、面接をし、不採用の通知を待つ生活を送らなければならないのかと考えると、気が遠くなってしまいそうだった。
 徒労ともいうべきシシュフォスの労苦がまたもや始まるのだ。
 そんなことを繰り返すくらいなら――と運動暴発的に考えついたのが、自分で事業を起こすことだった。
 二度とひとに頭を下げるのは嫌だった。
 深夜労働で貯めたわずかな蓄えと家内からの援助を元手に有限会社を設立し、社名をミサキ・プランニングとした。
 いまから想えば、実に浅はかな考えだったが、法人として事業を行うなら、赤字であろうが黒字であろうが、個人のみならず会社としての市民税というものを支払わなければならないということにすら思いが至っていなかった。
 もっとも、赤字であれば、法人税なるものを支払う必要はなかったし、ある一定額を超えることがなければ、消費税も払う必要がないくらいのことは知っていた。つまりは、法人としての社会的信用と引き換えに、所得税の支払いが最低限くらいの売上になれば、少なくとも倹しくは生活できると考えてスタートしたのだった。
 私は、以前に世話になった企業にダイレクトメールを打ち、事業の立ち上げを宣言した。なかには、私が事業を始めると聞いて、こんな不景気なときに事業を始めるなんて――と驚きの声を上げた企業主や知り合いも幾人かいたが、だからといって、なにもしなければ沈んで行くのだけは明らかだった。
 決しておごり高ぶっているわけではなかったし、大風呂敷を広げているつもりもなかった。住まいの近くにあった雑居ビルの一室を借り、事務所を構えた。
 家内は自分が喫茶店をやっていた関係上、店にやってくる色々な経営者と経営について話すことが多かった。その意見を参考に、彼女は私が会社を法人にすることには反対だったし、事務所を構えることにも難色を示していた。
 喫茶店の造作を手伝ってくれた業者も個人経営であったし、通ってきてくれる客の多くも個人経営で結構、潤っている業者が多かった。なかには、働いてもいない奥さんや娘さん、大学生の息子まで手伝わせていることにして、しっかりその分の給料までせしめている業者もあったからだ。
 だから、私も個人で始め、事務所もいまの住まいを拠点にして始めればいいではないか――というのだった。だが、なぜか焦っていた私は、その直言が素直に聞き入れられず、半ば強迫神経症的に設立書類を作成し、司法書士の手を経ず直接に法務局で何度も訂正をさせられながら、法人登記に漕ぎつけたのだった。
 そうしてなにもないところから船出した私だったが、客観的な立場から見れば、ある意味、予測されたこととはいえ、会社を立ち上げたからといって、ひとがそう易々と仕事を分け与えてくれるわけではなかった。
 デフレスパイラルの嵐が吹き荒れ、あらゆるものの価値が下がって行った。
 かつて私が行っていた見積もり用の数値データもどんどん古くなって行った。デザイン代も、プラン考案料も、印刷代も下がって行った。
 長らく印刷や広告関係から遠ざかっていた所為で、見るもの聞くもの、すべてが様変わりしていた。版下や写植といったことばも死語と化し、パソコンがデザインからレイアウト、写植打ち、版下作成といった作業をひとりで担うようになっていた。
 書体をフォントと呼ぶ時代となって、私は完全に時代に取り残されているのを知った。無残だった。アナクロな私にできる仕事はほとんどなくなっていた。
 いままで発注していた写植屋も廃業し、製版屋もなくなり、レタッチマンもいなくなってしまっていた。純粋にアイデアとプランだけで勝負しなければならない時代が到来しつつあったのだ。たいていの印刷物は、マウスで操作できるパソコンが登場したお陰で、クライアント自身がそこそこのものを仕上げられるようになっていた。
 私にできるのは、コンテンツの考案だけとなってしまった。だが、そのコンテンツはプレゼンとして企業に無料で提供することによって、採用されなければならなかった。そのためには、企業のニーズを探らなければならなかった。
 しかし、簡単にそのニーズを教えてくれる者はいない。ニーズを探ろうとしているのは企業の側だって同じなのだ。私のように受注生産的な経営形態の会社はアグレッシブにはなれなかった。というより、私自身がアグレッシブではなかった。
 私が多少ともアグレッシブになれるのは、物書きの部分でしかなかった。私は仕事の合間を縫って、ことばに関するエッセイや読み物を書き溜めて行った。
 前の二作は、出版社に持ち込んだが、箸にも棒にも引っかからなかった。
 それでもなにかを書きつけておかなければならなかった。宝くじがそうであるように、買っておかねば当選確率が絶対にゼロであるように、いつかモノになるであろうことを念じつつ、書き進めておかねばならなかった。
 なにも書かない小説家が食えないように、原稿がなければ、ただの夢想家に過ぎなかった。まさに宝くじファンがそうであるように、私もまた書くことによって夢を見続ける一種、夢遊病者のような生活を送っていた。無駄であるかもしれない。徒労であるかもしれない。すべてが一銭にもならない愚作であるかもしれない……。
 だが、書かずにはいられなかった。
 そうしていなければ、生きている心地がしなかった。半年が過ぎ、一年が経ち、瞬く間に二年が過ぎて行った。月が巡るたび、生活は苦しくなって行った。
 そうこうしているうち、私は網膜剥離になった。白内障が酷くなり、その手術をしたのだが、調べてもらうと網膜が剥離していることが分かった。
 急遽、入院ということになり、私はK市の大学病院で手術を受け、一ヵ月あまり入院した。法人であったとはいえ、福利厚生費も会社負担していなかった私に保険は利かなかった。国民健康保険にも加入していなかった。無知がゆえ、高額医療費のことも知らなかった私は、八十万円もの大金を払って退院したのだった。
 話は前後するが、私が事務所を開いて八ヶ月ほどが過ぎた頃、家内は喫茶店の経営を辞めた。――というより、撤退を余儀なくされた。というのは、栞の店舗付き住宅を貸していたオーナーがバブル時代に手を伸ばし過ぎた反動を食らって、土地を手放すことになってしまったからだった。
 新たにオーナーになった不動産会社は、バブル崩壊後に頭角を現してきた新興のデベロッパーで、前オーナーが持っていた付近の土地家屋を破格で買い占め、そこに五階建てのマンションを建設することにしたのだ。
 それに加えて、いまひとつの理由に、バブル経済の崩壊後、常連客だった個人事業主や工場従業員たちがあまり寄り付かなくなってきていたことがあった。デフレスパイラルの緊縮財政のなか、接待経費も含めて万事、世の中が殺伐とし、なにかにつけて倹約ムードが蔓延してきているようだった。
 私の勝手な推測ではあるが、彼女が私と一緒になったことも多少、関係しているのかもしれなかった。同じく常連で、栞を奥様がたの集いサロンとして活用していた主婦たちも小遣い銭に事欠くようになってか、潮が引くようにこなくなっていた。
 思えば、バブル崩壊の大波は、こんなところにも波及していたのだ。
 そんな折、きみからの電話があった。年賀状に私が網膜剥離で入院していたことに触れていたのを読んで、遅ればせながらの見舞いをしたいというのだった。
 きみとは長い間、逢ってはおらず、会って話をするとすれば、実に十七年ぶりのことだった。正月が明け、まだ御屠蘇気分も冷め切らない時分だった。世間一般の慣習で行くと、仕事始めが済んで間なしの土曜日だった。
 私が指定したホテルのオープンカフェに行くと、見慣れない顔の男が私の姿を見て手を振った。頭頂――というより、その耳の上辺りまで禿げ上がった男の容貌に違和感を覚えたが、その顔の真ん中には見覚えのある大きな鼻が乗っかっていたのだ。

 二 思い出の欠片

 それが、十七年ぶりに見る、きみの顔だった。
 髪に白髪こそ目立たなかったが、その姿は実に老けていた。相変わらず、穏やかな笑みだけは往年のきみを宿していた。
「向井くん――」
 私は語尾を上げて言った。改めて訊く必要はなかったにも拘わらず、私はもう一度訊いた。「向井叡一くんだよね」
「ああ、叡一だよ」
 きみは往年のきみのまま、その当時のままの笑顔で私に言った。「リュウちゃんは変わらないね。一目で、きみと判ったよ」
「ああ。それにしても、どうしてそんなに……」
「変わったろ。みんなそう言うんだ」
 きみは禿げ上がった頭頂を撫でるようにして言った。「若禿げというのかな、自分でもこんなになるとは思わなかったよ」
「そうだろうね――」
 私は深い同情を覚えながら言った。「そんな風になってるなんて思いもしなかった」
「溜息を吐きたいのは、こっちだよ」
 きみはそう言って笑い、それより、きみのいっていた店に行こうじゃないか。この辺りは不案内だから、何にするかはきみに任せるよ――と言った。
「そうだね」
 私は気を取り直し、きみを斜め後ろに従えてオープンカフェを出た。斜め横から見る、きみの年恰好は私より十歳は老けていた。背格好はそのままだったが、なによりもその首の折れ方と肩のすぼみ方が老人のそれに近かった。
 ショックだった。きみがこんな姿になるなんて、信じられなかった。
 辛いことでも、苦しいことでも、ひとの悩みでも、なんだって引き受ける性格がそこまで、きみを老いさせてしまったのかと思った。
 私たちは、私がかつて得意先と行った日本料理店に入ると、適当なものを注文して色々なことを話した。料理そのものはさして旨いとは思わなかったが、話はそれなりに弾み、昔話に終始した。そのなかには、例の神戸行きの話も持ち上がった。
「あのときは、どうなるかと思ったよ――」
 私は言った。「だって、きみはものも言わず、急に動かなくなって、そのまま地面に倒れるんだもの」
「ああ。そうだった」
 きみは言った。「自分でも自分が倒れているなんて思わなかった。意識が完全に飛んでいたんだ。きみに助け起こされるまで、生きていることさえ知らなかった。変な言い方に聴こえるかもしれないけど、ぼくはあのとき、死んでいたんだ」
「そう。あのときも、きみはそう言っていた。ぼくは一瞬、死んでいたって……」
「だから、ひょっとして、あれがきみにとって、ぼくの死に目に会う最後の機会だったのかもしれない」
「おい、おい。変なこと言うなよ」
 私は不吉なものを感じて即座に反論した。「それじゃ、まるでぼくたちは死に別れるみたいじゃないか」
「確かに――」
 きみは首肯して続けた。その顔に笑みは浮かんでいたが、真剣味があった。「でも、もしそうだとしたら、ぼくがきみに逢うのはこれが最後かもしれない。多分、多分だが、もしまた逢えるとしたら、こんな寒い日じゃなくて、春の日がいいな。いつかはわからないが、今度きみと逢うときは、春の日だと決めているんだ……」
「頼むよ、叡一くん。縁起でもないことは言わないでくれ。酒が不味くなるじゃないか。まして、これはぼくへのお見舞いなんだろ。だったら、そんな湿っぽい話は抜きにして、機嫌よく飲もうじゃないか」
「ああ、そうだな。悪かった――」
 きみは物わかりのよさそうな顔に、いつもの笑みを浮かべて言った。「ぼくはきみの快復を祝いにきたひとなんだからね」
「そうだとも――。もっと愉快になる話をしようぜ」
「ああ、わかった」
 きみは含羞んだような笑顔をつくってそう言ったものの、あとをどう続けていいものか考えあぐねているようだった。数分か、それとも数秒の沈黙が続いた。
 いつものように寡黙な表情ではあったが、内に秘めたなにかがきみを駆り立てているようだった。それを見かねて、きみのグラスにビールを注ぐと、きみはゆっくりと、しかも確信に満ちた口調であとを続けた。
「そうだな。きみの言うとおりだ。ぼくはこの場に相応しくないことを言っているのかもしれない。だけど、これだけは本当なんだ。本当に、ぼくはきみに逢うのは、これが最後かもしれないと思ってここへきたんだ」
「なんで、そんなことを思うんだ」
「実を言うと、きみも知っている澤田くん――。彼は、去年の十月、つまりほんの数か月前に癌で亡くなったんだ。大腸癌だった。最期を見舞ったんだが、やせ細って見る影もなかった。可哀想だった。女房もそう言っていた――」
「そうだったのか。中学時代の友達とは付き合いがなかったからな……」
 私は、高校を卒業してホテルマンになった――という彼の噂だけは聞いていた。おそらくきみの奥さんから聞いたのだったと思う。ひと付き合いがよくて、気立ての優しい男だった。そんなことなら、最後に会っておけばよかった。
「それと小倉くん――。彼も、死んだ。交通事故でね」
「交通事故」
「ああ。トラックと正面衝突だったらしい」
「無残な死に方だな」
「ああ。実に無残な死に方だ――」
「だから、きみは……」
「そう。人間、いつ死ぬかわからない」
 きみは穏やかだが、膂力のある言い方で静かに続けた。「生きているうちに、逢えるうちに、会いたいと思う気持ちがあるうちに、逢っといたほうがいい――。そう思うようになった……」
「そうか」
 私は言った。「確かに、そうだな。逢いたいと思うときには、そのひとはいないかもしれない。あとで、ああしとけばよかったと悔やんでも、もう遅い。悔いがないように……」
「そう。悔いがないように――」
 きみは首肯して続けた。「悔いを残さないように。後悔しないように。思い立ったそのときに――そうしておかなければならない。でないと、きっと悔いが残る」
「そうだな。でないと、幼いときに知った、ほんの僅かな思い出だけに縋って生きて行かなければならなくなる」
「そのとおり」
 きみは頷きを返して続けた。「ぼくは、これまでにたったひとつだけ悔いを残している。幼友達が危篤だと連絡を受けたのに見舞いに行かなかった。まだ東京にいたときのことだ。代勤してくれるサックス奏者がいなくてK市に戻れなかった。その日から三日後に病院に行ったが、すでに遺体となって退院したあとだった……」
「ああ、残念だったろう」
 私は、病床の鳩山社長と最後の握手を交わした日のことを憶い出した。
 あのひとは泣いていた。声にも出さずに泣いていた。私も泣いていた。あのひとも大腸癌だった。続いて、全員で星影のワルツを歌ってくれた、あの夜の大合唱シーンが憶い出された。あの人にとって、あれが唯一のはなむけだったのに違いない。
 だが、あのひとは幼友達ではない。もし私に幼友達に近い、深い思い入れのあるひとといえば、史絵先生がそのひとだったろう。
 たったひとつの思い出の欠片を浮き輪代わりにして、辛うじてK市の海を泳いでいたあの頃、きみも心のどこかでそんなふうにして、幼友達のことを思って生きてきたのだと知ったとき、私の心は揺れた。
 逆に、きみの幼友達に嫉妬さえ覚えた。もし私が死ぬようなことになったら、きみは私のことを、そんなふうに案じてくれるだろうか。
 ああ、だからこそ、きみはこうやって私に逢いに来てくれているのだ――。二度と同じ後悔を繰り返さないために。悔いを残さないために……。
 そう言えば、鳩山社長が入院していると知ったとき、見舞いに行きなさい。さもないと、きっと後悔するわ――と推してくれたのは妻だった。その強いことばに圧されて私は病院に向かったのだった。きみとて、その例外ではなかっただろう。
「ありがとう――」
 私は言った。「そんな気持ちで来てくれているなんて知らなかった。実を言うと、ぼくにも、それに似た経験がある。幸い最後に、お互い手を握りあって無言の会話を交わすことができた。いまでもあれでよかったと思っている」
「ぼくもいま、そう思ってるよ」
 きみは、私の顔をまともに見て続けた。いつもの柔らかな笑みを浮かべて……。「こうして逢いたいときに逢えて、ほんとによかった――と」

 三 別れ際の言葉

 いつもは寡黙だったきみが珍しく、積極的に喋った。
 自らも言っていたように、本当にこれが最後と思って話しているのかもしれないと思った。確かにその外貌は、昔のそれとは大いに異なっていたし、体型にしても私と同い歳にも拘わらず、随分と貧相に見えた。
 恐らく、なんらかの危機感がきみを鷲掴みにしていたのだろう。ふっと視線が合ったとき、きみはぽつりと口を開いた。さきほどまでとは口調の勢いが違った。
「ぼくの知っている友達のなかで、リュウちゃんが一番、出世しているんだ」
「そんなことないよ」
 私は否定したものの、そのあとが続かなかった。なぜかきみの眼差しが、心のどこかに突き刺さる気がしたのだ。
「そんなことあるさ――」
 口を噤んでしまった私を見て、きみは続けた。「さっきも言ったように仲の良かった連中はなんらかの形で死んでしまったし、生きている者も大したことはしていない。このぼくにしても、いまはパッキングケース会社の従業員をしている。謂わば、しがない工場労働者だ。その点、きみは一国一城の主だ」
「いや、それは買いかぶりだよ、叡一くん」
 私は手を振って続けた。「会社といっても、有限会社だし、社員もいない。ひとり親方みたいなもんだ」
「しかし、きみには才能がある。ものを書くっていう才能がね」
「才能のあるなしに関係なく、ぼくにはそれしかできないんだ。むしろ、社会的には無能人間の部類に入ると思っているくらいだ」
「才能がなければ、賞は獲れまい――」
 きみはかぶりを振りながら言った。「あの賞は、聞くところによると、大した賞だそうだ。ぼくには、難しいことはわからないが、その分野では、なかなかに栄誉のある賞らしい。そのひとつを取ってみても、きみは成功者といえる」
「でも、残念ながら、あれが商売に結び付いているとは言い難いんだ」
 私はなぜか、意固地になって言い募った。「現に、いまの会社はまったく儲かっていないし、赤字続きで、女房の貯えで食わしてもらってるようなもんなんだ。資本金だって、その七割は彼女に出してもらったしね。名前だけの社長さ」
「いずれにしても、ぼくはきみが羨ましい。恐らく、きみほど自由に生きた人間はいまい――」
「きみにしては、珍しいことを言うね」
 私は、穏やかならぬきみの言葉に違和感を覚えて言った。「そんなことを口にするきみじゃなかったはずだが……」
「ああ。どうやら酒が回って来ているようだ。済まない――。もし気に障るようなことを言ったのなら、許してくれ」
 その日のきみは、本当に変わっていた。
 もともと剛毅な性質ではないが、弱音を吐く男ではなかった。少なくとも、私の前では自分の弱いところを見せるような人間ではなかった。いつも沈着冷静で、私に的確なアドバイスをくれていたきみであったはずなのに……。
「一体、どうしたんだ」
 私は言った。「そんな愚痴っぽいことをこぼす人間じゃなかったのに――」
「人生、いくらどうあがいても、行き着くところにしか行き着かないってことさ」
 きみは溜息を吐くようにして言った。「しがない工場労働者の、酒のうえのたわ言と思って聞き流してくれ」
「ああ。わかった。好きなだけ愚痴ってくれていい――。今日は、そのたわ言とやらをたっぷり聞かせてもらおうじゃないか」
「いや。これ以上はよしておこう。きみが言うように酒が不味くなるだけだ」
 きみは眼を細めて続けた。「それにしても、きみとはずいぶん長い間、会っていなかった。最後に会ったのは、ぼくが東京に行く前だったから、数えてみれば、実に十七年ぶりの再会ということになる……」
「そうだな。その間には、色んなことがあったよ――」
 私は、当時の様子をゆっくりと振り返りながら、言葉を繋いだ。「十七年前といえば、ぼくが大学院進学を諦めて就職した年だ。遅ればせながらとはいえ、まだ三十代前半だったから、それなりに若くありはしたんだが……。幸か不幸か、それからの人生、ことごとく巧く行かなかった。まさに七転八倒の時代だった。でも、いまだ同じような状態が続いている。この先、どう転ぶかわからない……」
「そう。どう転ぶかわからない――。だからこそ、できるときに、できることをしておかなくちゃならないんだ」
 きみは、私のグラスにビールを注ぎながら続けた。「バブルが弾けて、誰も高い着物を買うものはいなくなってしまった。八尾さんの手伝いでやっていた担ぎ屋も時代遅れ――。お袋も歳で眼が弱く、針仕事ができなくなってしまった……」
「それで、パッキングケースの会社に転職したのか」
「ま、そういうことだ」
「きみも大変だったんだな」
 私は東京へ行く前の、きみの意気込んだ姿を憶い出して言った。「本当は、音楽家になりたかったんだろうにな――」
「いや、実はあの当時ですら、ビッグバンドを必要とするキャバレーの時代は終焉を迎えつつあった……。ぼくは、それを知らなかっただけなんだ」
 きみは私の同情を否定し、説得するように言った。「その意味では、音楽家として食って行くには、ああいう形のミュージシャンでは駄目なんだ」
「つまり、独立したプロのエンタティナーでないと、ってこと――」
「ああ。ジャズバンドの一メンバーでやって行くには問題ないだろうが、ぼく個人にはパフォーマンス性がなさすぎる。酔客相手のキャバレーが舞台じゃなく、純然たる音楽ホールのステージで観客と真っ向勝負しなきゃならない。それが、ぼくは不向きなんだ。というより、そこまでの才覚は自分にはない――というのがわかった」
「悔しかったろう」
「いや、そんなことはないさ」
 きみはこともなげに言った。「自分に才能がないとわかれば、諦めるしかない。そう思ったよ」
「ぼくは諦めきれないなぁ」
「きみはそうだよ。きみには才能がある。昔っから、ぼくはきみをそんなふうに見ていた。そして、口にこそ出さなかったが、そんなきみが羨ましかった」
「本当かい――」
「ああ。本当さ。きみのやることなすこと、すべてが羨ましかった――。破天荒で、規則違反で、ちょっぴり悪戯好きで……。そんなきみが羨ましかった」
「なんで――」
「なんでって、そんな馬鹿なことをやれる、きみのバイタリティが羨ましかったんだよ。ぼくには、やりたくても、それをやらせてくれない親がいた……。それに、きみもよく知っている、あの八尾さんもいたしね」
「でも、ぼくは孤独だった……」
 私はきみの言葉に触発されて、当時の自分を憶い出しながら言った。「唯一きみのところだけが、ぼくの拠りどころだったんだ。だから、きみの気を惹こうとしてやったパフォーマンスだったのかもしれない」
「そうだったかもしれないが、その内実は、きみの本心から出たものだった」
「あのとき。神戸からヘトヘトになって帰ってきたとき。ぼくの母は、きみのところにはやらせないと啖呵を切った。無知で、ひととの付き合い方も知らない母は放任主義を立派な主義と公言するほど愚かな女だった。わが息子に対してなにもしないのを誇りにする親だった。きみのお母さんには申し訳ないことをしたと思っている」
「どうしてさ」
「どうしてって――。折角、親切に接してくれているきみのお母さんに感謝の言葉もあらばこそ、売り言葉に買い言葉で、あんな失礼なことを口走ったんだよ」
 私は当時の惨めな気持ちを憶い出し、涙が出そうになるのを堪えて続けた。「それに応えて、ああ、わかりました。これからは、お宅の息子さんがやってきても、絶対に家には入れませんからね――とやってもよかったのに、きみのお母さんは、それをしなかった。それどころか、その後も訪ねて行ったぼくを、いつも温かい笑顔で迎え入れ、きみが帰って来るまで縫い物をしながら、ぼくの相手をしてくれたんだ」
「そういうことだったんだ……」
 きみは感慨深げに言った。「ぼくは、そのときの経緯を忘れている――」
「それこそ、ぼくはきみが羨ましかった」
 私は、きみの言葉を真に受けて続けた。「きみは忘れてしまっているかもしれないが、ぼくにとっては、あの事件は一大事だった。本当に母が言っていたとおりになったら、ぼくはどうしようと思っていた。言ってみれば、あの頃のぼくは、きみのお母さんを母親代わりにしていたのかもしれない……」
「確かに、お袋にはそういう部分はあった」
 きみは静かに続けた。「わが家には色んな友達が訪ねて来たが、ただ来ているというだけで、なにをするでもなかった。大抵、じっとそこに座って、ぼんやりと縫い物をしているお袋の動作を眺めているだけだった。敢えてぼくと会話を交わさずとも、そこにいるというだけで、誰もなにも言わなかった……」
「そうだった。ぼくも、そのひとりだった――」
 私の目頭は、当時のことを憶い出し、熱くなっていた。「それにしても、なんできみのお母さんは、あんなに優しかったんだろ」
「なんでかは知らないが、きっと子どもが好きだったんじゃないかな」
 きみは言った。それは嘘だ――。私は思った。
 貧乏で着た切り雀で、痩せっぽちで、遊びに行くところもない私が、哀れで淋しそうに思えたからだ。だからこそ、寄る辺ない私の面倒を看たのだ。きみの母親はそんな女性だった。私の母とは雲泥の差だった。
「積もる話は、たけなわといったところだが――」
 そう言って、きみは手許にあった清算伝票を手に取った。私の僅かな心の変化を見逃さず、この辺が頃合いと見たのだろう。「もうそろそろ、この辺でお開きとしようか。時間も晩いことだし……」
「ああ、もうそんな時間なのか――」
 私は腕時計を見ながら言った。「もっといたいのに、残念だな……」
「ぼくにも、まだまだ話したいことはたくさんあるさ」
 きみは、身支度を整えながら言った。「だけど、また今度逢うときのために大切に取っておくことにするよ――」
「そうだな。今日はありがとう。いいお見舞いになったよ」
 先に立って、勘定場へ向かったきみが、記入された支払金額を見て一瞬、顔を曇らせ、私を見た。その戸惑った顔には、私がこれまでに見たこともない困惑の色が浮かんでいた。恐らく、きみの予想を遥かに超えた金額が記入されていたのだろう。
「ちょっと、見せてみな」
 私は言って、きみの手からその紙切れをむしり取った。
 そこには二万円近くの数字が記されていた。たまたま妻から、念のために――と手渡されていた一万円札が二枚あった。一枚を取り出し、きみに渡しながら言った。
「割り勘にしようぜ。そのほうがさっぱりしていいじゃないか」
「ありがとう――」
 きみの顔には安堵の色が浮かんだ。言葉こそそれのみだったが、私にはきみの心情が痛いほどにわかった。
 勘定を済ませての別れ際、きみは言った。
 また逢えるといいな、リュウちゃん。できれば、もっと暖かい春の日に――。

 四 人生の醍醐味

 私は、黒いコートの襟を立てて夜道を帰って行ったきみを見送ると、きみがくれた見舞いの品の入ったペーパーバッグをぶら下げて家路を急いだ。店から最寄りの駅へは、十分ほどでしか離れていなかった。確かにきみの言うように寒い夜だった。
 私も寒がりだったが、頭頂があれほどにも薄くなったきみには、もっと堪えるだろうなと、不謹慎ながらも愉快な気分で、そう思った。酒が入っていることも手伝っていただろう――。その日は、それなりにいい気分だった。
 長い間、会っていなかったので、会えたこと自体が私には喜ばしかった。
 しかも、きみが私に対して、あんなふうに思ってくれていたことに、ひとり気分が盛り上がった。あれは、素直なきみの、偽らざる告白だったはずだ。
 そんな馬鹿なことをやれる、きみのバイタリティが羨ましかったんだ――と、きみは言った。確かに、それが本音だったろう。能天気な私にぴったりの形容だし、その当時のきみにとっては、私がもっとも自由な存在に見えたことだろう。
 それについては、弁明したとおりだが、その前にきみは、私ほど自由に生きた人間はいまい――とも言っていた。私が要らざる口を挟んだおかげで、そのまま言い差しの形となって、聴きそびれてしまったのだが……。
 本当はあのとき、その言葉を契機に本論を始めたかったのではなかったか――。
 ほかのことを言おうと考えていて、しっかりと分析できていなかったが、あれは一体、どういう意味合いでなされた「発話」だったのだろう。もし気に障るようなことを言ったのなら、許してくれ――とまで、きみは言ったのだ。
 もしかすると、内心では私の気を悪くする類いの「苦言」を呈したかったのかもしれない。いや、そうではあるまい。苦言というよりは、嫌味か。それとも、妬みか。いや、いや、そんなことを言いたがるきみではない。
 私に会いに来た――その真の理由は、もっと深いところにあったのではないか。
 私は考えたが、思いつかなかった……。
 そうして、この小説の冒頭にも書いたように、きみは暖かい春の日がくるのを待たずにこの世を去った。クリスマスの前日の寒い夜だったという。だが、言うまでもなく、私がこのことを知るのは、もっとずっと後になってからのことだった。
 このときまでは、私はきみにいつか会えると信じていたし、おそらくきみも、そう信じていたろう。あと数ヶ月もすれば念願の暖かい春の日がやってきて、何十年かぶりに再会できるかもしれないその日を夢見て、きみは眠りに就いたのかもしれない。
 いずれにせよ、私はきみとのこのときの出会いが、今生の見納めになるとは露とも知らずに、その後十数年も続く荊の径を歩み続けたのだった。
 だが、いまになって思い起こしてみれば、このときのきみの言動には思い当たる言説がいくつもあった。逆にいえば、きみにはそういう予感が働いたのだろう。奇跡ではなく、あり得べきことの絶対的な予感――。
 だからこそ、あのような暗示をことばの端々に鏤めたに違いない。
 お陰で私は、その死を知って驚くことはしても、悲しむことはしなかった。
 むしろ、実にきみらしいサヨナラの仕方だと思った。だから、事前に言っておいたろう。あれが、ぼくとの最後の出会いだと――。恐らくきみは、あの世とやらで、そんなふうに嘯きながら、ほくそ笑んでいるはずだ。
 惜しむらくは、なぜあのようなことばを吐き、どのような理由で、正月明け早々、わざわざ私に逢いに来てくれたのか。それさえわかれば、もっとすっきりしたはずなのだが……。いまさら、そんなことを望んでも詮なきこと。改めてきみの手際のよさに脱帽するしかない――。
 とまれ、私はその後も、過酷な日々をなんとかやり過ごしてはいたのだが、月を追うごとに、それまでの生活が衰微の兆候を見せ始めてきたのだ。
 事業は――というより、仕事そのものが捗々しくなくなって行った。仕事の量――というよりは、得意先の数自体が少しずつ減って行くのだ。売上が上がらないのではなく、なくなってきていた。なんらかの手を打たねばならなかった……。
 家内は、いずれくるであろうこの日を、ずいぶん前から予告していた。ミサキ・プランニング一の得意先もいずれ発注してこなくなるだろう――という警鐘だった。
 案の定、最後の頼みの綱としていた大の得意先A社も、ミサキ・プランニングへの発注を打ち切った。A社が携わっていた業界は軒並み、連鎖倒産の憂き目に遭っていた。老舗級の繊維商社だったA社は、それまでの売り方を変えた。
 それまでは、今日でいうB2B的な手法で、自社へ小売店を呼び込む手法を駆使していたが、小売店に資金力と販売力がなくなってくると、今度は大手のコンサルタント会社の催す展示会を主体に商品を卸すようになっていた。
 つまり、自社の媒体を使って商品を売るのではなく、他者のノウハウと人員を使って、自社商品を売ってもらう手法へと戦略を転換したのだ。
 当然、ミサキ・プランニングに二ヶ月に一度発注していた媒体の作成費や印刷代は不必要になり、ミサキ・プランニングに考案を依頼していたプランニング料も無駄になる。会わせて通信費や封入・発送手数料も要からなくなる……。
 ある意味、A社にとってはいいこと尽くめだったが、ミサキ・プランニングにとっては踏んだり蹴ったりだった。業界には不案内の家内ではあったが、そのとおりのことが起こって、私は彼女に酷く責められることとなった。
 彼女に言わせれば、得意先がひとつ減れば、必ずそれ以上の数の得意先を確保しなければ事業はやって行けない。当たり前のことであったが、それが鉄則だった。しかし、世の中がどんどん変化していくデフレスパイラルの時代にあっては、新規の得意先確保は至難の業だった。それができなければ廃業もしくは休業しかない。
 二年もしないうち、ミサキ・プランニングは完全に行き詰ってしまった。
 借りていたテナントからは撤退し、銀行から借りていた借金だけが残った。少なくとも二重の家賃や光熱費に悩むことはなくなった。私は、家内の勧めで新聞折り込みに出ていた派遣会社の斡旋で、大学職員のアルバイトをすることになった。K市にある宗教系の小さな大学で、派遣会社の社長が学長と知り合いであったことから、企画広報室への配属が決まったのだった。
 この期に及んでも、私には愚かなプライドだけは残っていた。
 家内にすれば、なにをいまさら体裁をかこっているのかと訝しんだろうが、これなら清掃員や用務員をやるよりはましかと自分に言い聞かせたほどだった。
 役所や税務署に対する表向きは、ミサキ・プランニングを経営していることになっていた。だが、もう昔のように融資は受けられなかった。保証協会も新たな融資の保証はしてくれなかった。私ではなく、銀行のために残金支払いが滞った場合に備え、私から手数料をとって保証するだけだった。
 だからといって、街金に手を出してまで地獄に墜ちる気はなかった。
 結果的に、その後の十数年間、支払期限がくる度に保証協会に保証料を支払い、条件変更に次ぐ条件変更を重ねて、ミサキ・プランニング以外の仕事で得るバイト料のなかから、少しずつ元金と金利を払って生き延びていく運命とはなるのだが……。
 実生活は、まさに蟻地獄そのもの――。
 這い上がっては沈み、沈んでは這い上がる月日が続いた。ミサキ・プランニングでの売上はたまにしかなく、収入は次第に減り続け、家内はその都度、喫茶店時代に蓄えた預金を崩しては補填しなくてはならなくなっていた。しがない派遣先の大学からもらうバイト料では、家賃代くらいにしかならなかった。
 それに呼応するかのように、世間一般の年収は年々下がって行き、どこかの経済評論家が言っていた「年収三百万円時代」が本当にやってきていたのだった。
 ひたひたと押し寄せる、経済逼迫という無言の圧力……。
 家内の私に対する口調が日増しに鋭くなってきていた。そのことばのひとつひとつが確実に、私の胸に突き刺さるようになっていた。矢も楯もたまらず、私はまたも職安へ行って、職先を見つけては紹介状を書いてもらって面接に行くことを繰り返したが、年齢の加減もあってか、すべてが不採用だった。
 なかには、うちの会社は定年を五十五歳としている。それまでの数年間に、あなたは弊社にどれほどの貢献ができるとお思いか――と逆質されたこともあった。それだけの働きができるというのなら、あなたの会社、すなわちミサキ・プランニングにおいても、それがなし得るのではないか――との謂いだった。
 当たっているだけに、なにも言えなかった。頬はもとより、耳の先まで赤く染まっているのを感じた。そのまま暇を告げて立ち上がろうにも、恥ずかしさと情けなさに足許が震え、立ち上がれなかった。
「ま、もう一度じっくり考えてみられることですな」
 面接の相手をしてくれた社長は、さきほどまで見ていた私の履歴書を封筒に戻して言った。「人生は本来、退屈にできています。その退屈さを、いかに退屈でないものにするか――。そこにこそ、人生の醍醐味があります」
 言いたいことの意味が掴めなかった。黙したまま、傾聴する姿勢を取った。
「せっかく、ここまで辛抱してやって来られたんだ」
 社長は、履歴書の入った封筒を私に返して続けた。「音を上げるのは、本当にやるべきことをやり尽くしてからにされてはいかがでしょう。私がみるところ、あなたにはその最後に尽くす努力が足りない。だから、成功しないのです」
 ぐうの音も出なかった。完全に見透かされていた。素っ裸にされて恥ずかしいところの縮みぶりまでが盗み見られたようだった。
 二分ほどして、ようやく足が立ち、私は受け取った封筒を鞄に戻して、時間を空けてくれた礼を述べた。声が上ずっているのがわかった。
「これもなにかの縁。雇いはしないが、相談には乗りましょう」
 社長は椅子から立ち上がって言った。「ただし、誤解のないように――。誰にでもこんなことを言っているのではありません」
「ありがとうございます」
 私は、辛うじてそれだけを言い終えると、シビックのあるガレージに戻った。そして車のシートにもたれかかると、やっと深い溜息を吐いた。
 人生に醍醐味――。そんなものがあるなんて、考えたこともなかった。
 これまで生きてきたなかで、そんなものは一度だって味わったことはなかった。私は、無性に自分に腹が立った。涙が大量に瞼の淵からあふれ出してきて、車中にあるのをいいことに思い切り声を上げて泣いた。

