見出し画像

薔薇の名残 第三章 決別編

第三章 訣別

 一 畳の上の力持ち

 また春がきて、院の結果発表があった。結果はわかっていた。案の定、私の名前はそこになかった。いくら若干名の募集とはいえ、一名でしか選ばれていなかった。
 試験が終わったあとの面接で、あの先生の代わりに面接官になってくれた先生が、大きな机を挟んで向かい合った私に告げた……。
 きみは文化論向きだから、桜慶大学を受けたほうがいい。なんなら、ぼくから紹介状を書いてあげてもいい。本宮光廣先生というんだが、きみも聞いたことがあるだろ。その分野では有名な先生だ。どうかね。そのほうがいいと思うがねぇ……。
 実は、木村先生からは、きみが再度、挑戦すると思うから、もしきみに会う機会があったら、そう伝えてくれと言われていた。まさか、あんなに早くお亡くなりになるとは思わなかったから、なに言ってんですか――と取り合わなかったんだけど、ほんとにこうなってしまって当惑してるんだよ。
 なんとか、私の胸の内もわかってくれよ――ということだ。
 わかりました――。私は答えた。その方向で考えるようにします……。
 それ以上、付け加える言葉は思いつかなかった。――というより不要だった。
 自惚れや負け惜しみでいうわけではないが、ペーパーでは、ドイツ語にしてもなににしても、昨年よりは、ぐんと質のいい点数が取れていたはずだ。
 それには自信があった。
 しかし、このまま、話を聞き続けていても、この先生をますます「当惑」させるだけだ。括弧つきの「当惑」は「迷惑している」に同じだ。それとも「困惑」か。
 とはいえ、この先生だって、自分の教え子でもない学生を採るのは、色んな意味で難しいだろう。まして前途有望な若い男子学生か、器量も愛想もいい、美しい女子学生ならいざ知らず、女でいえばとっくに婚期を逸した男なのだ……。
 それに、大学を変えろ――だって……。私は、この大学の木村先生の教えを受けたかったんだ。本宮先生は、確かにその分野では有名かもしれない(論文を読んだことはある――)が、私にその気がなければ、いないに等しい。
 仮に採ってくれたとして、あの先生とは馬が合いそうにもない……。
 それに大学だって他府県にあってK市からは遠いし、授業料だって高い。近辺に下宿するか、それをしないのなら、交通費だって嵩張ることだろう。
 この先は、もうないのだ――。そう観念した。
 この時点で、私の院に対するパッションは完全に潰えた。そして私の心は、まったくの根無し草になった。アデルの歌ではないが、「まるで映画みたい」だった。あかんたれな貧乏人お坊ちゃまの限界が暴露されたのだ。
 私は誰もいない部屋で、なにをするでもなく壁にもたれ、呆然としていた。
 一対の眼は、なにもない部屋にぽつんと置かれた勉強机を見上げていた。その机は、私が大学受験をするために書店時代の給料で買い求めた中古の代物だった。
 本を配達中に町で見かけたもので、木で造られた温かみ味のある机だった。それが優しく眼に映り、いつも、その店の前を通りかかる度に気になっていた。
 書店のオーナーが私に大学受験を勧めたとき、そのことを想い出し、急いでその店に行ってみた。机は、あたかも私の来訪を待っていたかのように、そこにあった――。
 ほっとした。まるで長い間、逢わなかった恋人に出遭ったような気分だった。
 実際のところ、その机は、私を待っていたのだろう――と思った。天井からの照明灯の光に照らされた、美しいベージュ色の肌を惜しみもなく見せながら……。
 この机で私は、あの孤独な受験戦線を戦い抜いたのだ。
 もっとも、その戦いにはきみの応援があったし、温かな贈り物もあった。
 そのお蔭で、私は大学に入学(一浪はしたものの――)でき、こうして院にまで挑戦の矢を向けようとするまでになった……。
 だが、本当の意味で、私が感謝しなければいけないのは、この机だった。
 文句ひとつもこぼさず、朝に夕に私の相手をしてくれた、この机だった。その温もりとその柔らかな手触りだった。スチールのものだと、そうは行かなかった。
 初めて、勇を鼓して買ったあのガットギター同様、この机には、孤独な私を励まし、無聊を癒す気骨があった。温かみと優しさがあった……。
 思えば、自分の給料というものを自分の意志で「自由に」使ったのは、これが初めてだった。それまで私は、そのすべてを母に渡していたのだった。
 それを部屋の隅で放電したように虚ろな感覚で眺めていると、これまでの寂寥感に満ちた無聊の日々がまるで、そこにあるかのように浮かんできた。
 考えてみれば、我が家には、机などという洒落たものはなかった――。
