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いくら悪人だからって、殺していいってことにはならない。どんな理屈を並べ立てたって、人殺しが正当化できるわけじゃない。たとえ「愛の名において」であっても……。

あれは、何十年前のことになるかしら……。
そう、かれこれ70年以上も前のことになるかしらね。昭和も13年過ぎたいまとなっては、記憶も薄れ、このお祖母ちゃんには憶い出せもしなくなっているわ。だから、あの時はどうだった、この時は……なんて、色々と訊かれたって答えられはしないわ。
だから、お書きになるのはご自由だけれど、思い違いや勘違いの類いはたくさんあって、間違いだらけの調べものになるかもしれないわね。それでもよければお手伝いさせてもらうけれど……。そう、あなたがそうおっしゃるなら、問わず語りにでもお話ししましょう。
そうね、確かに。遺書には、確かにあなたのおっしゃる通り、わたしが10歳のときに、あのひとがわたしを意識しだしたことになっているけれど、わたし自身は別に大してなにも思ってもいなかった。あのひとには悪いけれど、ちょっとした年上の、親しい間柄のお友達という感覚だったわ。ましてや、お嫁さんになろうなんて思ってやしない。そんな意識なんて、あのひとに対してはこれっぽっちもなかったのよ。
義一郎さんの遺書にある字は、とても厳つくて太くて、暴れるような書体だったけれど、それと同じように、体躯というのかしら、身体つきも頑健で、決して弱々しいタイプじゃなかった。それで、わたしもヘンな対抗意識が出て、あのひとに「片足立ちができて?」と挑むように言ってみたのだわ。でも、存外にその答えは呆気なくて、「できないよ」の一言だけ。でも、それだけでは勝ったことにはならない。ムキになって、その姿勢をし続けたわ。
その時のわたしの姿が、あのひとには印象的だったのでしょうね。え、ああ、そうね。おっしゃるように「衝撃的」って言ってもいいのかもしれないわね。今どきの言葉じゃ、なんでも大げさに言うんだから……。それこそ、明治は遠くなりにけりって、感覚ね。
え。それで、あのひとがイギリスに発った時は、どんな心境だったか、ですって。心境もなにも、一言も断ってくれないんだもの。知りようがないわ。本当にわたしのことを想っていてくれたのなら、一言あって然るべきじゃないかしら。もっとも、そのころ、わたしは本多さんと許嫁になることを約束していたし、彼の両親もわたしの両親もそれを認めていたくらいだったから、多少の寂しさもあったでしょうけれど、目くじらを立てるほどのできごとじゃなかったと言っていいでしょうね。
ええ、もちろん、あのひとがイギリスから帰ってきたときもそうだったわ。というよりはむしろ、その時は本多さんとは別れていたし、金満家というのかしら、銀行家の満村さんに言い寄られて、その妻になっていたから余計、あのひとのことは何でもなかったの。
え、疚しさは感じなかったか、ですって。そりゃ、ないわよ。だって、本多家だって、まだ爵位を持っていなかったし、そんなに裕福な家庭でもなかった。商人だったら、それなりに豊かな経済生活を送っていたかもしれないけれど、変にプライドが高いだけで、ひとから施しを受けるのを恥とするひとたちだった。
その点、満村は、お金は腐るほど持っていたし、なにひとつわたしに不自由はさせなかった。遺書には祇園の、生娘だった舞妓を手籠めにして死に至らしめたって話があるけど、あれだって満村の資産を妬んでのデマだったし、その他の色々な噂もやっかみの類いで、内実はさほどでもなかった。そう。あれは何十年前だったかしら。『金色夜叉』って新聞小説が話題になって、みんな必死で読んでいたようだけれど、あれなんかはいまから思えば、遅きに失したっていうくらいで、その昔から、よくある話なの。
手掛けや妾を何人も持つ甲斐性のある男に、女はなんだか知らないけど、惹かれるの。もちろん、それだけの金満家になるには、それなりの才能も必要だし、単なる強引なだけじゃ、女は寄って来やしませんよ。それこそ、ロシアのドストエフスキーさんが書いたとかっていう『罪と罰』の主人公じゃないけれど、いくら悪人だからって、殺していいってことにはならない。どんな理屈を並べ立てたって、人殺しが正当化できるわけじゃない。
そりゃ、内心では、満村に死んでほしかったというのは事実だけれど、殺してくれって頼んだわけじゃなし。岡惚れというのか、横恋慕というのか知らないけど、わたしのためという名目で、人殺しまでしてほしくないわよ。まして従妹なんだから、人聞きの悪いったらありゃしない。縁戚に顔向けできないって、あのことよ。
ご本人は、わたしと本多が元の鞘に収まるためと称して満村を薬殺したのかもしれないけれど、こちらとしては大いに迷惑な話よ。だって、放っておいたって、わたしたちは一緒になる気でいたんだもの。それで、一緒になったらなったで、本多を殺そうと思うんだから、一体、何を考えているのかわかりゃしない。
で、言うに事欠いて、わたしたちの幸せを崩さないためには、自分が死ぬしかないって、押しつけがましい遺書を残してあの世に行くんだから、ほんとにいい気なものよ。
男って、ホント自分勝手で、世間知らず。大きくなったって、お坊ちゃまそのもの。まるで、わかってないの。せっかくドクトルと呼ばれる立派な身分になったっていうのに、自分から死んでしまうなんて……。
自惚れと瘡蓋のない人間はいないっていうけれど、思い込みと自惚れが強すぎる男っていうのも、救いようがないわね。え、この話の続きがまだ聞きたいって。そりゃ、構いやしませんけど、明日にしてくれないかしら。これからちょいと、習いものがあるんだ。連れ合いに死なれてからは、寂しくってね。有名な作家さんじゃないけれど、綴り方を習ってるの。そしてその次には、小説を書こうと思ってる。いま新聞で連載されている山本有三さんの『路傍の石』というのを読んで、「わたしも一度しかない人生、最期までしっかり生きさせてもらおう」と思ってね。
では、今日のところは、この辺で。ごめんくださいましね。

この書評は『本が好き!』『開化の殺人【Kindle】』の感想、レビュー(noelさんの書評)【本が好き!】(honzuki.jp)から転載しました。


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