 五 見えるべきはずのもの

 本当にどうしようもない男だった。煮ても焼いても食えない男だった。悔しさはすべて自分のなしてきたことの裏返しだった。人生に醍醐味というものがあるのだとしたら、それはどうすれば得られるのだろう。
 あの社長は言った。あなたには、その最後に尽くす努力が足りない――と。
 最後に尽くす努力とは一体、どのようなものをいうのか。最後に尽くす努力とは畢竟、最後の最後まで気を緩めない力加減をいうのではないだろうか――。
 もしそうだとすれば、私のこれまでは、確かに最後まで引き受けないうちに、そこから逃れようとしたことに尽きる。最後の最後まで行き着かないうちに、そして少しでも傷つくのを恐れるあまり、無意識のうちにその場から遠ざかる――ということを繰り返しては生き延びてきたのだ。
 そうして人生は退屈だ。なんの変わり映えもしない――などと文句ばかりを垂れている。そんな人間に、人生の何たるかがわかるわけがない。人生の醍醐味とは、その先にある見えざるものに向かって努力した者にこそ見い出される類いのものなのだ。
 ――と、あの社長は、言いたかったのに違いない。
 まずは努力せよ。まずは見い出してみろ。まずは行き着くとこまで行ってみろ。そうして初めて、人生は開けてくる。見えるべきはずのものが見えてくる。
 ――と、そう言いたかったのに違いない。
 お前には、ただの一度でも、死に物狂いでものごとを成し遂げようと思ったことはあるのか――そんなものは一度だって、ありはすまい……。
 どこからか、脳髄に響くような声が聴こえてきた。聞き覚えのある声。例の斑猫の声だった。長い間眠っていた、あの猫が眼を覚ましたのだ。猫は、以前より痩せているように見えた。暫く見ない間に病気にでもなっていたのだろうか。
 嫌味な口調は相変わらずだったが、その表情には覇気がなかった。尻尾だけはいつもどおり高く上げていたが、以前より細いように見える。キャットイヤーというのは聞いたことはないが、寿命が近づいてきているということなのかもしれない。
 思えば、この猫とは長い付き合いだ。かれこれ二十年以上になる。猫とすれば長寿のほうだろう。彼女がいるのかいないのか。家庭があるのかないのか知らないが、時折このようにひょっこりとやって来ては、私に苦言を呈して姿を消すのだ。
 猫は飼い主の知らないところで死ぬ――という。おそらく、この猫も飼い主ではない私の見知らぬところで、その生をひっそりと閉じるのだろう。
 斑猫の声は、家内の言葉そのものだった。彼女の口調は、単に厳しくなっただけではなく、皮肉や嫌味までが込められるようになってきていた。ときとして醜く歪んだその顔と口から発される言葉は、悪意と失意に満ちていた。
 その悪意と失意、そして後悔は酒量の進むごとに深まっていくようだった。
 もともとに酒には強い女だったが、その小言にも似た嫌味な物言いは、本人が疲れ果て、眠りに就くまで続いた。一種の酒乱なのだろう。
 こんなに稼げないひとだとは思わなかった――。
 こんなに愛情のない人間だとは思わなかった――。
 こんなに自堕落で怠惰な男だとは思わなかった――。
 こんなに無知で常識のない大人だとは思わなかった――。
 なにかにつけ、その小言には必ず「こんなに――」という枕詞が付いた。そして二言めには「騙された。でも、そんなあなたに気づかなかったわたしが悪い……」という自責めいた言葉が続くのだった。
 そうしてひとしきり反省の弁が続いたあとは、なぜわたしと一緒になったの、なんのために哲学を勉強したの、それがいまの人生にどんな役に立っているの――などと永遠とも思える時間にわたって、その種の質問が繰り広げられるのだ。
 なんでチッチやナオやリュンさんと一緒にならなかったの、そうしていれば、わたしがこんな苦労をする必要なんかなかったのに――。そうよ、あの詩集にもあったように、チッチと子どもを設けて添い遂げればよかったのよ。そうすれば、わたしはあなたと一緒にはならなかった。こんな苦労をせずに済んだ。
 あんなブスと披露宴の真似事はしてもわたしとはしない。それはどういうことを意味するの。私の家が彼女の家より劣っているからってこと。それとも、私が故郷を捨てた女だったから、なんにもしなくていいということだったの。
 ねえ、答えてよ。なんでわたしは、こんな苦労を抱えなくちゃならないの。
 なんで大枚をはたいてあんな下らない詩集を出したの。あんなもの、徒労以外のなにものでもないわ。あなたには才能のサの字もないのよ。
 お金だって、もっとほかに使い道があったでしょうに。無駄よ。果てしない資源の無駄使い。あんな詩のどこに芸術性があるっていうの。なにが『飛翔と空間』よ。あんなのは、女誑しの穀潰しが惚気て言葉をこね回しているだけの駄文――。
 あれは詩でもなんでもない。現にあの詩集から取り出して新聞社に投稿したら、ただの一点だって採用されなかった。あれなら、私のほうがよほど才能があるわ。
 私は向こうから依頼があって、原稿料だってもらっていた。わたしは、あなたとは違うの。あなたに学なんてない。文才もない。わたしのほうが、よほど世間のことを知っているし、実際に書いたものを採用されたことは何度もある。
 なのに、その偉そうな態度はなんなの――。亭主らしいことを一度だってしたことがあるっていうの。なんで、そんな大きな顔をしていられるの。どこの誰が毎日の食事の支度をし、買い物に行き、あなたを食べさせていると思っているの。
 わたしは、あなたのなんなの。女中、小間使い、それとも下働きの家政婦……。
 私は家内の延々と続く言葉の嵐を聞きながら、ミホさんの言っていたことを憶い出していた。そう、家内と同郷の学友だった里中未歩さん――。
 あのとき、彼女は言っていた。
「シオリは、侮辱にはひと一倍敏感で、気位が高くて、ひとより上でないと気が済まない。何年でも何十年でも、それこそ一生涯、恨み続けるタイプよ。あなたは、それでもいいの。そんな女と一緒にやってゆけると思う――」
 その読みは、当たっていた――。
 近所のひとへのお礼の言葉や、来客に対して挨拶言葉のひとつも掛けられない私に失望し、難詰し、いつまでもそのことを持ち出しては責める――といったような小さなことがほぼ、日常茶飯事のように行われていた。そうして彼女の酒量は日を追うごとに増して行き、それにつれて、小言の類いも比例して増えて行った。
 だが、それは深酒のときだけに現れ、朝になればすっかり忘れていた。
 なにか――例えば、私の失態などをきっかけとして、その症状ともいうべき激情の嵐は現れるようだった。恐らく走馬灯をでも見るように、当時の悔しかった記憶のなかから、もっとも耐え難かった思い出のシーンが次々と立ち現れるのだろう。
 普段は自らも言うように抑え込んで口からは出さないようにしていたので、私にすれば、彼女が酒を飲んだ日だけは危険日なのだった。
 というのも、彼女が酒を口にしているということは、私も酒を飲んでいるということなので、その挑発に乗らないようにすることが肝要だったからだ。これまでもその口車に乗って、手荒い諍いを起こしたことは二度や三度ではきかなかった。
 いつだったかの新聞に、働かず家にいて、自分のパート代に頼り切りの夫が酒を旨そうに飲む姿にたまりかね、つい「ええ、身分やのう――」と嫌味を口走ってしまった奥さんが、その場で絞め殺されたニュースが載っていた。
 殺した側の亭主にしてみれば、無職ではあったが、安閑としていたわけではなく、それなりに努力をしていたし、就活もしていた。決して遊び呆けていたのではなかった。そんな思いのところへ、業を煮やした奥さんの一言が逆鱗に触れた――。
 一気に脳内の血管が膨れ上がった。毎日の自分の労苦を思うと、夫の細やかな気晴らしですら耐えきれなかったのだろう。それがわかっていても、亭主には彼女のその一言が許せなかった。気がつけば、わが女房は白眼を剥いて死んでいた……。
 私たちの場合は、そのようになってはならなかった。
 いや、私たちにかぎらず、どの家庭、どの男性またはどの女性にあっても、そのようなことはあってはならなかった。失われた十年のうちに起こった悲劇だが、他人ごとではなかった。いつか自分たちにも起こりかねない卑近な事件のひとつだった。
 カネは人間を変える。ひとはカネで変わる――。
 ひとはカネ次第で、見てはならないものが見え、見えるべきはずのものが見えなくなる。私たちの場合は、どこまで行けば、見えるべきはずのものが見え、見なくてはならないものが見えてくるようになるのだろう。
 職が欲しかった――。
 というより、カネが恨めしかった。生命を維持し、生活費を補填し、家内を安心させるためのカネが恨めしかった。その意味では、カネさえ得られれば職はどんなものでもよかった。ただし、法に触れる以外の職業という意味ではあったが……。
 見えざるものに向かって努力した者にこそ、見い出される真の醍醐味――。
 果たして、それはどのようなものをいうのか。限界を突き詰め、それを超えることによって得られる真の醍醐味とは一体、どのような至福を指すのだろうか。
 私に課せられた運命。それは、行き着くところまで行き着き、その向こうにあるなにかを掴みとること――。その何かが真の醍醐味となるかどうかは、乗り越えてみなければわからない。その限界に辿り着くまで、私は耐え抜くしかなかった。
 どのような悪態がつかれようと、どのような暴言を吐かれようと、私には耐え抜くことしか残されていなかった。そうでなければ、私はミホさんと約束した最後の男にはなれなかった。最後の男となるためには、私が先に死ぬわけには行かなかった。
 あんな大きな啖呵を切った以上、後戻りはできなかった。
 私は妻にとって、最後の男――。
 否、私にとって、彼女は最後の妻であらねばならないはずなのだ……。

 六 見えざるものの接近

 私たちに危険が迫ってきていた。
 見えるべきはずのものとは、言ってみれば、予測できるはずのものという謂いではないのか――。もしこれが、その言葉の意味の正しい解釈だとするなら、私にはなにかしらうっすらとした予感のようなものはあっても、なにも見えていなかった。
 予測するということは、可能性を探るということだ。理をもってなす行為だ。その行為が事態の在り方に辿り着くことのできる、ひとつの方法ということになる。
 危機ではなく、危険ということが具体的に、なんらかの痛みを伴う行為をいうとしたら、その痛みの根源は肉体からくるものでなければならなかった。
 傷みは肉を苛み、その皮膚を切り裂く――。
 切り裂かれた皮膚はその下の肉を露わにし、心の闇に食い込み、得体のしれない恐怖を象づくっていく……。そうした危険がどこからともなく、私たちに近づいてきていたが、私は少しも気づいていなかった。
 予感のようなものがありはしても、そんな莫迦な――と打ち消せば消えてなくなるほどの不安でしかなかった。信じようとさえしなければ、存在しないくらいの微かな予兆……。それがあんなに大きくなるとは、想像すらしていなかったのだ――。
 派遣先だった大学の学長が亡くなった。心筋梗塞だった。
 もともと企画広報室の室長は、どんな経緯があったのかは知らないが、派遣会社の社長が大嫌いだった。それもあってか、肝いりの学長が消えたのをいいことに私ともうひとりの派遣職員の女性の更新はしないこととした――として馘を言い渡した。
 女性は地方の国立大学の大学院を出ていて、なかなかの美人だった。
 広報室で一種の秘書のような役割を果たしていたが、室長は、定時が終わっても彼女を帰らせず、自分の意のままに酷使した。職務室で般若湯の酌をさせるなど、その立ち居振る舞いにも、いまでいうセクハラとパワハラに当たる文言や指示が目立った。
 ときには、彼女のマンションにまで押しかけてきて、宿泊を迫ったりした。
 確とした証拠はないが、それを断った翌日から、彼女の乗って来ていた自転車のサドルが抜き取られ、乗れなくなっていた。地下の駐輪場を探し回って、ようやく探し当てると、それはカッターナイフで縦横に切りつけられていた。
 彼女にいわせれば、明らかに室長の所業だった――。
 私たちは、隣同士に机を並べていたので、室長のいないときは、よく話をした。
 私は彼女と比べれば相当年輩の人間でもあり、広報の職員としてはふたりしかいない関係上、彼女には私くらいでしか相談相手はいなかったのだろう。
 ある日をきっかけに彼女の緊張が解け、彼女は気さくに打ち解けた会話を交わしてくれるようになった。そのきっかけというのは、なんでそんなことが――と思えるほどの些細なことだったのだが、彼女にしてみれば、重大なことであったらしい。
 たまたま私が、テレビCMに出てきた、可愛い男の子がある飲み物を口にしていう台詞の口真似をしただけのことだったのだが……。
 その日を境に私たちは、私事にわたることまで話し合うようになった。
 そうしたことが、原因なのかどうか……。
 当時、流行り始めたライブカメラを当大学にも取り付けてみてはどうか――という話になった。室長は、その前段階の試用に供するということで、業者から預かったモニターを広報室内に設けたのだった。
 もちろん、本格的に使用する前のテンポラリーな扱いのものではあったのだが、私たちはこんなことを喋っていると、あのカメラで音声ごと盗み見られているかもしれないね――などと半ば本気で話したものだった。
 いまにしてみれば、やはりそういうことだったのだろう。
 ふたり一緒に引導を渡されたことを知った彼女は、私に言った。
「わかった。わたしは闘う――。このまま一方的に切られて堪るものですか」
「闘う――って、どう闘うの……」
 私は、彼女の顔に浮かんだ憤怒の相に恐れをなして訊いた。
「ハラスメントで訴えてやるわ――」
 彼女は美しいが、背が高く大柄な女性だった。百七十三センチの私より最低、五センチくらいは高かった。その彼女が大きな握り拳をつくって言った。「返り討ちにしてやるわ。あのひとの思い通りにはさせない。これまで、どれだけ屈辱に耐えてきたことか――。その万分の一でも返さないことには気が済まない……」
 広報室のメンバーには各部門の教授が参画していて、そのなかに人権教育センターの委員をしている教授がいた。その教授に訴え出るというのだ。人権教育を施しているはずの大学から、そのような人間が出てきたら、かなり拙いことになる。
 たとえ、噂であっても、大学の名折れとはなるだろう……。
 司直の手を煩わせるというのではないから、大学としても極力内密に処理するだろうというのが、彼女の読みだった。それをうやむやで済まそうというそぶりを見せるのであれば、マスコミに売る――と、大声で叫べばいいのだ。
 大学側は、二次被害が女性に及ぶから――とか何とか姑息なことを言い含めて不名誉なセクハラ事件をもみ消そうとするかもしれないが、彼女の心は決まっていた。嫁入り前の娘ではあったが、そんなことを恐れる女性ではなかった。
 大学当局の回答は、思っていた以上に早かった――。
 ふたりに派遣期間がまだ残っているうちに、件のセクハラ企画広報室長の降格人事が決まった。そして彼は、兼務していた図書館課の課長も降格され、平の課員となった。返り討ちができたとはいえ、相打ちである以上、彼女はそのまま大学に居続けるわけには行かなかった。喧嘩両成敗、いや、痛み分けというわけだった。
 彼女は私との別れ際、私物をまとめながら言った。
「でも、彼としてはスケベ親父のレッテルを貼られた以上、この大学での出世街道を歩くのは難しいでしょう。それだけでも、胸の閊えが下りた思いだわ」
「ああ、そうだろうね」
 私は言った。「きみはよくやったよ――」
「三崎さんも、これにめげず頑張ってくださいよ」
「ああ、ありがとう。きみなら、どこへ行っても上手くやって行ける」
「ええ、じゃ――」
 さっと差し出された彼女の大きな手を固く握りしめ、私は言った。
「陰ながら、きみの活躍を応援してるよ」
 力強い手だった――。握力の強さが気持ちに現れていた。先に部屋を出る彼女の後姿は、いつも以上に大きく見えた……。
 かくして私たちは大学を離れたのではあったが、その後の彼女がどのような生活をするのかは知らない。少なくとも、あの調子で元気にやって行くに違いない。
 だが、そんなことより――問題なのは、私のほうだった。
 話は前後するが、この頃はもう、シビックは手放し、五十㏄のバイクで通勤していた。ガレージ代や車検料が、私たちの経済を圧迫するようになっていたのだ。
 もはやこうなっては、いい恰好も体裁も構っていられなかった。
 大学職員の場合は、ミサキ・プランニングが請け負った形にしていたのだが、そのように優雅な環境は望めそうになかった。私は派遣会社の社長に頭を下げて、どんなものでもいい、日勤の仕事を見つけてほしい――と頼んだ。
 贅沢は言っていられなかった。
 社長は、用務員の仕事ならあるが、それでもいいか――と訊いてきた。それで構わない――と答えた。家内の視線が後頭部を突き刺しているのが感じられた。完全に都落ちしたのを感じた。紹介された先は、K市では二流どころの私立高校だった。
 私は、派遣会社の社員に指示されたとおり、ベージュ色のチノパンにブルゾンのかたちをした作業服に身を包み、五十㏄のバイクに跨って学校に通った。
 そこにはまた春が巡りきていて、桜がいやというほど花びらを散らしていた。
 校庭と言わず、校舎といわず、そして生徒たちの踏みしめる通路と言わず、一面に桜の花びらが淡桃色の絨毯を敷いたバージンロードのように降り落ちていた。道端の側溝に当たるところには、両手で掬えるほどの桜の花びらが埋まっていた。
 まるで、雪掻きだった――。
 淡桃色の花びらは毎朝、遠近の枝から離れ墜ち、一面の桜景色をなしていた。
 それを掬うようにして掃いていると、多少でも気が紛れた。生徒たちが登校する頃には、積雪ならぬ積桜はすっかり薄くなり、足を滑らすこともなくなっていた。
 なにもかも忘れよう――と思っていた。
 手足だけを動かし、頭では、なにも余計なことは考えないようにしよう――と考えていた。なにも考えないようにするため、日ごろ考えつかない、突拍子もないことを努めて考えようとしていた。
 とりとめのない、空虚な思いだけが心の脇を通り過ぎていくのを感じた。
 虚しかった。――というより、悲しかった。高校教員たちが薄ら笑いを浮かべて、私の傍らを通り過ぎていくように感じた。
 用務員の仲間たちは私以外に四人いて、みんな優しく親切だった。五年前に大手自動車メーカーを定年退職したというリーダー格の男性と、夫が鮨屋をやっていたという年輩女性を除いて、全員が私と同じ派遣社員だった。
 ここに勤めながら、私は方針を変えて、一般受けのするであろう原稿づくりに精を出すことにした。というのは、これまでのような一部のひとにしか興味を覚えないものではなく、評論ではあっても、エッセイに近い軽みをもったものにしたほうが売れるのでは――と考えたからだった。
 テーマもこれまでとは違って、ことばはことばでも、一人物のことばを主眼としたものではなく、ことばとその遣い手の心理に焦点を当てたもの。つまりは、K市民独特の言語生理を意匠ことばの見地から捉えてみようと思ったのだった。

 七 見ことばとしての文体

「意匠ことば」というのは、SK広告にいたときに創始した概念で、その後はあまり意識していなかったが、軽いものを書く段になって憶い出したのだった。
 ことばも一種の内容を表象するものである以上、遣い手の心理が働いていなければならなかった。そのためには、書きことばや話しことばだけとはせず、聴きことばや言いことば、見ことばといった概念をも採り入れて解釈する必要があった。
 書かれた文章の見ためとその配列は、読者心理に大いなる影響を与えるのだ。文体の在り方や語彙の数もさることながら、改行の仕方に一定の法則を施すことで、読者の心にひとつのリズムが生まれ、心地よく読み進められるということが起こる。
 その結果、どういうことになるかというと、そのリズムは一種の視覚的・心理的カタルシスとなり、読者の心に幸福感をもたらすのだ。
 もちろん、その幸福感というのは、書かれた内容に付随する幸福感というのではなく、客観的立場にある読み手のとしての幸福感だ。それこそ作者と読者が一体となって醸し出す醍醐味であり、独特の臨場感といってもいいだろう。内容が悲しいものであれ、楽しいものであれ、それによって訴求力がより増していく。
 いってみれば、ランニングハイに相当する気分といってもいいだろう。
 いっぽう聴きことばのそれは、視覚から生ずる音の並びが聴覚化されることによって、これまた快いリズムを形成する基いとなる。したがって、見ことばの有意性は視覚的な要素と聴覚的な要素との合体によって生ずる。
 それこそは波の挙動と、それらの立てる音との競合だ。基本は地球の自転――。
 私の書いた文章からは、ひとの声が聴こえてくると言ってくれたひとがいるが、まさに読者はそのことばの流れに乗って心地よく、見ことばのとしてのリズム(波の鼓動)を感じてくれているのだ。あたかも、眼前にその登場人物がいるがごとく、あたかも自分自身が口頭で話しているがごとく、その物語に没入して臨場感を得る。
 言いことばとしての利点は、それが文語でもなければ、単なる話しことばでもないというところにある。音の発生に呼応した波の動きこそが聞かせどころなのだ。
 俗に言う「声に出して読みたい本」というのがそれにあたろう。
 果たして凡庸な私に、そのような文体がつくれるのかどうか――。
 明治のいつ頃だかは知らないが、言文一致運動というのがあった。あれもひとつには、人間の話すことばをその実態に即した表記で体感させよう――という試みのひとつであったはずだ。あの懐かしき、若き日の塚倉君が放った言い草ではないが、これはこれで新しい文体が創始できれば、これに勝る喜びはない。少なくとも不肖、三崎の老い先短い男の「死に土産」とはなってくれるだろう……。
 私は、K市民の言語を分析することによって、それを実践しようとした。
 幼いときにT市からやってきて初めて異言語として向き合い、視界に留めようとした第二の故郷のことば――。それは改めて眺めてみると、実に奇妙に曲がりくねり、強かに意味をずらし、話者の思いを着実に通していく強靭なことばだった――。
 そのインパクトを他府県人として表明し、異言語として捉えることによって解明していく……。その切り口を見つけるまでが大変だった。
 単なる言語学であってはならない。単なる方言研究であってはならない。
 単なる郷土文化の分析であってはならない。比較文化論であるよりは、比較言語論であらねばならなかった。それも外国語との比較分析ではなく、同じ日本語として日本人の心に通底する言語の在り方との違いを問うものであらねばならなかった。
 なぜ、K市のひとびとは、あのようなことば遣いをするのか。なぜこうこうしたときに、そのような返事の仕方をするのか……。話者の心理に基づいて発されているであろう、語の用い方に分析のメスが入れられねばならなかった。
 それには従来の語源学や民俗学とはまた異なったアプローチが必要だった。
 そうして図書館に通い、種々の著書を読み漁って辿り着いたのが、「日本語学」ともいうべき学問の在り方だった。だが、それは「日本語」を対象としたものであり、私のいうK市民の用いる言語、すなわち「K市語」ではなかった。
 そこで、名付けたのが、後にこの名が世に流布する「Kことば学」だった。
 私は、その概念を切り口に自らが見聞きした生の言語資料をもとに、肩ひじの張らない意匠ことばを用いて原稿づくりを進めて行った……。
 そこにはさまざまの発見があり、驚きがあった。
 そしてまことに有難いことに、他府県人であった家内のK市民に対する違和感と素朴な疑問が、持論を展開するうえで大いに助けとはなったのだった。だった――と過去完了形にするにはまだ早いが、真にこの家内の一言ひとことが私を刺激し、原稿の中身をずいぶんと熱くかつ、濃いものにしてくれたのも事実だ。
 この原稿が陽の目を見ることになるのは、これより少し先のことにはなるが、凡庸で文才のない私がこれを契機に世に出るきっかけになったのは紛れもない事実であったし、彼女に感謝の意を表しなくては罰が当たるといえるかもしれない。
 とまれ、このときはまだ、疑心暗鬼というか、世に出るものかどうか半信半疑で書き進めていた原稿なので、口さがない彼女流に言えば、野のものとも山のものとも知れない駄文――。つまりは、徒労以外のなにものでもないゴミだったのだ。
 当時は、そうした皮肉や嫌味の数々にもめげず弛まず真剣に、家内のいう「不燃物の山」を築いていた時代だった。正直言って、底辺の生活を耐え抜くには、それくらいの気晴らしというか、気を抜くところがなければやって行けなかった。
 原稿を書くにあたって、まずは声に出して読みたいくらいの「言いことば」としてのリズム感を大切にした。だから、自分でも見ことばを聴きことばに変換し、声に出しながら文にして行った。そうして発音しにくいものは省き、語呂がよいものは重複を厭わず、重ねて続けた。強弱、強弱、中強弱……。
 そんなリズムが身体の内奥から立ち現れるよう、意識して文をつくった。
 文の体幹から発することばのリズム――。それを見ことばのかたちで表象するのが、私の目的だった。いまの塚倉君なら、どう評価してくれるだろう。
 いっぱしの原稿が書きあがり、さてこれをどうしようかと思いを巡らせた。
 そして、かつて図書館で読み漁っていた書物のなかに、非常に共感を覚えさせる文章を書いていた教授がいたことを憶い出した――。
 その教授は上海生まれの中国人で、幼くして日本語に興味を持ち、中国語とのそれの違いを語用論的な立場から論じていた。同じ日本語であっても、T市語とK市語とではその裏に隠された企図に違いがあり、それの分析に取り組んだ点で、私に近しい感性の持ち主なのではないかと感じたからだった。
 K市においては他府県人であった私と日本においては他国人であった教授――。
 その類似点は、言語の使用者にその地域における独特の生理感を読み取るところにあった。国と国の違い、都邑と都邑の違いこそあれ、そこに見ようとするものは同じであるはず――ということで、私は教授にアプローチを試みた。
 結果は、ある意味、僥倖以外のなにものでもなかった。
 というのも、私のようにほぼ無名の者が直接、教授のもとにアプローチしても門前払いを食らうくらいがオチだった……はずなのに、こういう内容なら、SD出版のT氏に見てもらったほうがいい――と編集者まで紹介してくれたのだった。
 果たして僥倖だったのか、それとも私の教授に対する読みが深かったのか。いや、やはり僥倖だったのだろう。教授、いや、先生はわざわざ私の自宅に電話までかけてくれ、私の原稿の内容に触れ、そのことを告げてくれたのだった。
 そのことばから、先生がしっかり原稿に目を通してくれたのがわかった。
 嬉しかった――。あまりにも、その展開は意外だった。
 アプローチから三日後のことだった。あまりにもスムーズに行き過ぎた。これで本当に私の原稿が本になるのなら、これはまさに奇跡といっていいと思った。先生の声を聴きながら、時計に眼をやると、時刻は夜の八時半を過ぎていた。
 こんな時刻になるまで、私の原稿を読んでくれていたのだ。そう思うと、なんだか未来が明るくなった。いや、心まで軽くなったような気がした。いままでの鬱屈していた心の暗い影が取り払われたような気がした。
 見ことばとしての文体の面白さが認められたのだ――私は心からそう思った。

 八 ビギナーズラック

 果たして神は存在するのだろうか。それとも、神はなにかと引き換えに、その褒美を与えようとするのだろうか。そのときはまだ、そんな観念はなかった。
 ただ起きた奇跡についてのみ感謝し、その有難さを稀有な幸運と捉えていた。そのことがなにかに紐づけられていようとは思いもしなかったのだ。
 SD出版のノンフィクション部門の編集長T氏からは、じつに面白い――との評を得た。そしてそのまま、氏の原稿チェックが入り、朱が入れられて返されてきた原稿を手直しし、それを送り返す日々が続いた。初めての経験だった。
 さすがにプロの編集者は上手に書かせるものだと感心させられた。削っては書き足させ、煽てては膨らませたりと、そのテクニックは秀逸だった。SD出版社長直々の発案でタイトルが決まり、処女作ともいうべき私の初版本ができあがった。
 全国紙に全五段の記事下広告が出たその日の夕方、K市でもっとも有名な老舗の大型書店で、とある作家の小説にも登場するMZ本店に行ってみた。
 その店頭には、十二面にもわたって平積みされ、面映ゆそうに含羞んだ様子を見せる表紙がずらりと肩を寄せ合って並んでいた。晴れがましかった。近寄ってみたが、確かにそれは、私の本の島になっていた。その姿は、じつに壮観だった。
 出版社が売れる――と信じた証……。
 いや、社長とT編集長の思いが、そこにはあった――。
 それからは、近場の大型書店に平積みされたそれを眺めに行くのが、たまの日曜日や一仕事終えたあとの愉しみのひとつとなった。
 そして、どんなひとがその本を手に取るのか、果たして手に取ったその本をそのまま持ってレジに向かってくれるのか、それともまたもとの場所に戻すのか――といったことをやきもきしながら観察した。第三者が見たら、きっと私がそのお客さんのポケットを狙う掏摸かなにかと訝しんだかも知れない。
 それがあってか、書くことはしばらくお預けにした――というより、お留守になった。一応、出すものはすべて出し尽くして書いた気になっていたので、しばらくは休みたいという気分が芽生えていたのかもしれない。
 中出君が電話してきて、私の本がよく売れている。MZ本店で売上ランキング二位から三位を五週間キープしていると書かれたPOPを見た――と報告してくれた。
 中出君とは、私が深夜労働に携わるようになって以来、疎遠な感じになっていたのだが、バブルが弾けて働き先がなくなり、致し方なくミサキ・プランニングを始めた辺りから普段どおりの付き合いに戻っていたのだった。
 それこそ、あのときのきみではないが、私の代わりに受験番号ならぬ本の売れ行きを見に行ってくれていたのだ。それも、ほぼ毎日のごとく……。
 彼は書いた本人より熱心だった。わがごとのように本を慈しんでくれた。
 本好きの彼には、やはり当たり前のことだったのだろうが、その装丁からノンブルの場所やかたち、書体や紙の選定、奥付にまで評価を下した。
 そして概ね、その評価は及第点に達した。
 もちろん、そこには彼流の、わたしならここをこうするのだが――といった難癖めいた修正もなくはなかったが、著者としては出版してもらえただけで満足だった。しかも、それが売れているというのだ。こんなに喜ばしく嬉しいことはない。
 その証拠となるのかどうか、初版が出版されてすぐの三ヶ月も経たないうちに増し刷りの連絡があり、その翌月には改めて印税が入ってきたくらいだった。
 二刷りが出てしばらくの間、そう、およそ八ヶ月間というもの、私は地に足がつかず、天を浮遊する心地になっていた。それこそ、中出君ではないが、毎週のごとく書店に顔を出しては、自分の本のオモテ表紙が、まだこちらを向いて平積みされているのを認めては、浮かれた気分に浸っていたのだ。
 ある意味、天狗になっていたのかもしれない――。
 自分の書いたものが、こうも大々的に世に出たことによって、ビギナーズラックではないが、いささか高揚した気分になっていたのは事実だ。
 そうこうしているうちに、まるで雨後の筍のように、私の辛口とK市の捉え方を真似たようなコンセプトの本が矢継ぎ早に出版されるようになった。つまり、私の本がいわゆる「K本ブーム」の火付け役になったというわけだった。
 それが、私の調子を狂わせてしまったのかもしれない……。
 ある日の午後、MZ本店の店長から電話があった。電話に出た家内によると、店長は著者である私の電話番号を、出版社に教えてもらって知ったという。
 おそらくT編集長が喜んで教えたのだろうと思った。というのも、K市では一番の売上を上げている書店だからであり、出版といえども、ビジネスである以上、大の得意先であるMZの頼みを聞き入れないわけがないと思ったからだ。
 本来なら、プライバシーに属することゆえ、本人確認のうえ、連絡に及ぶのが普通だが、そうしなかったということは、そういう事情があったからだと考えたのだ。
 ところが、実際に会ってみると、そうではなかった。天下の大出版社、D社の編集が私とコンタクトを取ってほしいと言ってきた――が真相らしい。
 店長によれば、D社の編集に、いまよく売れている本はなにかと訊ねられ、私の本のことを告げた。すると、編集者もそれを読んでいたらしく、その著者と話ができるようにしてもらえないかと頼まれたというのだった。
 そうして実現したD社の編集者との面会、というより会食――。
 彼は私が指名したレストランに現れ、健啖な食欲を示した。その食べっぷりは食の細い私には舌を巻くほどで、あっという間にフルコースを平らげたのだった。口数の多い男だった。食べ物を口に運びながらしゃべる男だった。
 問わず語りに語ったところによると、もとK大生だったようで、K市にはそれなりな認識を持っており、そのことばの在り方にも興味があるふうだった。面立ちは、テレビドラマに悪役として登場する性格俳優を彷彿させた。
 好きなタイプではなかったが、この頃はさほど嫌とは感じなかった。
 そのときは緊張もし、初めての出逢いということもあって、不慣れな感じが否めなかったということもあったろう。先方にしても、一応は丁寧なことば遣いをしていたし、悪気は感じなかった。今後の必要上、彼のことをKと呼ぶことにしよう。
 食事をし終え、アフターのコーヒーを一口啜ったあと、Kは言った。
「ずばり訊きます――」
「はい、なんでしょう」
「先生の出された本、文庫にしたいと思うのですが、いかがでしょう」
 私は一瞬、返事に詰まった。問いがあまりにも単刀直入過ぎて、咄嗟に答えが出なかったのだ。数秒ほどの間をおいて、私は口を開いた。
「それより、新たに書く――というのはどうでしょう」
 横滑りはしたくなかった。初稿を面白いと言い、さらに磨きをかけて出版にまで漕ぎつけてくれたSD出版のT氏に悪いと思った。あの本をそっくりそのまま文庫本にして他社から出すというのは、SD出版の善意を逆撫でするに等しい行為だ。
 だからこそ、この男はMZの店長を通じて私にアプローチしてきたのだろう。同じ文庫本で出すなら、世話になったSD出版からに決まっている――。
「え、書いていただけるのですか」
 Kは、意外そうな顔をして言った。「そうしていただけると有難いですが……」
「ええ、構いません――」
 私は内心、ほっとして答えた。「ああいう感じのものでいいのなら、頭のなかにまだストックはありますから……」
「そうですか。では、お書きいただくということで――」
 これが、失敗だった。家内に言わせれば、この提案を「そっくり」そのまま受け入れていれば、私の文庫本は天下のD社名で飛ぶように売れていたはずなのだ。
 確かにいまにして思えば、その通りだった。Kはそのとき、印税は二十パーセントにしてもいい――とさえ言ってくれていたのだから……。
 カネだけが目的であれば、それでよかったのかもしれない。
 だが、私はその前に名前、すなわち名声が欲しかった。名前が売れれば、作品も売れる――そう、思っていた。名前さえ、世に出れば、執筆依頼は向こうからやってくる。そう。ちょうど今回の、D社のように……。
 確かに、自惚れていたかもしれない――。
 自らの能力を買いかぶっていたのかも知れない……。
 だが、私は不遜にもそれが書けると思っていた。ただし、同一コンセプト上のものである限りは――というのが前提での判断だった。そして相手も、それで了承してくれていたのだ――。
 そうして私は、SD出版に対する妙な忠義心と、まだ書けるという根拠のない自惚れによって自ら墓穴を掘り、その後の一年間を棒に振ることになる。