 T市にもなかったし、K市に移ってからもなかった。なんというのか調べる気も起らないが、T市のは一人用で小さなお膳型のものだったし、K市のそれはリンゴ箱だった。それを机代わりに、ちょうど膝が入るように横に向けて使うのだった。
 もうひとつあったが、それは表道路に面したところにおかれ、ゴミ箱代わりに使用されていた……。その箱は、T市から持ってきたもののはずだった。なぜなら、近所にあるゴミ箱に果物の空き箱を使ったものは、ひとつとしてなかったからだ。
 私には、それが恥ずかしくてしようがなかった……。
 しかし、誰ひとり文句は言わなかった。これまたいまにして思えば、ご近所での噂にこそなっていたものの、正面切っていう者がいなかっただけのことだろう。
 そこから暫くして父と別れ、母子三人で六畳ひと間に住んだとき、机と呼べるものはなくなっていた。もちろんリンゴ箱は、越す前に捨てたのだろう。だから、書き物をするときは、いつも寝そべってしていた。
 その癖がついて、書き物をするときは、いつも布団の上でするようになった。顎の下に枕を置き、胸を布団に当ててものを書くのだが、一時間もすると顎が痛くなるのだった。顎だけではなく、腰も痛くなった。
 そんなわけで、我が家に机というものが姿を見せたのは、私の持ち込んだこれが初めてだった。書店を辞めて、新聞販売店の寮に入るまでの三ヶ月間、この机は我が家にあった。私は、受験雑誌を買って来て、その付録の日本史を勉強した。そしてそこに書かれた種々のアドバイスを参考に、なけなしの小銭を使ってちょっとした参考書を買った。私が日本史を好きになったのは、この所為かもしない……。
 世界史は、各国の歴史が輻輳するから、記憶力の悪い私の手に負えなかった。
 だから、国語はいいとして、英語と漢文と日本史のみを集中的に勉強した。いま私が用いている英単語や日本語のボキャブラリーは、この頃に覚えたものばかりで、その後、そんなに増えていない。その数は、おそらく五十も行かないだろう。
 だから、そういう意味では、この机は「縁の下の力持ち」ならぬ「畳の上の力持ち」だったのだ。カマラード。そう、これは私の戦友だった。この戦友があってこそ、私は「年寄りの冷や水」的な受験戦線を勝ち抜けたのだ。
 そのような「道具に対する思い」は、自転車に対してもあった。
 初めて買ってもらった――というより、バイトで稼いだ給料で購入した、初めての自転車は荷台の大きい、いわゆる配達用の厳ついそれだったが、それでも嬉しかった。
 それまで、自分の欲しいものを買ってもらったこともなく、ほしいものを強請ったこともない私には、自分だけの宝物ができたような気分だった。そして二代目の、近くの自転車屋さんに通って、少しずつ部品を取り換え買い足して作った、いわば手作りの自転車はT市への旅行では大活躍してもらった。
 それこそ我が相棒のように、きつい登り坂を登攀するときなど、頑張れ、もう少しだ、あと少し行けば休憩しよう、それまで頑張るんだ――などと声をかけて走ったものだった。おまえも苦しいだろうが、もう少しの辛抱だ。もう少し、もう少しだけ一緒に走ってくれ。あとひと踏ん張りしたら、おまえにも休んでもらうから……。
 道具もやはり、生きていた。生きて、私を励ましてくれる汝だった。
 ものとしてそれを愛するかぎり、そのものも私を愛してくれる。その意味で、私にとって自転車も、バイクも、そして机も、我それ関係ではなく、我汝関係に等しいものだった。
 こんなところにも、ひとがひととして、独りでは生きていけない「我=汝」空間の現存在にほかならないことが見て取れた……。
 ひとが生きるということは、すなわちそれが誰であれ、相手を必要とする――ということだ。使用するという目的それ自体のためにではなく、車好きのオーナードライバーが愛車を心をこめて磨きこむように、バンパーのほんの小さな傷ひとつに対しても大騒ぎするように、ものはひとを活かす原動力ともなるのだ。
 物欲は罪ではない。性欲も罪ではない。それをものとして扱い、利用することが罪となるのだ。汝としてそれを遇すれば、その行為は罪ではなくなる。罪として贖うためではなく、愛するがために、ひとはものを大切にする。
 物心のつかない幼子の笑みに心を癒され、自らも微笑み返してしまうように……。

 二 水流の動くがままに日を過ごす

「なにか、あったの……」
 部屋の隅で、独り悄然としている私の耳に女性の声が届いた。
 いつの間に入ってきたのだろうか――。いや、おそらく最前から、そこにいたのだろう。私の真正面に座ったままの姿勢で、チッチが訊ねた。私の様子が、あまりにも普段と違っていたから、心配になったのだ――と言う。
