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言語は生得的なものではなく、「わたし」と「あなた」という個体の共時発生的な二人関係のなかから生じていくものなのだ。

生来ズホラで、何事にも億劫なものを感じるわたしにしては、とてつもなく辛気臭く、かつ長大な本を読んだ。参考文献のページだけでも35ページもあるし、本文も「訳者あとがき」を含めて308ページもある本だ。題して、そのタイトルは『なぜヒトだけが言葉を話せるのか――コミュニケーションから探る言語の起源と進化』とある。
口下手なわたしが甚く関心を持つ言語に関する書物とあれば、いかな高額書籍であろうと、身銭を切って読まざるを得ない。大枚4,000円(税別)を払って読むことにした。
――と言えば、カッコいいが、実は家内に援助してもらっての僥倖である。年金生活の懐からは、そんな大金は遣えない。やむなくおネダリしての超お買い物だった。
で、いつもの大型書店で在庫を確認して買いに行ったのが、昨年の12月6日。それから今日まで、なんと2カ月にも及ぶ期間を費やして、ようやく読み終えたのである。なにを隠そう、天下に名高い遅読の王とあっては、まことに誉れ高いスピードではないか。おそらく、この本の読者のなかでも、最高の遅読自慢ができる存在だと自負していいだろう。
では、なぜかように遅くなったのであろうか。もちろん、生来のなまけ癖が起因しているのではあるが、その中身が辛気臭いのなんのって、何度も読み返さなければ何を言いたいのかわからない言い回しの文体なのだ。
もちろん、こちらの頭のなかがユルイのは言うまでもないが、それ以上に説明が回りクドイのである。それも、AであるといえばいいものをAであるという説があるが、当方はそれがAであることを一部分は認めはするものの、その一方ではそうではないことを認めもするのである的な言い回しで、読者を翻弄し倒すのである。
だからといって、この本が面白くないというのではない。面白いのである。だが、性格的に見てせっかちなひとは読まないほうがいい。おそらくこれほど読者を選ぶ本はないに違いない。評者のようによほどのへそ曲がりでなければ、最後まで読み通すこともなく、最初の数ページで音を上げていることだろう。それほどに辛気臭く、かつ退屈でないのである。評者もなんど、途中で立ち止まり、その都度深呼吸して、再度挑んだことか。
そうしてようやく評者が辛気臭さを、いや、辛気臭さは消えていないのであるが、その辛気臭さを超えてより以上に評者の心を捉えだしたのが、5章の6「文化的索引、そしてここの言語の自然さ」というところからであった。
著者トム・スコット・リップスは、あのソシュールの『一般言語学講義』(評者は若い頃、これを読んで読み切れず、本棚においたままにしていたが、後年ワケあってその手の本(チョムスキーもウィトゲンシュタインもフッサールもピアジェもフロイトも、なにもかも)すべてを売り払ってしまった)を引き合いに出し、諸言語の構造こそが、その後の言語学の中心的な研究対象となり、今日においても主流の言語学の焦点であり続けているというが、それは、

「個々の言語化現在のようなあり方をしているのはなぜか」が現代生物学にとって中心的な問いであるのと同じことである。ダーウィンの自然選択理論はこの後者の問いに答えるものである。

として、種々の論や実験結果を披露していく。そして「各個人は覚えた人工言語を再解釈する」が、その再解釈は「でたらめにではなく、特定の方向性をもって体系的におこなわれ」、その体系性を決定しているのは「ヒトの色知覚の仕組みに」関係し、そうしたカタチで「言語は時間の経過とともに特定の形へと引きつけられていく」というのである。
これは実験による推論であるが、こうした文化的牽引は生物の進化を決定づける自然選択と似たところがあり、

最も根本的な相違は、生物進化が複製に基づくのに対して、文化進化は作り直しに基づくという点にある。

としている。

すなわち、文化項目は、生物におけるDNAとは異なり、単にコピーあるいは複製されるのではなく、各段階で新たに作り直される、または組み立てなおされるのである

という。この点は、評者も同意見である。

話はちと横道に逸れる(――というより、本題に沿っての余談)が、この辺りを読む段階(1月中旬過ぎ)になって、なぜか不思議なことに評者がよく拙評に登場させている京都在住の著者、大淵幸治の『本当は怖い京ことば』という著作が発売され、それも併せて読むようになった。氏は、わたしの好きな作家だが、世にはあまり知られていない。
しかし、その言語に関する論評には好みも関係あろうが首肯できるところも多く、電子書籍も含め、そのほとんどの著作を読破している。ことにいま電子書籍で出版されている『ニホンゴの伝達力』にいう「言語生理」という概念装置には、「よくぞ名づけたりな」という驚嘆を感じているのだが、その概念装置を駆使してなったはずの、今回の『本当に怖い京ことば』にもその真髄は現れていて、同じ言語の捉え方として通底するところのあるトム・スコット・フィリップスの論は、言語の成り立ちを実践編として理解するうえでとても役立つのではないかと思っている。