 九 ことばの死骸

 ときおり、神の啓示のようにことばが降りてくる瞬間があった。
 私はそのことばを綴った。あとからあとから降りてくる、そのことばを綴った。あれがビギナーズラックだとしたら、今度こそは本物のヒットでなければならない。
 私は、つぎからつぎから溢れてくることばを、つぎつぎと文字に移した。
 快調だった――。じつに快調だった。
 いつもは出てこない進行上のアイデアも、すらすらと出てくるようになった。意匠ことばのエッセンスが完全に自分に乗り移ったようだった。すでに前作において確立されていたのであろう、見ことばとしてのリズムが、完全に私を統治していた。
 私は書いた――。さまざまのアイデアに溢れ、種々の言葉が、私の脳から紡ぎ出された。私にとっての自然なリズム、抑揚、間、空白の美しさ、平仮名と漢字のとの絶妙なバランス、それらが一体となって、私の文体を形成していった。
 意匠ことばの霊ともいうべき、なにかが私に降りてきていた。そのなにかに憑かれたように私は書いた――。起、承、転。起、承、転。承、転、結のリズム。
 起は、たったの一行。もしくはワンセンテンスのみ――。
 読者に新たな言明が始まることを示唆し、読者の注意を喚起するための一行だ。つぎに、それを承けて、なぜその一文を置いたのかの内容の開示と意味の付与。行数は二ないし三行。ときに四行。最後に、結論としての言明の落とし込み――行数は二ないし三行。四行はあまり用いない。長すぎると切れが悪くなるからだ。
 このリズムが繰り返され、一定間隔で改行されることによって、読者に波の動きとその音の響きを耳にしているような錯覚を生む。
 そのリズムはときに強まり、ときに弱まる。強弱、強弱、中強弱……。
 安定したことばのリズムの間隔が、身体にもたらす心地よさと血流の速さ。心臓の拍動。つぎに予想される音とリズムへの期待と、そのとおりになったという安心感がリズミカルに体内を経めぐる。それはセックスの快感にも似ている。
 かねがね詩のような文章を書きたいと思っていた私は、このときとばかり晴れ晴れとした気分で、思う存分、軽快なリズムに乗った文章を書いた。
 何度もいうが、本当に快調だった……。
 そうして書き上げた初稿をKに送った。どうだ――という気分だった。
 二週間後、返ってきた原稿には朱が大量に入っていた。その大半は、誤字や脱字、意味の取り違えは別として、改行に関するものだった。Kにすれば、改行すべきでないところを敢えて改行しているように思えたのだろう。
 こちらとすれば、読みに一定のリズムがあり、その法則に則って改行しているのであって、文と文の繋がりに言外の意味を含ませるためにしている所業なのだ。
 なにも意味なく、改行しているのではない。それらを一緒くたにして繋げれば、広告業界でいうグレーゾーン、すなわちページ全面が文字で埋まったものになり、読むほうとしては読み疲れはするし、息切れもして、もっとも敬遠される元凶となる。
 息をつくところがひとつもない、いわゆる文字ばかりのページを読みこなすには相当な忍耐力が必要になるのだ。生理的にも、それだけの分量を人間の頭が理解できるわけもなく、ただ読み辛いだけのベタ面になってしまっているのだった。
 だいいち、起の部分が、承に当たる部分と繋がっては、起としての意味をなさなくなってしまう。彼には、その辺の呼吸がわかっていなかった――。
 その状態のまま、ずるずると結まで文が続くと、気の短い読者なら、メリハリもなく最初の数行も読まないうちに投げ出してしまうだろう。紙面があまりにも一本調子なのだ。ブレスを入れる余裕がない。途中で、なにか用事があったりすれば、どこまで読んだかわからなくなり、また初めから読み直す羽目になってしまう。
 Kの改行は、まさにそんな感じだった。SD出版のT氏とは雲泥の差だった。
 私の文体の生理が、彼にはまったく理解できていなかった。私の改行はそこで改行しなければならないという生理的必然性があってなされているものだった。
 SD出版のT氏は、それがわかっていた。参考エピソードを示すにしても、ざっと趣旨を示すだけで、書き方は私の自由にさせてくれた。しかも上手に私の書き方が巧いと褒め、そのうえでさらに膨らませる案を提示してくれた。
 その材料をもとに、私は縦横無尽にその話を引き延ばした。彼が提示してくれた資料の三倍くらいは優に膨らませることができた。
 ところが、Kは勝手に私の文章に手を入れ、気に入らないところや自分の意見に合わないところは容赦なく削った。編集者の意見や持論を押し付け、それに沿ったものに書き換えさせる編集者は初めてだった。そしてそのまま、つぎにあった文章を持ってきて繋げた。まるでページに空白部分は必要なし――といわんばかり。
 これでは読みやすいものになるわけがない。たちまち、文章は死に、生気のないものに変貌していった。つぎを読もう――という気が起きない文になってしまった。
 骨格だけはあるにしても、肉や脂肪はなく、潤いのない、ぎすぎすした文章が出来上がった。前著で声に出して読みたい「三崎節」といわれた調子のすべてが取り除かれ、スケルトンだけになった見窄らしい抜け殻がそこには横たわっていた。
 死骸だった。骨だらけとなった文の死骸だった。
 何度か遣り取りしたあと、Kから方針変更の打診があった。ことばの遣り取りに関することだけではなく、歴史も絡ませてほしい――というのだった。しかも、K市が始まって以来の歴史を縦横に絡めて――というのだ。
 それは、私に言わせれば文明史観もしくは史論であり、ことば論ではなかった。
 本当はここで、この話はなかったことにしよう――と啖呵を切ればよかったのかもしれない。だが、持ち前のスケベ心と貧乏性が災いし、私はその要請を受けた。
 いまここで、この仕事を打ち切られたら、また私は従来の生きざまを踏襲しなければならないのだと思うと、気が重くなった。それほどまでD社のネームバリューと宣伝力に魅力を感じていた。――というより、それに頼ろうとしていた。
 しかし、書くもの書くもの、否定されて、新たにアイデアを出し、書き改めるのは至難の業だった。しかも歴史を絡めてのそれは、史料や文献の読み込みを必要とした。読んで理解するだけでも多大な時間を要したし、自分の文章に織り込んで、こなれたかたちにするにも容易ならぬ手間ひまがかかった。
 リズムは、完全に壊れていた――。
 それは私の文体ではなかった。ほとんどが、私の眼には馴染みのないKの文体だった。好きになれなかった。書いていても、楽しくなかった……。
 歴史関連の事項にしても、アカデミックなものしか認めず、素人ならではの私の着想による分析や著書の引用は決して認めなかった。二言めには、それは学術的に定説の域に達しておりません。使わないでおきましょう――というのだった。
 本来、求められていた本は、学術的な裏付けを必要とするほど堅い読みものではなかった。SD出版のT氏が前著を編集したときに言っていたように、この種の本では厳密さを追求するのではなく、その触りを書くだけでいいんです――というほどのものだったのだ。自由気ままな発想と、読んでいて楽しくなる荒唐無稽さ、そしてもっともらしい可笑しみ。それが意匠ことば分析の主眼とするところだった。
 いつの間にか、事態は複雑な方向へ進んでいた。Kのいうように学説として認められたものだけを紹介するのなら、それは歴史学者や歴史評論家などに任せればいいのであって、私のように素人がしゃちこばって解説する必要はない。
 前著がウケたのは素人が縦横無尽に、もっともらしく自説を振り回したからであって、学術的に定評のあるエピソードや事跡を紹介したり、解説したりしたからではない。その辺りを、彼は勘違いしているようだった。
 いったん生じたふたりの間の亀裂は、校閲スタッフの心情にまで及んだ。
 ――というより、Kの心情が乗り移ったのかもしれないが、本職女性の校閲は一字一句疎かにしない厳しさでもって朱が入れられていた。Kによれば、小社は校閲が厳しいのが有名で、最低三校はする――と自慢するほどだったのだから……。
 しかし、それだけに素人に訂正されれば向きになる部分もあったのだろう。
 彼女がわざわざ「大阪」と改めたのを、私が時代的に見て「大坂」とするのが正しいということで、それに変えた辺りから、彼女の私への対し方が変わってきた。
 一例を挙げれば、滝沢馬琴がいた江戸時代は、大阪は明らかに「大坂」であったし、それを現代風の大阪に変えるのは校閲としては不適なのだ。
 それからというもの、ことあるごとに、その矛先はKに向かったのだろう。
 他人の著書で拾った、ちょっとしたひとことが面白いと思って、そのまま引用すると、盗作だと言わんばかりに削られ、文に精彩がなくなる。
 その逸話を書いた著者にしたところで、実際に見たわけでは当然なく、その時代の読みもので眼にしたものを孫引きしているのは明らかなのだが……。
 ――にもかかわらず、Kにあってはそれが許されないというのだった。
 その後、わかったことだが、私の本のなかにあったオリジナルの面白いエピソードや文などは、あちこちでそのままのかたちで流用され、私に一言の断りもなく使われていたくらいなのだ。
 こうした齟齬が幾度も続くと、言うほうもだろうが、書き直されるほうはもっと嫌気がさしてくる。読んで楽しいエピソードなど、そうそうあるものではない。
 物書きとしては、同じ素材をいかに旨そうな料理にして見せるか――。
 そこにこそ、ことばのシェフとしての腕の見せどころがある。
 ことばの死骸をつくるために、書いているのではない。
 歴史的事象は、それが事実だとすれば、事実そのものは変わらない、
 要は、同じ事象であっても、その事象をどう解釈し、どのように捉えて見せるか。そこに読み物としての面白み、書き手としての楽しみ、塩梅のし甲斐があるのだ。

 十 存在しない事実

 ニーチェは言った。
 事実は存在しない。解釈だけが存在する――。
 と、そこまで言いはしないが、著者の解釈がどうあるかが文章を読むときの醍醐味となるのだ。仮にひとが死んだとして、人間がひとりいなくなった事実に変わりはない。誰しも死ぬ運命にあるのに、死なないことのほうに驚きがあろう。
 ひとが死んだという事実は、それだけではなにも意味しない。神が死んだというなら、多少はインパクトもあろうが、一般にひとが死んだという事実は、ひとが死ぬという現象を追認識しているにすぎない。そこに、なぜ死んだのか、どういうふうに死んだのか、なにが原因なのか、理由は――といった諸々のことどもを突き詰めて考えるのが、現象を理解するということなのだ。
 つまりは、解釈だ――。
 解釈があってはじめて、ひとはその内容に魅かれる。事実は、事実として捨て置かれ、解釈のみが真実味をもって迎えられる。
 ヴァールハイト(真実)とタートザッヘ(事実)。ウィトゲンシュタインは、タートザッヘは世界の総体である――と言ったと、大昔に読んだ記憶がある。
 タートという行為の結果が、ものごとの在りようを決定する――とするならば、タートザッヘは、まさに世界の総体でなければならない。なぜなら、その行為の結果が世界という実体を象づくっているのだから――。
 世界はまさに文だ。一行でもゆるがせにすると、文のリズムが狂ってくる。文はその文の生理に根差した世界を象づくっている。文の秩序。文の重み。文の尊さ。それぞれが、それぞれの生理に基づいて独自の世界観を形成している。
 それぞれの在り方こそが個性なのだ。個の世界は万人のものではない。
 他者がそれを認めているからといって、個としての自分にとって、それが真になるとは限らない。個の世界は、統計学では捉えられない世界なのだ。骨だらけとなった文の死骸は、読者にしてみれば、もはや生き返らぬ死体を眺めているようなものだ。
 ひとは、それを死と認めるだろうが、その死からはなにも学ばぬだろう。
 なぜかなら、そこには不要になった、誰もが知っている「既知の知」が、ただおもむろに転がっているに過ぎないのだから……。
 Kの要求は、ますます総花的になって行った――。
 なんでもかんでもありの、広く浅い百科全書的な読み物になっていった。他の著書の例を持ち出して、そのようなかたちでの取材を要求した。
 記者でもなければ、雑誌編集者でもない私が、知っているひとは知っているレベルのことを交通費や飲食費まで使ってK市内をうろつき回るわけにはいかなかった。
 世上、よくある「食べ歩き記」のようなものが望まれている気がした。
 思念的なものは、すべてオフリミットされた。現行の庶民が使っている言語資料ではなく、K市にある事物について書くことが要求された。
 いまから思えば、Kは同じ部署で別の編集者と対抗していたのかもしれない。
 それが証拠に、彼が要求するのと、ほぼ同内容の本が同社から別の著者の名でつぎつぎと発刊されて行ったからだ。その著者は、私とほぼ同年代で、同じK市のN地区育ちの人間だった。おそらくKは、その担当編集者とやり合っていたのだ。
 Kは言っていた――。あの著者は、たぶん太っていて、ちょっとあっちの傾向のある男だ。自分は、そういうタイプは好きではない。だから、なんとしてでも、あれに負けぬものを書いてほしい……。
 仮にその著者をEとしておくと、Eは明らかに私の書いた本に出てくる言い回しや切り口に惹起されて書いたであろうことが、丸わかりのような文章を書いていた。なかには、私の本を参考にして書いたと「あとがき」で、しっかり明言する良心的な本もあったが、このEのそれには私の本の影響が随所に見受けられるのだった。
 どちらかといえば、思念的で、足で歩いて取材するよりは、頭のなかの記憶を経めぐって書くタイプの「作家」(この当時はまだ括弧つき)だった。
 それだけにKとしては、それとの違いを前面に押し出したかったのだろう。
 著者自体が両者ともにあまり知名度がなかったから、その思いはなおさらだったに違いない。内容の差別化が行われなければ、コンセプトがほぼ同じ仕様のK市本だけに、編集者としては共倒れになる可能性を危惧したのかもしれない。
 書けば書くほど、重箱の隅をつつくような、極めて些細なことがらに拘泥した校閲が入った。全体を大きく眺めれば首肯できるはずの、ほんの小さな言い回しも許されなかった。私に言わせれば、まるで障子の桟を人差し指で拭いて、にやっとする姑のような所業だった。確かにそこは、埃をかぶってはいるだろう。
 だが、それくらいの瑕疵は許して通れるほどの、いわば生活音だった。
 人間として生計を立てようと思えば、必ず生じる類いの音だった。音を立てずに生活を行うのは不可能なように、ある意味、その種の言い回しやなんらかの陳腐さは不可避だった。むしろ、そうしたほうが一般受けするはずだった。
 無から有が生じないように、先行文献なくして新たな書籍や論文が生まれないように、それらの引用や孫引き、改変はつきもので、いかに同じ材料を腕によりをかけて美味しいものにするか――そこに書き手としての力量が問われるのだ。
 それは、誰それがすでに書いている話だから、取り上げるのはよしましょう――Kは言う。それも一般によく知られています。その言い回しも、どこそこに出ていた言い回しです。この〇〇については、存在が確かめられておらず、信憑性を欠きます。援用しないようにしましょう。ああ、それもこうですね。これもああです……。
 まず、どのような論または文献であっても、そこには先行するものが必ずあり、それらの論はずっとリンクを辿って、さかのぼって行くことができる。
 色々な文献を系列的に読み漁っていけば、どれとどれがどこから引用し、それをもとに自説を展開しているかが自然にわかってくる。少なくとも、私が経験した例ではすべてが先行事例に解釈を施したものだった。時代を遡求すれば必ず、その先に先行論文が存在する。一例として、哲学史を挙げれば充分だろう。
 そこには連綿として続く知の系譜がある。
 だから、真にゼロから出発した論というものはない――。
 あの原子論のように、ある一定の距離のなかには必ず、それより小さい単位の距離がある。眼に見えるものから眼に見えなくなったものでも、まだその先には顕微鏡で見るよりも、さらに小さなものが存在するのと同じなのだ。
 Kの要求は、校閲女史に対する付け届けにまで及んだ。これだけの厄介をかけるのであれば、編集者としてのわたしも「K市民のひそみ」に倣って、自分のポケットマネーから手土産のひとつも持って帰ればよかった――と書いてきたのだ。
 明らかに恫喝であり、私への当てつけだった――。
 本来なら、校閲の仕事は出版社にとって無料で行って当然の職務であり、出版社として良心の拠りどころであったはずだ。家内ともども、その文を読んですぐ、K市で有名な和菓子店の老舗から取り寄せて、それ相応の品を送った。
 ――のではあったが、そのお礼の返事は、校閲女史のものにしても本人のものにしても、通り一遍の月並みなものだった。されて当然といった文言だった。彼にすれば、今頃こんなことをしても晩いですよ――ということだったのだろう。
 なにをいまさら――といわれても、当初からその手の付け届けが必要とは考えていなかった。これまで付き合った、どの出版社もそんなことは言ってこなかった。
 K市民のひそみに倣う――というのであれば、当のK市民はお世話になったお礼はしても、お世話になるための付け届けはしない。まさに上っ面だけのひと真似で、心がこもらない土産物など誰がほしいだろう。
 謙遜のためのことばの遣い方は知っていても、それを相手に要求するという行為がK市民の真似をしていることにならないのに気づいていない。確かにK市では、うつりといってなにかのお祝いごとをしてもらったことに対してお礼はするが、せいぜい半紙を一束包んでくれるくらいのものなのだ。
 自社を弊社という会社は多いが、小社という会社は少ない。そこには、うちは由緒ある大会社なのだぞ――という矜持がある。決して小さくはないが、それに相応した力量はあると言いたいのだ。つまりは、石油卸業界と同じで、石油製品を買っていただいているのではなくて、エネルギーを供給してやっているという気概だ。
 D社がまさにそうだった。
 少なくとも、Kはそう思っていたろう。
 だからこそ、あのような要求をしたのだ。大出版社の世話になるのだ。それくらいの心遣いをして当然だろう。うちはそんじょ其処らの会社ではないのだぞ――と。
 その辺りの機微に思い到らなかった私は、食事を奢ってもらったことすら、当然と思うほどの厚かましさだった。そのことに感謝しこそすれ、敬意すら見せない私に歯がゆさを覚えた彼は、ついに表立って思いを遂げる挙に出た。
 それが「付け届け要求」事件だった――。その辺りから、彼の態度はますます上から目線なものになって行った。それまでの「小社的謙虚さ」が「大会社的尊大さ」となり、口の利き方もタメグチに近いものになって行った。
 校閲に関しても、ずけずけとしたものの言い方をするようになった。
 その裏には、あの校閲女史の嫌味や皮肉な捉え方が絡んでいるに違いなかった。Kとしては、彼女に文句を言われるたび、私の原稿の面倒を看る気が失せて行ったことだろう。呼び名も「先生」から「三崎さん」になって行った。
 もう、こうなってくると、私は単なる請負ライターに過ぎなくなっていた。謙遜でいうのではなく、ただのKの奴隷みたいなものだった。
 恥ずかしくも悔しいことながら、それでも私は、Kの会社のネームバリューに縋っていた。逆にいえば、そのような事実は存在していなかった。
 少なくとも、Kの力量には――。
 私は「存在しない事実」に向かって、無駄な日々を費やしていたのだった。家内の言うとおりだった……。

 十一 ことばの石飛礫

 おそらく、Kもこれくらいでお開きにしよう――と思ったのだろう。
 あと三ヶ月もすれば、晴れてD社から私の本が出版されるはずの初夏、Kから携帯電話が入った。話を聞けば、あまりにも一方的で言いがかり的な理由で、出版は取りやめになった――というのだった。
 方針転向から、五校も六校も費やしたあとの「中止宣告」だった。
 文庫本での書き下ろしで、ページ数にして六百ページにも及ぶ大部な本だった。現実にネット上では、その出版予告も出ていたうえでの中止宣告だった。
 私になにも言わせないためか、Kは威圧的かつ一方的に、中止の原因が私にあるとして猛然と電話口に向かってまくし立てた。そうすることによって、自らの編集能力不足、校閲スタッフへの統率力不足の免罪符が得られるかのように……。
 話は延々と続いたが、中止の主旨は結局のところ、判然としなかった。
 要は、自分の思い描いていたものが、ライバルの編集者の登場によって、すでに粗方のところを達成されてしまったからだろう――と思った。
 Kの嫌いなEは、その後もD社から「観光スポット・エッセイ」的な本も出版していたし、そのお陰で他の出版社からも注目され、そこからも本を出していた。D社の手を離れたEは徐々に、この分野の売れっ子となっていった……。
 つまりは、Kにとって私は、用済みになったというわけだった。
 元来が能天気で、いい加減な精神の持ち主である私は、彼にとって極めて具合のいいことに出版契約を交わさずに執筆を始めたことだった。それがない以上、途中で止めようが続けようが、会社の預かり知らないこととして捨て置くこともできる。
 裁判に訴えたところで、なんら証拠がないので、私に勝ち目はないことを読んでの一方的中止宣言だった。むしろ、これまでの編集でゲラ刷りや校閲等で、それなりに経費も要かっているが、それはチャラにしてやろう――というのだった。
 逆らうパッションもなかった。言いなりになるしかなかった。所詮は一匹狼。頼る者とていない私が吠えたところで、相手はなんの痛痒も感じない。相手は、それを見越して私に接近してきたのだ。それも、MZ店店長という隠れ蓑を使って――。
 例の斑猫が私の横を素通りしながら、鼻でせせら嗤う声が聴こえた。やっぱり騙されたじゃないか。だから、言ったろ。お調子乗りは、莫迦を見るって――。
 ここまでくれば怒る気もしなかった。いままでに散々、味わってきたパターンだった。確かに死ぬほど悔しく情けなかったが、誰に当たるわけにも行かなかった。
 所詮は己のスケベ心が招いた結果なのだ。お人善しというのではない――家内に訊けば、きっとそういう返事が返ってくるだろう。問うてみるどころか、考えてみるまでもなかった。莫迦――なのだ。救いようのないバカなのだ。
 どうして、そんな貧乏根性を起こすの。彼女は、苛立たし気に語気を強めて言うだろう。ほんーっとに、あなたというひとは、何度言ってもわからないのね。
 あなたのお母さんは「心まで貧乏するな」って言ったひとなんでしょう。そんなの嘘。嘘のオゲ。性根がまるでなってない。ひょっとしてあなた、後戻りする形状記憶チップでも脳に埋め込んでしまったの。一体なんだって、そんなに同じことばかり繰り返すのよ。反省とか学習って機能が、あなたの脳には働かないの……。
 考えてみただけでも、耳を塞ぎたくなるほどの金切り声と罵りのことばが耳を劈き、私の頭のなかは完全に飽和状態になっていた。歯向かっていくパッションも抗弁もないかわり、怒りに匹敵するほどの恐怖心が全身を覆い尽くしていた。
 救いはなかった――。手を差し伸べてくれる幸運の女神もいなかった。手と足がぶるぶる震え、歯の根が合わなかった。このまま逃げ出したかった。どこをどう逃げても逃げ切れないのは分かっていた。それでも、どこかへ姿を隠したかった。
 この一年間は、なんだったのか――。
 一体、なんのための日々だったのか。深い脱力感と虚脱感が一挙に押し寄せてきていた。そして無力感が、いつもにまして虚弱体質の私の小さな脳を苛んでいた。大声で叫び出したいくらいだった。大声で叫び、駆け出したいくらいだった。
 だが、私には駆け出すほどの覇気は残っていなかった。
 心はうちふたがれ、泣き叫んでいた。消えてしまいたいという思いだけが、心の空間を行き来していた。情けない思い、自分自身に対する歯がゆさ、愚かな行いをしてしまった後悔、取り消すことのできない失態。それらが綯い交ぜになって、孤独な私を攻め立てた。自己憐憫の甘えが脳裏を浸し、赦してもらえることを望んだ。
 だが、誰がこんな自分を許してくれるというのだろうか。
 それこそ、この場にきみがいたら――と思った。きみがもしここにいたら、一体どんなことばをかけてくれるだろう。軋む心をどんなふうに慰めてくれるだろう。悲しく惨めな心を、どう受け止めてくれるだろう。
 私は疲れていた。心底、疲れていた……。
 生きるということが、こんなにも難しいことだと知るには歳を取り過ぎていた。
 神戸に行ったときのきみではないが、自転車を漕いで漕いで、漕ぎまくって疲れたとき、ふっと頭のどこかを襲った眩暈が私を押し倒しそうになった。それが私を押し倒したとき、私はどうなるのだろうと思った。
 疲れ果てて、なにも考えられなくなったとき、私はこの世に必要とされていない人間なのだと思った。妻にさえ、必要とされていない人間がどう生き残ることができるだろう。単なる労働の奴隷となるか、それとも労働の支配者となるのか……。
 私を統治していたはずのタガが外れそうになっていた。心に宿り、私を支えていたあの快調さがなくなっていた。完全に人格を剥奪された気がした。人格というより、私という存在そのものが完全否定されたという感覚が身内を支配していた。
 こんな自分にも書いてくれという出版社はある――私は強弁した。
 もとより、そんなものは存在しなかった。あれば、とっくの昔に私は大成していたことだろう。悔し紛れに口をついて出た、惨めな虚勢の一端に過ぎなかった。だが、それを口にしてしまったことで、却って惨めな無能感が私を襲うことになった。
 役立たずの人間。世に必要とされていない人間。無駄飯を食らい、ひとに迷惑をかけながら、のうのうと生きている自分に気づかないでいる人間……。
 そんな人間は、なにをやっても駄目なのだ――。
 社会やひとさまの役に立つどころか、自分の女房にさえ悪態を吐かれる人間に、果報など訪れるわけがない。無為の報い。徒労の報復。結果的に、なにもしなかったことの報酬――。それがこれだったとすれば、私はなにをすればよかったのか。
 暑い夏だった。照り返す陽の光が容赦なく私の眼を射た。老齢の派遣用務員の善さんと校庭の雑草取りをしていた。汗はいやというほど身体から噴き出ていた。陽射し除けのため、タオルを頭に載せて左右に垂らし、その上へキャップを乗せて目深にかぶった。それで頬や耳や首周辺の日焼けを防ぐのだった。
 善さんは、そんな姿をした私の後ろを追いてきて、昔の兵隊みたいだ――と大きな声で感動的に言った。善さんはその当時まだ小学生で、戦争に駆り出されることはなかったが、私のそんな姿には思い入れがあるようだった。
 確かに私の姿は、見るからに兵隊だった――。
 おそらくそれも、敗残兵のそれに近いものだったろう。
 空を見上げた。高い空だった。久しぶりに振り仰ぐ空だった。長い間、空を見ていなかった。考えてみれば、あのKとの出会い以来、一度もまともに空を仰ぎ見たことはなかった。空は、なにも言わず、私を見下ろしていた。
 私は、なにかが聴こえる気がして耳を澄ませたが、なにも聴こえてこなかった。
 空は、ただ静かに私を見下ろしているだけだった。遠くへ眼をやると、K市特有のなだらかな山並みがうっすらとした青みを見せて、流れゆく雲の下、じっとその身を横たえていた。T市の平野が懐かしかった。あの広々とした水田の広がる扇状地を、トーチカのあったあの高台からもう一度、見下ろしてみたい――と思った。
 思えば、私が自転車であの地へ向かってから、三十五年以上もの年月が過ぎ去っているのだ。その間、色々なことがあった――。恋もしたし、別れもあった。騙されもしたし、落胆もした。仕事では何度も失敗し、唇も噛んだ……。
 これから先、どのようなことが待っているのか、私には見当もつかなかった。苦し紛れに、運動暴発的なこともやってみた。結果、なにをやっても成功しなかった。どんなことを学んでも、身に付かなかった。臆病で、引っ込み思案で、ぐうたらで、どうしようもない人間だった。まともに喧嘩もできない、情けない男だった。
 私がこんなことで悩んでいる一方で、家内の病状はますます昂進していた。
 酒に口をつけるたび、愚痴が口をついて出た。内容もより複雑になり、よりくどくなっていた。まるでテープレコーダーを巻き戻して喋っているようだった。オートマティズムの世界が、彼女の内心語に凄みを加えているようだった。
 その内心語が発されるとき、彼女の美しい顔が醜くゆがみ、見てはいられない形相になった。唾が飛び、発音も荒く乱暴になり、ことばも汚くなった。
 そこには、私が見知った文学少女はいなかった。もっとも少女というべき年齢にはほど遠くはあったが――両耳を塞がなければならないほど、甲高い声で暴言を吐き続ける彼女に私はなんら反論することなく、ただ黙って頷いているよりなかった。
 なにかを言えば、必ずそれに対する詰問と質問攻めが待っていた。少しでも彼女の気に障るようなことを口にしようものなら、その何倍ものことばの石飛礫が返ってくるのはわかっていた。
 なにを言っても、すべては藪蛇になるのだ――。
 遠からず訪れるであろう、恐怖の顛末に私は怖気を震った。
 そんなことになってはならない。少なくともそれだけは、避けなければならない。なんとしてでも、そこだけは肝に命じて抑えなければならない。
 私は心の洞窟に籠って、念仏のように、そのことぱを唱え続けた……。

 十二 愛する――ということ

 私には、彼女の口惜しさがわかっていた……。
 彼女は心底、私を嫌っているのではなかった。そんな人間を選んだ自分が悲しいのだった。自分の限界を乗り越えようとしない私の優柔不断さが歯がゆいのだった。
 だが、わかっていても、私にはどうすることもできなかった――。
 いくら売り込んでも相手が私を認めない以上、惨めになるだけだった。
 そんな気弱な思いを言い訳に、なにもしようとしない私を見るのが、九州育ちの彼女には情けなかった。罵られても蔑まれても、踏まれても蹴られても、少しも歯向かって行こうとしない私の臆病さが口惜しかったのだ。
 喧嘩のできない男。女の腐ったような男。女房にだけ強い男。そんな男があなただとすれば、そんな自分は好きになる、愛せると思う――と彼女は真顔で問う。
 返せなかった。なにを言われても返せなかった――。
 すべてが、彼女の言うとおりだった。自惚れはあっても、自信はない……。
 そういう男だった。内弁慶で甘えん坊で、まるで子どもの精神のまま、大人になったような男だった。死ぬのが嫌だから一応、生きてはいるが、かと言って生きるための目標もなにもない男だった。波が来たら来たで、その波に翻弄されるばかりで、それを乗り越えようとしたことは一度もなかった。
 病気の所為にしたくはないが、どこか私には欠陥があった。
 だからといって、免罪符になるとは思っていないが、家内も言うように、私にはなにかが欠落していた。何かが欠落していたから、こういう生きざまになったのだ。
 逃げるわけではないし、開き直るつもりもない。
 正直、自分でもときどき、おかしくなるときがあった。大抵のひとなら、涙を流すようなときでも、涙が出ないのだ。感情はあっても感動しない――というわけでもなかった。泣きたい――という感情はあるし、自分でも感動というものを映画や小説を読んでいて、うるっと感じるときがある。実際に涙を流したこともある。
 しかし、世間でいう悔しさの極限で「泣く」という行為をしたことがないのだ。自分を抑え込んで、あくまで泣くまいと意固地になるのだ。それには、思い当たることがある。高校生のとき、ある生徒が体育館の隅で先生に説教されているとき、親のことを持ち出されて、思わず嗚咽を漏らしたのを見たことがある。
 頑なであったろう彼の気持ちが、それを聞いて容易に瓦解したのだ。
 それを見て私は、少なくともぼくは、あの手には乗らないぞ――と思った。というより絶対、ああはなるまいぞ――と固く心に誓った。
 それ以来、私は親の心情を利用した説教には耳を貸さなくなった。
 親をバカにされても、腹を立てないようにした。いいにつけ、悪いにつけ、相手はそのことの効用を知っていて逆利用するのだから、その手に乗らないようにすればいいのだ――と心の襞に刻印したのだった。
 その結果、私は他人に心を閉ざし、家族や肉親にも冷たい人間になった。他人は信用できないと知っている割に、その他人に期待をかけすぎて裏切られる。自分はお人善しではないと知っていて、まんまとひとの口車に乗ってしまう。
 私という人間は、他人に依存し過ぎるのだ。なぜかなら、自分というものがないからだ――とは家内の見立てだったが、事実そのとおりだと思った。
 私に、私というものはない――。
 見掛け倒しの空っぽの人間なのだ。同情を引こうとして言っているのではない。よくある、慰めの類いが欲しくて言っているのではない。
 真に独りになるのが怖い。この世にひとりでいるのが怖いのだ。
 ひとりでいると、空っぽの自分が寂しくて、なにかでその空洞を埋めたくなる。
 なにかで、その空隙を満たしたくなる。無能な自分。無能であるにも拘わらず、有能であるかのように装う自分。実体のない自分。本当にこの世に存在しているのかさえ、判然としない自分。中毒のように同じことを繰り返している自分……。
 愛されず、愛しもせず、ただ生きているだけの抜け殻。そこに一体、どんな楽しみがあるというのか――。彼女は言った。あなたはマゾよ。そうやって自分を貶めて、そんな自分を憐れんでは、愉悦に浸っているのよ。蔑まれ、罵られ、バカにされて、それで快感を覚えている変態よ。なんで怒らないの。なんで叫ばないの。
 悔しくはないの。そんな自分でいるのが口惜しくないの。
 あなたは一体、なんのために生きているの。なんのために「哲学」とやらを学んだの。その哲学って、あなたにとって一体なんだったの。ただの飾り。それとも、単なる消耗品……。ねぇ、答えてよ――。なんだって、いつもそうやって黙り込んでしまうの。金を稼ぐこともできなければ、反論もできない。その知恵もなければ、ことばも出ない。それじゃ、ただの穀潰しじゃない。それで生きていて楽しいの。
 普通の男なら、そして私が普通なら、ここまで言われれば、なんらかのアクションを起こしていたことだろう。だが、私は普通の男のようにはできなかった。
 それこそ、金縛りにあったように身動きが取れなくなっていた。動こうとしても身体が言うことを利かなかった。彼女は続けた――。どこかのヒモのように、なんらかの取り柄があるんだったら、まだ我慢もできる。でも、あなたには、それがない。それでよく亭主面していられるわね……。
 なんと言われようと、私は繋がっていたかった。世間というより誰かと繋がっていたかった。少なくとも、妻とは離れたくなかった。彼女には私と離れてほしくなかった。自分勝手な願いではあったが、家内からは去ってほしくなかった。亭主面をしたかったというより、彼女には私の妻であってほしかった。
 妻という存在が私には必要だった。食事の支度をしてもらえ、洗濯もしないで済むということからではなかった。彼女といると、確かに美味しいものは食べられたし、労せずに旨いものにありつけた。根っからの料理上手だった彼女の手料理は、最高に美味しかった。彼女には冷たく見えたかもしれないが、私は彼女が恋しかった。どこへ行っても、なにを見ても、彼女に勝るものはなかった。
 叱られても叱られても母親に泣きついて行く子どものように、私は彼女が恋しかったのかもしれない。それにも拘わらず、私は彼女の気に染まないことを何度もしでかしてしまっていた。無職も然り。度重なる転職も然り。下手な詩集を出したことも然り。無駄にアメリカに行ったことも然り。金儲けができないことも然り……。
 すべては、彼女の気に入らないことばかりだった。
 無能であることだけが取り柄のような男に、愛想をつかさない女はいない。
 あなたは、それまでの女に捨てられたのよ――。それが彼女の口癖だった。彼女たちは賢かった。それにひきかえ、こんな男を選んだ自分は莫迦だった。酒を飲んだとき、彼女はいつもそう言って嘆くのだった。
 いつの世も、ひとはひとを愛し、ひとを愛するがゆえに奈落へ墜ちていく。
 十九歳最後の日の夕暮れ、故郷のT市に行って、史絵先生が愛したひとの自死の訳を知って感じた思いだった。誰かを愛し得る、愛したいと思った、その瞬間から、それを喪う奈落に向かって、ひとは墜ちていく……。
 永遠にひとはひとを愛しては、それを失うことを繰り返す――。
 生者との別れ、死者との別れ、いずれの場合であっても、ひとはそこから一歩も後退することはできないのだ。死者に会うには死者になるしかない。死んで生者に会うことはできない。生者に会おうとすれば、生きているしかない。どんなに辛く苦しくとも、生きて歩み続けねばならない。
 それが愛する――ということなのだ。私は、彼女を愛したいと思った。妻を妻として愛したいと思った。彼女のいう本当の意味で彼女を愛せなくとも、私流の、覚束ない愛し方で、自分でしかわからない愛し方で、彼女を愛していきたいと思った。
 彼女は言っていた。わたしはあなたの母親じゃないのよ。なんでわたしが、あなたの面倒を見なきゃならないのよ。籍が入っているから――。それとも、妻という名だから――。妻と名がつけば、なんでもしなければならないの。
 ねぇ、教えてよ。わたしは、あなたのなんなの……。