 なにも言えなかった――。言っても、詮ないことだった。どうせ駄目だとわかってはいても、やはり、試験に落ちたことはショックだった。どんなに負け惜しみを言っても、負けは負けだった……。木村先生のところでなければ、勝ち目はない。
 しかし、そんなことを彼女に聞かせたところでなんになろう。所詮は、負け犬の遠吠えだ。情けない男の泣き言でしかない。もう大学とは縁を切らねばならない。いつまでもこんなふうに落ち込んでいても、埒の空くはずがない。
「駄目だったのね、院は……」
 チッチが掠れたような声で言った。心なしか、その眼が潤んでいるようだった。
 彼女からも、私は勇気をもらっていたし、エールを送ってくれてもいた。そんな彼女の前で泣くわけにはいかない。少なくとも彼女には、涙を見せてはいけない気がした。いったい俺ってやつは、いつまで悔やんでいればいいんだ。こんなにも、俺を心配してくれている彼女を前に、しょげてばかりでいいのか――。
「わたし、考えているんだけど……」
 彼女が遠慮がちにそこまで言うと、私に返事を求めるように押し黙った。
 私が肯定の印に無言のまま頷くと、彼女はそのあとを続けた。
「わたし、ここを出ようと思ってるの――」
 やはり、そうきたか――私は思った。彼女とは、いずれこうなる運命だったのだ。
 あえて無理には引き止めまい――。もともと彼女が好んで、ここを住居にしようとしたのではない。私がO市よりは、ここにしたら――と薦めたからだ。それ以上、私があれこれ言うのは筋ではないし、第一私にどんな権利があるだろう……。
 彼女には彼女の自由がある。なにも私に断りを入れる必要など「皆無」なのだ。
「いいことだと思う――」
 私は言った。こんなところは、彼女のような明るい性格の女性がいつまでも燻ぶっているところではない。就職先こそまだ決まっていないとはいえ、専門学校も卒業した彼女には前途も開けている。ここは、それこそ陰気で、辛気臭くて、陸に稼げもしない私にこそ相応しいねぐらなのだ――と。
「そうは思わないわ……」
 しばらくの沈黙のあと、彼女が口を開いて言った。「ふたりで力を合わせればなんとかなると思う――」
「どういう意味だろう……」
「ふたりで一緒に住むの。『一人口は食えぬが二人口は食える』というわ」
「でも、ぼくにはリュンという約束したひとがいる……」
「もちろん、承知してるわ。それをわかって言ってるの」
「ぼくは、きみとは結婚できない」
「それもわかってる」
「じゃ、いったい……」
「だから、同棲する」
「同棲――」
「そう。同棲する。結婚はしなくてもいい。このままだと、あなたは駄目になる」
「ぼくは、駄目になる……」
「そう。あなたは駄目になる。きっとよくないことが起こる。あなたは独りでは生きていけないひとだから――」
「独りでは生きていけない……」
 確かにそうだ――と思った。
 私は確かに一人では生きていけない。
 いつも誰かが周りにいないと生きて行けない。甘えん坊で、寂しがり屋で、そのくせ、わがままで人見知りする社交性のない男――それが私なのだ。
「だから、なんでもいいから、就職して――」
「就職……というと、どこかに勤めると――」
「そう。まずは、定職に就くこと――それが先決。住むところは、私が見つけてあげる。ただし、お互い無収入に近いから、立派なところには住めない。学校の友達に不動産屋さんのお手伝いをしているひとがいるから、その線で当たってみる」
 私は、彼女の言に従い、その翌日から、職探しを始めた。その頃、就職用の宣伝媒体といえば、新聞の募集広告くらいしかなかった。近くの新聞販売店で購入した地方紙に広告制作会社が社員を募集していた。実に運がよかった……。
 K市の有名観光地の喫茶店を網羅したコーヒーショップ・マッブというのを提案して、それが功を奏した。私は、明日にでも――と言われ、一ヵ月の猶予をおいて塾を辞め、その広告会社に勤めることとなった。
 それを聞いてからの彼女の行動は素早かった。三日後には、それらしい物件をふたつばかり見つけてきて、私に一緒に見に行こう――と言った。
 ひとつはK市の東端にあるアパートの一室で、いわゆる2DKといわれるものだったが、観光地に近く、人だかりが多いような気がした。それで、もう一件のほうを見てみたのだが、こちらのほうがまだ環境に静けさがあるように感じた。
 いずれの物件も内容に大差はなく、二畳ほどの台所と四畳半の襖で仕切った部屋と、その奥に居間となるであろう六畳間があり、さらにその裏には猫の額ほどのベランダがひっそりとあるだけの、極めて簡素な造りのものだった。
 トイレは、一応ついていた。いわゆる落とし便所だったが……。
 しかし、T市での生活を除いて、幼い頃から台所やトイレのない、ただひとつの部屋内での生活に押し込まれ、そのような風景を見ることに慣れていた所為で、こんなにも恵まれた間取りのあることに嬉しさが募った。