さて、そのようなワケで、トムの理論と大淵の理論との整合性ともいうべき言語のあり方の捉え方に親和性を見出すのである。大淵は、言語を使用する者にとって、言語に対する好悪の感情があるとして、それを言語生理と命名し、ニホンゴそして京ことばの本質を措定するうえで、実用レベルにおいて使用しうるものに限定し、京都ジン独特の「京民性」ともいうべきことば遣いに収斂させていく。いっぽう、トムのほうは「意図明示コミュニケーション」という概念装置でもって言語を論じていく……。
そこでは、ことばこそ違え、内容的には通底する者が多々見られる。大淵の「言語生理」論によるニホンゴの捉え方は1994年に、そしてその後に発表された『丁寧なほどおそろしい「京ことば」の人間関係学』においての京ことばの捉え方は2000年に発表されている。ある意味、その先見的な捉え方は、いわゆる京都本の先駆けとされるだけのことはあると思える。
たとえば、

言語は個人から個人へと伝わっていく過程で不可逆的なアトラクターのほうに引き付けられることはすでに分かっている。(中略)学習と記憶を困難にするような特徴を持つ言語はより単純化する方向に調整される可能性が高い。そのため、そういう言語は次第に学習しやすく想起しやすい形の方へと引き付けられていくはずであると思われ、実際まさにそうなっている。5章7「言語進化におけるコミュニケーションの役割」)

などというところなど、まさに大淵がいうところの「短略化」に同じである。すなわち

このように言語は習得可能性と表現上の有用性という異なる二つの牽引因子によって操られており、その結果、ある種の言語構造が生ずることになる。

そして、そのように生じたのが、大淵のいう「京民性」のもつ特異な言語構造であるといっていい。その言語構造を大淵は社会的遺伝子による言語DNAと定義付けているが、その点は、チョムスキーなどのいう「生得的」な普遍文法、すなわち「諸言語の基底に存する共通の文法構造を指定する生得的な認知機構」の賜物であるとするのと対極の位置にある。その点においては、トムもまた言語進化は意図明示コミュニケーションの表現力を強める慣習が出現するプロセスであるとして、つぎのように言っている。

初期の慣習は一語文的であり、音声であれ、ジェスチャーであれ、話し手が伝達しようと意図する意味に最も適した媒体を用いていたであろう。こうした慣習が複数組み合わされることを通して原型言語が出現し、一部の慣習はのちに文法機能を帯びるようになったと考えられる

――と。
大淵のいう言語の社会的遺伝子は、したがって、つぎのように集約されるだろう。

霊長類の社会的知能が進化したのは、ヒトのような社会的種では、集団が大規模になると、その生活が非常に政治的なものになるからである。こうした世界では、他者の心を読み、可能ならば操作する能力が重要な適応形質となる。

さらにいうならば、

意図明示コミュニケーションは複雑な社会を生き抜く技術を洗練したものであり、発信者は受信者の心を操作し、受信者は発信者の心を読もうとする。それに対して、先述したさまざまな推測が想定している機能(性、政府、政治、計画など)はすべて、言語コミュニケーションの派生的機能である。

そうして、この『意図明示コミュニケーション』という語を「京ことば」という語と入れ替えるなら、それこそはそっくりそのまま、京民が長い年月にわたって培ってきた言語コミュニケーションの具体的実践例となるのである。

最後に、言わずもがなのことを付記しておくと、トムはチョムスキーの言語生得説や言語は思考のために存在するという説に与するのではなく、評者が評したように「文の意味とは、話し手の意図した聞き手の心的状態の操作のために生じた」というスタンスをとっている。
その点、「京ことば」の仕様(言語生理的意味合い)は、まさにその極致であると言えるのではないだろうか。大淵の『本当は怖い京ことば』については、別に感想文を挙げるつもりなので、ご興味のある方は、いましばらくお待ちいただきますよう。

トム・スコット・リップス『なぜヒトだけが言葉を話せるのか:コミュニケーションから探る言語の起源と進化』【本が好き!】noelさんの書評より転載。



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