 十三 不甲斐ない女房

 私はなにもする気がなくなっていた。もう書くことはすまいと思った。
 私に書くことは向いていないのだ。妻が言うように、それまで一年以上も要かって書き溜めたD社向けの、四百字詰め原稿用紙換算で千数百枚にもおよぶそれも、「徒労」という名のゴミに過ぎないのかもしれない――。
 そう思って、一旦は捨てようとして、廃品回収用の古紙と一緒に束ねておいたものの、回収当日がくると、捨てきれなかった。
 あれが、ただの屑だとは思いたくなかった――。
 それを見て、妻、いや家内は、こんな意味のないガラクタは捨てなさい――と言った。そんなものに拘泥っているから、あなたは前に進めないのよ、と……。
 私は、そのことばを無視して、SD出版のT氏のもとにその原稿を送った。
 駄目で元々――という気持ちだった。一年以上も掛けて取り組んだそれが、泡のように消えてしまうことが許せなかった。それを簡単に認めてしまう自分が許せなかった。もうあれだけのパッションは残っていなかった。あれは無駄ではなかった、ただの屑を作るためにあの年月を費やしたのではない――と思いたかった……。
 私は高校の用務員を務めながら、T氏からの返事を待った。
 しかし、一向にその気配はなかった。私はものも言わず、死んだようになって、古くなった机の天板を取り替え、穴の開いた黒板消しを新しいものに替え、教室の床にワックスを掛けて磨き、廊下にモップを掛け、階段を掃き、窓を拭いた。
 善さんと一緒に雑草を引き抜いていた夏の終わりが秋に変わり、校庭には名前も知らぬ、空を覆うほどの落葉樹の葉が毎朝、地面いっぱいに降り積もった。
 それでも、T氏からの連絡はなかった。
 そうして二ヶ月ほどが過ぎた頃、家内が死んだ――。
 変死ということで、検死の医師が書いた死亡診断書によると、急性アルコール中毒死というのだった。学校から帰宅すると、家内がフロアに倒れていた。
 抱き上げると、口には嘔吐した跡があった。
 息をしていないことに気づいて、すぐさま救急車を呼んだ。救急車がくるまで、彼女の名を呼んだが、一度も答えてくれなかった。
 その身体を揺すっていて初めて気づいたが、彼女は痩せ細っていた。もともと細くはあったが、力自慢の彼女にその腕の膂力はなく、あまりにも細かった。
 だが、硬直はまだ始まっていなかった。心臓付近を両手で押し続けた。
 助かるかもしれない。助かってほしい――。必死で、その名を呼んだ。
 なんでこんなことになるんだ。私は恨んだ。自分を恨んだ。まだなんにもしてやれていないというのに、どうしてこんなことになるんだ……。
 後悔というより、口惜しさが、わが身の不甲斐なさを呪った。情けない――。あまりにも、自分が情けなかった。なんで――ということばだけが耳に谺した。
 最近――というより、D社からの出版取りやめ事件があってからは、とくに酒量の多さが際立っていた。それにもまして、酒のピッチが速すぎた。一気に酔って寝てしまおうとする所為か、短時間のうちにウィスキーのボトル半分(この頃は、ワインからアルコール度の強いウィスキーに代わっていた)くらいは瞬く間に空けてしまうようになっていた。何度も控えさせようとしたが、聞く耳を持たなかった。
 注意すればするほど激高し、逆効果だった――。
 苦言を呈するたび、それに比例してピッチが速くなり、酒量も増えて行った。命を終える結果になろうことは、本人も承知しているように見えた。
 おそらくそのような予感が働いたのだろう。素面のときはまだ、まともに話すことができた。そんなとき、彼女は、わたしが死んでもお葬式はしなくていいし、誰も呼ばなくていいわ――と口癖のように言っていた。そして、角膜でも腎臓でもなんでもいい、肝臓はこんな調子だから駄目かもしれないけど、わたしの身体のどこかが役立つのなら、そのひとに使ってもらっていいよ――と。
 私もそのように思っていたから、同感だ、ぼくが先に逝ったら、ぼくもそうしてほしい――と毎回のように真摯に応じていた。それが現実になった。
 私は、移植コーディネーターに彼女の意思表示カードを示し、その旨を告げた。彼女は五時間後、綺麗に化粧を施されて病院の安置所に着いた。葬儀はしないし、誰も呼ばないという約束どおり、通夜や告別式は行わず、直葬にした。
 ただ、遺骨については、彼女の故郷である佐賀の実家のほうにある墓か、納骨堂に収めようと思った。これも約束だったが、私たちに墓は要らなかった。仮に作ったとして縁故とてない夫婦の墓など、赤の他人が面倒みてくれるはずもなかった。
 遺骨の一部は灰にして、彼女の好きだったS県の湖の畔に撒こうと思った。
 だが、その前に、中出君に電話して彼女が亡くなったことを告げた――。
 彼は、ミサキ・プランニングを畳んでしまったあとも時折、遊びに来てくれていた友達だったし、私が『D氏の肖像』で賞を受けたときにも顔を出し、彼女の相手をしてくれたから一応は、知らせておくべきだろう――と思ったのだった。
 彼はすぐに飛んできてくれ、驚きと悔やみのことばを述べた。
 いい奥さんだったね……。
 ああ。いい女房だった――。
 私は言った。確かに、いい女房だった。彼女自身も言っていたように、私のような人間には勿体ない妻だった……。
 これから、きみはどうして行くんだろう。
 中出君が訊ねた。まるで、独り言のようだった。質問には聴こえなかった。
 わからない……。
 私は答えた。たぶん、生きて行くとは思う……。
 そうだな。生きて行く――。そうだよな。
 彼は、ゆっくりと呟くように言った。そうしなくちゃ、しようがないもんな。
 その言い方は、まるできみのようだった。私は彼に、きみが憑り移ったのかと思った。変に慰めたりしない、きみのような素っ気なさだった。物静かさこそは似通っていたが、ここまで似ているとは思っていなかった。もっとも、きみを知らない中出君にあっては与り知らぬ、私だけの感興ではあったが……。
 私は、誰もいない部屋で、家内が大事にしていた手文庫を調べた。
 この手文庫は、ミサキ・プランニングを始めるにあたって新調したものだった。一種、独立記念日的な意味を込めた我が家のシンボルでもあった。しかし、いつの間にか使わなくなり、彼女の大切な書類入れとなっていた。
 家内は、ここに色んなものを保管していた。
 なにかあったら、ここを見るといいわ――彼女は言っていた。そこには種々の書類や契約書のようなものがあったが、私の知りたいものには行き当たらなかった。ひとつずつ剥がすように見ていくと、彼女の故郷の住所を記した葉書が出てきた。
 彼女の母親からのものだった。内容は何気ないものだったが、彼女にとっては大切なものだったのだろう。前の旦那さんを気遣った文章だった。
 考えてみれば、彼女の本籍地など、役所に行って自分たちの婚姻届けか戸籍謄本を閲覧させてもらえば判明したのだろうが、このときは、そんなところにまで知恵が回らなかった。葉書には、当然ながら、電話番号などは記していなかった。連絡をするにも、電話で聞くにはあまりにショッキングに過ぎるだろう。
 遺骨を引き取ってもらえるかどうか、実際にその実家がそのまま、その地に継続してあるかどうかはともかくとして、行ってみるしかなかった。
 私は学校に忌引きの休暇届を出し、佐賀に向かった。家内が亡くなったことはすでに連絡済みだったので、休みはスムーズに取れた。四泊五日の予定だった。地理が判らないので、事前にインターネットで調べてみた。海よりは山に近いところで、あまり大きな都市ではなかった。陸路で行くか、空路にするかで迷った。
 慌ただしいのは、性に合わなかった。多少、時間は要かっても、鉄路で行くことにした。ゆっくりとひとりになって、これまでのことを考えてみたかった。
 これまで書き物に専念していて、妻のことを真剣に考えたことはなかった。
 いや、ある意味、そのことに託けて彼女のことを考えないようにしていた――というのが本当のところかもしれない。そういう意味では、私はつねに彼女の機嫌を損ねないように気を付けて、日々を過ごしていた。
 そのことが、私にとってひとつの重荷になっていたことは事実だ。なにかを言えば反論される。言わなくても詰問される。それが苦痛だった。機嫌のいいときは、すこぶる過ごしやすい女性だった。いささかも嫌味なところはなかった。
 だが、ひとたび、機嫌を損ねると、取り返しがつかないほど悪態をつき、暴言を吐き、あたかも壊れたテープレコーダーのように、何度も何度も同じ文言を繰り返し、何時間も私を責め続けるのだった。
 それは深夜におよぶこともあったし、朝方になることもあった。
 そうしてひととおり、本人の言いたいことが終わるか、身体のほうが眠りを要求すると、泥のように眠り込むのだった。
 あの日々は一体、なんだったのだろう――わたしは思った。なんのために生きている日々だったのだろう。おそらく彼女にすれば、私より遥かに苦しい日々だったに違いない。だからこそ、あれほど酒を呷り、見境もなく私を責めたのだ。
 いや、それは、私ではなかったかもしれない……。
 吐かれることばこそ、そのように見えたが、実はそうではなかった。取り返しがつかないのは彼女の人生だった。彼女は自分自身の不甲斐なさを責めていた。亭主を立派なやり手の人間に育てることもできない、不甲斐ない女房として自分自身を責めていたのだ。私に悪態をつくことによって自分自身をも断罪していたのだ。
 口惜しかったろう――。
 自分の人生がこんな男に振り回され、その思いとは異なって行くさまを見ながら幾度も別れよう――と思ったことだろう。しかし、結局は別れなかった。結果的に彼女は私を最後の男として死んだが、それは結果でしかなかった。
 私にとって、約束は果たせたが、それは彼女の本意ではなかったかもしれない。仮に本意であったとしても、こういう形のものではなかったはずだ。
 私は田園風景が過ぎ去っていく車窓から眼を離し、目蓋を閉じた。

 十四 不思議な縁

 朝九時にK市駅を出発し、博多と福岡空港で乗り換え、佐賀駅に着いたときは午後三時を過ぎていた。朝はいつものようにトーストとコーヒーだけだったので、さすがに空腹を感じ、駅の南口から出て五~六分ほど歩いたところで見つけた寿司店に入り、日替わりメニュの刺身定食を注文した。
 大体において駅前にある店というのは、高いばかりであまり旨くないというのが通例だが、ここのはまあ、食べられたほうだった。そこが、九州という土地柄だったからかもしれない。あるいは、私があまりにも空腹だったからか……。
 店のひとに、この近くにレンタカー屋はないかと訊くと、この近辺を歩けばいくらでも見つかりますよ――と教えてくれた。店を出て周囲をうろつくと、確かに店員さんの言ったとおり、近辺にはいくらでもレンタカー・ショップがあった。あまり無名なのも問題ありかと思い、全国的に名の知れたショップにした。
 店が出してくれた車は、白のカローラだった。私は持ってきた黒い布製のボストンバッグを助手席に置き、さあ、出発するぞ――というように、そのバッグの上を左手でポンポンと叩いた。そこには、彼女の遺骨が入っていた。
 仰々しいことは、あまり好きではなかった彼女の骨壺は、喉仏と少しの骨が入るだけの小さな七宝焼きのものにし、もうひとつは片手でも持つことのできる携帯用のものにした。色は両方とも、彼女の好きだった空を想わせる淡い水色にした。
 ふたつとも、そのボストンバッグに入れた。このバッグはスニーカーも入れられるくらい大きかった。着替え用の下着もたっぷり入れられた。その昔、M県に単身赴任していたときに使っていたバッグだった。
 そういえば、本当にあのときが彼女との最後の旅行になったな――と思った。あのときは、まさかこんなことになるとは思っていなかった。それも、遺骨と一緒にドライブするなどとは夢にも思っていなかった。
 場所こそは違え、私は彼女と一緒にドライブしている気になった。あのとき、彼女は輝いていた。互いに別々のところに暮らしていたとはいえ、ふたりが一緒にいるという感覚はなにものにも代えがたかった。ある意味、あのときがふたりにとって、最も充実した時期ともいえたろう。
 それからの人生は、折れ曲がり、打ちひしがれ、縦横に波打ち、自分でもなにをしているかわからない時代だった。彼女流の嫌味な言い方を真似て言えば、自堕落な信念のなさに翻弄され尽くした人生――ともいえた。
 空はまだ青いまま、天空から私を見下ろしていた。道案内をしてくれた若くて親切な男性店員によれば、一般道を行っても有料道に乗っても所要時間に大差はなく、巧く行けば明るいうちに目的地に辿り着くでしょう――ということだった。私は彼に言われたとおり、207号線を通って牛津で左折し、34号線に入った。
 そこまでは確かに街中だけあって、緊張気味だったが、そこからは眼を瞑っていても目的地に辿り着けるということだったので、心を落ち着かせて運転した。
 道は、どこにでもある田園風景のうち続く平坦な国道で、それなりなスピードで車を走らせているのに、あまりにも広々としていて長閑な感じがした。その所為か、他府県にきているという疎外感が沸き起こり、手を伸ばしてラジオを点けた。
 突如、そこからは美しい女性の歌声が聞こえてきた。
 これまでの人生で一度も聴いたことのない、実に美しい声だった。
 L音の巻き舌と透き通った高音のそれは、日本語ではもちろんなく、イタリア語でもなければ、ドイツ語でもなかった。私の貧弱な語学力では、意味はもとより何語かも分からなかったが、とても哀愁の籠った、いい声だった。
 まるで空高く雲雀が舞い上がり、その澄み切った高みから、私たちにこんなふうに翔んでみなさいよ、とっても気持ちがいいよ、明日も見えるのよ――と誘っているような歌声だった。表現こそは似つかわしくないかもしれないが、まさにそんなふうに誇り高く美しく、自由のなんたるかを教え諭してくれているような気がしたのだ。
 もちろん、大人の女性が歌っているのだから、そんな思索的な意味ではなく、愛の歌であろうことは、その悲し気なギター音と歌いぶりからわかった。
 私は、四分間ほどの、その歌に聞き惚れた。どこかブレンダ・リーの歌声を彷彿させるものがあった。その歌いぶりに潜む情熱は、まさにブレンダー・リーの歌う「女の歌」そのものだった。別れの悲しみを知っている女の歌だった。
 曲がフェードアウトして静かに終わり、アナウンサーであろう男性の、いかにも手慣れた渋くて低い声が言った。
「アマリア・ロドリゲス、ガイヴォータ『かもめ』でした――」
 男の声が一転、明るくなって続けた。「さて、FMミュージック・サテライト。本日は、アマリア・ロドリゲスと親交のあった日本のファド歌手、神川月世さんにきていただき、色々とお話を伺っています。確かに神川さん、これはいい曲ですね。歌詞の意味はわかりませんが、男の私でもじーんと来てしまいます」
「ええ、そうですね。この曲は、さきほどの『暗いはしけ』と並んで、彼女の代表作のひとつです。わたしも大好きでよく歌わせていただいていますが、これは若い日の恋を懐かしむ曲で、人生にさよならするときくらい、恋人が自分のことを思い直してくれればいいのに――とカモメに託した歌になっているんですね」
 そこまで聴いて、その独特なイントネーションと、やや鼻にかかった声に聴き覚えがあった。北海道訛り。忘れもしない。それは、リュンそのひとの声だった。
 カミカワ・ツキヨ――という音を聞いて、もしやとは思ったが、まさか彼女とは思わなかった。だが、よく聴いてみると、それはリュン以外の誰の声でもなかった。
 ふたりの遣り取りを聞いていると、彼女はどうやら、シャンソン歌手から「ファド」というポルトガルの歌の歌手になったようだった。このときまで、ファドのファの字も知らなかった私だったが、その昔、彼女と電話で話していたとき、彼女がネイティブのポルトガル人女性からポルトガル語を習っていると聞いた覚えがあった。
 つまり、そのときから彼女は、ファディスタになることを目指していたのだ――私は、そのことを知って悲しくなると同時に嬉しさを覚えた。
 ひとつは一生懸命、説明してくれていたにも拘わらず、真剣に聞いていなかったであろう自分がいたからであり、いまひとつは、そのときの彼女の信念が今日まで続けられていたことに深い感動を禁じえなかったからだ。
 彼女はやはり、やり遂げたのだ――私は思った。
 サルトルの死をきっかけに、私との逢瀬を絶った彼女だったが、その後暫くの間はなにかの拍子にぼそっと電話をくれることがあった。その辺の癖は昔と変わらなかった。おそらくそのときに織り込まれていた、伝達事項のひとつだったはずだ。
 しかし、その後の私には、いまの家内のことや仕事の色んなことがあり過ぎて、そうした事柄を忘却、というよりは故意に「滅却」した。
 そしてそのまま、今日という節目の日を迎えたのだろう……。
 あのとき、必ずわたしの姿が見えるようにする、だから、あなたもそうして――という意味のことを彼女は言った。彼女はその約束を立派に、しかも見事に果し遂せたのだ。こうして天下のNHKの音楽番組にまで登場できる人物になっている……。
 それに引き換え、私はいったい何になっているというのだろう。
 何者にも、なっていなかった。せいぜいの無名の雑文書きくらいが関の山だった。
 自らの夢への熱心さにおいて、そして努力を重ね、情熱を燃やすことにおいて、彼女には敵わなかった。彼女の信念の強さには到底、敵わなかった。負け惜しみで言うのではない。心底、嬉しかった。自分のことのように嬉しかった。
 だが、その裏では彼女が遠いひとに思えた。その成功を喜ぶと同時に寂しさも覚えた。彼女はもう、私のリュンではないのだ――と。リュンはもう、私の世界の住人であってはならないのだ――と。
 私はラジオのスィッチを切り、ハンドルをしっかりと握った。
 家内の生まれ故郷・嬉野には、あと少しの距離だった。嬉野温泉へようこそ――という看板が、左手に見えてきた。これを真っ直ぐに進まず、右の34号線に沿って暫く行くと、交番が見えてくるはずだった。レンタカーショップの店員さんは、そこで訊ねれば教えてくれるだろうと言っていた。
 周囲は、いかにも殺風景で平凡な田舎に見えた。ここが九州であるとは思えなかった。K市でも郊外へ出れば、このような光景はいくらも見られた。つまりは、彼女の生まれ故郷だからと言って、特別に変わったところはないし、そういうことも起こりはしないのだ――と当たり前のことを不思議に思った。
 遥々ここまでやってきたことと、なにか妻の面影でも宿すものがあってほしいという願いがそうさせたのかもしれない。ただ、事件らしいことといえば、偶然にもこんなときにリュンのその後が知れたということが挙げられるだろう。
 シビックを手放して以来、随分の年月が経ってしまったいま、ラジオを聴くなどということはまったくの無縁のはずだった。にも拘わらず、そうしたのはなにかの縁が働いたからかもしれない。不思議な縁といえば、不思議な縁だった。
 これは、なにかの起こる前触れなのかもしれない――私は思った。

 十五 質素な夕食

 畑瀬の家の所在は、その交番所(ただし、壁に掛けられた大きな表札には『駐在所』とあった――)ではわからなかった。その交番の巡査によると、そのまま34号線をさらに西に行く必要があった。そして二番目にある三叉路を右に行くと、そこにも駐在所があるから、そこで訊ねるといい――ということだった。さすがにここまでくると、周囲の様子はK市のそれとは異なってきていた。道はなだらかな坂道となり、その道幅もそれまでより細いものになっていた。
 二番目の駐在所で壁に貼られた地図で教えてもらったとおり、中央車線もなく農道のように細くなった緩い坂道を道なりに上がって行くと、その先に石垣の上に築かれた大きな屋敷が見えてきた。そこが畑瀬の家のようだった。
 車を降りて近づいてみると、植栽の両端にある門柱のひとつには大理石製の表札がかかっており、大きく「畑瀬」と彫られていた。
 畑瀬は、家内の本籍における戸籍上の苗字だ。彼女の手文庫にあった葉書の宛先名は「菊岡しおり」となっていたが、差出人は「畑瀬つね」となっていた。住所からして、それが彼女の本籍地、つまり「実家」からのものであることは明らかだった。
 眼の前には稲刈りを終えた水田が山に向かって続いており、その向こうを川が流れているらしかった。ここへくる途中の道沿いには時々、そこへ注ぐ支流があり、その所々にススキの穂が風になびいていた。対岸に目を凝らすと、34号線のガードラインらしき白い線が、山裾をすっぱりと水平に斬ったように走っていた。
 私は、門柱の奥にあった屋根付きのガレージにカローラを乗り入れ、暫く息を整え気分を落ち着かせたあと、ボストンバッグを手に戸口に向かった。
 緊張した――。見たこともなければ、ことばも交わしたこともない中年の男がやってきて、なにを言うのかと思えば、なんと自分たちの娘が死んだ――というのだ。そんなことがわかれば、ご両親はどうなるだろうと思った。
 親にしてみれば、彼女がもし音信不通にしていた場合、私と一緒になっていたことすら知らない可能性だってあるのだ。だが、案ずるより生むが易し。ここまできた以上、なにを考えても始まらない。当たって砕けるしかないのだ――私は、腹を決めて呼び鈴を押した。
 ややあって、奥から婦人の声の応えがあった。そして引き戸を開けて顔を出した女性が、私の顔を見上げて訊ねた。
「どちらさまやろうか――」
「あのう、K市からやってきた三崎と申します。突然、連絡もなしにきて大変申し訳ないのですが、娘さんのことで、ちょっとお話がありまして……」
「娘の――。というと、栞んこととな」
「ええ、その栞さんのことを伝えたくてやってきました」
「栞がどうかしたと――。なにかあったんと」
「ええ、それが、ちょっと言いにくいことでして……」
「まあ、こげんとこではなんやけん、なかへ入ってくれん」
 女性はそう言って、私を応接間に案内し、ソファを勧めて続けた。「それんしてんK市とはまた遠かところから、ようおいでんしゃった。いま、お茶ば淹れますけん、まずはゆっくりしてくれんね。話は、あとでゆっくり聞かせてもらうけん」
「ああ、はい、ありがとうございます」
 どうやら、この女性が彼女の母親であることは間違いない――私は思った。
 年恰好はもとより、顔立ちがシィーちゃん時代のそれに似ていたし、なにより笑顔の作り方が彼女そっくりだった。
 というのも、シィーちゃん時代の彼女は晩年よりずいぶん太っていたし、いまのお母さんのふっくらとしたそれを彷彿とさせたからだった。
「で、話というんは、どげなことやろうか」
 彼女のお母さんは、持ってきた茶を私の前に置きながら訊ねた。「まさか、あん子が悪かことばしたというんやなかやろうね」
「いいえ、そんなことはありません」
 言いながら、どう切り出したものか――と思案しながら答えた。「実は、わたし、栞さんと結婚していた者でして……」
「ほう、そりゃまた……」
 彼女のお母さんは、ことばの続きが出ないのか、暫く口ごもったあと、静かに口を開いた。「菊岡さんと縒りば戻して別れて、K市で喫茶店ばやっとう――というんまでは聞いとったけど……。そんあとんひとが、あんたということなんやなあ」
「はい」
「それで、栞は元気にしとるんやろうか」
「それが、誠に言いにくいことなんですが……」
 私は大きく息を吸ったあと、震えるような声で続けた。なぜかここにきて、悲しみが一気に込みあげてきているのがわかった。「彼女は――、いいえ、娘さんは、この四日前に亡くなりました……」
「え、亡うなった――」
 彼女のお母さんは一瞬、絶句したあと、絞り出すような声で続けた。「おらんごとなったいうんやのうて、死んだ、いうことと――」
「はい。わたしが仕事から帰ってきたら、彼女が床に倒れていて……」
 私は、あのときのシーンを思い浮かべながら続けた。しかし、あのときの様子まで母親に知らせたくはなかった。そんなことをすれば、ますますこの老いた母を悲しませるだけだ。「医師の診断によると、急性アルコール中毒ということでした」
「そうと。やっぱり、酒やったと……」
 母は、がくんと首を落として言った。「あん子はしほりば生んで暫くしてから、酒ば飲むたび、おかしゅうなってしもうて、ここへ電話ば掛けてきてわたしたちば困らせるごとなりました。菊岡さんに放ったらかしにされとーとか、寂しかとか、相手ばしてくれんとか、昼でん夜でん同じことば何時間も何時間も愚痴ばこぼすごと繰り返して、わたしたちば困らせました。そしてついにうちが癇癪ば起して、もう二度と電話ばかけて来るな、これからは、わたしはわいん親でも子でもなか。わいは菊岡家ん嫁になったんやぞ。そんことばしっかり考えんね――言うたです。それからは二度と酒ば飲んで電話してくることはのうなったとですが……」
「そうだったんですか……」
 私は、家内が酒を飲んだときの剣幕と悪態を憶い出しながら言った。「若かっただけに、お寂しかったんでしょうね。たぶん愚痴をこぼす相手がいなくて、お母さんを当てにしたんでしょう。そうすることで、自分を慰めていたんですね、きっと」
「いや、それだけやのうて、あん子はその後も、色々とあったばい。話すんもお恥ずかしかことばってん……」
「いや、お母さん。その後の件はご本人から色々と聞いて知っておりますので、それ以上のことはおっしゃらずに……」
「ほんとにお恥ずかしかことで、申し訳なか――」
「で、こんなことを言ってはなんですが、栞さんのご遺骨をここにお持ちしているのですが、どうさせていただいたらいいかな――と思いまして……」
 私は、ボストンバッグから遺骨の包みをゆっくりと取り出しながら言った。「というのも、ふたりの間の約束でわたしたちの墓は作らず、葬式もしないという話になっておりまして。それで、まずはご遺族のお気持ちを伺ってからということで……」
 それを見ていたお母さんの顔がさっと曇り、その顔に当てた両手が眼を塞いだ。そして嗚咽を堪えているらしき声を漏らしたあと、彼女は言った。
「あんた様には、なにからなにまでお世話になり、本当に有難う思う。わざわざこげん遠かところまでおいでいただき、あん子も喜んどーことやろう。こんお骨は、畑瀬ん菩提寺に納骨させてもらおう思います」
「ありがとうございます。これで、私もここまで来た甲斐がありました」
「あん子ん父も、同じ菩提寺ん墓に入っとーけん」
 お母さんは続けた。「そこへ一緒に入れてやろうと思います」
「そのお寺は近くにあるんですか」
「ああ。畑瀬ん墓は先祖代々から続いとーお墓で、こん嬉野ん茶農家のほとんどが、そこんお世話になっとーとです。なんやったら、明日、そちらに一緒に行かんですか。栞には今夜ひと晩ここにおってもろうて、あんたも泊ってやってくれんね。そうしてくれれば嬉しかんばってんね。栞も久しぶりに帰って来て喜んどーと思うばい」
 潤みかけた彼女の眼が真剣だった。私は、その表情に打たれて言った。
「わかりました。おことばに甘えて、そうさせてもらいます」
 その日の夜、彼女の母が「いつもどおり」と謙遜する質素な夕食を一緒に済ませ、就寝するまでの間、色々と彼女の話をした。そこには、負けず嫌いでわんぱく盛りのシィーちゃんの幼いときから大きくなるまでの姿があり、高校のとき、ミホさんとダブルデートをしたり、K市のペンパルのところに行ったりした話もあった。
 もしここに彼女が生きていれば、母親のするその話を聞きつつ、照れ臭そうな笑みを浮かべているであろう彼女の姿が、私には見える気がした。母親の前では、子どもはいつだって、親の子育て話には頭を掻かざるを得ない存在なのだ。
 翌朝、私は彼女の遺骨とその母を乗せて菩提寺へ向かった。

 十六 心のなかを清算する旅

 菩提寺のご住職は、見るからに好々爺で、気の置けないひとだった。
 代々、畑瀬家が檀家だったこともある所為か、その日の朝に突然、伺ったにも拘わらず快く応対してくれ、埋葬許可証の確認すら求められなかった。
 無論、法律的には必要だったのだろう。結果的には、提出したのだったが、それより驚いたことには、納骨の際、ご住職自らが畑瀬家先祖代々の墓石をずらし、持参した骨壺から彼女の遺骨をその穴にこぼし入れ、ポンポンと骨壺のお尻を叩いて中身がなくなったのを確かめると、墓石を元通りにし、お経をあげ始めたのだった。
 読経が済み、空になった骨壺を手にしながら本堂へ戻る道々、私は訊ねた。
「こういうことはあまり経験がないので、よくわからないのですが、納骨というのは骨壺ごとお墓に納めるということなのではないのでしょうか」
「ああ、そりゃ地域にもよりよるねぇ」
「そうなんですか」
「はいー。関東などでは骨壺ごと納めるごたあるばってん、こちらではそげなことはせんとです。――というんも、骨壺いうんは本来、お墓までお骨ば持って行くためん容れ物やけんね。お骨がお墓に収まれば、それで、そのものん役目ば終えると考えるばい。まあ、土に還る――とでもいうんやろうかね。お骨も骨壺に入れたままやと、カビも生えよるし、だんだんねまってん行くけんね。そんよか、あんままご先祖さんのお骨さんと一緒に土に還すのが一番たい」
「なるほど。土に戻るんですね」
「ああ、そんとおりたい。人間、死んだら土塊に戻らんばならんばい。死んでまでねまってしもうたら、どうしようもなかやろうが。なして往生しきると」
「そうですね。死んでまで腐ってたら、死んだ甲斐がありませんものね」
「そうばい。人間、死んだら綺麗さっぱり、こん世から消えてのうならんばいかん。未練ば残したらつまらんばい――」
 私は、そのことばを聞いて、なるほど――と思った。
 確かに死ぬ限りは、この世に未練を残していてはならない。綺麗さっぱり、そしてすっぱりと、この世とおさらばしなければならない。そうでなければ、死んだ甲斐がないではないか。
 その点、シィーちゃんは、往生しきれたのだろうか。不慮の事故、それとも覚悟の自殺――。思いのたけを言い尽くして死に遂せたのだろうか。それ以上、私に言い残すことはなかったのだろうか。
 私は、彼女のお母さんを自宅に送り届け、丁寧に礼を言ったあと、カローラを駆って34号線に戻り、そのまま県境に向かった。
 いかにもドライブウェーといった国道を快適に走り抜け、やや急坂となった峠を越えると、そこからはもう平坦な道が続き、長崎の海が大きく広がるパノラマの世界に行き着くはずだった。
 暫くするうち、右前方が開けてきて海らしい様子が見えてきたので、その交差点で右折し、さらに行くと、海に向かいそうな細い道を左折した。空はまだ明るく、海の香りが車内に漂ってきた。なにかに出会えそうな予感がしてくる。
 右側に河口のようなものがあり、モーター付きのボートが何隻も繋がれていた。この先に海があるのは間違いなかった。少し行くと、石の鳥居がある。私はその手前で車を停め、徒歩で行くことにした。石畳のその先に小さな祠があった。
 入口に案内板のようなものがあり、そこには「鎖國時代、この地は海陸交通の要路として栄えた宿場町で、江戸~長崎間を往来するひとが、この港で一旦、休憩を取ったあと、時津に渡り長崎に行った」旨が記されていた。
 そこから先は、防波堤をかねた細長い埠頭のようになっており、その先端まで行ってみた。そこからは対岸が見え、その向こうにうっすらと山の姿があった。期待したような大パノラマの世界ではなかったが、それなりに波も静かで、充分に海を堪能できた。か弱い風に吹かれてそこに立っていると、S県の湖が想い浮かんできた。
 十分ほども海を眺めたあと、車のある所まで戻った。ユーターンして元の道に戻るのも面白くないと思い、そのまま左折して未舗装に近い道を海に沿って走った。誰に束縛されもしない、典型的なひとり旅だった。もう誰にも催促されない旅だった。
 有給休暇は、まだ三日もあるのだ――。
 私はこの機会を利用して、これまでの人生をすっかり洗い流す積りでいた。もう私に関わりのある者はいない。なにも無理して生きる必要もないのだ。あのお坊さんも言っていたように、人類という名のDNAを受け継ぐために生まれてきた人間は、まさにお墓までの繋ぎで生きてきた骨壺のようなものなのだ。
 お墓とバトンタッチができれば、あとは土に還るだけ――。
 そこでは、人間はなにもすることはない。足掻いてみたところで、腐った身が悪臭を放つだけだ。未練ば残したらつまらんばい――。あのお坊さんの声が蘇った。
 前方に大きな枝を伸ばした松の木々が見え、その先で行き止まりになっていた。
 落ちて茶色くなった松葉が、浜のあちこちを一面に覆っていた。ここがS県のあそこなら、あの支配人の家に続く通り道でもあった。だが、そのことは考えまい。
 あのことは自らの欲が、そして邪なコンプレックスが招いたスケベ心のなせる業なのだ。誰の所為でもない。自分の所為なのだ――。
 私は、そこでもユーターンはせずに左折し、広い河口に沿ってゆっくりとカローラを走らせた。急ぐ旅ではない。綺麗さっぱり心のなかを清算する旅なのだ。前方に眼をやると、左手になにやら石碑らしき建造物が見えてきた。車を降りて近づいてみると、大きな岩の表面に「日本二十六聖人乗船場跡地」とあった。
 天正遣欧使節のひとりでパードレだった中浦ジュリアンの最後のことばが憶い出された。ついに小倉で捕らえられ、他のパードレたちとともに逆さ吊りの刑に処せられるとき、彼は叫んだ。自分は、この眼でローマを見た中浦ジュリアンである――と。
 私はまた34号線に戻り、鉄路とついたり離れたりしながら南下した。
 東彼杵からは、ほぼ一本道で長崎に辿り着けるはずだった。道は途中から海岸を離れ、何度も折れ曲がり、鉄路とは全く出遭わなくなってしまった。そしていくつかの街を過ぎ、緩い坂を上がって行くと、長いトンネルがあり、ダムの上を行くとまたトンネルがあった。後は下り坂で、道は比較的空いていた。
 前方に山の中腹までありそうな街並みが見えてきた。道幅は広くなり、辺りはみるみる都会の風景になって来ていた。ますます付近は大都会の様相になっていた。そうこうするうち、県庁前の三叉路に行き着いたようだった。私は、ハンドルを右に切り、その先で路面電車に出会った。大学を出て暫くしてから廃線になったが、それまでの間、K市にもそれがあった。ナオとも一緒に乗ったことがあった。とても懐かしい思いがした。出会った路面電車路に沿って左折し、大きな橋を渡った。
 橋を渡って右に行くと、運河のようなものが見え、海の香りに交じってなにか美味しそうな料理の匂いがした。それにつられて道を左に辿ると、そこはレストラン街のようだった。あちこちに海が見えるテラスがあった。
 時刻を見ると、時計の針は二時半を回っていた――。
 昨日と同じようなランチタイムだった。私は近くにあったカーポートにカローラを預け、私は海に一番近い場所にあるレストランに入った。
 メニュではランチタイムは十四時までとなっていたので、ディナーの「海老ときのこのアヒージョ」とパンのバゲットを注文した。この手のメニュはあまり口にしたことはないが、周りの雰囲気からは、いちばん合うのではないかと思った。もっとも、この食事が私に似合っているかどうかは、また別の話だが……。
 対岸には山の稜線が続き、小さな桟橋の周りにはヨットが何艘も繋がれていた。
 レストランのテラスから見る港の風景は、往年の名優アラン・ドロンが演じた『太陽がいっぱい』という映画をイメージさせた。知らない土地にきているという気分がそうさせているのかもしれなかった。瀟洒な岸壁から突き出すように設けられた、いくつかの小さな桟橋は手摺ごと白く塗られ、それに繋がれているヨットも白いという風情が、なんともいえぬ異国情緒を感じさせた。
 こうして海をみていると、やはり私は海が好きだった。海というより、大量の水が揺蕩う風景を眼にするのが好きだった。リュンがかつて住んでいたO市の深くて大きな河も、私は好きだった。その圧倒的な重みが私を感動させるのだった。
 なにもかも懐かしかった。私の周りでは時間が停止していた。
 生きて行くということが、こんなにも呆気なく、単純に過ぎて行くとは思わなかった。幾日も幾日も同じことを繰り返し、何年も何年も空回りして、前に進めないとは思わなかった。休むことはしていないのに、前には進めなかった。いつも、いつも堂々巡りだった。繰り返される嘆息の数だけが、私の周囲を覆った。
 食事は、私向きではなかったが、それなりに美味しかった。海老が好きなのが功を奏したようだ。私は食事を終え、停まっていた時間を取り戻して、ナオの言っていた高浜海水浴場へ行ってみようと思った。それは、私と彼女との初めてで最後の旅行のとき、彼女が親に連れて行ってもらったという海水浴場だった。
 レンターカーショップでもらった、やや詳しめの観光案内マップで確認すると、海沿いを走る499号線を道なりに辿って行けば、自然とそこに行き着くようになっていた。出島から暫く行くと視界が開け、海が見えてきた辺りから一旦は山中に入り、ふたたび海が見える。そこからは海沿いから山中に入って峠を越えて街中へ――。
 だが、本当にそれで正解なのか――。珍しく私の頭のなかで、なにかが反論した。おい、おい、それは違うところじゃないのかい。例の斑猫が私を見上げて言った。彼女は確か、五島の高浜海水浴場と言っていたはずだぜ。
 長崎は長崎でも、五島市の五島では車では行けやしない。なんたる思い違いなのだろう。私はいつもながらの暢気さを呪った。
 ひとの話を適当に思い込んでいたのだ――。
 私はレストランの店員に、五島市にも高浜海水浴場というのがあるのか――と、かなり間の抜けたことを訊ね、あると知ると、そこへの行き方を教えてもらった。そして、そのフェリー乗り場が、ここからさほど遠くないところにあるのを知った。
 いかに先を急がぬのんびり旅とはいえ、危うく無駄な時間を費やしてしまうところだった。なるべくなら、ストレスを感じない旅にしたかった。ちなみに店員さんによると、フェリーで高浜海水浴場のある島(福江島)に行くには、およそ三時間ほどが要かるというのだった。しかも最終乗船時間が決まっているので、早く行かないと間に合わないかもしれないという。時計を見ると、四時数分前だった――。
 慌てて食事代の清算を済ませ、教えられた乗り場へ向かったが、幸いにして、そこは目と鼻の先ほどの距離だった。そして私は幸運にも、長崎発十六時五十分の最終便に間に合ったのだった。