 あのポルノ荘の陰気さから較べれば、まさに天国と地獄ほどの違いがあった。
 私は、ここに決めよう――と言った。駅からは歩いて十五分以上かかり、それなりに不便なところではあったが、家賃から考えれば妥当なところと言えた。
 チッチも、それに異存はなかった。幸い彼女の友達の紹介だったので、保証人のようなものは要求されなかった。しかも、この手の賃貸物件には付き物の、敷金や礼金の類いも取られなかった。それも、彼女の友達の口利きのお蔭だった。
 無事、私の就職先も決まり、彼女のアルバイト先も決まったところで、彼女は父親代わりの兄を紹介すると言った。
 その兄は、チッチやその姉と血は繋がっておらず、お互い連れ子同士で結婚した父側の子どもで、いまは医療器具メーカーの社長をしているというのだった。姉のほうもその後、付き合っていた男性との間に子どもができたので、ついでにK市で顔見せがてらに皆で会おうということになった。
 面談の結果、いずれのカップルともすでに出来上がってしまっているので、籍を入れる入れないは本人たちの自由意志にまかせ、ホテルでの結婚披露パーティなどという大げさなものは行わず、内々で簡単に済まそう――という結論になった。
 ただ、姉たちカップルのほうではそうもいかず、おそらく男のほうの籍に入ったのだろう。その後、私たちが住むアパートの、幸いというか、たまたまというか、親代わりのお兄さんに勧められてというか、隣部屋に住むことになった彼らの表札が男性側のそれになっていたところをみると、そういうふうにしたのだろう……。
 私は彼女の言いつけどおり、同居を始めるに当たってのひとつのケジメとして会社の上司を交えて双方の母親と私の妹、そして姉夫婦だけを招いて食事会を催した。それが、いわば私たちの同棲開始の合図であり、儀式だった。
 これについては、リュンやナオにも事前に報告していたし、ナオの場合は会社がK市にあったこともあって時折、なにかの研修を終えたあとや出張帰りに寄ってくれるようになっていた。ただ、ナオとリュンの出逢いだけは実現できないでいた。
 というのも、ナオは、その後、彼女のことは言い出さなかったし、会いたいと言われたリュンのほうも、その後のことを訊きはしなかったからだった……。互いに目標に向かって精進していた所為だったろう。この頃のふたりは、自分の立てた目標から脱落してしまった私などとは違い、自分自身の目標をクリアし、なりたい自分に近づくことが最優先課題だったのに違いない。
 思えばこの辺りから、私の主体性のなさがその後の人生に大きな災いをもたらしていくのだが、その当時は、さしたる危機感を覚えることもなければ、気づくこともなく、ただ周囲の水流が動くがままに日を過ごしていたのだった。

 三 過剰な振る舞いをする男

 広告会社に入社してから暫くの間、私の気分はすぐれなかった。私の岐路を分けた、あの「重大な」事件が尾を引いていたのだ。
 確かに二度も院試に失敗し、肝心の先生に死なれてからは、妙に気分が落ち込んでいたし、積極的に生きねば――という気力も失せていた。
 まるで、どんよりした鯰の動きを見るようで自分でも歯がゆかった。
 こんなときにこそ、自分に喝を入れてくれる存在があればよかったのだろうが、卒業後は、かつての学友たちも私から離れて行ったし、昔のように立ち寄ってくれる者も極端に少なくなってしまっていた。
 同居してくれているチッチにしても、それほど積極的に私を元気づけることをしなかった。仮にそうしたとしても、一応、社会人として自活している以上、なにもいうことがなかったからだろう。
 そんなわけで、生活のために社会人になった私だったが、とくにあれをしたい、これをしたいという欲望や希望めいたものはなかった。金もあるに越したことはなかっが、そんなに欲しいとも思わなかった。
 母は、その昔、貧乏を僻んでいた私に向かって、卑下する必要はない、ただ心まで貧乏になるな――とは言っていた。心まで貧しくなる――というのは、根っからの貧乏人になるということだ。確かに心を貧してまでの困窮生活は嫌だった。
 だからといって、これまでの金銭感覚を変えたいと思わなかったし、その必要があるとも感じなかった。給料にしても、塾の時代から比べれば多少増えてはいたが、その分、家賃のほうに持って行かれたから、プラマイゼロみたいなもの。ポルノ荘のそれが、いかに安かったかがわかろう――というレベルだった。
 そんななか、ひと月が経ち、ふた月が経ち、私は少しずつ仕事を覚えて行った。
 その頃は、まだ「コピーライター」という言葉は一般には流布していなかった。
