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おれの心はサーカスどころではなく、もっと別のサーカスを愉しみたくなっていた。

    いくらお調子乗りのおれだからってね。まさかあの小娘に袖にされたって言えないじゃないか。それで、他人ごととして書きはしたのだが、どうにも後味がよくねえ。
    なぜったって、当人が当世でいうロリコン趣味があったって口が裂けても言えねぇじゃねぇか。え、そうじゃないかえ。たかが小娘のひとりやふたり、泣かせはしても泣かされるってほど情けないことはありゃしない。
    しかも、当世、作家を張ってるいい歳をしたおっさんが、ネギの二束に負けたとなりゃ、とんだお笑い草だもんな。
    年端もいかない小娘に懸想したなんて、てやんでェ、クチが裂けたって言えるもんか。しかし、それにしてもだ。たかがネギに、ああもコテンパンにやられるとは、おれとしたことがああ、恥ずかしい。
    穴があったら入れてみたいって、オトコの本能をくすぐるお君ちゃんを何とかしたいと願うおれは、こともあろうに締め切り間際の原稿にかこつけて、あんなのを書いちまったんだ。恥の上塗り。
    たまたま出版社の人間は、鈍いので有名なバカ編集者だ。文字もろくに読めやしない、オタンコナスだ。いつものように己の姿を他人に加工して自分と分からないようにしたのだが、どうにもいけないのは、あの田中があまりにもおれの、常日頃願っている男の理想像に近いと来ている。
    そこのところが、あのバカ編集長の目に留まらないかということなのだ。もしや目に留まれば、ここに出てくるお君ちゃんが自分の会社のお茶くみ書生の知美ちゃんだとわかるはずだ。なにが怖いと言って、それが一番怖い。
    あの子はわたしが大の煙草好きで、一日に180本も喫う男だと知っているので、あのクソ暑い出版社の扇風機が火を付けるのを邪魔するのを見て、即座に気を利かせてくれたのだ。茶を出すふりをしながら、自分を風よけにして、素知らぬ顔で去って行った知美ちゃんのことを思うと、ついつい、当世でいうストーカー気分になっちまう。
    あああ、なにを隠そう。恥も外聞もなく、おれは彼女のあとをつけて、その住まいの在処まで嗅ぎつけたのだ。
    しかも、あろうことか、その留守中に、彼女のいる天井の低い二階の六畳間に忍び込んで、その書架ともいえぬ小さな机の上に『不如帰』だの『藤村詩集』だの『松井須磨子の一生』だのの本のあることを見ては、ある種、優越感ともいうべき尊大な安心感のようなものを覚えすらしたのだ。
    ああ、なんという恥知らずな男だろう。それにも懲りず、艶書までしたため、秋波を送り続け、彼女をその気にさせてしまった。
    おれは逢瀬の場所に来た彼女が耳たぶのうしろあたりに香水の香りをほんのりと漂わせているのを知った。それだけでも、おれの心はサーカスどころではなく、もっと別のサーカスを愉しみたくなっていた。
    だが、図らずも、その醜い企みを知ってか知らずか、彼女は二束八銭のネギに目が眩み、ものの見事に、おれのその気を削いでしまったのであった。
    だから、そう。そのときはそのときと開き直ってはみたものの、「そのとき」はもう、二度とやって来ないのである。なぜって、作者のこのおれがそう思うのだから……。




芥川龍之介『葱』【本が好き!】noelさんの書評より転載。

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