 十七 「ねまっていく」骨

 海は穏やかで、フェリーはなにごともなく福江島の港に着岸した。
 時刻は、八時を少し回っていた。
 やはり、あの店員さんが言っていたように、三時間半は要かるのだ。フェリーは静かにその口を開けて、私たちドライバーがつぎつぎに出て行くのをおとなしく待っていた。私はフェリーから出ると、一方通行になっている道路を一周するようにして大通りへ出、駐車場のありそうなホテルかレストランを探した。
 辺りはすでに暗くなっており、ひょっとすると、この十一月の寒空の下で車中泊するしかないか――と心配していた。――のだったが、それらしいホテルが、その後すぐに見つかった。そしてこれまた幸いなことに、そこはレストランもやっているらしく、素泊まりも許してくれそうなホテルだった。こんなときに限って意外に手間取り、あちこち動き回っては、無駄な時間ばかり費やしてしまうものだ。
 少なくとも、これまでの私のパターンはそれだった。そんなドジさ加減をいつも家内に詰られ、叱られたものだった。なんでさっさと、ものごとを決めちゃわないの。だから、みんなから疎まれ、出遅れるのよ。ものはなんでも即断即決。世のなか、早い者勝ちよ。鈍臭い者には福じゃなくて、カスしか残ってないのよ……。
 ああ、しかし、そんなふうに私を叱り飛ばしてくれる家内は、シィーちゃんは、あの小憎らしく口喧しい妻は、もうこの世にはいないのだ。
 一体、なんでなんだろう――。なんで、きみは、こんなに早く逝かなくちゃならなかったんだ。あまりにも早すぎるじゃないか。いくらぼくが鈍臭いからって、そんなに早く逝ってしまうことなんかないじゃないか……。
 そうだよ。もっと文句を言ってくれても、よかったんだ。ぼくは、あともう少しくらいは我慢できたと思う。もう少しくらいなら、耐える余地もあったんだ。
 私はひとしきり思いをはぐらかし、心を落ち着かせたあと、応対してくれたホテルマンにレストランでのお薦めを訊ね、そのまま連泊の予約をした。
 五島市とはいうものの、狭い島のこと、車さえあれば仮に一周したところで、さほど時間は要からないだろうと踏んだからだ。高浜辺りの民宿に泊まることも考えたが、探すのが面倒に思えた。それなら、最初から塒を確保しておくにしくはない。
 平日だった所為か、それとも夏場の書入れ時とは異なり、宿泊客も少なかった所為か、部屋はかなり空いており、選り取り見取りだった。
 たったひとりしかいない旅でもあり、一番小さな和室を所望した。
 ホテルマンのお薦めは、五島牛のステーキ懐石だった。
 シェフのそれも同じだった。確かにこれほどまで南の海にくれば、日本海のような魚介類よりは、本土からきた人間にとっては、そっちのほうがお薦めなのかもしれないと思った。あるいは鮮度そのものは抜群であっても、刺身にする魚の種類自体が本土人の口には合わない――と彼らは読んだのだろう。
 私にとっては、それが正解だった。
 シェフのお薦めは最高だった――。家内がかつて、K市の有名レストランで食べさせてくれたシャトーブリアンほどではなかったが、歯ごたえのよさではそれに勝るとも劣らずの旨さといえた。これもまた、旅先の心がもたらした感興のひとつかもしれないが、家内がいたら、おそらくこの舌の具合を褒めてくれるだろうと思った。
 私は、彼女の好きだったシャブリをオーダーし、頭のなかの彼女と乾杯し、五島牛のステーキに舌鼓を打った。心なしか、そうしたことで彼女が喜んでくれているような気がした。ふたりして来れていれば、どんなにかよかったろうに――。
 また私の脳裏に彼女のことが浮かび、なにかが込み上げてきた。
 馬鹿ね――。なに泣いているのよ。彼女が言った。男は、そんなことで泣いたりしないの。だって、ひと前で男が涙を流すなんて恥ずかしいことでしょ。
 確かにそうだ。あと四~五年もすれば、齢六十に手が届こうとする大の男がひとり、本土から百キロも離れた、こんな島のレストランで涙を拭いている姿なんて、さまになるわけがない。下手をすると、自殺目的かなにかで旅に出た、変な老人だと疑われても、反論のしようがないではないか――。
 朝になったら、お巡りさんがやってきて職務質問を受け、しどろもどろで旅の言い訳をするなんてことになったら、笑いごとではない。折角、感傷旅行の気分に浸っているというのに、誰にこの滑稽譚を聞いてもらえばいいというのか……。
 私は、そそくさを食事をし終え、自室に戻った。そしてそこにあった部屋着に着替えると、フロントで教えてもらった展望風呂の大浴場に向かった。
 大浴場はホテルの最上階にあり、湯船から立ち上がって遠くに眼をやると、五島灘であろう暗い海を背景に福江の港が見え、明かりを灯した街の穏やかな光景が広がっていた。眼下に視線を移すと、そこには城らしき建物と石垣や堀もあった。
 こんなところにも、大和のイメージの城はあったのだろうか。どちらかといえば、グスクのようなイメージのもののほうが「らしい」のではないだろうか。南方の城といえば沖縄のそれしかなかった私は、無知を棚上げにして思った。
 しかし、美しく落ち着いた夜景だった。いつまで見ていても飽かなかった。
 朝はどんなだろう。朝にまた、きてみようと思った。そうしてゆったり湯に浸かっていると、慌ただしかった一日がゆっくりと解きほぐされて行くのを感じた。
 長かった車の運転から解放され、身体が伸びをしていた。
 おそらく、こんな旅は一生に一度のものだろう――私は思った。二度と、このような旅は私には訪れないだろう。それだけは確信できた。
 九州生まれの家内でさえ、こんなところまで来たことはないだろうと思った。
 彼女は、その昔、言っていた――。
 ただの一度だって、あなたはまともな旅行に連れて行ってくれたことはない。
 いつだって、そうよ。せいぜい二時間ほどのドライブが関の山で、最高でもM県での一泊くらいだったわ。新婚旅行をしたわけでもなければ、結婚式を挙げたわけでもない。あなたと一緒になってから、少しもいいことはなかった。
 転職のうえに転職。出向につぐ出向。その都度、わたしにお金の工面をさせた。お弁当もつくらせた。会いたくもない社長にも会わせた。嫌味も言われた。
 あなた一家の食事でも、わたしは誘われなかった。どうして、妻も誘ってくれと言えなかったの。それで、わたしを大事にしていたといえるの。そんなひと言が言えなくて、どうして亭主といえるの。それで一家を預かる男として情けなくないの。
 そのどこが哲学者だって言うの。あなたの哲学って一体、なんなの。どこがソクラテスを師に仰ぐよ。ソクラテスの哲学って、女に負んぶに抱っこしてもらって生きて行くってことなの。そんなことを大学で四年間も習ってたの。ねえ、教えてよ。
 いや、やはり、彼女はここにきている……。
 私と一緒に旅をしている――私は思った。現にこうして、なにかある度、彼女のことを憶い出すのだ。これが同行二人でなくて何なんだろう。お大師さまは、彼女なのだ。結局、これはふたり旅なのだ――私は思った。
 彼女は亡くなってまでも私に指図し、意見を言い、嫌味をかまし、皮肉をぶつけ、怨み辛みをぶちまける。ソクラテスの場合はクサンチッペだったが、私の場合はシオリなのだ。シオリッペが私を見守り、叱咤してくれているのだ。
 同行二人――そう。この旅が、それでなくて何なんだろう。
 今夜、眠るときにも彼女は出てくるかもしれない。そして、夢のなかの私に対してなにかを言うだろう。小言かもしれないし、私の家族への悪口雑言かもしれない。あくなき私の浮気心への非難かもしれない。いや、それとも……。
 それでも、私は耐えねばならない。
 あのとき、激高して彼女の頬を拳で殴ってしまったように。あまりにも堪りかねて拳をふるって、彼女を半狂乱にさせたように――。決して癇癪を起こしてはならないのだ。どんなに悪態を吐かれても、反抗してはならないのだ。
 反抗すればするほど、私の心は腐っていく――。
 あの住職の言っていた「ねまっていく」骨であってはならないのだ。
 折角、荼毘にふされ、奇麗さっぱり真っ白なお骨になったというのに。そこに血塗られた汚れや黒ずみがあってはならない。腐った肉片がこびりつき、悪臭を放つものであってはならない。あのときも思ったように、この旅は「心のなかを綺麗さっぱり清算するための旅」なのだから――。
 だから、そのためにも、私は耐えねばならない。なにごとが起っても、耐えねばならない。癇癪を起こしては駄目だ。それこそ英国が、パクス・ブリタニカを手にした時代、首相のソールズベリ侯爵が言ったという「愚行にも挑発にも不手際にも動じることのない忍耐」が、この私にとって、もっとも必要な旅なのだ。
 自暴自棄は危険だ――。心を荒立てず、じっと自分を見詰め、来し方を顧みる。それが、この旅に与えられたミッションなのだ。
 明日は、虚心坦懐にこの島を巡ってみよう。なにか心を新たにさせてくれるものが見つかるかもしれない……。私は風呂から上がると、小さめの缶ビールを立て続けに二本空け、布団に潜り込んだ瞬間、深い眠りに落ちていた。
 翌朝、目覚めると、高い窓から朝陽が射し込み、私の顔を照らしていた。その光が眩しくなって眼が醒めたのだった。あのとき、内縁のテーブルで夜景を見ながら、缶ビールを飲んでいた。部屋に戻るとき、障子を閉め忘れていたのだ。
 時計を見ると、八時を十分ほど回っていた。よほど疲れていたのだろう。
 夢すらも見なかった。いい寝覚めだった。心なしか、いつもより身体が軽くなっているように思えた。私は顔を洗うと階下に降りて、フリーの朝食を食べた。チェックアウトの期限は十時だったので、大浴場に行ってみる時間はあった。
 そこには、昨夜とまた違った風景があった。遠くを見やると、小高い丘の頂を切り取ったような扁平な山容が見えた。不思議なかたちの山だった。
 空は透き通るように青く、海は信じられない色をしていた。本土で見るそれとは、およそ彩度が違っていた。明度も違っていた。私の知っている海の色ではなかった。おそらく、他の海岸では、まったく見たこともない色の海が広がっているのだろう。
 フロントで観光マップをもらい、それをもとに道中の案内を受けた。
 ついでに訊ねると昨夜、見た城のような建物は城ではなく歴史資料館になっており、石田城のあった場所だということだった。案内によると、五島藩主の居城跡で、黒船の来航に備えて造られ、城壁の三方を海に囲まれた日本唯一の海城であるという。
 自分の無知さを恥じた。つまり、衰えつつあったとはいえ、江戸幕府の力はこんなところにも及んでいたのだ。私はホテルマンのアドバイスどおり、二日間かけて時計回りに福江島を半周ずつに振り分けようと思った。
 第一日目は、165号線を通って大浜海水浴場で49号線に入って海沿いに行き、富江町松尾で31号線、ついで富江町富江で384号線に乗り、荒川温泉で右に折れて半周を折り返し、27号線で帰路につき、一路ホテルへ帰還。
 二日目は逆コースを辿って、27号線で荒川温泉に行き、そこから384号線を海沿いに北上、暫く山中を通って頓泊海水浴場から高浜海水浴場、東行して白良ケ浜海水浴場を過ぎて、岐宿町河務辺りから山中となって一路、ホテルへというコース。
 これを反対周りで行くと、最終目的地の高浜海水浴場、つまり高浜ビーチまでは、ホテルから最大でも四十分ほどの距離であり、あまりにも近すぎる。
 ホテルマンの話では、あちこち寄り道をしたとしても、せいぜい一日あれば充分ということだったから、そこを最後の日にしたほうがいい――と思ったのだ。
 しかも、そこから四十分弱しか要からないのなら、最終フェリーにも余裕で乗ることができるだろう。ただ、注意しておかなければならないのは、道中、あまり食事処がない――ということだった。そこで、初日も二日目も、ホテル近くの弁当屋さんで昼食用の弁当を仕込んでから出発することにした。
 これで、用意は万全。あとは、そのとおりに実行するまでだ。私はフロントのレクチャーを聞き終えると、彼に教えてもらったお奨めのお弁当屋さんに行き、握り寿司の弁当とペットボトルのお茶を買った。見るからに美味しそうな弁当だった。
 これなら、道中で食べても美味しいことだろう。
 うまく景色のいいところで、タイミングが合ってくれればいいのだが……。
 私は165号線に出て、一番目の目的地である鬼岳に向かった。鬼岳というのは、名前こそ恐ろしいが、あの展望風呂から眺めた不思議なかたちをした山のことで、楯状火山の上に臼状火山が重なり合ってできたものであるらしかった。
 まずは、その高みから海を見下ろしてみたいと思った。

 十八 龍の背に乗って天空回廊を行く

 鬼岳は、樹木の一本も生えていない丸みを帯びた山腹のような感じで、それを眼で追って行くと、幾重にも連なる砂丘のようでもあった。
 確かに頂上付近の展望所からは、遥か先に海が遠望できた。
 だが、この日は海から上がって来る風が強いことと寒さとで、じっとそこに立って優雅に鑑賞を愉しんでいることはできなかった。本来は芝生で覆われているであろう山腹は土の色と変わらず、私にはさほど感動的なものはなかった。
 イメージとしては、奈良の若草山のような感じだった。
 私は、僅かに樹木が茂る鬼岳神社の周囲にある小径を一周し、もときた階段を辿ってカローラの待つ駐車場に戻った。近くに天文台の姿もあったが、陽の高いうちでもあり、そのまま広々とした渓谷を左に見ながら、山を下って行った。山道を下ると、平坦な二車線の国道が続き、前方に大きな島影のようなものが見え、それを追いかけるように走っていると、いつの間にか国道を逸れ、道に迷ってしまったようだった。
 道は、どんどん山のなかへ入って行き、私はますます不安になっていった。
 私は焦った。このままどこへ行くのかもわからなかった。
 林道めいた道に入ったときは不安が募り、いつものパニックが私を襲いそうになった。行き交う車は一台もなく、ただ青空だけが前方に続いていた。なんとか鬼岳とは反対方向の下り坂を行くようにし、そうすることで海に辿り着こうとした。
 それが功を奏したのか、国道165号線らしき二車線道路に出、海を目指して脇道に逸れて道なりに行くと、行き止まりになり、鐙瀬ビジターセンターというところに着いた。階段を上がって建物のなかに入ってみると、どうやらそこが観光マップにある鐙瀬溶岩海岸に行く遊歩道の入口にあたるらしかった。
 センターの案内によれば、300万年前に鬼岳が噴火し、そのときに流れ出た溶岩が海に冷やされてできた奇怪な海岸線が7キロほども続くというので、興味が惹かれた。私の頭のなかで、あの鬼岳の頂から噴き出した溶岩が赤々と燃え、夜の闇のなかを海へ吸い込まれるようにつぎつぎと流れ落ちて行く壮絶なシーンが浮かんだ。
 その足で展望台に行ってみると、眼下に黒々とした奇岩が海岸線を象っている光景が広がっていた。半回転するように反対側を見ると、その空の向こうには、あの扁平な山がくっきりとした青空を背景に優雅な姿を見せていた。あの距離から溶岩や火山弾がここまで流れてきたのだと思うと、自然の力の大いさに身震いがくるのを覚えた。もし、そのとき、人類がいたとしたら、どんなにか恐怖に慄いたことだろう。
 この福江島そのものが火山の噴火でできた島だと考えれば、その後に人類はこの島に渡ってきたことになるのだが、それにしてもその光景は、神の怒りによる仕業以外には考えられなかったことだろう。
 その途端、T市で嘉一郎さんが聞かせてくれた、夜の光景が憶い出された。
 終戦の、それもたった十三日前の夜、焼夷弾の雨がまるで、名残を惜しむかのように、海に注ぐT市の扇状地に降った。命ぜられた兵士にとっては、残り弾をすべて処分するためだけの空爆だったのかもしれない……。その様子を嘉一郎伯父さんは、例のトーチカのある演習場から声もなく見詰めていたのだ。
 人工と自然とは、およそ縁のないものかもしれない。だが、たったひとりの生身の人間にとっては、そのような理屈は後出しジャンケンのようなものに過ぎない。どんなに足掻こうと、それらの猛威には太刀打ちできないのだ。
 火山反対、溶岩嫌いと言ったところで、自然はそこでストップしてくれるわけではない。おそらくB29の乗組員もそうだったろう。むしろ、そうすることで戦争が終結するのなら、そのほうが、いい意味で戦争に加担したことになる――。
 そう言い聞かせずには、やりきれなかったのではないだろうか。原子爆弾をつくったアメリカ人のなかには、原爆は必要悪だった。あれがあったお陰で、戦争を終わらせられたのだ――と擁護する者もいるという。
 私は、およそ1・2キロほど続くという遊歩道に降りてみた。
 鬼岳で感じたようなこっぴどい寒さこそはなかったものの、海辺の寒さは相当なものだった。ときおり、浜に降りて海辺の生物とやらを見ようとしてみたが、それらしいものは見当たらなかった。注意力がそこまで働いていなかったのかも知れない。
 確かに海岸沿いにある岩々は、グロテスクにごつごつしていて、ちょっと足を踏み外して手脚をつこうものなら、たちまち怪我してしまいそうな感じだった。
 おそらく、この辺りの海では泳ぐことはできないのだろう。
 ただ、細いながらも遊歩道はしっかり設えてあって、その心配はなかった。
 私は、奇岩の続く海岸に降りたり遊歩道に戻ったりしながら、たっぷり時間をかけて東側の出口近くまで歩き、そこから後戻りしてセンターに戻った。
 そうして時計を見てみると、正午を回っていた。
 ホテルをチェックアウトしてから、ゆうに二時間が経過しているのだった。
 私は、カローラのいる駐車場まで行き、そのなかから例の弁当とお茶の入ったペットボトルを取り出して、センターに戻った。そして熔岩海岸を見下ろせる、小さな展望台の近くにあったベンチに腰を下ろし、南方を想わせる蘇鉄のような樹木、いわゆる椰子とかフェニックスとでもいうのだろうか、いかにも南国風の樹間から海を眺望しつつ、それを味わおうと思ったのだ。
 案の定、海を見下ろしての食事は格別で、鮨の旨さもダントツだった。
 同じ握り寿司の盛合せでも、本土のコンビニなどにあるそれとは格段に違った。とはいうものの、コンビニ弁当の世話になったことは一度もないのだが、少なくとも一度は経験のあるスーパーの店で買ったものよりは格段に美味しかった――。
 私は鮨弁当に舌鼓を打ったあと、これが見納めになるであろう海岸線の様子を心行くまで眺め、海の彼方に眼をやった。ほぼ真正面の前方に、名前の知らない島が大きく浮かび、そのさらに先の左前方には別の島影も見えていた。
 そういえば、ナオとこんな風に長い間、海ばかりを眺めていたっけ……。
 そうしているうち、いままで気づかなかったことに気づいた。
 それは、海の色が浅いところは明らかにエメラルドグリーンになっており、深いところは濃い紺色で、そのさらに深いところはドラゴンブルーに見える――ということだった。まさにそれは、ナオが私に教えてくれたことだった。
 私は思った――ここですら、そうなのだから、彼女の言っていた高浜海水浴場に行けば、もっと素晴らしい海の色に出遭えるかもしれない……。
 私は165号線に戻り、田園の続く細い道を一路、49号線に向かった。
 ちょっとした町のようなところを抜けると、分岐点に着き、右へ取れば「福江空港」、左へ取れば「福江」となっていた。左が49号線だ。実を言うと、この島では道のどれもが、必ずどこかで「福江」と繋がっている。だから、福江とあっても、必ずしも福江が近いとか、そちらに向かっているという意味ではない。一周すれば放っておいても福江には必ず着く。だから、迷子になっても心配することはない。
 分岐点を過ぎるとすぐに、左手に明るく開けた海が見えてきた。手に取るような海岸沿いなので、海の照り返しが眩しいくらいだ。しかし、すぐに道は上り坂となり、海は見えなくなって行く。
 そこからは、海とはおさらばで、ちょっとした丘のようなところを抜けると、また海が現れた。もうそこからは下り坂だ。そのまま真っすぐに下り、三叉路に出ると左へ取る。富江町松尾で31号線となり、細い路地のようになった町中を過ぎ、途中で道がわからなくなり、通りがかったバイク屋さんで384号線に出る行き方を教えてもらい、そこからはほぼ一直線で集落を通り抜け、港の見える三叉路に出る。
 道は登りとなり、アップ・アンド・ダウンと右回り左曲がりを繰り返しながら、ぐねぐねと続く。おそらく左に見える深い谷は、海へ続く法面みたいなものだろう。こうでもしなければ、海岸沿いに道を通すことは不可能なのだろう。
 暫くすると、深い谷の向こうには、こちらと同じような山が見えてくる。そして見晴らしのいい道になったと思ったら、左方向の遥か前方に島らしきものが小さく見えてきた。五島の名に相応しい光景だ。坦々とした道は、スカイラインを掃いているような気分にさせる。まるで空中の回廊を走っているような感じだ。
 これからは、この道を「空中回廊」と呼ぶことにしよう。
 それにしても急カーブが多い。右に左にと忙しなくハンドルを切って進む。空中回廊は、私の根気力を試すように右に左にぐねぐねと、どこまでも果てしなく続く。いい加減、飽きがきていたところで、交通案内があり、左の50号線を辿ると大瀬崎灯台というのがあるようなので、そちらに進路を変えた。
 右へ行けば、予定の荒川温泉方面に辿り着くのだろうが、あまりにも単調なので、このままでは一向に海に辿り着けないと思ったからだ。
 暫く行くと、今度は右手に海が見えてきた。対岸には島の切れ端なのだろう島影が大きく見えていた。素晴らしい海の広がりだった。いままで山道ばかりを走っていた所為か、ハンドルをきつく握っていた手にも余裕が出た。海の色も申し分なかった。
 山あいをぐねぐねと登って行く。途中、ちらちらと眼下に見える海の岸側は、まさにエメラルドのような色をしていた。道は徐々に下り坂となり、海が視界に入ってきた。恐らくこの先に灯台が見えてくるはずだ。そうしているうちに三叉路に出、そこには左に3キロほど行くと、大瀬崎とあった。海と別れ、山に向かって走る。
 山だか島だかが下方に見え、道はまた天空回廊の様相を呈してきた。
 これはもう、「天空回廊」と名付けていいだろう。
 左前方の視界を遮るものはなにもない。実に爽快だった。まさに天空に向かって車を走らせている気分だった。上へ上へと登って行き、急な登りのヘアピン・カーブを越えると、右手に展望所に行くらしい石の階段があるのが見えた。
 車を降りて後ろを振り返ってみると、いままで登ってきた道が、まるで龍の背のように折れ曲がってこちらに向かってきていた。近くには、そこへ行くドライバーや観光客のためのものらしい退避スペース兼駐車場のような空間があった。
 私は、昇り龍の背中に乗ってここまでやってきたのだ――という実感があった。
 だが、道の勾配の様子からすると、もっと上に行けば、さらにいい景色に出逢えそうな気がした。たぶん、なにかには出逢えるだろう。わたしは、そこをやり過ごしてさらなる天空を目指した。すると一分もしないうちに、左前方のガードレールの下にテラスのような柵があるのが見えた。
 その横に車を停めると、そこはまさに絶景の断崖が望める展望台だった。

 十九 見納めの地

 展望台というよりは、見晴台というほうが相応しい設えだった。
 テラスのように山際から張り出したその下は、恐らく何本かの鉄柱で支えられているのだろう。これ以上の先はない。さながら空中庭園だ。ご丁寧にベンチまでいくつか用意されている。天空に設けられた舞台といっていい。
 私は誰もいないのを確かめ、バックで先ほどの駐車場に戻り、まだ半分以上中身の残ったペットボトルを片手に展望テラスに戻った。辺りには車一台もなかった。これまでにも、車という車に出逢ったこと自体がなかった。こんな季節に、こんなところまで、車でやってくる物好きは、私くらいのものだったのだろう。
 この当時、こんなところにこんな絶景があるとは、あまり知られていなかった。
 その意味で、家内も言っていたように興味と関心こそあっても、色々と都合があって旅費と機会が工面できなかった。その結果、泣く泣く旅行していない派の部類に属する私には、初めて眼にする絶景だった。
 テラスに降り、手摺を掴んで背を伸ばし、眼下を見下ろした。
 眼下の海は透き通り、白い砂底や岸壁から崩れ落ちたのであろう大きな岩々が見えるほどだった。やはり、浅いところの海はエメラルド色になっていた。
 眼を上げると、遥か先の海上へ半島のように突き出た断崖の先端に白い灯台が可愛い姿を見せていた。この高みから見る海の美しさには息をのんだ。月並みな表現で申し訳ないが、筆舌に尽くしがたいとは、このことをいうのだろう。
 東尋坊というところには行ったことがあるが、これほどの迫力は感じなかった。まず距離が違った。崖の高さは、さほど変わらないのかもしれないが、ここのほうが断然、寂寥感が漂っていた。観光客のひとり旅というより、妻を亡くしての同行二人ということもあり、その侘びしさは数段、上回っていた。
 連れ合いを亡くすということの意味を、いま初めて知ったような気がした。
 いてほしいひとの非在が、これほどまでに自分を孤独にさせるという事実に改めて恐怖が襲った。いくらいてほしくとも、そのひとはもうこの世にはいないのだ。
 おそらくこのような光景は二度と、私の前には現れないだろう。そのことを肝に銘じるようにして、私は一時間近くも穏やかな海の表面を眺め続けた。そして、カローラの待つ退避スペース兼駐車場に戻った。運転席に座って、手に持っていたペットボトルの中身を口にしていなかったことに気づいた。改めて、私はそのキャップを外して一口飲んだ。なぜか、しょっぱいような気がした。
 イグニション・キーをひねり、さらなる上空へ向かった。
 五分ほど行った先に、さきほどと同じような退避スペース兼駐車場があり、その山側に大瀬崎椿ロードという案内があった。これを行けば、おそらく……。
 私はカローラをそこに駐車し、先ほども連れ歩いた例のペットボトルを手に持って灯台が見張らせるであろう岬に向かった。枯れたような手作り風の上り階段が線路を支える枕木のように続き、そこを上り詰めると、三叉路に突き当たった。
 さきほどと同じ内容の案内板があり、道を左に取った。そちらのほうがより高所に続く道に思えたからだ。道はセメントで作られ、相当に古びてはいたが、とても歩きやすかった。ただし、雨の日は滑って難渋したことだろう。
 三叉路に出ると、それまで空を覆うようになっていた観葉植物のような樹木のトンネルは消え、明るい太陽が道を照らしていた。道は上りになり、ご丁寧なことに鉄の手摺まで作られていた。ますます天の高みに続く道と思われた。セメントの階段の先に、なにやら観音さまのような像が見えてきた。
 頂上に辿り着いてそこに近づいてみると、屋根の付いた吹き抜けの鐘撞き堂もあった。観音像らしき女人像の足許に行って見ると、台座の側面に「祷りの女神」という銘文がアウトレリーフになっていた。そういえば、入口の案内板にも「大瀬崎(祈りの女神)近道」とあったのを憶い出した。そのふくよかな顔かたちや姿を見上げていると、教科書かなにかで見たことのある長崎の平和祈念像が脳裏に浮かんだ。
 その遥か洋上の海には、突き出した半島が馬の背のように続き、その後方に他の島々の姿も従えていた。眼を右に転じてみれば、避雷針のように高いアンテナをそびえさせる白い建物があり、そのずっと先の岬に豆粒のように小さく灯台が見えた。
 海の上は光に映え、美しく輝いていた。おそらく、ここが天の頂点なのだろう。周囲360度を見回しても、それより高いところはどこにもなかった。
 しかし、そこから先へは行けなかった。
 眼前に見えている灯台に辿り着く道はなかった。私は後戻りして、さきほどの分かれ道にくると、反対の方角に進路を取った。杣道ともいえるほど細いセメントのぐねぐねしたアップダウン道が私を導いた。そのうち「展望園地」の案内が眼についた。道は暗かったが、その指示に従うことにした。
 そこからは、まるで亜熱帯の観葉植物トンネルのようだった。まっすぐな道が暫く続き、明るくなった先に階段が見えてきた。五分か十分(もうここまでくると、時間の感覚はなかった)ほどすると、さきほどあった案内表示のとおり、そこにはセメント製の手摺で囲まれたこじんまりした展望所があり、案内板に「男女群島は福江島の南西70キロのところに位置し、天気がいい日には肉眼で見ることができる」旨のことが書かれてあった。海の照り返しで、男女群島がどれかまではわからなかった。
 だが、ここからは、さきほどよりもっと近くに大瀬崎灯台が見えた。半島の舳先にはシルエットになった灯台がぽつんと岬上に立っていた。
 亜熱帯の植物トンネルを不安に感じつつ、ヘアピンカーブを越えてなおも下っていくと、左側に柵があり、そこから下へ降りて行けるようになっているようだった。暫くすると、潮の香りがし、海の姿も時折、顔を出すようになっていた。
 そこからは樹木のトンネルは消え、灌木が小径を挟むプロムナードのようだ。尾根伝いに海が眼下に臨める頃となると、足許は完全な爪先降りの下り坂となって、階段の小径が灌木の間をカーブするや、右にあった灌木の山肌がなくなった。
 ――と、思ったつぎの瞬間、手摺のある階段が現れ、辺りは草原のようになっていた。そして目の前の視界は270度ほども開け、百数十メートルか二百メートルほどジグザクした階段道が眼下に続く先に、丸みを帯びた白い灯台が山の頂にこんもりと立っていた。遠くからみると、その姿はまるで、先ほど見た観音様のようだった。
 これまでで最高の展望所であろう、手摺のある階段から見るその世界は、マチュピチュの遺跡をドローンで眺めているような光景だった。もしここに、「アルハンブラ宮殿の思い出」とか、「アランフェス協奏曲」という曲が鳴っていたとしたら、まさにぴったりな情景だったろう。
 だが、私は灯台には向かわなかった――。
 その前に、あの断崖の下にある海の色を間近で見てみようと思ったのだ。
 階段状の小径を左に逸れて、さらに下って行く。ひとがその上を歩いて辛うじて道らしき体となった草の上の肩幅ほどの道を行くと、眼の前に文字通りの断崖絶壁が口を開いて私を見上げていた。
 海の色は、完璧なコバルトブルー。岸壁と海水が接する部分の海のみが、明るく輝くエメラルドグリーンだった。潮風がつくる音が耳に伝わり、その音が崖の上にいる私の身体を冷やしていく。眼を瞑ってみた――。
 遠くから鳥の啼く声が聴こえた。鋭く高い声だった。
 片仮名で表記すれば「ピィーヨウ・ルー」と言っているように聴こえた。
 鳥の名前は知らない。本土にはいない珍しい鳥なのかもしれない。かと言って、鳥の名は数えるほどしか知らないし、スズメや鳩の類いでしかわからない。鳴き声もとなると、もっと知らない私が言い当てられるわけもないのだが……。
 ずっと見ていると、切岸の上からの光景が私に眩暈を起こさせそうになった。私は五分ほど眼下の波打ち際を眺めたあと、きた道を戻り、灯台に向かった。
 これまでは、ほとんど下り坂だったが、今度は上り坂となり、灯台への階段は急坂で息が切れるほどだった。しかし、灯台のあるところまで登ると、そこはもう、申し分のない大パノラマの世界。さきほどまで見下ろしていた断崖絶壁はもとより、真正面に眼をやれば、東シナ海が延々とまばゆいばかりの光を放って展がっているのだ。海が近いだけに、その色の濃さと風の強さは満点だった。
 ね、知ってる――。
 私の耳元で声が聴こえた。あの懐かしい、リュンの声だった。彼女が続けた。
 水平線って、何十キロも先の沖まで続いているように思わない。
 私は答えた。思うね。
 彼女が言う。
 でしょ。でも、せいぜい2キロか3キロくらい先しか見えていないんだって――。
 そうか。知らなかったな。
 忘れもしない、わたしたちが七夕の日に「新婚旅行」をしたときの会話だ。
 物理的には見えはしないが、地球が丸くさえなければ上海の陸地まで見えたかもしれない。彼女なら、この光景を見て、どんなことばを発したことだろう。少なくとも北海道の海は、こんな色はしていまい……。
 日本海だってそうだ。この海は、日本海のように陸地で隔てられた海ではない。外洋なのだ。この旅を終えてから知ったことなのだが、太平洋戦争のとき、南方戦線に赴いた兵士の多くが、この大瀬崎を日本の「見納めの地」としたという。
 私はその光景をしっかりと心に刻み、灯台からの急な階段を降りた。そして、その先に続く廿楽坂を一時間近くを掛けてゆっくりと戻った。脚が疲れていた。途中、二度ほど廿楽折りの階段に腰を下ろし、海を見ながらの休憩を取った。
 ペットボトルを下げてきてよかった――と思った。
 疲れた両脚を無理やり地面からひき剥がすようにして、私は駐車場に戻った。
 そんな私を、カローラはひとり静かに待っていてくれた。あれから誰もこの駐車場にはきていないに違いなかった。T市に行ったときも、自転車を擬人化していたように、ここでも私は車を擬人化していた。ひとり旅の習性で、昔から私は、自分を運んでくれるものに話しかけては無聊を慰めるのだ。
 時刻は四時半と、空はまだ明るかった。本来なら荒川温泉を折り返し地点としてホテルへ向かうはずだった。それが、こんな寄り道をしたので、ホテルまでどれくらい要かるものかはわからなかった。しかし、後悔はしていなかった。
 それほどに、この寄り道は私にとって、最高の道草だった。きっと夕陽に映えるであろう、大瀬崎灯台の夕景を見届けてから帰路に就きたいと思った。だが、そうすると何時に辿り着くかわからない。断腸の思いで諦めざるを得なかった。
 福江の夜は早い――。朝のレクチャーで、島巡りのポイントを教えてくれたフロントの話だ。彼によると、夜八時を過ぎれば食べ物系の店は開いていない。別の種類の店は、晩くなっても開いているかもしれません――とは聞いたが、そんな店で過ごす気にはなれなかった。所詮、その種の店に縁のない身だった。せめて今夜くらいは、まともなものを食べて眠りたい。今宵は私にとって、おそらく一生に一度の、そしてもっとも印象深く思い出深い、九州最後の夜となるはずなのだから……。
 明日はもう、この福江島を去らねばならない――。
 多分シィーちゃんも、それくらいの散財は大目に見てくれるはずだ。 
 私はカローラを駆って、天空のくねくねロードを下った。ときおり、姿を見せる海の色は一段と美しかった。これから384号線に出て北上し、予定どおり荒川で27号線に入って一路、ホテルへ向かうのだ。