 業界では、それに該当する職業名として「広告文案家」と言い慣わすのが普通だった。広告のコの字も知らずに、その会社に入社した私は、コピーライターをやりたいのか――と、社長に問われたとき、その意味が分からなかった。
 まず、コピー機も存在しない時代で(その後、ゼロックスと言うのが出てきて、複写することを「ゼロックスする」といっていた――)コピーが文案、それも「広告」のそれを意味することなど想像もつかない時代だったのだ。
 その社長はK市で有名な芸術系大学の元教授で、いかにも芸術家ふうの面立ちをしており、長い白髪に短く白い口髭を蓄えていた。聞けば、油絵を専門とする西洋画の先生だったが、グラフィックデザインに転向し、K市で初めてとなる商業広告デザイン協会を創始し、その初代会長だったとのことで、それなりに有名な存在だった。
 だが、それだけに金銭の遣り取りには疎く、経営面での采配は専務の鳩山さん任せで会社を回しているとのことだった。事実、そのとおりだった――。
 とまれ、それほどにこの業界に無知な私だったが、一か八かなるようにしかならないと、わけもわからずなりたいです――というと、わかった。まずは業界の仕組みを知るため、まずは営業から始めてみなさいと言われて就かされたのが、ホテルや旅館といった宿泊施設や宴会施設をもつクライアントの担当だった。
 仕事にも慣れ、自信がついて一年半ほどが過ぎた頃、田丸君というのが入社し、私はその君の先輩となった。大学では広告研究会に属していたという触れ込みだったので、それはいい――ということで、高卒の鳩山専務が即オーケーを出したのだった。
 私は年齢も近いことから、いわゆるOJTで彼を直接指導することになった。そして、彼を連れ回りながら、あちこちのクライアントの性格や商談の仕方、根回しの方法、アプローチのノウハウ、マーケティング(いまでいう「ブランディング」――)の手法などを教え込んで行った……。
 そうして半年も経たないある日、私はその後輩を我が家に招待した。招待――とはいっても、カレーライスに毛が生えた程度のもてなしだったのだが……。
 それからの彼は、我が家がよほど気に入ったのか、よく遊びに来るようになった。そして、その来訪は、あのポルノ荘のときのように、私が不在のときにも行われるようになっていたのだった……。
 実をいうと、この君以外にも、我が家に出入りする中出という男性がいた。この君については、以前に触れたことがあるが、いつも私の書いたものを読んでくれていて、マルティン・ブーバーの存在を教えてくれた人物でもあった。
 性格は真面目そのもので、もともとは仏教系の大学に入学していた――。
 だが、なにを思った(その理由は聞いていない)か、急に自主退学して神学系の大学に入り直した(実はその大学も退学した)、私の友人のなかでは堅物中の「堅物」で、いわば札付きの「善人」ともいえる変わり者だった。
 私は当時、この友人をエラソーに「君付け」で呼んでいたのだが、私が年上なこともあって、彼自身は君呼ばわりされることに抵抗を感じている風ではなかった。本当のところは、そうではなかったのかもしれないが、私は能天気に中出君と呼んでいたし、いまもそうしているので、勝手にそう解釈することにしている。
 そんなわけで、私が新しい住まいに移ってからも、ポルノ荘のときと同様、私が不在のときも顔を見せてくれるのだった。もちろん、その相手をしてくれるのはチッチだったし、彼のほうもまたそのように遇されるのは気兼ねがないようだった。
 とまれ、その彼のことは措くとして、言いたかったのは、このアパートに越してきてからも、顔ぶれも変わり人数も相当減ってはいたものの、相変わらずひとは出入りしていたし、私たちの生活態度にもさほど変化は見られなかったといい。
 この頃になると、学友関係よりは、田丸君のような会社関係の友人が多くなっていた。そのなかには、田丸君のような後輩男性だけではなく、同じ仕事仲間の同僚女性もいた。そして、チッチのアルバイト先の友人関係も増えていた……。
 ときには、そうした友人の有志を集めて、焼き肉パーティやちょっとした宴会の真似ごとのようなこともした。ポルノ荘で集まったときは、各自出来合いものの持ち寄りだったが、ここには煮炊きのできる台所もあればトイレもあるので、私のような境遇を経てきた者にとっては、天国のようなところだった。
 いまから想えば、まさに世捨て人――。いや、学生時代の延長のような生活を謳歌していたのだった。しかし、そんな細やかな愉しみも大して長続きはしなかった――というより、自堕落な私を神は見逃してはくれなかった。
 だが、そのことに触れる前にいま少し、この私がどのように自堕落だったのか、そしてなぜそのような結果になったのか――の経緯を見ておくことにしよう。
 ひとつの失敗は、男ひとり女ひとりの同居住まいだったから、いつかは必然のこととはいえ、彼女と性的な交わりをもったことにあった……。
 それまで、私は彼女に対し、リュンやナオへのような胸が締め付けられる思いを味わったことがなく、他のひとより親しみを感じる程度の女性友達と思っていた。強いて言えば、姉に少し似てお節介焼きの女の子に過ぎなかった。むしろ、その体形や身長、容貌から受ける印象のままでしか彼女を捉えきれていなかったのだ。
 逆に言えば、私は彼女を視覚的にも聴覚的にも異性として認められないでいた。その点についていえば、時折、約束した場所で落ち合うリュンやナオとの逢瀬で正しい折り合いが付けられていた所為かもしれない。このふたりには、私の聴覚を甘く刺激し、視覚を愉しませ、芯から心を昂ぶらせてくれるなにかがあった。
 だが、チッチにはこれまでのように女性歌手に譬えることのできる、声の質や外貌に通底するものはなかった。だから、彼女の場合は、空間的な意識の共有を求めてのそれではなく、出口を求めてのそれだったといえるかもしれない……。
 身勝手な男の言いぐさになるかもしれないが、彼女に私が求めていたものがあるとすれば、その磊落な性格からくるアウトプット――大らかな物言いにあった。
 関東のとある県の生まれだけあって、私にはその潔さが心地よかったし、羨ましくもあった。彼女と話していれば、会社での憂さも晴れたし、明るくもなれた。そして彼女はその姉と同様、よく他人の面倒を看た。ひと好きのするタイプであった彼女は人望もあったし、頼りにもできたのだろう。彼女を慕ってくる女性も多かった。
 だから、私も安心していた。彼女の知己はもとより、私のすべての友人知人をどのようにあしらおうと彼女の自由にさせていた。そこには男性も女性もなかった。そのなかのひとりに、例の田丸君がいたのだった。
 この男は、なにかと我々ふたりによくしてくれていた。
 たとえば、私たちのベランダの窓に蚊の侵入を防ぐ網戸がないと知れば、早速それを手に入れてきて、さっさと取り付けてくれたり、私が貸した本を誰それがなかなか返してくれないとこぼすと、その本をすべて取り揃えて買ってきてくれたりと、普通では考えられないほど親切で、過剰な振る舞いをする男だった。
 それに、さすが元広告研究会だけあって、それなりに弁の立つ男で、私のことを不思議なオーラの持ち主といい、訪問先について行って傍でみていると、クライアントが自然に心を開き、私に靡いていく……。そのさまを目の当たりにして、三崎さんはほんとにすごいなと思わず感動した――などとチッチに語って聞かせるのだった。
 自分でいうのもなんだが、確かに当時の私にはそういう部分があった。
 なぜか初めての訪問先でも気に入られ、後で上司を連れて表敬訪問した際に、上司が契約承諾の件に関して謝辞を述べると、いやいや、礼はいい、私はこの三崎という男が気に入って仕事をしてもらうことにしたんだ、だから、礼を言うなら、この君にしてあげなさい――と即座にいってくれた部長がいたほどだった。
 そんなこんながあって、一種のお返しもかねて、彼が映画好きで、自分でもシナリオを書いているというので、たまたま学生時代に知り合っていた映画監督志望で、一時、一緒に活動していた男性(実をいうと、この彼が「サンダカン八番娼館」の監督を酷評した人物だった――)を紹介したこともあった。
 この紹介を機に、本当に彼がその男性と組み、メガホンをとることになったときは驚いた。どこをどうしたのか知らないが、その後、しばらくしてから、ちょっとした短編映画を作ったから見てくれ――というので、チッチの仲間ほか数人が集まって見せてもらった。残念ながら、面白くもなんともない映画だった……。

 四 あるホテル支配人からの電話

 田丸君が見せてくれた、お粗末な映画鑑賞をしてから半年が経っていた――。
 その頃には、私は上司や同僚からだけでなく、クライアントの上層部からも一目置かれるようになっていた。その時代でいう「広告文案家」すなわち「コピーライター」として――というより、ランゲージデザイナーとして……。
 ランゲージデザイナーというのは、この時代に私が生み出した造語だったが、硬く直訳すれば「言語の設計士」となり、平たく翻訳すれば「ことばの意匠家」ともなるだろう。あるいは、ことばの料理人といって差し支えない。
 当時、宣伝に使うコピーは、どちらかといえば、商業すなわちコマーシャルに用いるための語法のひとつとしてフレーズもしくはショートセンテンスを軸として訴求文を構築していた。たとえば、惹句(キャッチフレーズまたはキャッチコピー)などがその一例だが、あえて文としての体をなさないようにしていたのだ。