 二十 コバルトブルーの海

 翌朝、朝食を終えたあと、本日の旅程をフロントと再確認した。
 彼によると、高浜海水浴場に行くのであれば、午後からのほうがよい――とのことだった。というのも、高浜の入り江が一番美しく見えるのは、魚籃観音というところから見るのが最高なのだが、午前中だと、逆光と満ち潮が邪魔をして、海の色が普通の海の色にしか見えないというのだ。
 そういえば、昨日訪れた大瀬崎や鐙瀬溶岩海岸でも、感動したコバルトブルーの海やエメラルドグリーンの岸辺は、太陽が燦々と降り注ぐときの海の色だった。
 そこで、予定を変更し、27号線で島を横断するのではなく、384号線で行って最後に最終目標地点である高浜海水浴場になるようにした。それだと、ナオの言っていた絵葉書のような海の色をした入り江が拝めるのだ。
 今夜は、ここには泊まらない。最後の駄目押しに、余裕があったらの話、ほかにぜひ見ておくべきところや浜辺などお奨めスポットはないか――と彼に訊いてみた。
 時間が許せば、そちらのほうも回ってみようと思ったのだ。
 フロントによると、それはある――ということだった。
 太田海岸といって、地元のひとしか知らない浜だが、本土のひとには珍しいかもしれない――という。というのも、この島にその種の浜はそこにしかないらしいのだった。どんな浜かは見てのお愉しみということで、内容は教えてくれなかった。
 彼の説明によると、富江港から只狩山を横切って南側の海岸線に抜け、384号線を走っていれば着くという。だが、探すのが少し難しいかもしれないので、ある程度のところまでたどり着けたら、地元のひとに訊ねるといい――ということだった。
 ただ、問題があった。そこは、今日の目的地とはまったく正反対の南岸にあるというのだ。南岸といえば昨日、回ってきたのとまったく同じコースとなる。同じ384号線ではあっても、本日、行こうとしているのは反時計回りの北岸だ。
 おそらく一生、見られはしないだろう。
 まさか行きもしないのに、どんなところかを訊ねるわけにもいかなかった。「見てのお愉しみ」という以上、教えてはくれないだろう。もう一度、来られたときに寄ってみられてはいかが――と躱されるのがオチだ。
 それで悔し紛れに、昨日もお世話になった弁当屋のご主人に、それがどんなところか教えてほしいと頼み込むと、それは灰色海岸のことだろう――という。
「え、それって海岸が灰色をしているという意味ですか」
「そんとおりばい。浜そのものが灰色ばしとーばい。大抵ん浜ん砂は、白うて細かか砂でできとーけん、ばり綺麗ばってん、こん海岸ん砂は石ころでできとるんばい。そん石は、水に濡るると黒う光る。かたちも真ん丸で、ころころとして、本当に可愛かばい。波打ち際ば見ればわかるばってん、そん浜は海んなかまで真っ黒で、全部そげな丸か石ころで成り立っとる海岸ばい。波ん音も、そやけん、ザラザラーッ、ザラザラーッて感じで、普通ん砂浜ん音やなかばい。強かて言えば、ガラガラーッ、ガラガラーッて感じとね」
「そうなんですか」
 その話を聞いて、私もそのような浜に行った記憶が蘇った。あれはサイクリングで佐野君という高校時代の友達と和歌山を一周したときのことだった。
 いまとなっては、なんという浜か場所すらわからなくなっているが、たぶん尾鷲辺りの海岸だったのだろうと思う。あの時代は、その土地々々の食べ物や文化、歴史などにはなんの興味もなく、ただ走るだけが目的のような旅だった。
 その浜は、それこそ石好きの私の食指をそそる海岸で、砂浜の砂がすべて丸い碁石でできているのだった。それも、大きさはほとんど同じ。足の親指ほどの大きさをした那智黒石だった。おそらく、その浜も同じような浜なのだろう。
「そういえば、私も本州でそんな浜に出遭ったことがありますよ」
「そうなんか。そりゃ、どげん浜なんか」
「それが和歌山産の那智黒といって、まるで碁石の色とまったく同じなんです」
「そりゃ、さぞかし綺麗か浜なんやろうね。そげな意味では、こっちんは灰色で、碁石んごと完全な真っ黒やなかんばい。白かとや灰色ん、たまーにオレンジ色したんも混じっとーけんね。それで、うちが名付けて『灰色海岸』ばい」
 それを聞いて、私は諦めがついた。
「なるほど。巧く名付けましたね。その意味では、和歌山のは『那智黒海岸』といっていいかもしれませんね」
「ああ、そりゃ美しか海岸やろうなぁ。黒々とした浜が眼に浮かぶようばい」
「本州に来られたら、ぜひ見に行ってください。きっと感動しますよ」
「ああ、機会があれば必ず寄ってみるばいね」
 地方訛りの方言、それも最西端の長崎弁を聞くのも、これが最後になるだろう。
 私は昨日と同じ握り寿司の弁当と、横に並べてあった「かんころ餅」をふたつ買った。そしてもちろん、ペットボトル入りのお茶を買った。それも二本――。
 長い船中で口寂しいときや小腹が空いたとき、かんころ餅を食べるときなどに一本では足りないだろうと思ったからだ。
 それに長崎に着いても、食事はできないかも――と思った。というのも、不案内な長崎で食事処を探すのは面倒な上に、美味しいものにありつけるかどうか、あまり当てにはならない気がしたからだ。なぜかいつも、そういうパターンに陥るのだ。
 長崎の夜といっても、なにをするわけでもない。パターンとしては基本的に、福江の夜と同じだった。それなら、最初から最悪の事態を考えて、食糧くらいは確保しておくほうが無難かもしれない。念のため、夜食用に「おにぎり弁当」を追加した。これなら、夜になっても味は変わらないだろう。
 私は、店主とその奥さんにお世話になった礼を言って、今日の夕方、本州に帰ることを告げた。ふたりとも気持ちのいいひとたちだった。バックミラーを見ると、私が角を曲がるまで、ふたりとも手を振ってくれていた。
 宿はなくても構わない。最悪の場合は、どこかの公園で車中泊する。
 そうして予定どおり、朝になったら、系列のレンタカーショップを探して、そこで乗り捨てればいいのだ――。腹が決まったら、安心感が出てきた。
 私は、その足で福江港に行き、案内所でフェリーの便を確かめた。福江発の最終便は16時50分。長崎には20時00分到着となっていた。乗船は、最低でも30分前にしなければならないということなので、福江港には午後4時には到着しているほうがいいだろう。
 思えば、本当に遠いところまで来てしまったものだ。おそらく八時に長崎に着いたところで、それから食事処を探すのは無理だろう。食糧を確保しておいてよかった。宿もそれからでは見つからない虞れもある。
 ある意味、車中泊は確実だな――私は思った。
 日頃、ずぼらな私が珍しく先走って、ものごとを考えている――。
 これはなにかの前兆なのか。それとも精神がおかしくなってきているのか。奇妙な感覚が起きた。この旅が私を変えようとしているのかもしれない。変えられるものなら、変えてほしい。他力本願なわがままを言っている自分が情けない……。
 こんなふうだから、シィーちゃんに馬鹿にされるのだ。
 私は石田城址から少し過ぎたところにあったガソリンスタンドでガソリンを満タンにし、384号線を西北西に走った。平坦な直線路だった。天気も快晴。国道も快適だった。小高い山並みが見えてきたと思うと、正面にトンネルが待ち構えていた。
 結構、長いトンネルだった。山がどんどん間近になり、上り坂になっているのがわかる。分岐点に差し掛かり、進路を右に取る。平坦な広い道に出ると、右へ行く道があったが、左に進路を取り、384号線をそのまま進んだ。
 右手方向が開け、入り江らしき海の色が見えてきた。
 そこを過ぎると、道は徐々に上りになり、左右に切り開いた山間を抜けていく。
 道が完全に開けた直線道路の先に橋があった。海が近い――と思った。その先の道路を敢えて右に取る。入り江らしき海を右手に見ながら走る。上り坂を越えると、また橋があった。右手の海には桟橋があり、何艘かボートが繋がれている。その辺りから、海とは別れ、上り気味の道を行くと小さな集落が続いた。
 道はすでに384号線ではないのだろう。中央車線もない細い道だ。
 なんというところを走っているのかもわからなかった。しかし、道は生活の匂いがした。先へ行けば行くほど、生垣のある立派な屋敷の続く道を行くと、広い三叉路に出、右側にあった案内板に「岐宿温泉」と赤い文字で記されていた。
 読み方すらわからなかったが、迷わず右へ進路を取った。
 完全に海が近いことを想わせる、平坦な直線道路に出た。遠くに真っ白な風力発電用の風車とおぼしきものが見えてきていた。どこまでも真っ直ぐに続く道を走っていると、それ以上は行けない転回場のような空き地に行き着いた。右側にプレハブのような白い建物があり、その周りに三枚羽根の風車が三基、天を衝くように立っていた。
 どうやら風力発電のための施設のようだった。
 行き止まりのその先に、細い道が弧を描くように続き、その先を行けば、海岸に出逢えそうだった。カローラを降り、その細い地道を行くと、見る見る大海原が広がり、昨日、鐙瀬で見たような溶岩海岸が現れた。小道を辿った先の小高い岩の上には、海風に向かって立つ三枚羽根の風車の姿があった。
 その足元に行って、溶岩海岸を眺めた。左手前方には、名前の知らない島がこんもりとした長閑な島影を見せていた。漫画風のイラストに出てくる典型的な島のかたちをした島だった。海の色は溶岩海岸だけあって、あまり美しくなかった。
 私は転回場でユーターンし、一直線の道を分岐点まで戻り、島を半周すべく右へ右へ進路を取って進んだ。そしてまた行き止まりになり、その先は草原のようになっていた。気持ちのよい草原だった。左前方に岩でできた碑のようなものがあった。
 近寄って見上げてみると、そこには「遣唐使船寄泊地」とあった。つまりは、遣唐使たちが日本最後の停泊地として立ち寄った岬ということだろう。
 これもまた、彼らにとっては「見納めの地」となったはずだ。遣唐使があった時代といえば、西暦600年代だ。いまからおよそ1400年前のこととなる。その時代から、ここは惜別の地であり、再会の地でもあったのだろう。
 生きて戻れるかどうかはわからない――。
 そんな不安を抱えながら、陸地との別れを惜しんだはずだ。
 眼前には島と島とに挟まれた海があり、手前の海はまさしくエメラルドグリーン、そしてその奥の海はコバルトブルーの海になっていた。海はおそらくそのときも、これと同様の色合いを彼らの瞳に映し出していたに違いない……。

 二十一 潮騒の径

 コバルトブルーの海をあとにした私は、平坦な道を後戻りし、上り坂を降りて三叉路に出たところで右折した。そうすることで、海沿いを反時計回りに進むことになるからだ。破線のセンターラインが復活したところを見ると、384号線に入ったということなのだろう。道は平坦で、長閑な平野部特有の淡々とした気楽さが続くが、徐々に上りとなって集落に差し掛かると、すぐ左手に案内があり、水ノ浦教会とあった。
 アスファルトではなく、セメントの坂道を登っていくと、瀟洒な白い尖塔が見えてきた。坂を上り切ると、そこが教会だった。
 美しい建物だった――。尖塔が天を指さしていた。
 規模と様式こそはまったく違うが、イメージとしては観光写真で見るタージマハール廟のようだった。入り口近くの住居らしきところに2台分のガレージがあったので、バックで車を停め、ホテルのフロントでもらった資料をボストンバッグから取り出した。五島にある教会とキリシタンの歴史を紹介した資料だ。
 私は、それを手に車から出て、海の見える方向に歩いた。敷地としてはあまり広くなかったが、海を挟んで山が見えることで、開放的な遠望が愉しめた。おそらく私は教会の裏側から入ったのだろう。右奥に門があり、下へ降りる階段があった。
 その門の片側には「私は門である」とあり、もう片方には「私を通って入る人は救われる」とある。つまり、本来は車でくるのではなく、正面から上がってくるべきなのだ。確かに階段下から見上げる教会は神々しかった。
 手許の資料に併せて景色を見ながら、この教会の概略をみてみることにする。
 江戸時代の末期。大村藩領の住民であったキリシタンがこの水ノ浦周辺の島々に別れ住み、表向きは仏教徒を装いつつ、基督教を信仰する日々を過ごしていた。
 慶応2年の末頃、信者たちが帳方(オラショや教理を子孫に継承する役目)の家に集まりいつものように祈っていたところ、役人に踏み込まれた。5日ほどの間に、三十数名のキリシタン男性が捕えられ、帳方の家を牢代わりにして閉じ込められた。その後、姫島の信徒たちもこの牢に入れられ、他の地区でも帳方宅が牢に充てられ、三十三名が投獄された……。
 そこまでを読んでいるうち、若い頃に読んだ小説のなかの登場人物、卑怯なキチジローとパードレを転宗させようとする狡猾な老役人(名前は憶い出せない――)の顔が浮かんだ。あの話もまた、この五島の住民たちの話ではなかったか……。
 この五島のひとたちは、その大部分が明治になってから解放されたというが、あの小説の世界が明治の初めまで続いていたのだ。――と思うと、自分のことではないというのに、やりきれない思いがした。この私も、あのキチジローのようにパードレならぬ家内に期待を裏切ったことを告解しながら、巡礼の旅を続けている現代の罪びとのひとりにあたるのだろうか。
 私は、頭のなかの眼を資料に転じて、案内文の続きを読んだ――。
 こうして昭和十三年に完成した「祈りの家」は(中略)リブ・ヴォールト天井を有する最後の教会になりました。 水ノ浦教会は入江を見下ろす小高い丘の上に建てられた白亜の優美な教会で、沖合いには、百数十年のキリシタンの歴史を刻み、今は無人となった姫島も望めます。木造の教会内部は、リブ・ヴォールト天井が優しい曲線を描き出し、大きな窓から差し込むやわらかい光が堂内にあふれています。尖塔がそびえる水ノ浦教会は、青い空をバックに絵になる美しさで多くの人を魅了し、訪れる人が後を絶ちません。
 そのとおりだと思った――。
 そうでなければ、救いはあるまい。結局は、あのパードレだって、転んで幕府の手先になったのだから……。いつかは、こうやって、ひとびとに畏敬のこもった優しい瞳で眺めてもらえる存在になるはずだ。
 私は、教会のなかに入った。そこには誰もいなかった。
 確かに美しい教会だった。これがリブ・ヴォールト天井というのだろう、その天井は円柱から弧を描いて達した羽根のような趣きを湛えていた。高い窓からは優しい光が降り注ぎ、正面には十字架に架けられたままのキリスト像があった。
 ある意味、私にはその姿は生々しかった。この教会は生きている。生きて、いまだに信仰されている。その事実が私を撃った。生々しく、かつ美しいがゆえに無信仰の私のような者にも慈悲が与えられている……。
 果たして信徒でなき者の行くパライソも、このように清楚で穏やかで、静謐な世界なのだろうか。私は、最前列の左側の席からキリストの顔を見ようとしたが、よく見えなかった。いや、見たくなかったのかもしれない。どこか自分の生きざまに疚しさを感じているのだろう。キチジローになった気分で長い間、その姿を見上げていた。
 三十分も経った頃、私は車に戻り、384号線へ出て、右へ進路を取った。
 下り坂を降りた辺りから、海岸がすぐ真横を走った。対岸に山々が見える、美しく穏やかな入り江だった。海岸沿いの道は細く、ときおり、海の姿を見えなくさせたが、私を飽きさせなかった。
 道はいつしか二車線になり、384号線に戻ったのがわかった。海が切れ、平坦な道が続いた。水田であろう干潟のような平地が見え始めてすぐに三叉路に出たが、迷わず右に進路を取った。橋を渡り、川沿いの道に沿ってハンドルを右に切った。
 川だと思っていたが、暫く走ってみると、そこが河口で海に続く道だと判った。川にしては、水の色が青過ぎた。まるで運河だ。前方が開けてきて、川幅がそれまでの五倍以上の広さになっていた。快適な海沿いの道が急に細くなり、地道のような崖っぷちの道が山を登った。道は、どんどん上へ上へと昇り詰めていく。
 道はますます細くなり、対向車がくれば離合できないほどになっていた。どこかに待避所はあるのだろうが一体、どんなところに行き着くのか見当もつかなかった。
 ヘアピンカーブをいくつか過ぎた頃、下り坂になった。
 ――かと思えば、また昇り始める。このままだと、後戻りして引き返すことはできない。行き着くところまで行くしか、方法はないのだ。この険峻なヘアピンカーブの道をバックで戻ることを考えるだけで、恐怖が走った。
 不安になってきた頃、カーブになったところが膨らみ、そこで離合できるようになっているらしかった。しかし、何回も切り返してユーターンする気力はなかった。その先は、やはり細い道になっていた。ここまでくれば、最後まで行かなければきた意味がない――。道がある以上、どこかに行き着くはずだ。
 道は、山中をどんどん登って行く。海が二度ほど顔を出した。どうやらガードレールのあるところは、右側に海が見えるようになっているようだ。また下り坂だ。坂はどんどん降りて行き、左右にあった林は途切れ、視界が完全に広がった。平坦な海岸線が続き、あっという間に入り江の海が行き止まった。
 振り返ると、入り江の先に山が遠くに霞んでいる。まだ進めそうなので、その先を行ってみる。数分後には登りになり山中に入って行く。恐ろしいヘアピンカーブを二つ越えると、左側は深い谷。開けた道に先に建物の姿が――。
 どうやら民家のようだ。
 なおも行くと、そこはもう完全な行き止まりだった。それ以上先は進めない。バックして、さきほどあった民家の敷地でユーターン。こんなところにも、ひとが住んでいるのだな――と妙な感懐を覚えた。さぞかし不便なことだろう。
 こうなっては自業自得――。あまりにも右へ右へと進路を取り過ぎたようだ。元きた道を粛々と戻るしかない。元きた橋のところまで辿り着き、おそらく384号線であろう二車線の道を右折した。反時計回りで行く場合、右へ右へと取って行くしかないのだ。小学校らしき建物横を過ぎると、上り坂となってトンネルが現れる。
 トンネルを抜けると、右へ行く上りの坂道があったが、さきほどのことも考え、今回はパスし、そのまま二車線の道路を進んだ。あんな細い道を、くねくね行くのは懲り懲りだった。たまたまユーターンできたからいいものの、あのままバックで戻るとなると、何十分ロスをするかわからない。
 またトンネルがあった。今度のは先ほどのより長そうだ。出た――と思った途端、眼と鼻の先にまたトンネルが現れ、一瞬にして吸い込まれた。と、またトンネル。トンネルというのは、便利かもしれないが、急がない旅を続けている者にとって、落ち着かない気分にさせてくれる厄介な存在だ。
 しかし、その前にはまたトンネルが――。
 一体、いくつあったら気が済むのだ。よほど海岸線道路の作りにくい地形なのだろうが、こうもつぎつぎ現れてくれては、数えるのも煩わしくなる。と、ようやくトンネルも疲れたらしく、もう現れず、平坦な直線道路が真っ直ぐに続いた。左手に看板が現れ、白良ケ浜万葉公園とあった。
 案内マップで見ると、展望所的なところもあるようだったが、距離とアップダウンがかなりありそうなので、トライはしないことにした。昨日の大瀬崎周辺での歩きが大分、脚にきているのだ。歩くよりは足を伸ばしたかった。そしてどこか、もっと景色のいいところで昼食タイムにしたかった。
 その先に二股に別れた道があり、左は上り、右は平坦な道に出た。原則どおり、海沿いになるであろう右方向への進路を取った。入り江を渡る橋が見え、その先に見えるはずの海は浜になっている。私はそちらへ向かうべく、また現れた分かれ道を右に進んだ。もうすでに384号線は外れている。
 おそらくこれが、233号線なのだろう。私は右手に開けてきた溶岩海岸の海を見ながらカローラを走らせた。快適な海岸道路だった。このどこかで昼食タイムにしてもよいと思ったが、なかなかこれという場所に行きあたらない。
 そうこうするうちに平野部に入ってしまい、しまった――と思っているうちにアスファルトの道路の様子が変わって、レンガ色をした遊歩道のような道に出くわした。ふと見ると、道端の小さな案内に「千々見鼻潮騒の径」とあった。
 ちょうどその境目になったところが転回点のようになっており、そこで車を停め、防波堤になっている石垣の上に座って、待ちに待った昼食を取ることにした。

 二十二 偽りの仏教徒

 待ちに待った昼食は、とても美味しかった。
 美味しかったのは美味しかったのだが、辺りに誰もいない――というより、知っているひととていない日本の果ての島に来て、海を眺めながらひとりで食べる握り寿司の味は、切なく侘びしかった。目の前の浜は熔岩海岸となっていて、遠浅ではあったが、その遠浅の分だけ、明るく透き通ったグリーン色をしていた。確かに潮騒の径というだけあって、波の音は今日の天気に相応しい音になっていた。
 テトラポットがセメントで打ち固めた防波堤の前に数知れず積み置かれているさまは、まるでこの島の住民を護っている古代の兵士たちの姿のようで、頼もしく思えると同時に少し、もの悲しかった。
 海は凪いでおり、風が少しだけあった。
 潮の香りが鼻腔を通り、肺を満たした。
 私は、このテトラポットのようにはなれなかった。それどころか、それに護られる防波堤のように、その後ろで波に耐えていただけだった。荒波を全身に受け、その波の衝撃を弱めていてくれたのは妻だった。
 なにもしてやれなかった、いや、なにもしてやらなかった自分が情けなかった。やろうと思えばできた。――はずなのに、やらなかった自分が恨めしかった。
 おそらく恨んでいるだろう。
 あの世に行っても、相変わらず、私の欠点について思いっきり、悪態を吐いていることだろう。あしざまに、そして憎々し気に……。
 私は空になった発泡スチロールの弁当箱や包み紙、割り箸などをレジ袋に入れ、ボストンバッグに仕舞った。どこかでゴミ箱があれば捨てるつもりだった。まさかこんなところに捨てるわけには行かなかった。
 道の両側が芝生になった優雅な小径を、私はゆっくりと車を走らせた。人間が歩くより少し早めのスピードで走った。右前方に島が浮かんでいた。あれが姫島なのかどうかは分からなかった。だが、多分そうなのだろう。あれ以外に島らしき姿は見晴るかす先にはなかった。二台がすれ違うことのできない径だと思い、対向車が来ないかと心配していたのだが、その先に一台分だけのスペースが作られていた。
 いずれにしても、どちらかがここまでバックして戻ることになる。そのようなことがないようにと祈りながら進んだ。今度は、カーブの先に左側が退避所になっていた。道は続いているが、あまり案ずることはないのかもしれない。
 その後、いくつか待避所が設けられているのがわかった。景色は申し分なく、奇岩の続く波打ち際も普通の海とは違って、眼を愉しませてくれた。おそらくこの海岸まで熔岩が流れてきたのだろう。まさに荒磯のイメージだった。
 間もなく、径は海岸から離れ、左方向に弧を描いてカーブして行く先に、熔岩かなにかで造ったような黒い石垣が見えてきた。立て看板が出ており、そこに「史跡 防風垣」とあった。ここにも、島の住民を護る兵士たちの姿があったのだ。
 そして三叉路に突き当たり、レンガ色をした遊歩道は途切れ、また灰色の広い径が復活した。おそらく233号線に出たのだろう。そのまま真っ直ぐ行くと、真っ白な砂浜の広がりを見せる道路となったが、その砂浜も随分遠浅であることが、そのエメラルド色でわかった。
 途中、径が二手に別れ、右へは下り坂、左は上り坂となっていた。右側に案内が出ていて、海沿いに行くと高崎鼻、左は三井楽教会となっていた。こうしてみると、「鼻」はどうやら「島から突き出た先端」ほどの意味合いで使われているのだろうとわかってきた。突き出てはいても、岬ほどでもなく、半島でもない。もちろん、崎でもない。ほんのちょっぴり人間の鼻のように突き出た部分を指しているのだ。
 そういえば、学生時代に手にした古い本に語源学だったか、民俗学だったかは忘れたが、「は」は「もの」の破れた状態を言い、「端っこ」の「は」の字も「もの」が突き出たり破れたりして、その肌を露わにした状態を指していると読んだ覚えがある。
 つまり「肌」の「は」も、「端」の「は」も、人間の「歯」もみんな白くて、その先端を露わにしているのだ。「破れる」の「破」も、ものごとを露わにする作用がある。いままで単調に続いていた直線や秩序も、乱れれば、そこで「破」となり、その状態が露わとなる。「鼻」はまさにその突端であり、単調さを破る突起物なのだ。
 ひょっとして「ハレ」と「ケ」の「ハ」もそれなのかもしれない。それなら、いっそ「ハ」だけにすれば語呂もよく、使いやすくなるのだが……。
 いずれにせよ、鼻はさきほどもあった「千々見鼻」と同じで、さほど変わらぬ景観をしているだろうという読みで、進路は教会のあるほうに取った。
 細い上り坂を暫く行くと、三叉路に突き当たった。正面に案内があり、右が「三井楽教会」となっていた。右にハンドルを切り、暫く行く。と、左に行く道が現れ、案内板に従って左折。途中、左折する細い道があったが、太いほうの右の道を進む。十字路が現れ、案内板に右へ「三井楽教会300m」とある。
 そのまま進むと、左に赤い屋根が見え、右に白い塔のようなものが見えたが、教会らしきものはない。左側の空き地の先に小規模な墓地がある。これ以上行っても、民家らしきものがないので、空き地でスウィッチターンしてゆっくり戻ると、左側に「カソリック三井楽教会」と門柱にあった。
 向かいの空き地に車を停め、門を入って行くと、正面にピカソのゲルニカを想わせる色彩感覚にあふれた壁画のある建物があった。上を見ると、簡素な白い十字架があるので、そこが教会であるのは間違いなかった。私は手元に持ってきた資料を読み始めた。ここでも水ノ浦教会で知ったのとほぼ同様の内容が記されており、男女三十六人の信徒が民家を改造した牢に繋がれた旨のことが書かれてあった。
 ただそこには、さきほどの資料とは違うテイストのものがあった。
 それは、同じキリシタンであっても、その在りようによって呼び名を変えていう習わしがあるということだった。ひとつは、一般によく用いられて有名過ぎる「隠れキリシタン」だ。だが、いまひとつのは「潜伏キリシタン」というらしいのだ。
 ホテルのフロントがプリントアウトしてくれた資料(彼はどうやら、年恰好や風貌からして私を郷土史家かなにかの研究者だと思っている節があったが、敢えて否定することもなく、有難くその資料を頂戴することにしたのだ)をもとに、私なりのやり方で概要を述べることにしよう――。
 三井楽地区には以前より外海から農民の移住者があったが、あまり公にはされていなかった。それが正式になったのは、実は大村藩による間引き政策を逃れるためだったというのだ。それから五島への農民の公式移住が始まったのだが、彼らは農業に従事し、冬の間は鯨加工の季節労働などで生計を立てていた。また表面上は明神様や山の神などを祀りながら、密かにキリスト教の信仰を守っていた――という。
 こういう形態のキリシタンたちを(学術的に正しいかどうかは知らないが――)隠れキリシタンならぬ「潜伏キリシタン」というらしい。彼らが五島を目指した表向きの理由は、過酷な大村藩の人口抑制策であったが、その内実は絵踏を強要する苛斂誅求から逃れ、安住の地で信仰と生活を死守するためだった――というのだ。
 浦上村(いまの長崎市――)で1790年から明治時代初期にかけて起きた、大規模なキリシタンへの四回にわたる弾圧事件のことを「浦上崩れ」と呼ぶそうだが、第一次流配浦上村の信徒の中心人物百十四名が萩、津和野、福山に流罪となり、第二次流配浦上村の信徒が鹿児島から富山にかけての二十二箇所に流罪となった。
 その数じつに、一村三千数百人に及んだ――という。
 とくに浦上四番崩れといわれるこの事件は1867年、浦上村の潜伏キリシタンが檀那寺の許可なく葬儀を行い、信仰をカミングアウトしたことにより起こった。
 もはや偽りの仏教徒であることが耐えきれなくなったためだろう。
 棄教しない浦上村の村民たちは、江戸幕府の指令で大量に捕縛されて過酷な拷問を受け、明治政府の手によって日本各地へ流罪の刑に処せられたのだった。
 今度は、さきほどの資料の続きを読んでみよう――。
 長崎の浦上二番崩れで放免された信徒の一部が三井楽に住み着いた。
 彼らは放免により浦上の自宅に戻ったものの、家の中は略奪されて何も残っておらず、生活できないため五島へやってきた。しかし、明治元年、久賀島に端を発したキリシタン迫害は三井楽にも及ぶこととなった。
 棄教を受け入れなかった三井楽のキリシタンたちは牢に繋がれ、鉄の十手や棍棒で殴られたり、算木責めや押しから責めなどの拷問を受けたが、信徒たちは過酷な弾圧に耐え、棄教者や死亡者を出すことなく大半は一ヶ月で出牢できたというが、全員が放免されたのは明治4年のことだった――という。
 教会に隣り合う資料館には、1968~1983年に司祭をつとめた田中千代吉という神父が長年蒐集してきたものが展示してあるという。
 五島のキリシタンや日本のキリスト教布教に関する資料、洗礼の儀式で代々使用してきた御水うけ水盤、抱き石責めにするため、膝の上に積み上げられた石、大浦天主堂が初めて発行した祈祷書、鯨漁が盛んだった時期の道具など、人々が大切に守ってきた貴重な資料が展示されているらしかった。
 文中、「久賀島に端を発する」ということばが出てきたので、併せて「久賀島牢屋の窄の迫害」として知られる悲惨な記録を、ここに記しておくことにする。
 久賀島内の信徒達が捕えられた。その思いは、浦上村のひとたちと同じだったのだろう。彼らもまた、耐えきれなくなってカミングアウトしたのだ――。
 後に五島崩れと呼ばれ、全五島における弾圧のきっかけともなったできごとで、十二畳ほどの狭い牢に二百名余が押し込められたのだった。
 これは畳一枚あたり十七人という狭さで、横になることもできず、排泄もその場にしなければならないという想像を絶する状態だった。男女を問わず、牢から引き出され、子どもまでも厳しく棄教を迫られ、苦しい拷問を受けたのだ。
 別の資料では、このときのことが、つぎのようにある――。
 一八六八年十一月十二日、二十三人のキリシタンが捕らえられ、福江城下の牢に入れられ拷問を受ける。その後、全島のキリシタン老若男女、幼児まで、二百人近い信者が捕らえられ、前の二十三人と共に松ケ原の牢に入れられ、さまざまの拷問を受ける。特に厳しい拷問を受けたのは三十歳の豊蔵と三十五歳の惣五郎だった(中略)。
 牢の広さは桁行三間、梁間二間の六坪(畳十二枚)のバラック――。
 中央を厚い板で仕切り、男牢と女牢に分け、ぴったりと戸を閉めきった言語に絶する狭いものであった。(中略)多くは、ひとの身体にせり上げられて、足は地につかず、さらに身動きすらできない状態であった。
 食べ物も小さな薩摩芋を朝にひと切れ、晩にひと切れ支給するのみで、子供を抱えた母親はそれすら自分の口に入らず、飢えを叫ぶ子どもの手に奪われる。そのような状況のなか、老人子供は飢えと寒さのため、つぎからつぎへと倒れた。最初に死んだのは七十九歳のパウロ助市だった。その死骸はすぐ葬ることも許されず、五昼夜も牢内に棄て置かれ、大勢に押し潰され、ほとんど平たくなってしまった。
 牢内にはトイレもなく、その不潔さと臭いは、例えようもなく酷いものだった。やがて蛆が湧き、土間全体に広がり、着物を伝って這い上がって行く……。
 噛まれた者も少なくはなかった。
 とくに十三歳のドミニカたせは、蛆に下腹を噛み破られて死亡した。そうして牢内に囚われること八ヶ月、一般信者はすぐに解放されたが、指導的立場の信者が解放されたのは、それから二年余後だった。その間、牢内で死亡した者三十九人、出牢後死亡した者四人を数えた(『長崎のキリシタン』片岡弥吉)。
 まさに筆舌に尽くしがたい惨状で、生半可な心構えでは読めない内容だった。
 私は、資料館に入って、田中千代吉という神父が長年蒐集してきたというキリシタン関連のコレクションを見て回った。
 さきほどの資料を読み終えたあとだったので、気持ちが沈んだ。
 裏へ回ると、岩で設えられた泉水のような造作があり、その石段の先に白いマリア像があった。近づいてみると、その厳かな優しさに心が落ち着き、キリシタン信徒たちの心情がほんの少しだけ、わかるような気がした。
 このような女性が母だったなら、誰も犯罪など起こしはしないだろう――などと不謹慎な思いも心をよぎったのではあったが……。あとで知ったが、あのような泉水施設をルルドというらしい。なんでも、フランスの泉からきているという。
 いやいや、ここは邪な茶々は侵すまい。
 折角、心を清めるべき最高の空間に身を浸したのだから――。
 私は、教会の門を出て、空き地で待っていてくれたカローラに「ただいま」を言い、ペットボトルのお茶をひと口飲んで、イグニション・キーをひねった。
 さあ、これから、福江島第二の北端「柏崎灯台」に向かおう。
 そこからは、あの姫島も間近に見えるはずだ。そして空海が歌を詠んだという柏崎公園に行き、その碑とその先の海を見る。最後に高浜の海を魚籃観音のある展望所から眺め、この長かった心の旅を終わらせるのだ。

 二十三 誰もいない海

 三井楽教会をあとにし、木立のなかを抜けると、視界が開け、海が見える三叉路に出る。これより先はないということは、左折すれば反時計回りに半島を西に向かっていることになる。周囲にはなにもない、平坦な道を淡々と進む。右前方に海が見え、その先にいかにも島らしい島がぽっかりと浮かんでいる。
 あれが、いうところの姫島なのだろう。
 分かれ道に出、左は上り坂、右は下り道。半島巡りの基本である右へと進路を取る。下り坂の集落を通り過ぎ、防波堤のある三差路に出た。眼の前に姫島が見える。左折し、海岸沿いを走る。道は少しずつ上りになる。姫島は薄い皿を伏せたようになだらかな表情をしている。断崖の茶と木々の緑が三対一の割合でコントラストをなしている。じつに長閑な風景だ。
 無邪気な子どもなら、カレーライスみたいだ――というだろう。防波堤はなくなり、地道に近い舗装路となる。駐車場を過ぎると、石像らしきものが見えた。
 どうやら、あれが空海の像のようだ――。その横に「辞本涯」と彫られた碑が建っている。手元の資料でみると、空海が日本本土の見納めと感じて「本土の果て地を辞す」の意で詠った句であるという。
 空海の見ている方向ではなく、碑の真後ろにある海に眼を転じてみると、姫島が眼と鼻の先にあるように見える。意外と、どっしりとした島なのだ。島の周囲は完全に断崖絶壁になっているらしく、寄り付く島がないとはこのことをいうのだろう。
 ちなみに空海は――というと「西」を見ている。
 その遥か先の海洋には、向かうべき上海があるからだ。本土の見納めとはいうものの、来し方ではなく、行く末を見ているところに、空海の空海たるところと言えなくもない。風待ちの間、この突端でさまざまな思いを抱いたであろう空海……。
 だが、残念なことに空海の乗った船はそれより相当、南に流されて福州赤岸鎮に上陸した――という。このときの遣唐使船団は四隻だったが、空海の乗った第一船と最澄の乗った第二船だけが、奇跡的に中国本土に辿り着いたのだった。
 私は、眼の前の白い灯台に行くために設けられたのであろう小さな階段を使って防波堤を越え、灯台の足元に立った。周りを見渡すと、周囲の浜はすべて黒々とした大小の溶岩で埋め尽くされた「黒色海岸」だった。
 私はそこに立って、上海ではなく姫島を眺めた。
 厳しい自然環境が想像された。
 あんなところで、キリシタンたちは潜伏していたのだ。隠れ住むのではなく、仏教徒を装って、役人と裏切者たちの眼を欺き、神を、そして奇跡を信じることによってのみ、辛うじてこの世の生を永らえていたのだ……。
 小説の世界とはいえ、キチジローもあの島に行ったことがあるのだろうか。
 いや、五島崩れや浦上崩れなどの弾圧がなくとも、キチジローのような人間は幾人もいたに違いない。生活のため、生命のため、我欲のため、己をこの世に縛り付け、生きていこうとした人間も、きっといたはずだ。
 私にはできなかった。たとえ、その時代に生きていたとしても、天国の存在が信じられない私には、それができなかった。キリシタンたちのような「死にざま」はできなかった。おめおめと泣き叫び、地面を這いずり回って赦しを請い、パードレや役人双方の気に入ろうとしたに違いない。
 私は無人島となった姫島を見納めにして、いままでの道を戻り、突き当たった三叉路を反時計回りに進んだ。単調な緩い下り坂が続く。細い道だ。小さな集落を過ぎた辺りから、少し上り坂となる。どこまでも続く、細い一本道。車は一台も通らない。バックミラーで見ると、姫島が背後に控えていた。
 本当に真っ直ぐな一本道なのだ。
 二股道を右に取る。長い一本道を行くと、姫島とは違った島影が、木立の間からちらりと見えた。この辺の樹木は、妙にくねくねとしていた。見ようによっては、根っこのほうが地面から突き出しているようにも思える。
 三叉路に突き当たり、進路を右に取る。未知の両側に白い車線があるところを見ると、233号線に出たということなのだろう。下り坂を左にカーブしながら降りる。左右に広い畑が広がり、右に脇道がある。
 案内板に「長崎鼻公園」とあるので、右折した。車線はないが、これもまた長い一本道のようだ。周りに樹木はなく、広い草原を行っているような感じだ。
 左右に樹木が茂るようになってきた頃、両側に車線のある三叉路に出遭う。目の前に海が見えてきていた。右にハンドルを切る。これまで一度だって、車に出遭ったことはない。まるで島全体を借り切っているような感じだ。
 左にあるのは港のようだった。漁船のような船が陸に揚げられていた。
 道沿いに海があり、緩いカーブが右に続くと、その先にまばゆい海が広がり、クジラが半身を出して泳いでいるような島が見えた。左にある海岸は、やはり荒々しい熔岩でできた浜、いや、磯というのかもしれない。友人の父親が磯釣りで波にさらわれて死んだ話を憶い出した。だから、多分、こんなふうなところだったのだろう。
 前方に灯台らしきものが見えてきた。荒磯の海岸はますます広くなっていた。
 そのカーブの一番膨らんだところに立て看板があった。車を降りて近づいてみると、この磯でアワビやトコブシ、イセエビなどを採るのは禁止とあった。
 やはり、こういったところでは、いろんなものが採れるのだろう。そのカーブを過ぎてしばらく行くと、左右に芝生の草原が広がり、道の色もアスファルトから例のレンガ色した遊歩道が真っすぐに伸びていた。広々とした空間だった。
 雄大な景色だった。右に待避所があった。
 これ以上、先へ行ってはいけないという合図なのだろう。
 私は、待避所で車を転回させ、遊歩道に降り立ち、前方を眺めた。レンガ色の小径が海につながって行くところがなんとも言えなかった。こんなに低いところにある径がそのまま歩くと、海に入って行く光景が眼に浮かんだ。海は逆光で、空の色をしていた。静かな波だけが自分が海であることを主張していた。
 私は、広大な海を前方に見据えながら、元きた道を戻った。
 素晴らしい光景だった。本来は予定していなかった道だが、寄り道してみてよかったと思った。両側に車線のある道路に出ると、右に進路を取った。もうここまでくると、進行方向は西ではなく、南下しているはずだった。
 そのまま、迷わず、233号線であろうその道をたどって前へ前へ進んだ。長閑な田園地帯を快適に進んだ。三叉路に突き当たった。中央車線のある道路だった。384号線であろうことは間違いなかった。案の定、その三叉路には右が384号線であり、それを行くと荒川と高浜に行き着くことを示していた。
 さすがに384号線は、太いだけあってとても走りやすい。――と思ったのも束の間、その先には大きな山があり、行く手を遮っていた。
 代わりに、どっしりとしたトンネルが口を開けて待っている。
 その手前で道は二手に分かれ、右の道は緩い上り坂。高所へ向かう道のようだ。高所とは、もちろん展望所のこと――。山が立ち塞がるということは、その頂上付近が件の魚籃観音展望所である可能性を示唆していることになる。
 いっぽう左のトンネルを行くと、高浜だ。原則でいえば、右の道を行けばいいということになる。――というより、高浜は高所から見下ろす景観のほうが最高に素晴らしいからだ。日本一美しい海水浴場といわれる所以がここにある。
 こんもり茂った樹林の間を道は、上りながら続いて行く。
 カーブに差し掛かる手前に「高浜万葉植物公園」の看板がある。右手方向の視界が広くなり、山際の崖で陰になっていた道が明るくなってきていた。右前方の眼下に海が姿を現した。ガードレールの先にトイレのような建物が見え、その横にある細い地道の手前に車止めの逆U字形バリカーが、ふたつ突き刺さっている。
 ここからは歩け――ということだろう。私は車止めの手前にカローラを駐車し、手にペットボトルとかんころ餅ひとつをもって、その道を登った。樹木のトンネルが優しい木洩れ日を届けてくれていた。その先に赤錆びた鉄パイプの手摺がついた階段が見えた。どうやら、その上は展望台になっているのだろう。
 上ってみると、観音像らしき像が左方の海を見下ろしている姿があった。その基壇の左側を通って、少し先を行くと、見えた。
 あの観光案内に、そっくりそのままの高浜の姿が――。
 確かにその海は、三色のグラテーションが続く遠浅の海だった。
 海波打ち際の海は明るいエメラルド、中間はコバルトブルー、そしてその先の外洋に続く深い海は、ナオのいうドラゴンブルーそのものだった。それが陽の光を透き通らせて、きらきらと海底の砂まで輝かせているように見えるのだ。。
 静かな海、奇麗な浜だった。こんなきれいに輝く海は見たことはなかった。穏やかに凪ぎ、落ち着いて風にそよいでいた。
 そのまま、真っ直ぐ手摺に沿って進むと、正面にふたつ仲よく並んだ島が見えた。
 観光案内マップによると、嵯峨ノ島というらしかった。それをさらに右へ行くと、波止場のようなものが見え、その前の海は完全にエメラルドクーリーンになっていた。つまりは、海底の砂はナオも言っていたように、非常に細かくて白いのだろう。だからこそ、あんなにもきれいに海底まで輝くような海になるのだ。
 よく見ると、波は大きくうねるようにして海洋に向かって進んでいるようだった。いや、波というより、これがいわゆる潮というのだろう。それが外の海に向かって湾曲しながら後退しているのだ。
 私は、魚籃観音の台座の前にある三段ほどの小さなセメント階段に腰を下ろし、かんころ餅を食べた。生れて始めて食した味だったが、どこか懐かしい味がした。
 観音様の顔が向いている海を眺めながら、それを頬張り、ペットボトルのお茶を飲んだ。ほんとうにこんな長閑な海は、もう拝めることはないだろう。
 最後の最後に、引いて行く海を眺めた。潮目というのだろうか。白くなったところが沖へ沖へと動いているのがわかった。その近くに漁船が浮いていた。
 私はカローラの待つところに戻り、左回りのカーブを下った。道は、ほぼ直線で続き、そのまま384号線に繋がった。右折するとき、左を確認すると、トンネルの出口があった。つまりは、行く手を塞いでいた山が高浜に行く近道を掘らせたということなのだ。トンネルを過ぎると、すぐそこは高浜海水浴場だった。
 右に見える、エメラルドの海と白い砂浜。少し行くと、右側に広い駐車場が見えたので、そこへ入ることにした。車が四~五十台ほどはゆうに置けるだろうと思える駐車場だった。一番奥のスペースに車を置き、浜に向かって歩いた。
 小さな松林を抜けると、そこはプロムナードのようになっており、海の家のような施設前を通り過ぎると、浜に降りる手すり付きの階段があった。砂浜に小さな川が浜を横切るように流れていた。川のなかほどに岩とセメントのブロックのようなものがあり、その上を歩けば川が越えられるようになっていた。
 砂は確かに細かかった。ナオの言うとおりだ――。
 海に近づくにつれ、砂浜はさざ波が通ったあとのようになっており、小さな段々畑かミニチュアの千枚田を想わせた。そこから先は短靴では進めなかった。長靴でも履いていれば、だいぶ先まで行けそうだったのだが……。
 海がその水量を増すぎりぎりのところで、波打ち際となり、白い波頭が遠くから微かに聴こえる潮騒を届けていた。
 風はなかった。ただ静かだった。私のほかには誰もいない海だった。