 しかし、コマーシャル以外に用いられる文章は、そうは行かない。例えば、パンフレットなどに登場する「取扱い説明」の文などがそうだ。その場合、その文案は、コピーではない。コピーではないにも拘わらず、人の心を惹起させる必要がある。
 略して「トリセツ」における文は、単なる文(句もしくは短文)の羅列であってはならない。そこには、難しさを感じさせず、論理的に事態を説明し、理解させる工夫がなされなければならない……。
 つまりは、そこに「ことばの意匠性」を工夫することが必要になってくるのだ。
 文章もまたデザインであり、そのデザインの仕方次第で、言葉の通じ方も変わってくる。小難しい漢字を使い、わけのわからない外来語を駆使して、ハイカラを気取ったところで、判らないひとはわからない。
 この時代、これからのあるべきビジネスの要諦を教えてくれた大先輩がいた。
 その大先輩は、過分にカタカナ語を使うことで、社内ではちょっとした有名人だった。その彼が、ある日、仕事のプライオリティのつけ方で悩む私を見て、つぎのように高らかに「指導宣告」をしてくれたのだった。
 三崎くん、これからの時代はアニマルだ。アニマルが必要になる。これなくして、今後のビジネスは発展していかないよ。だから、きみもアニマルになれ――と。
 確かにこの時代、日本人(のビジネスのやり方――)は、諸外国のビジネスパースンには悪評高く「エコノミックアニマル」と酷評されていた。マニュアルという言葉は、これほど認知されていない「不遇をかこつ時代の寵児」だったのだ。
 生兵法は怪我の元――。あだや疎かに知ったかぶって、若者に失笑を買う教えを垂れるものではない。謙虚が一番なのだ。もっともすでにそのとき、私は若者ではなかったが、少なくとも薹の生えた若者に近い年齢だった――とはいえたろう。
 いずれにせよ、そんなところから、私の専門分野はコピーライターのそれよりは、ブランディングでの販促企画の立案や提案が主たるものとなっていた。大先輩流にいえば、プレゼンのために必要とされる効果的な訴求の仕方――「意匠ことば」での概念づくりがランゲージデザイナーとして一番の腕の見せ所となっていたのだった。
 それを知ってか知らずか、あるいは知っていた上で乗せようとしたのか(いまにして思えば明らかに計画的だったのだが――)、あるホテルの支配人から電話がかかってきた。内々に相談したい案件があるが、日曜しか時間が取れない。大変申し訳ないが、自宅にきてはもらえないだろうか――というのだった。
 大体においてホテルの支配人というのは、給与は年俸制で、普通のサラリーマンのような形での雇用形態は採っていなかった。この支配人も、その例外ではなかった。
 そのときは、まだその支配人のことをよく知っていなかった……。
 よく知っていなかっただけに、もっと近づきになっていい仕事がもらえたら――と考えていた。というのも、例によって、乗せられやすい私は自分の書いた企画書が褒められることで、その支配人にも気に入られたと思い込んでいたからだった。
 そのうち、大きな仕事が取れる――と、そう思い込んで表敬訪問を繰り返していた矢先に訪れたクライアントからのオファーだった。それは、その後に続く果てしない「奈落への予兆」を孕んでもいた――のだが、そのときの能天気な私には知る由もなかったし、そのような事態が生ずる気配すら感じとることはできなかった。
 チッチに「運転、気をつけて」と見送られたあと、私は仕事が取れるかもしれないという期待や不安(というより、確信的な喜びのほうが大きかった――)を隠せないでいた。だが、相手に内心を見透かされてはまずいと思い、支配人宅に向かう車中で何度も顔をしかめたり、わざとくしゃくしゃにしたりして心を落ち着かせた。
 車はこの会社に就職して間もなく、自宅近くにあった中古車センターに行き、二十四ヶ月の月賦で購入したものだった。
 見た目も重厚な感じがして、落ち着いた濃いグリーンのシビックだった。
 この車は、小さい体躯ながらも、きびきびとよく走ってくれる車だった。前輪駆動なだけあって、ぐいぐいと引っ張られ、後輪がついていく感じがたまらなかった。私はこれまで、こんなにも快適な、しかもドライブ感のある車に乗ったことがなかった。
 もともと車と言えば、走ればそれでいいというタイプの人間だったので、あまり車に興味はなかった。だが、この車に初めて乗ったとき、新鮮な驚きを感じた。それこそ変な喩えだが、シビックの大胆で敏捷な動きはナオのそれに似ていた……。
 こちらの意図と思惑を先取りし、ぐいぐいきびきびと私を目的地へと誘い、前へ前へと私を引っ張って突き進む駆動性は、ホンダならではのものだった。むしろ、運転者がシビックで、私は単なる添乗者に過ぎなかった。