 二十四 ルルドの聖マリア

 時計を見た。三時五分過ぎだった。
 長く海を眺め過ぎたのかもしれない。私は焦った。
 四時に乗船手続きをするには、あと五十五分しかない。私は384号線を南下し、カーブを描いたトンネルを抜けると、右に広大な砂浜が広がり、案内が頻泊海水浴場となっていた。しかし、もう海を見る余裕はなかった。左に谷を見ながら、一直線に384号線を上った。またトンネルが現れた。
 どうやら西海岸は、東のそれとは違って山が多いようだ。それだけ、海岸線は道路づくりに向いていないということなのだろう。
 幸い、出口が見えるほど短いトンネルのようだった。だが、S字カーブのあとにまたトンネルが見えてきた。海が見えたと思ったら、またトンネル。今度はカーブしたトンネルのようだ。しかし、長くはなく、すぐに抜けられた。
 と、思ったら、すぐにトンネル。徐々に海抜は低くなって、入り江の海がすぐ横に走ったかと思うと、上りになり、脇道が出てきて、左が「七嶽神社入口」とある。無視して本道を右に取る。
 三叉路に出、27号線に出たのがわかる。
 つまり、周回の折り返し地点まで到達したということだ。
 だから、これまでは右折優先だったが、これからは逆だ。左へ取って福江を目指す。
 ここは昨夜も通った道だから、大げさに言えば通い慣れた道だ。
 眼をつむっていても帰れる。
 わき目も振らず、どんな道に出遭っても、どんどん進む。ただし、三叉路は別だ。単なる四つ辻の交差点なら、突っ切れば済むが、三叉路の場合は、右へ行くか、それとも左へ行くか――で迷う。頼りになるのは中央車線の有無だ。
 目的地があって、脇道を逸れなければならない場合は別だが、ただ単に最終ゴールに着きさえすればよい場合は、なにも考えずにそれだけを目標に走っていればよいのだ。三叉路に出た――。
 右へ取れば、海に行き着きそうだが、迷わず本線を行く。
 上り坂の終わりにトンネルが現れる。このトンネルを越えれば福江の街は近い。
 暫くいくと、さすが福江に入ったらしくセンターラインも追い越し禁止のオレンジ色になっている。要は、ここからが町なのだ。町ともなれば、自販機も信号も見えてくる。いままで一度も眼にしなかったものだ。
 交差点に出る前の交通案内に、右が384号線で「福江港」とある。
 右へ取って直線道路を進む。49号線とやらに出、左「福江市街」とあるが、迷わず直進――。石田城の石垣が右手に見えてくる。まっすぐに進むと、港が見え、三叉路を右へ。真向かいに右の矢印があり、「福江港ターミナル」とある。
 考えてみれば、「ターミナル」というのは「最終」とか「終点」という意味なのだ。もちろん、いま流にいえば、「終末」という意味もある。
 まさしく私にとって、この福江の旅は終末ならぬ終焉を迎えたことになる。
 時計を見ると、三時四十二分だった。高浜からここまで、ほぼ三十数分で来たことになる。まさに余裕だった。あんなに焦る必要はなかったのだ。
 私は、フェリーターミナルの窓口で乗船切符を買ったあと、トイレに行って小用を済ませた。そして出港までに時間があったので、あまりにも食欲をそそる匂いをまき散らしていた一階フロアの揚物屋で「ばらもん揚げ」のエソと玉ねぎを買い、ターミナル二階の待合椅子に腰を下ろして食べた。揚げたての香ばしい香りと独特の甘みが口中に広がり、まさにフィンガー・リッキングな美味さだった。
 長崎港に着くまで、まだ四時間以上もある。念のため、おにぎり弁当を確保しておいてよかった――と思った。おそらくその間、空腹を覚えることだろう。一本目のペットボトルは、これで空になってしまったが、まだもう一本、手を付けていないのがある。焦る必要を感じないのは、用意万全だったからだ。
 これも家内に感謝すべき、躾けの一環になるのかもしれない――。
 時刻は、五時十分前になっていた。
 いまから出航しますよ――という合図でもあるのだろうか、私が時計を見るのとほぼ同時に怪獣が名残を惜しんでいるような汽笛が三回、海一面に響いた。それを聞き澄ましたように、フェリーがゆっくりと埠頭を離れて行く。
 フロントが早い者勝ちと言っていた客室の空きだが、割と早めに切符を買っておいた所為か、二等船室のどこにでも自由に席が取れた。席といっても、手すりで囲いがしてあるブースのような設えになっていて、背もたれができる椅子が用意してあるわけではない。せいぜい十数人が雑魚寝できるくらいのスペースだ。
 あの「久賀島牢屋」から比べれば、屁のようなものだ。
 しかも、ひとはあまりいない。長崎に着いてからの活動に備えてか、早々と毛布にくるまれて眠りに入っているひともいる。親子連れもいたが、幼い子どもたちは興奮しているのか、狭いブースを走り回ってはしゃいでいる。
 それこそ、ひとの身体にせり上げられ、足が宙ぶらりん状態のまま、身動きができない――というわけではない。まさに天国と言っていいだろう。
 だが、そんな客室にずっと座っていても、手持ち無沙汰なだけで、なんとなく気分が落ち着かない。退屈ついでに上甲板に出てみることにした。
 思ったほどに風は吹いていなかった――。
 多少、寒くはあったが、我慢できないほどではなかった。
 辺りはうっすらと光を失い始めていた。薄暮の少し前というほどの頃合いだった。
 甲板に立って、黒いシルエットになっていく福江島の島影を眺めた。その姿が徐々に小さくなっていくのを見ていると、オレンジ色をした小さな夕陽が、たなびく雲のその向こう側に沈もうとしていた。
 あの高く見えるところは、鬼岳なのだろうか。
 ――と見る間に、夕陽が島の向こうに完全に没してしまった。
 淡い光だけが島の陰影を映し出している。沈みかけたら、あっという間なのだ――と知った。その引き際のよさに妙な感心をした。人間も、ああ在らねばならないのだろう。家内も、あるいはそうだったのだろうか。
 私は二等船室に戻った。あれほどはしゃいでいた子どもたちも、流石に疲れ果てたのか、お母さんとお父さんであろうひとの膝の間で可愛い寝息を立てていた。
 ほかのひとたちも横になり、膝を折った姿勢で眠っているようだった。私も同様に毛布にくるまり、ボストンバッグを枕に横になった。船の振動が伝わり、多少浮き沈みするようなエアポケットに入ったような感覚が襲った。
 しかし、それもほんの五分か十分ほどの間だけだったろう。
 目が醒めたときには、フェリーはもう長崎の港に入っていた。船窓から見る長崎の街の夜景は、ずいぶん見窄らしく淋しそうに見えた。
 フェリーがその下を通り過ぎようとしている女神大橋が、夜の中空に見えた。
 その橋脚と橋がちょうど交差する辺りが白い光でライトアップされていた。巨大なクルスを仰ぎ見ながら、その下を通り過ぎているような気がした。
 あまりにもキリシタン信仰の強さに感化され過ぎてしまった所為なのか。その白く浮かび上がる厳かな様子が、ルルドの聖マリア像のように見えたのだ。
 私はボストンバッグを手に取ると、車両甲板に降り、下船の準備をした。
 フェリーを降り、高浜海水浴場が福江島にあることを教えてくれたレストランのある長崎出島ワーフに行ってみた。駐車スペースにカローラを停め、車を降りた。
 あの「太陽がいっぱい」の映像を想わせるレストラン街ともいえる海岸は、穏やかな光を放っていた。海岸通りは、その前の海に明かりを映して、静かに休んでいるようだった。外灯がわりか、並木から並木へ渡された電線から吊り下げられたランタンの淡いオレンジ色が、派手ではない分だけ、心を和ませた。
 後ろを振り返ってみると、長崎港ターミナルの埠頭が見え、その手前に大きな船が停泊し、窓がいくつもある白い船体を見せていた。道路沿いに海に向かい合って立つビル群からは、ハロゲンランプを思わせるような優しい光が出ていた。
 街の灯りが海面に映り、長い光の影が凪いだ海の表面に浮いていた。とりわけ、ビルの高いところに灯された赤と緑のローマ字のネオンの光は、他のビルの光とともに一幅の油絵のように幻想的な光景を魅せてくれていた。
 寂しくはあったものの、ある意味、心に残る美しい光景だった。私は、おそらく一生、この夜のことを忘れないだろう。
 夜景こそは美しかったものの、そこに立ち並ぶコーヒーショップやレストランはおしなべて閉まっていた。私は海岸通りを店の並びが途切れるところまで行って、それ以上さきにはなにもないことを見届けて、車に戻った。
 そして佐賀駅前のレンタカーショップでもらった観光マップを取り出し、すぐ近くにある「水辺の森公園」というところに行ってみようと思った。
 というのも、そこに本当の意味での駐車場があると思ったからだった。中途半端な記憶ではあったが、福江島に渡る前に、その公園の地図を見た覚えがあった。
 海岸に隣り合う片側一車線の道路を南下し、三叉路を右折。そのまま真っ直ぐ行くと案の定、左側に何台もの車が停まっていた。滅多に当たらない勘が当たって、思わず正解に気をよくしたものの、誰が褒めてくれるわけでもなかった。
 右側の岸壁には、漁船らしき船が何艘か、繋がれていた。
 つまりは、ここも船着き場の続きで、フェリーのように大きな船は停泊できないものの、適当な大きさのものなら、それが許されるということなのだと解釈した。おそらくここも、車でいえば月極駐車場などと同じで、それなりの使用料を支払ったうえで停泊することが許されているのだろう。
 車は、それ以上さきには進めない埠頭の端まで来たようだ。
 目の前は海だ。
 丁度その手前に、二台分のスペースが開いていたので、バックで乗り入れた。
 砂利の駐車場なのかと遠目に思っていたが、インターロッキング風のタイル貼り駐車場なので驚いた。砂利特有の音がしないのだ。立派な駐車場だった。
 有料なのかどうかも判らなかった。しかし、Pとある以上、停めていても文句を言われることはないだろう。
 やはり、予想していた通りだ――私はシートベルトを外しながら思った。
 ここで朝まで過ごすことになる。周囲が長崎の中心地だけあって、それなりに夜景の美しいところもあるのだろうが、うろうろ走り回って、体力を無駄に消耗するまでもない。少なくとも観光できた旅ではないのだから――。
 私は、運転中に脱いでいたダウンジャケットを羽織り、ヒーターを消してエンジンを切った。そして助手席に置いていたボストンバッグから、おにぎり弁当とペットボトルを取り出した。九州最後の夜になる。明日はK市に帰るのだ……。
 私はおにぎりを頬ばり、ペットボトルのお茶を飲んだ。
 三時間数十分ぶりの食べ物だった。これまた予想していたとおり、固くはなっておらず、適度な柔らかさと弾力があった。そういえば何度、手弁当を彼女につくってもらったことか――。その都度、会社が変わっていた。
 彼女流にいえば、すべて無駄になっていた。その気持ちに応えられなかった自分が疎ましかった。疎ましいのは彼女のほうが上だろうが、私にしてもそれなりに、こんな自分が内心では嫌だった。稼ぎもできないのに家政婦扱いしていたのかもしれない。
 深く考えもせずに、そして相談もせずに行動に移す自分が疎ましかった。
 船中で眠った所為か、眠気は感じなかった。身体は疲れを感じていたが、頭はそんな思いに囚われ、なかなか寝付いてくれなかった。
 深い眠りに落ちる寸前に、白い服装をしたルルドのマリア像を見た気がした。

 二十五 私の旅の道連れ

 眩しさに眼を開けると、港に朝がきていた。
 時計を見ると、六時三十九分。
 朝陽が水平線から全身を出し終えた姿で、長崎港の海を照らしていた。
 眼の前のビットに繋がれ、岸壁に係留された漁船は、その舳先に自動車のタイヤを無数につけていた。岸壁にぶつかったときの用心にと、船体を護っているのだろうが、その姿は口の周りを黒く塗った、どこかの漫画の主人公の間抜け顔を見るようで、とても滑稽だった。おそらく船長も、そのような性格なのだろうと可笑しくなった。
 私は、ボストンバッグから取り出した歯磨きと歯ブラシ、タオルを持って、Pと書いた入口付近くのトイレに向かった。爽快な朝だった。毎日が好天、というより快晴に恵まれていた。これもなにかのご加護をいただいている所為なのかも知れない。
 車に戻って、朝食がわりにとっておいた最後のかんころ餅を食べた。
 レンタカーショップが開店するまで、時間があった。夜は早い長崎だが、朝は遅いかもしれない。早くて九時。普通だったら十時だ。それまでに時間はたっぷりとある。観光マップを見てみると、この先に「伊王島灯台公園」というのがあるようだ。
 私は公園内を歩き回って、暫く海を眺めたあと車に戻り、灯台公園に向かった。
 灯台公園は、マップによると、海沿いを走る499号線を下って江川町というところで右折。街なかを通って香焼総合公園からふたつ目の島、伊王島にあった。ちょっとハードかもしれないが、往復三時間もあれば、行って帰れると思った。
 暫く走ると、片側二車線だった道幅が急に狭くなり、右側に海と対岸の山が見えてきた。中央車線がオレンジであるところを見ると、まだ499号線のはずだ。
 と、左右の分かれ道があり、左の道にトンネルがあった。左の道はオレンジのセンターラインだ。そのままトンネルに吸い込まれる。息が詰まるほど、思ったより長いトンネルだった。道はどんどん上り、徐々に下ったかと思えば、また海が右側に見えてきた。前方に交通案内板があった。真っ直ぐ行けば、野田崎・伊王島・香焼とある。
 ――と、その上に大きな橋が架かっているのに気づいた。ああ、そうか。よく考えれば、この橋は、昨夜見上げた「女神大橋」なのだ。バックミラーで見ても大きな橋だった。あの上から眺める眼下の海も迫力満点ものだろう。
 あのとき、この橋がマリア像に見えたのは単なる偶然ではなかったのだ。ネーミングがすでに「女神」になっているではないか。ということは、この橋を女神に見立てて造ったのか、予めそう呼ばれるのを想定して名付けた橋ということになる。
 確かにその姿は朝の光に照らされて、優美で神々しい。天に向かって青空を突き刺している橋脚は、まるで羽根を拡げて飛び立つ鶴の胴体のようにも見える。
 そこからはオレンジのセンターラインを目途にどんどん南下して行く。が、二股の分かれ道に出た途端、オレンジのラインが白の破線に。そのまま突っ切って499号線であろう白い破線に沿って進む。橋を渡り、片側二車線の大通りを南下。地面に矢印があり、その手前に「伊王島」とある。道は間違っていないようだ。
 そして三叉路に出、右折すれば29号線「伊王島」との表示が――。街なかを抜け、信号をいくつか過ぎ、三叉路に出るが、白線を優先して右へ進路を取る。突き当たった道を広いほうの左に進む。左に海が現れ、波止場もあるようだ。三叉路に出、進路を右に取ると、トンネルがある。小さなトンネルだ。道が正しいどうか悩んだが、行き着くところまで行くしかないと覚悟を決めた。
 狭い割には長いトンネルだった。明るさが恋しくなるほどの距離だった。土手を背景にした広い道に出た。白いセンターラインの道だ。それを右に取った。左側になにもないところを見ると、土手の向こうは川か海になっているのだろう。
 左側に広い海が見えてきた。朝陽が海面をコバルトブルーの色に見せていた。眩しい海だった。トンネルがあった。左へカーブした長いトンネルだった。さきほどのより長く感じた。おそらく一・五倍近くあったのではないだろうか。
 道はどんどん上りになり、朝の輝きが増してきた。長い橋が正面の山のなかに吸い込まれて行くように続いていた。
 橋の高さは圧巻だった。そこから見る海も最高だった。天気に恵まれたことを感謝した。橋を降り、海岸沿いを反時計回りに走った。途中に教会があることを知らせる看板があったが、あえて通り過ぎた。目的は灯台のある展望台に上ることなのだ。
 右に海の広さと碧さを味わいながら進んでいくと、いずれも細くなった道に出くわしたが、灯台が低いところにあることは考えられず、敢えて海沿いではない左の道を選んだ。山中の細いぐねぐね道を行くと、白線のある道とそれのない道に出遭った。白線のほうは明らかに下っていた。左に進路を取った。ほどなく「右→伊王島灯台」とある看板が見えたが、まだ行けそうだったので、そのまま左の道を進んだ。
 そこから暫く行くと、見晴らしのいい広い駐車場があり、車がすでに二台ほど停まっていた。どうやら、そこからは徒歩でいくことになっているらしい。私は車を降りて、丁寧に作られた遊歩道を上った。案の定、そこには車止めがあった。なおも行くと、急に眺望が開け、はるか先に海の水平線が見えた。
 きれいな石垣でつくられた鉄格子の展望台があり、階段がついていた。
 きれいに整頓された清潔な感じのする展望台だった。そこから見る眺望はどこをどう見ても、すべての海が見渡せるのだった。昨日に続いて美しく凪いだ海だった。遊歩道に戻り、遠くに白い姿を見せる灯台に向かって歩いた。大瀬崎のそれとは違って、ほぼ水平の歩きやすい道だった。
 途中、屋根は瓦造りながら、建屋は土蔵のように白い古風な建物があった。まるで造り酒屋の蔵のようだった。ルーバーも白く、建物全体が白いペンキで尽くされているようだった。ただ、その白さが長年の雨風で薄れさせられた感じで、ところどころが剥落して黒い地肌がうっすらと見えているのだ。
 そこが、なんともいえぬ年月の深さと相まって滋味を感じさせる。
 よく見ると、案内に灯台の資料館であるらしいことが書かれてあった。
 恐らくは、その昔、灯台守が住んでいた住居でもあったのだろう――と思った。ただ残念なことに、まだオープンはしていなかった。もっとも、開いていたとしても入りはしなかったし、その余裕もなかったろうが、このときほどカメラを持ってくればよかったと後悔したことはない。
 それほど絵になる――というより「絵にしたい」佇まいだった。
 カメラをやっている中出君だったら、これをどう撮っただろうか……。
 灯台は、さほど大きくはなかった……。
 むしろ愛らしさを感じさせるほど、清楚で可憐な灯台だった。
 しかも円くはなく、正面からみると六角形のようだった。事実、近づいてみると、その通りだった。そのそばに立って、大パノラマの海を遠くに見晴るかしていると、リュンと行った旅行のことが憶い出された。
 季節こそは違ったが、あのときもこの日のように快晴だった。
 あの頃は、まだ「希望」なり「未来」というものがあって、明日が今日と同じではないということを信じていた時代だった。
 信じていた――というより、疑っていなかったといってもいい。能天気で世間知らずで、無知でおバカさんで、好色なくせにむっつり助兵衛で、どうしようもなくあかんたれな男だったのに、それに気づかず、のうのうと憂き身をやつしていたのだ。
 それを指摘してくれたのが家内であり、シィーちゃんだった。
 だが、その通りの人間だった私は、そのことばを肯んじられなかった。むしろ、そのことばを無知から出た戯言と見做しさえしたのだ。
 悔やんでも、過去は戻ってくれはしない。私は灯台の階段を降り、そのさきに見えていた白い八角形の構造物のある展望台に向かった。遊歩道から続く、その白い構造物の白い手すりの階段を上ると、親指のようなかたちをしたユーモラスな突起物が八角形の真ん中に鎮座していた。
 眼下のみならず、見晴るかす大洋がどこまでも続いていた。灯台から見るより、その絶景さは格別だった。朝陽を照り返す海の面がきらきらと輝き、潮が沖へ向かって進んでいるのがわかった。後ろを振り返ると、小高い山の上に灯台が見えた。
 美しい光景だった。
 おそらくこれが、私にとっての見納めの海ということになるだろう。それも一生に一度しか訪れなかった、九州最後の岬となるはずだった。
 私は、たっぷりと海を満喫したあと、カローラの待つ駐車場に向かった。そして伊王島大橋を渡り、29号線を辿って、海沿いの道に出てから右回りに海岸線を走り、きたとおりの道を逆に辿って、499号線に出ると、眼の前に大きく翼を拡げた女神大橋の下をくぐった。やはり、この橋は圧巻だった。
 バックミラーで見ながら、これも見納めになるのだなと思うと、ふと心許ない気がした。海もここから先はもうない。トンネルが見えてきた。トンネルを越えると、もう長崎の街だ。念のため、広いところに出たついでにレンタカーショップでもらった地図で長崎営業所の所在を確かめてみた。もうここまでくれば、目と鼻の先だ。ある意味、自分の故郷のような気がした。中心街であろうビルの立ち並ぶメインストリートを行くと、左に「長崎駅」の案内がある。
 じつに大きな交差点だ。K市にはこれほど大きな交差点はない。気が付くと、大通りの真ん中を電車が走っていた。いまどき、こんな風景もあるのだ。
 それから二分も経たないうちに、左側に佐賀駅前にあった会社と同じ系列のレンタカーショップの看板が見えた。ここが乗り捨ての場所なのだ。ガソリンの満タン返しというのはしていない。手続きは、極めて簡単に済んだ。
 基本は、車のどこかに傷がついていないかどうか、内部に本来あるべきものがちゃんとあるかどうか――のようだった。
 九州訛りの店員さんに愛想よく送られて店を出た。
 これでもう、車とはさようなら――だ。
 カローラは大衆車だけあって、よく走ってくれた。
 まさに旅の道連れとして、最後まで尽くしてくれた私の相棒だった。
 静かに文句も言わず、辛抱強く私の帰りを待っていてくれた。物珍しいとはいえ、慣れない遊歩道を歩き、疲れ果てて戻ったとき、私を優しく迎え入れてくれるカローラがなかったら、私はあれほど海の景色に固執しなかったろう。
 いつもの私なら、早々に音を上げていたはずだった。
 ありがとう、私の旅の道連れカローラ――。

 二十六 龍の内臓

 長崎の旅を終えて帰ってきたとき、私は脱け殻のようになっていた。
 その翌日は日曜日だったので、一日中、ぼーっとして過ごした。パソコンも立ち上げず、メールも開かなかった。なにもする気が起きなかった。
 ――というより、なにも手につかなかった。そしてなにもしないまま、長崎最後の日にあったことを憶い出していた。
 あれは一体、なんという偶然だったのだろう。
 いま憶い返しても、悪戯好きの悪魔がなした仕業としか考えられない……。
 私はレンタカー・ショップに車を返したあと、ショップの店員さんに教えてもらった路面電車の駅に向かった。というのも、朝からかんころ餅一個しか食べていないので、昼食を済ませてから帰途に就こうと考えていたからだった。
 そして同じ食べるなら、長崎最後の思い出となる食べ物のほうがいい。そう思って店員さんに訊ねると、それの美味しい店を教えてくれた。
 店員さんの言っていたとおり、大通り沿いを長崎駅方向に向かうと、大きな陸橋があり、その下に路面電車の駅があった。それも、駅名が「長崎駅前駅」という奇妙なネーミングの駅だった。つまりは、駅前の駅だから、駅前駅なのだ。
 これがバスなら、さしずめ「長崎駅前バス停留所」とでもなるのだろうが、ものが鉄路だけに「駅」といわざるを得ない。そこで、かように奇特なネーミング――とはなったのだろう。
 暫くその駅で待っていると、電車がやってきた。
 驚いたことにその電車のデザインは、かつてのK市のそれとほとんど同じだった。緑とベージュのツートンカラー。一気に懐かしさが込み上げてきた。ひょっとして、この電車はK市の払い下げなのではないか。いや、おそらくそうなのだろう。
 仮にそうでなくても構わない――。事実はどうでもよくて、要は感興の問題なのだ。私自身にしてみれば、思い出のなかのそれと似ていさえすればよかった……。
 だが、電車のなかのイメージは、その昔のイメージとまったく同じだった。三十年以上前の世界にいる自分がまざまざと蘇った。この大通りは、今朝も通ったが、電車の車内から見る風景は、カローラから見るのとはまた違った興趣があった。
 なによりも線路の音が徐々に早くなり、その後、線路の繋ぎ目から出る音の連なりが醸し出す雰囲気がなんとも言えなかった。音がタイムスリップするのだ。
 車窓を過ぎ去る景色に眼をやりながら、若いときの思い出に浸っているうちに、九州訛りの親切な店員さんが教えてくれた築町という駅に着いた。築町という駅は、橋を渡ってすぐのところにあったが、それを戻るようにして橋を左折し、川沿いに暫く行くと赤い橋があり、それを渡ると「長崎新地中華街」というところに着く。
 その中華街の出口近くにある蘇州林という店の皿うどんが、地元のひとたちにも超人気で、極細麺に掛ける餡もそれにぴったりの味になっている――というのだ。
 ナオに勧められ、初めて味わって感動したのが細麺のそれだった。その後も皿うどんを食べるときには細麺しか食べなかった。それだけに、店員さんのお薦めは私の胃の腑を刺激した――というより、舌と口のなかをパブロフの犬にしてしまった。
 そのチャイニーズ・ストリートというべき路地の入口に立った私は、その活力の旺盛さに思わず、身震いを覚えた。その門は圧倒的な筋肉をもって、私に迫ってきた。
 なんという膨大なエネルギーに満ちた装飾か――。
 そのエネルギュッシュさは、日本にはないものだった。
 少なくとも、この私にはない。考えてみれば、これまで中華街というところに足を踏み入れたことのない人間だった。この情熱的で、濃厚な世界に長崎のひとたちが安んじているとすれば、その心情には相通ずるところがあるのかも知れない――。
 進取の気性というのか。それとも粘着的な顕示欲の精神というのか。
 オランダ坂といい、キリシタンといい、グラバー邸といい、そしてこの中華街といい、すべてが異文化の凝集したものであり、その思いがシンクロしてできた奇跡の足跡なのだ。異質なもの、異形のものに対して、ひとが覚える二極の感懐というものがあるとしたら、それは恐怖か憬れのいずれかになるだろう。
 私は、むしろ、その圧倒的な強さに対して恐怖を覚えた。端から負け犬のように股間にしっかり尻尾を埋めて、虚しい遠吠えをする哀れな存在になった。
 私には、追いて行けない世界だった――。
 その激しいエネルギーの発露するさまを目の当たりにすると気後れがし、気圧された気分になった。自分の卑小さが、ひときわ深く感じられた。
 ああ、やはり私は、何者にもなれない存在なのだ――。
 その矮小さに私は慄き、異文化の勢いにたじろいだ。この膨大な威力に立ち向かえる人間は、本土にもそうはいないのではないか――。
 受け容れるか、排斥するか。それとも、隠れキリシタンのように禁を解かれても、なおカミングアウトすることを許さず、クルワ(コンフラリア)の習いと思いとをひた隠しにする。その強靭な精神力、強烈な意志の力、類い稀な秘匿力……。
 それを本土のひとは、果たしてどれだけ持続しうるのだろうか。
 必ずしも、本土人でなくてもいい。大陸のあの膨大さをどれだけ許容し、吸収しようとしたか。それこそ、最澄や空海のように海洋の彼方に思いを馳せ、外つ国の文物を少しでも持ち帰ろうとした意欲を、現代人の私たちは持続し得るのだろうか。
 だが、少なくとも、ここ長崎にはそれがある。ここには、精神を沸騰させるなにかがある。私は、暫く中華門を見上げながら、思いに浸った。
 門はまさに異文化への登竜門だ。知らない世界への入口であり、知るという河の流れへの始発点だ。この門をくぐることによって、なにかが起こらなければならない。
 私は、この先にあるという、もうひとつの中華門に向かって歩いた。
 さまざまの店があった。通路ともいうべきその道は、人間の内臓か神経のように血の色を張り巡らし、私の脳を唆していた。しかし、その誘いには乗れなかった。隠れキリシタンのように頑なに――何者にもなれない、小さな自分を固持していた。
 この違和感のことはK市に帰ってから、ゆっくり考えよう――私は思った。
 色んなことが回り過ぎて、頭のなかが整理できなかった。不思議な空間だった、心を鷲掴みにして離さない、強力な胃袋と訴求力があった。
 ドラゴン――。そう、これはドラゴンの身体の内部なのだ……。
 だが、思いのなかでは、それ以上の内臓を見極めることはできなかった。その内側から、龍の内臓の在りようを見届けることはできなかった。
 私は五歩の間隔を十歩ほどの時間を使って、ゆっくりと歩いた。
 そうすることで、変な穴に落ち込むことを懼れたからだった。速足で歩けば、きっとどこかの陥穽に嵌る。そうなれば、身動きが取れなくなる。
 私が、私であり続けることができなくなる――。
 まるで暗闇を、手探りで歩いているような気がした。いつだったかに見た水木しげるの漫画の世界が、いま私の周りを廻っている。そんな気がした。
 美しいものを美しいものとして、そのままのかたちで受け容れる。
 ときに醜いものであっても、それを、そのままのかたちで受け容れる――。
 それが、生きるということではないのか。
 どんなに醜い過去であっても、打ち消さない。それが人生ということではないのか。
 消したい過去。なかったことにしたい過去。悍ましく見苦しい過去。そんな過去をこそ、ひとは背負って行かねばならないのではないか……。
 カオス――。そう、混沌こそ、人生という「ひとの歩みの世界」ではなかったのか。理路整然とした、誤謬の一切ない世界。妥協もなく、挫折もない。ただひたすらに正義を貫いて生きてきたという人間が、もしいたとしたら……。
 この世は、その者にとって絵空事に見えたかもしれない。
 だが、真に嫌というほど挫折を味わい、壁にぶち当たり、その都度、唇を噛みしめ、不本意なもの、不得意なものとも妥協し、己を偽りながら、偽りの生命を長らえさせてきた者にとっては、人生とは、正義を不正義とし、平等を不平等としてしか看做さざるを得ない、無間地獄の道行そのものなのだ。
 そこに救いはない。あるとすれば、神に祈ることでしかないのではないか。
 私がいま、感じている違和感の正体――。
 それがわかれば、私は救われると思った。
 私はときおり冗談めかして、家内の前で九州弁を使うことがあった。
 そんなとき家内は、思いっきり声を弾ませて笑ってくれた。それは、東北訛りの九州弁で、佐賀のことばでもなければ、長崎のことばでもないわ。あなたのは、博多弁の真似をした漫才風の九州弁よ――と。
 彼女の笑い声が懐かしい。その声が聴きたい……。
 そんな「重い」とも「辛い」ともつかない気分に晒されながら、店を見つけた私は、店に入るとすぐに皿うどんを注文した。そして出てきた皿うどんを口にした。芳ばしい極細麺のカリカリとした歯触り感。揚げた油の旨味が麺のなかまで行き届き、噛むたびに舌の上に広がる、しっとりした餡の甘味……。
 私の貧弱な筆力では喩えようもない美味さだった。
 これが、本場の味といえるのかどうか――私にはわからなかったが、そう言われればそうだったかもしれない……。私には、しかし、それが本物かどうか、本場の味かどうかの判定は、大して意味をなさなかった。
 要はまさに、その味がナオと食したあの味だった――ということだけだ。
 私は、その味をしっかりと脳裡の片隅に収め、長崎駅に向かった。
 さあ、いよいよこれで、九州での同行二人旅は終わりなのだ。これからは、完全に独りで生きて行かねばならない。もう誰も、私を助けてはくれない。
 明日からは、本当に独りで生きて行かねばならないのだ。

 二十七 旅の締め括り

 私を呼ぶ声がした。若い女性の声だった。
 振り向くと、小さな男の子が私に向かって走ってきていた。思わず、手を差し伸べて危うく転びそうになった男の子の身体を腰をかがめて抱き止めた。道中の飲み物を買ったあと、長崎駅前の高架広場に上がり、近くにあるベンチに腰を下ろそうとしているときのことだった。
「すみませーん」
 若い女性が走ってきて私に謝り、子どもの肩に手を置いて言った。「駄目よ、いきなり走ったりしちゃ」
 私を見上げるその子は、ふっくらとして黒い瞳をもつ可愛い子だった。
「おいくつですか」
 私は母親であろう、その女性に訊ねた。
「二歳と二ヵ月になります」
 母親は美しい笑顔で答えた。「もう、やんちゃで困っているんですよ」
「そうですか」
 私はベンチに腰を下ろし、眼の前に立つ男の子の両手を取ってぶらぶらさせながら言った。「可愛い盛りですね」
「まあ、そうなんですけど――」
 母親がベンチに腰を下ろし、男の子の頭を撫でながら言った。「いまみたいに、年配の男のひとを見ると、急に走り出したりしちゃって大変なんです」
「好奇心が旺盛なんですね」
「そうなんでしょうか」
 若い母親は笑って答えた。そして我が子を膝の上へ乗せて続けた。「――だといいんですが、多動症かなにかじゃないかと心配してるんです」
「まさか、そんなことはないでしょう――」
 私はことが深刻にならないよう軽く否定し、さきほどから気になっていたことを口にした。「ところで、さきほど『リュウちゃん』とか仰いませんでしたか」
「ええ、言いました。この子の名前です」
 母親は一瞬、明るくなったあと、申し訳なさそうな笑みで続けた。「ごめんなさいね、大きな声で――。吃驚なさったでしょう……」
「なるほど。それで合点が行きました」
 私は答えた。「実を言うと、私も幼い頃、同じように呼ばれていたんです。それで、奥さんのことばを耳にした途端、反応してしまって――」
「そうでしたか。それは奇遇ですね」
 彼女は、それまでの表情を和らげて訊ねた。「失礼ですが、下のお名前は――」
「龍三郎――と言います」
 私は答えた。「上にもいたようなのですが、戦後間なしのことで、栄養失調で亡くなってしまったようなんです。それで、龍三郎――と」
「そうなんですね。うちは『龍一』です。母がつけてくれたんです」
 彼女は明るい口調で、当時を思い返すようにして続けた。「長男だから『一』でいいって言うんです。単純でしょう」
「ええ、まぁ、そうですが――」
 私はなにか言わなければ――と、無理やりことばをこじつけて応えた。「昔のひとは、できた順番に数字をつけたがるんじゃないでしょうか」
「そこまでは確かに、わからないではないんですけど……」
 彼女は、さも愉快げな様子で続けた。「でも、なんで『龍』なのって――。そのわけは、いくら訊ねても教えてくれないんです。でも、わたしも実は、その名前は嫌いじゃないんです。なんでかは知らないけど、魅かれてしまうんです。Rの音が綺麗だからでしょうか。日本語で、Rから始まる単語って、あまりないでしょう」
「そうですね。確かにRから始まる単語は少ないですね。古くからある単語でも漢語由来のものが多いんじゃないでしょうか」
「でも、本当のところは、その原因は『音』じゃなくって、『意味』にあるんじゃないかって思っているんです」
 彼女は、膝の上でいつの間にか、転寝をし出した男の子の身体をゆっくりあやすようにして続けた。「龍っていうのは、想像上の産物で、実際には存在しない動物なんですよね。そこが、夢があっていい――と思っているんです」
「なるほど。龍ってことばには、確かに夢がありますよね」
 私は言った。「架空の動物とはいえ、神格化されているし、守り神でもある。いざというときには、天に昇って恵みの雨を降らすこともできるんですからね」
「ね、そこがいいんです。ですから、母には感謝してます」
 そう言ったあと、彼女は含羞んだ笑みを浮かべ、くすりと笑った。「あら、わたし初めて会ったひとにこんなことまで――。ごめんなさい。なんだか、わたし、昔から知り合いだったような気がして……」
「いや、こちらこそ失礼しました」
 私は、逆に恐縮して言った。「いいお母さんをお持ちでよかったですね」
「ありがとうございます」
 彼女は、それこそ他人とも思えない微笑みを浮かべて私を見、駅のほうへ顔を向けて言った。「母はいま、主人とそこのプラザで買い物をしているんです。この子がいると、足手まといなので、ここでふたりを待つことにしたんです」
「そうなんですか、それは、それは……」
 問わず語りに言われても、適切な返答の仕方が思い浮かばなかった。それで適当な応えを返したのだが、なんとなく気分が落ち着かなった。
 長崎駅からの列車の発車時刻は一時二十分だった。切符は用意したものの、それまでに時間があったので、この高架広場で時間を潰すことにした。――のだが、その広さと大きさに度肝を抜かれた。まさに「広場」という名に相応しい大きさだった。
 大通りのほぼ、ど真ん中にこんなものを設えられる感覚の大胆さに、この都市の度量を感じた。K市ではまず、お目にかかれない大きさだった。
「大きくて広い場所ですね」
 私は言った。
「そうですね」
 彼女は屈託なく言った。「皆さん、ここで待ち合わせをされるみたいですよ。雨の日なんかは、一階のフロアらしいですけどね」
「らしいですよ――というと、こちらの方ではないのですか」
「え、ああ。そうなんです。主人の実家は静岡なんですが、こちらは、わたしのほうの実家で――」
「道理で、ことばが違うと思いました」
「そうですか。自分では普通にしゃべっているつもりなんですが……」
 彼女は、ちらと私を盗み見るようにして続けた。「そう仰るそちらさまも――」
「ああ、そうなんです。ぼくも、ここの者じゃありません。いまからK市に帰ろうとしているとこなんです。たまたまここで休憩しようとしていただけで……」
「あら、これもまた、なんていう偶然なのかしら――」
 彼女は眼を丸くして言った。「母も若いとき、K市にいたことがあるって言っていました。大学があちらだったので。ひょっとして、お知り合いなのかも……」
「そうなんですか。これも、なにかの縁なのかもしれませんね」
 私はケータイを開いて時刻を見た。一時八分だった。「けど、単なる偶然が重なっただけですよ。でも、奥さん。リュウくんに出遭えたお陰で、わたしにはよい旅の締め括りになりました。ありがとうございます。お母さんにもよろしく」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
「ありがとうございます」
 私はボストンバッグを持って立ち上がり、仰向けに眠ったままのリュウくんに、バイバイの動作をして言った。「じゃ、これで――」
「失礼します」
 彼女は男の子を抱いたまま、深くお辞儀をした。
 急ぎ足で気が急くまま、切符を取り出して改札を抜け、プラットフォームに向かって走った。そしてホームに着いて、三分もしないうちに列車が到着した。ある意味、間一髪の差だった。あのまま、ぐすぐずしていれば間に合わなかったろう。
 ひとまず客車の自分の席に腰を落ち着けて、私は一息ついた。そして事前に買っておいたペットボトルのお茶をひと口飲んだ。列車が動き、景色が後退して行った。その流れ行くさまを眺めているうち、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。

 二十八 悪魔の囁き

 その笑顔が気になった。K市に帰り着き、一夜が明けて初めて気になった。
 それは、あの男の子ではなくて、母親のほうだった。朝のコーヒーを淹れ、オーブンで焼いたパンを齧りながら考えていた。
 リュウという名前は、 単なる偶然と考えてもよかった――。
 だが、彼女にとってはそうでも、私にとっては、それは私の知っている女性の生まれ故郷のできごとでもあった。これが気にならないはずがない。長崎といい、K市といい、中華街のイメージといい――。すべてがドラゴンの口に繋がるのだ。
 不思議な空間だった。心を鷲掴みにして離さない空間――。
 そこには、ドラゴンの強力な胃袋と訴求力があった。長崎という街は、私を捉えて離さなかった。下手な物言いで冷笑されるつもりはさらさらないが、まさに「ちゃんぽん」そのもののように、なにもかもがそこに収斂されていくのだ。
 海老、烏賊、蒲鉾、もやし、豚肉、人参、木耳、葱、筍、キャベツ……。
 それらを程よいかたちに整えてラードで炒め、豚のエキスたっぷりのスープに堅茹でのちゃんぽん玉を入れ、塩、胡椒、砂糖で味を調える。一方、カリカリに揚げた細麺にそれらの具を乗せ、片栗粉で溶いた餡を垂らせば「皿うどん」となる。
 このような食べ物を「発明」するのは、華僑ならではの知恵の最たるところではないのか――。そしてこのような食べ物を珍重し、誰憚らず「愛好」するのは長崎人の舌と胃、その心性が健啖であることの証拠なのではないか――。
 そんな風にしか思えないほど、長崎というところは、私になんらかの兆し――それも新しい認識の仕方――を示唆した。
 その兆しとは、ひとの心が完全に善悪だけで成り立っているのではなく、あるいは道理だけで生き死にがなされているのではなく、じつに混沌とした曖昧な概念だけで、その方向性を指し示しているに過ぎない――ということだった。
 この直観が、もし当たっているとするなら、あの「母親」は私の「娘」だった可能性も否定しきれない……。私は、その直観のありように身震いした。
 考えれば、じつに恐ろしいことだった――。
 年配の男のひとを見ると、急に走り出したりしちゃって大変なんです。
 彼女のことば――母親のことばが、その姿とともに浮かび上がってきた。
 ――ということは、彼女にはお父さん、すなわちリュウくんのお祖父さんに当たる人物がいないということを示唆しているのではあるまいか。しかし、本当にそうなのだろうか。年輩の男のひと――というのは、ほんとうに私の思うように彼女のお父さんに当たるひとを指すのだろうか。
 もしそうだとすれば、そのお父さんとやらは誰なのか――。
 もしいないのならばなぜ、母は娘にその名づけの理由を明かさないのか――。
 なぜ、彼女の母親は強いてシングルマザーであることを選んだのか。私の荒唐無稽な想像の世界が生みだした直観のありようは、果たして正しいのか。その想像の世界でいう「父の非在」とは彼女たちにとって一体、なにを意味したのか。
 私はもとより、彼女の名前すら訊ねなかった。
 その必要を感じなかったからではなく、訊くことによって生ずる、ある恐怖との衝突を避けたかったからだ。異質なもの、異形のものに対して、ひとが覚える二極の感懐のうち、私がこの異形のものに対して覚える感懐は怯えであり、恐怖だった。
 うっすらと心の奥底深くで蠢く「後ろめたさ」が私を支配していた。それを口に出すことで、それを訊ねることで、現われる真実の姿を見たくなかったのだ。
 だからこそ私は、心のどこかで気づいていながらも、敢えて「そうなんですか。これも、なにかの縁なのかもしれませんね」と惚けることができたのだ。そのあとに続く「単なる偶然が重なっただけ」という釈明的フォローも、その事実と真っ向勝負するのが恐ろしいという本能的恐怖心から出たものだったろう。
 すべては、私の怯えが作り出した直観であり、作り話なのだ。彼女の母親がK市で学生時代を過ごしたのが事実だとしても、それがそのひとであるとは限らない。
 すべては私が、長崎という異形の空間で身に染みて感じた直観、いや、違和感のなせる業なのだ。そこに論理的必然性はない。私という存在と長崎という空間がクロスオーバーして成り立った独自の空間。そして思い……。
 それは、歪んだ精神の兆しだったのかもしれない。私にしか聞こえない悪魔の囁きだったのかもしれない。だが、何をどう解釈し、否定し、考えまいとしても一旦、脳裏にこびりついたその思いは去らなかった。
 悪戯好きの悪魔が本当にいたとして、あのときの「偶然」は、果たして本当に偶然に偶然が重なっただけの、意味を持たない「創造物」だったのか――。それとも、重要な意味を持つ「必然の産物」だったのか……。
 もし後者だったとすれば、悪戯好きの悪魔は、私になにをさせたかったのだろう。あの一瞬の機会を私に与え、その判断を要求したのだとすれば、どのような判断だったのだろうか――。
 私の知っている、あのひとの姓は「有泉」と言ったはずだ……。
 訊ねようと思えば、訊ねられた。――にも拘わらず、私は訊ねなかった。この判断が結果として私を救ったのか。それとも、彼女たちのこれからを救ったのか。少なくとも、そのときの私の境遇を考えれば、後者だったと言っていい――。
 逆に言えば、卑怯な言い方かもしれないが、この私も救われたのだ。
 仮にそうだったとして、この私になにがしてやれたろう。
 彼女は、あの母子は、あんなにも幸せそうに見えたではないか――。
 仮に当時、私が父親であったとして、彼女をあんなに幸せな表情にしてやれただろうか。孫の笑顔をあんなに可愛く、あどけないものにしてやれたろうか。
 いうまでもなかった――。
 もうナオと呼ぶことは許されない。私の知るあのひとは、そのことを知っていたに違いない。知っていて、敢えて私には知らせなかったのだ。
 知らせたところで、どうなるものでもない。
 多分、彼女はそれを知ったとき、動揺し、迷い、悩んだことだろう。
 だが、結局はひとりで生きることを選んだ。仮に養子縁組をしたとして、なさぬ仲の夫に他人の子を押し付けることはできない。一人っ子であった彼女は、有泉家を継ぐために、他家に嫁さずにシングルマザーとして、その姓を名乗ったに違いない。
 そして、できた子が男の子だったならば「龍一」と名付ける気だったろう。しかし、できたのは女の子だった。そこで、その娘が長じて嫁に行き、男児を儲けたことで、念願の名前を孫に授けた――というのが、私の直観による真相だった。
 事実はどうかわからない。わからないが、私にとっては、それが一等、あり得べき真実だった。あるいは、そうでなかったかもしれない。そうでなかったほうが、私にとっては気が楽だったのは事実だが、その直観は揺らがなかった。
 つまりは、認めざるを得ないのだ。私が頼りにならず、彼女にとって同甘共苦して生きて行く存在ではない――ということを……。彼女たちは知っていたのだ。父や伴侶の存在がなくとも、充分幸せにやってゆけるということを……。
 それを実証してみせたふたりに、私がどんな面を下げて、会いに行くことができたろう。いまより一層、惨めになるだけだ。ちょうど、あのとき――。そう。彼女を送りにK市駅のバスターミナルに行き、見知らぬ男女が集って彼女の到来を待っているのを知って悲しく思ったように、しゃしゃり出る幕ではないのだ。
 私は、あの時点ですでに、彼女にとって思い出の一角に棲む存在でしかない。それなのに、このような事態が生じたのは、悪魔が何らかの悪戯心を起こしたか、それとも念のために私の真意を試そうとした所為なのかもしれない。
 いずれにせよ、私は、悪魔にそんな悪戯心を起こさせてくれた神に感謝した。
 もし私が長崎駅へ行かなければ、いや、家内が亡くなりさえしなければ、九州ですら訪れることはなかったろう。そして、彼女のその後の消息を知らぬまま、あの世へ行っていたことだろう。若い日の思い出が現実となって眼前に現れるとき、ひとはそのギャップに心奪われ、過去を懐かしむが、これは深入りすると、悪魔に足をさらわれるという前触れであり、警告でもあるのだ。
 もしまかり間違って、その現実に足を踏み入れると、過去の綺麗な面影はおろか、すべてが醜く卑しいものに変容してしまうだろう。
 なぜ、幸せに暮らしているわたしたちの前に現れたの。
 多分、彼女はそう問うだろう。あなたなんていなくても、わたしたちは充分、幸せに暮らしていたのよ。そんな幸せなわたしたちの生活を脅かしにくるなんて、なんて愚かなの。そんなことくらい、考えてみなくったってわかるでしょうに……。
 そう。決して悪戯好きの悪魔の策略に引っかかってはならないのだ。だからこそ、神はその悪戯を悪魔に許したはずなのだから――。

 二十九 自堕落の報酬

 キチジローになった苦い思いを噛みしめながら、私は断念した。
 逃げるわけではない。頬かむりするつもりもない。不確かな想像による直観だからといって、なかったことにしようという思いもない。ただ、不束をしでかした私のような者が、のこのことしゃしゃり出て行く事態が心許ないのだ。
 無責任ではあろう――。
 だが、無責任であるがゆえに、その想像力の咎は私に向けられ、荊の道として私に課せられる。私は「神の絵」を踏んだ――。
 自分自身が生き延びるために、カミングアウトしなかったのだ。
 そのことは、甘んじて受け容れねばならない。どんなに息苦しく後ろめたかろうと、疚しさに身震いしようと、それが私のなした所業の結果なのだとしたら……。
 その心情は、あたかも隠れキリシタンのそれに似ていたかもしれない。
 私は、そこまで考えると、騒ついていた心が鎮まった気がした。胃の腑にすとんと落ちなかったなにかが、ようやく棲み場所を見つけたようだった。
 私は空になったコーヒーカップとソーサーを洗い、食器乾燥機に入れてスウィッチを三分の一ほど回した。そしてデスクに戻って、パソコンを立ち上げた。
 個人的にやり取りをしている、特定のメル友というのはいなかった。それでもここ十日ほどの間に、色んなところからメールが届いていた。その数は百を下らなかったが、ほとんどが種々の情報を提供するサイトからのものだった。
 新たな情報を収集する気も、読む気にもなれなかったので、「差出人」だけを見て、ひとつずつ消して行った。そして最後に残った、ふたつ手前のメールに、とある人物の名前があった。それは、SD出版のT氏からのメールだった。
 メールには、私の原稿を本にしたい旨の文言があった。
 メールの受信日時は、家内が救急車で病院に運ばれた日の朝になっていた。私が帰宅し、倒れている彼女を発見したとき、そのメールはすでに届いていたのだ。
 なんという皮肉だろう。なんというタイミングだったろう。
 だが、彼女の状態を目の当たりにした私には、そんな余裕はなかった。病院、献体、火葬、役所での諸手続き、その他、その他……。それからの日々は、私にとって知らないことの連続だった。どの道、メールで届く情報など、私には用はなかった。
 用があるとすれば、T氏からのそれのみだった。原稿を送ってから一ヶ月間くらいは、ほぼ二日おきに、寝る前に見ていたが、それを過ぎて、一週間もするとあまり見に行かなくなっていた。二ヶ月も過ぎると、半ば諦めていた。
 それには、彼女の皮肉まじりの「駄作説」が生きていた。あなたはなにを期待しているの。そんな駄作、誰も読んじゃくれないわよ。そんな声が聴こえてきた。
 あまりにも、それが強烈だったため、私はメールを見に行くこともしなくなっていたのだ。しまいには見に行くこと自体が怖くなっていた。見に行っては空振りの日々が続くと、その落胆に精神が耐えられなくなっていたのだった。
 メールには二回の企画会議と営業作戦会議が開かれ、喧々諤々の議論が出て、ようやくGOサインが出たことが書かれてあった。しかも、それには、この種の出版物としては、異例といえるほどに「早い決定」だとあった。つまり、T氏としては、最善の、そして最高最速の、普段ならあり得ないほどの処置を早急に行ってくれたのだ。
 私のほうが焦っていた。藁をもすがる気持ちだったから、その期間がとても長く感じたのだろう。それにしても、すべては言い訳だ。
 私は、T氏に申し訳なく思った。
 ――と、同時に彼女にも済まなく思った。もう少し、もう少し早ければ、彼女は死なずに済んだかもしれない。もう少し、ほんのもう少し早く、私がそのメールを見ていれば、彼女はあの日、あそこまで飲むことをしなかったかもしれない。
 ほんのちょっとした手抜きで、ほんのちょっとした怠け心で、ものごとは手違いを起こす。避けようとすれば避けられたことを、ほんのちょっとしたスケベ心で突拍子もない過ちを犯す。運命の悪戯でもなければ、悪魔の仕業でもない。
 まさに自らの怠慢がなした手違いだ。それを必要とするときは見当たらず、不要なときに存在する。そんな手違いが、そのひとの今後の運命を司って行く……。
 選択は、ふたつにひとつ――。
 するか、しないか。そのどちらかだ。
 したことに対して後悔するか。しなかったことに対して後悔するか。ふたつにひとつだ。どちらが正しく、どちらが間違いであるとは言えない。駄文を諦めきれず、出版社に送ったこと。これは、結果としては正解だが、事実としては失敗だ。
 なぜなら、その目的が彼女の心を安んじさせるためにあったからであり、そのタイミングを怠慢のために逸したことが間違いだった。同様に、しなかったことに対して報われる善というものがあるとしたら、私が後追いをしなかったことだろう。
 そんなことをすれば、この世を去った者はいいかもしれないが、彼女の親戚や近隣の住民に、ひいては社会に迷惑をかけることは必至だった。
 その意味で、中出君が「そうしなくちゃ、しようがないもんな」と言ったのは、けだし正解だった。死なないかぎり、生きているしかない。簡単にいえば、そういうことだった。どこかが壊れて死なないかぎり、ひとは生きている。
 私は、返事のメールを書いた。すべてお任せします――と。
 あとは、校閲チェックが入って戻ってきた原稿を手直しするだけだ。基本的にT氏とのやり取りは、すでに経験済みだから、気心もそれなりに知れている。だが、家内が死んだことは知らせなかった。変に心配をかけさせることを恐れたからだ。
 そのこともあってか、ものごとはとんとん拍子に進んだ。
 カバーデザインも決まり、ページネイションも決まり、発行日も決まった。初版発行部数も、異例の一万部と決まった。シィーちゃんが「徒労という名のゴミ」と呼んでいた駄作が陽の目を見たのだ。
 結果は上々だった。
 書籍が書店に届いたその日、早々と売り切れた書店もあった。
 前宣伝の新聞広告が功を奏したこともあったのだろう。メディア・ミックスの広告効果は絶大だった。あらゆるメディアを使ったパブリシティ戦略が効いたのだ。もっとも、宣伝だけが売れた理由ではなかった。中身の面白さが口コミで伝わり、書店員のウィットで書いたPOPも、その売れ行きに加担した。
 その三週間後に増版が決まった。五千部が追加された。その一週間後、さらなる増版が決まった。同じく五千部の増し刷りが追加された。出足は早かった。全国の書店から発注が殺到した。書店は、基本的に委託だから、いくらでも欲しがった。
 売れ残れば、返品すればいいだけの話だった。
 それでも、本の売れ行きは落ちなかった。まるでストーリィ漫画を読んでいるようだった。T氏のメールの文字は踊っていた。あちらでは、会社を挙げて喜んでいる様子が伝わった。SD出版としては、久方ぶりの快挙だったらしい。
 それでも売れ行きが好調だったので、会社は思い切って三万部を追加した。
 振り込まれた印税が、これまでに見たこともない桁の数字で、私の通帳に記帳された。派遣でもらう年収の四倍近くあった……。
 本当に皮肉だった。
 家内がもう少し、もう少しだけ辛抱していてくれたなら――。。
 そう思うと、涙が出た。涙が出て、止まらなかった。なんで、こういうことになるんだ。これじゃ、まるで漫画じゃないか。私は腹が立った。無性に腹が立った。どうして運命は自分勝手なことをするんだ。悪戯にしても度が過ぎるじゃないか。
 これをまで天は、私の怠慢の所為だというのか。
 私のスケベ心が招いた、正真正銘の自業自得だというのか――。
 確かに、私は金が欲しかった。金が欲しかったのは事実だが、それより、もっと欲しかったのは家内の笑顔だった。
 家内の安心して、喜んでくれる笑顔だった……。
 カネが要らない――とは言わない。徒労にも似た努力の結果がゴミだった――とは言わない。だが、あの徒労がほかでもない、あの家内のためになされていた徒労だったということを、天は知らなかったとでも言うのだろうか――。
 そこには、確かに邪な考えもあった。
 夫としての名誉挽回がしたいという浅ましい側面も否めなかった。それをすることによって、褒めてもらいたいというひとしなみの私利私欲や功名心もあった。だが、それをも天は等閑視することはできなかったというのだろうか。
 天網恢恢とはいうが、どうして神はそこまで厳密でなければならないのか。
 どうして天は、そこまで残酷にならなければならなかったのか――。
 ひとの心が完全に善悪だけで成り立っているのではないという事実。人生が混沌とした曖昧な概念だけで、その方向性を指し示しているに過ぎないという事実。
 キチジローが、そうであったように――。
 その事実に照らして、もう少しだけ、そしてほんの数時間だけでも、ことが実を結ぶようにタイミングをずらすことはできなかったのか。私が邪悪だったとして、そんな細やかな希みさえ叶えてくれないほど、天は狭量な精神の持ち主だったのか――。
 だが、私に天を恨む資格はない。
 というより、そんな値打ちもない人間だった……。徒労のような自己満足の努力はしても、自分の嫌なことは勧められてもしない。このまま行くと危険だ――と親切心で知らされても、そのときが来なければ信じようとしない男だった。
 そんな男に、天が味方してくれるわけはなかった。
 その結末が、これだったのだ――。
 これが、天が私に課した軛であり、生涯にわたって背負って行かねばならない罪の償いのかたちだった。ひとの心に報いなかった褒章としての足枷。いくら悔いても取り返しのつかない邪悪な企み。その目的においては、意味をなさなくなってしまった報酬。喜んでくれるひとの顔もなく、実感の伴わぬ報い……。
 これが自堕落の報酬でなくて、なんなのだろう――。
 私は、預金通帳を片手に、机に打っ臥して泣いた。

 三十 世界は変わらない

 きみは、この世を去った。
 最後の出会いから、二十二年と数ヶ月後のことだった。
 きみは、自分でもそうとは知らずに、この世からいなくなった。クリスマスイブの朝のことだったという。だが、私がそれを知ったのは、その翌年の三が日が明け、十日も経ってからのことだった。
 あまりものショックで声が出なかった。私がきみの奥さんにようやく電話ができる気持ちに辿り着けたのは、それから一週間後のことだった。それまでは、電話をする気にはなれなかった。あまりにも訊ねることが多かったからだ。
 だが、結果としてなにも訊ねられなかった。
 奥さんのすすり泣く声とその問わず語りを聞いているだけで、なにも言えなくなってしまったのだ。私は彼女を慰めることばを言って、静かに受話器を置いた。
 なにを聞いても、なにを伝えようと思っても、電話では伝えきれなかった。
 それをきっかけに私は、この小説を書き始めた。きみとの思い出をよすがに、私の来し方を綴ってみようと思った。そして私が、どんな人間で、どんな邪な人生を送ってきたかを、天国のきみに知ってもらおうと思った。
 そしてできうるならば、この小説が書きあがった暁にはリュンにも読んでもらおうと思った。なぜなら、その小説を書けと言ったのは、彼女だったからだ。
 私は、それ以来、ほぼ毎日のごとく筆を執った。もっとも、筆を執るといっても、パソコンのキーボードを叩くことを意味するのだが、その日からの日々は、私にとって、ある意味、至難であると同時に至福のときだった。
 そしてそれが書きあがったのは、私が七十歳になる前日の七月六日の夜だった。書き始めてから、じつに一年七ヶ月が経っていた。その翌日がくれば、私は七十歳になるのだ。私は、リュンの情報を探した。
 ついに、きみとの約束を果たせたよ――とリュンに言いたかった。
 インターネットで調べると、リュンの情報はいくらも出てきた。彼女は、その歌の世界では押しも押されもせぬ有名人になっていた。九州出身の、著名な作家とも親交があったし、アマリア・ロドリゲス本人とも個人的に親交があったようだった。
 だが、彼女は病を得、帰らぬひととなっていた。
 それも、きみが亡くなる、ほんの半年ほど前のことだった――。
 インターネットの情報によると、彼女は、すでに他の病気で闘病生活を送っていたのだが、ついに斃れた――というのだった。赤の他人ならいざ知らず、揃いも揃って、私の盟友ともいうべき知り合いが同じ年に亡くなってしまうとは一体、どういう因果だろう。それも、たった少しの差でしかないのだ。
 私には、なんらかの悪意が働いているとしか思えなかった。
 インターネットで拾った当時のスポーツ新聞の記事に「ファドの魂を持つ歌手 神川月世さん、死去」の見出しがあった。それに続く本文に「神川月世(かみかわ・つきよ)さんが6月6日午後3時7分、肺がんのため札幌市の病院で死去。帯広市出身。66歳。葬儀は近親者のみで済ませた。喪主は弟、幸世(こうせい)氏。ポルトガルの民俗歌謡であるファドを歌う。ファド女王アマリア・ロドリゲスを継承するファディスタと称賛され、リスボン、マカオ、日本各地でコンサートを開催。2010年にポルトガル大統領より『メリト勲章』を受く」とあった。
 記事としては、人目に付かないほど小さかったのではないか。
 彼女を知らず、音楽に興味のないひと、それもファドとは縁のなさそうなスポーツ紙の男性読者にとっては、誰のことやらわからなかったかもしれない。その意味では、極めて限られたひとでしか知り得ない情報だった。
 いまとなっては知りようもないが、ある意味、それは私にとって悲しみを含んだ記事だった。亡くなったひとについての記事である以上、悲しさは免れるものではないが、それ以上に、その記事の扱いには悲しみを感じさせるものがあった。
 あまりにも寂しすぎるのだ――。無料掲載の訃報欄に出る記事でこそないが、私の知るリュンの死に関する記事としては寂しすぎるのだ。
 これでは、スポーツに縁のない者は知りようがないではないか。しかも葬儀は近親者のみで済ませたという。お互いに消息だけは知れるようにしておこう――と言っていたのに、これではあまりに倹しすぎるではないか……。
 いや、いや、ひとのことは言えはしない――。言いはすまい。
 仮に私が死んだとて、一体、誰がその死亡記事を引き受けてくれるというのか。
 新聞社に知り合いもなければ、懇意にしている親戚もいない。近所づきあいすらもしていない。仮に死んでいるのが発見されたとして、そんな私を訃報欄に載せてくれようとする奇特な隣人もいない。厚かましいにもほどがあろう。
 彼女の記事の露出が少ないと文句を言うのは、だから、筋違いなのだ。
 仮に彼女が生きていたとして、彼女が私の死を知ることは永遠にないだろう。ましてや齢七十の老人がK市の安アパートで孤独死したところで、誰が悲しんでくれるわけでもない。私は死亡欄に載ることすらない一介の庶民にすぎないのだ。
 その点、彼女はそうして新聞に掲載されただけでも立派なものだ。
 無名であれば、そうは行くまい。誰かがそのように手配してくれる手筈になっていた。あるいは支援してくれる団体、もしくは組織があったということなのだろう。
 新聞によると、彼女の死因は「肺癌」であったという。
 そのことを知って、私は自分の担当教官だった木村先生のことを憶い出した。
 あの先生もよく煙草を吸っていた。授業中ですら、煙草を燻らしながら、質問し、答えをはぐらかし、鋭い質問にはすっとぼけて、学生たちを文字どおり、煙に巻いていた。その意味では、私もよく煙草を吸っていた。それも受講中に……。
 リュンも私のそれに倣ったのだろう。ロングピースを愛用していた。
 ところが、歌手を志し、歌の先生に師事するようになって暫くしてから、銘柄が変わっていた。「峰」だったか「富士」だったか、銘柄は忘れてしまったが、当時では珍しいハードケース入りの高級な煙草だった。その先生は、洒脱なことば遣いをする男の先生で、彼女を「ジン」と呼んで、可愛がってくれるらしかった。
 そのことをなにげに報告する彼女の口ぶりに寂しいものを覚えたが、なにも言い出せなかった。口に出せば、私が妬っかんでいると知れるのが業腹だった。第一そんなことに目くじらを立てるのは、彼女にとって男のすることではなかった。
 その頃の私は、痩せ犬の甲斐性なしで、男ではなかった。
 それにしても一体、なんという日に彼女は生を終えたのだろう。
 6月6日といえば私の誕生日の一ヶ月前ではないか。しかも亡くなった年齢が66歳だという。こんな偶然があるものだろうか。きみの奥さんからの寒中見舞いが届かなければ、私は彼女が死んだことすら知らずに、死んでいったかもしれない。
 きみの死をきっかけにして初めて、私は小説を書き始めたのだ。
 これもなにかの縁なのだろう。きみの死が小説を書くきっかけをつくり、小説を書くことでリュンの死を知ることとなった。
 リュンの愛したファドは、ポルトガルの民俗歌謡であるという。そしてサウサーデとは、ファドに通底する悲しみであるという。
 よくよく考えてみれば、ポルトガル船が日本、それも豊後に漂着したのは1541年。いまからおよそ480年ほど前のことだ。それから、ポルトガル人は宣教師や貿易商人として、長崎の平戸にやってくることとなる――。
 その意味で、長崎とポルトガルは切って離せない間柄だ。
 リュンはナオと逢えはしなかったが、ファドに魅かれ、リスボンに行くことによって、間接的にナオと出逢った。ナオもまた、K市に行くことによって、私と出逢った。私は家内の死によって長崎を知ることとなった。つまり、家内を介して、すべてがどこかで繋がっているような気がした。ドラゴンの口……。
 私は、人生の奇妙を想った。
 なにも抗うのではない。してはならないことをしてきたわけでもない。ひとを謀って過ごしてきたわけでもない。
 ただ、いたって普通のことをごく普通に行ってきただけなのだ。
 そこには、野心もなければ邪心もない。多少の誇張や小さな嘘、ちょっとした自慢話の類いはしたかもしれない……。
 けれど、そんなのは誰もが大なり小なり経験してきたことだ。それすらも許されないとしたら、私はどう生きてくればよかったのか。
 それとも私は、これから先の人生を生きるために必要な、見なくてはならないものではなく、見てはならないものを見てしまったというのだろうか。それが長崎で見た、あのドラゴンの口だった――というのだろうか。
 その思いに至った途端、私の脳裏にT市の小学校に自転車で行ったときの情景がありありと浮かんできた。この妙な胸騒ぎは、あのときに感じたものだ。
 あの小学校で、用務員をしていた初老の男性は私に言っていた。
 戦時中、あなたのような青年を幾人も見てきた私にはわかるんですよ――と。そして、自分で自分を苦しめるようなことだけはなさらないでください。今後のあなたの生きざまに係わってきますから――とも言っていた……。
 確かに私は、その言葉を振り切って、史絵先生の屋敷に行った――。
 そして彼女が演奏しているというピアノの曲をいくつか聴いた。最初に耳にしたのは『埴生の宿』だった。そのときの感動は忘れもしない。だが、私は実際には彼女の姿を目にしていない。その哀切を帯びたメロディに心を浸しただけだ。
 仮にそれでもいけないとすれば、赴くこと自体が不適切だったということか。
 私にはわからなかった。なにがなんだかわからなかった。
 彼女は、家内は、その生命を終える前日の夜に言っていた――。
 あなたはバカなのよ。救いようのないバカ。本物のバカなのよ。だから、わたしはあなたを許さない。そう、彼女は前日の夜から飲んでいた……。
 しかし、そんなことを言われて、のんびりメールを見に行く気になどなれるものだろうか。私の耳許に、アマリア・ロドリゲスの美しく澄んだ歌声が聴こえてきた。例の『かもめ』という歌だった――。
 リュンが好んで歌っているという曲のひとつだった。
 十五年以上前、家内の死がきっかけで行った長崎への旅が、眼に浮かんできた。
 旅の初めに聴いた、彼女のラジオの声が耳朶に響いた。これは、若い日の恋を懐かしむ曲で、人生にさよならするときくらい、恋人が自分のことを思い直してくれればいいのに――とカモメに託した歌になっているんですね……。
 なんという結末なのだろう。彼女は、果たして亡くなる前、私を思い直してくれたのだろうか。そのとき、私は彼女をどう思っていたのだろう。
 結局、私はなにも変わらなかった。
 意識して変えなかったのではなく、変われなかったのだ。家内に言わせれば、変わろうともしなかったのかもしれない。
 しかし、敢えて言おう。私は、変わらなかった――。
 変われるなら変わりたいとは思ったし、祈りもしたが、どうしても変わらなかった。自堕落が変わることを許してくれなかった。齢七十を過ぎたいまとなっては、その気力もなかった。変えたいとも、変わりたいとも思わなくなってしまった。
 経験とは、自分が意識的に注意を向けようと決める事柄である――と言った心理学者がいたそうだが、私の場合は、意識どころか、意図すらしていなかった経験ばかりの人生を送ってきたのだ。私は、変えようのない自分のなしてきた軛に繋がれて、これから先も生きて行くのだと観念した。
 世界は、そういうかたちにできてしまっている。たとえ、空が足許に墜ちてきたとしても、世界に終わりはやってきはしないのだと……。
                                   (完)

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