 峠をひとつ超え、ようやく大きな湖が眼前に広がってきた。
 もうすぐ行くと、湖畔の近くにこんもりとした杉林があり、その間を抜けるように進むと、その道路沿いの左側に支配人の家が見えるはずだった。
 その家はあった。しかし、思っていたほど、大きいものではなかった。
 支配人ともなれば、そこそこの大きさの庭付き一戸建て住宅のようなものに住んで贅沢な暮らしをしているのではあるまいか――などと期待していたのだが、それはむしろ、どこにでもよくある二階建ての、普通の建売住宅だった。もっとも、2DKのアパート住まいの分際が、ひとの家をどうこういえる義理もなければ筋合いもなかった。単なる痩せガエルの遠吠えのようなものだった。
 ドアベルを押すと、なかのほうから男の声がして、いま行くと言った――。支配人の声だった。てっきり奥さんか誰かが出ると思っていたので、意外な気がした。なにか別のことをしていたのか、いま行くという言葉にも違和感を覚えた。
 そこにいるのなら、出てくればいいのにと思ったのだ。
 しばらくそのまま、立っていると、ドアが開いて、支配人が出てきた。
 すまないね。遠いところをきていただいて――と支配人は言った。どことなく苦虫を噛み潰したような、苦しそうな表情だった。家内が、ちょっと買い物に出かけてるものでね、わたししかいないんだ。まあ、上がって……。
 勧められるまま、居間に通され、大きなテーブルの前に腰を下ろした。
 コーヒーがいいかな、それとも紅茶がいいだろうか――支配人が訊ねた。
 私は少し考えてから、コーヒーがいいと言った。
 この頃、コーヒーを飲む習慣がなく、紅茶もあまり好きなほうではなかった。
 それで、とりあえず差しさわりのない一般的なほうを選んだのだった。心なしか支配人の態度も、そのほうがよかったような雰囲気だった。おそらく、奥さんがいないので、どこに何があるかよくわからなかったためだろう。
 コーヒーを煎れ、私の前にそれを置いたあと、彼はテーブルを挟んだまま、長い間、沈黙を続けていた。それは、ある意味、ほんの少しの時間だったかもしれない。だが、私には随分長いものに思えた。
 実を言うと、頼みというのは――。支配人は、不承不承重い口を開くようにゆっくりとテーブルの向かいで話し始めた。こんなこと、三崎さんにしか相談できないことなんですが、困ったことが起きてしまいましてね。
 なんなんでしょう、その困ったこと――というのは……。私は相手のペースに合わせてゆっくりとした口調で訊ねた。
 いま、ヤクザに脅かせられていましてね。
 ヤクザにですか。
 ええ――。
 いったい、ヤクザになにをしたんです。
 なにをしたというわけでもないのですが、この間、そのヤクザの乗っていたベンツにオカマを掘っちゃいましてね。私の前を走っていたベンツが急ブレーキを掛けたんですが、私はそのとき運悪く、よそ見をしていまして、気づかなかったんです。
 それで、ドーンということになりまして、弁償しろってわけです。
 その車は、いわゆるAMG仕様とかいうやつで、高いやつなんです。普通の自動車保険では払いきれない代物です。それで、とりあえずは保険で賄えないオーバー分の二百万だけでも用意しろ――というんです。
 二百万ですか……。
 それで、百五十万だけは、なんとか家内と相談して都合をつけることはできたのですが、あと五十万だけが用意できないんですよ。それも、三日以内に用意しろというんです。それ以上、待てない――と。
 そこで、三崎さんに相談なんですが、来月、うちはボーナス月なんですが、そのときに必ず、二十万上乗せしてお返ししますから、なんとかご都合いただけないでしょうか。こんな情けない話、会社にもできませんし、いまのところ、三崎さんしかお縋りするひとはいないんです。お願いします。このとおりです。
 支配人はテーブルに両手をついて頭を下げ続けた……。
 五十万――と言ったきり、私はあとの口が利けなかった。そんな大金が我が家にあるわけもない。あの中古のシビックですら、月賦で支払っているのだ……。
 私は、即断できなかった――。
 金があったからではない。その気になりさえすれば、会社はそのくらいは前借させてくれるだろう。私が躊躇したのは、二十万の上乗せがあったからでもない。そのホテルの仕事が取りたかったからだ。恩を売ればなんらかの見返りはあるはず……。
 私は一旦、このまま帰らせてくれと言った。充てはなかった。しかし、まずはチッチに相談したかった。その上で、私なりの結論を出したかった。
 私は支配人に一日だけ時間がほしい――と告げて暇を請い、表で私を待つ濃い緑色をして、どっしりと構えたシビックに向かった。その色と形は私を落ち着かせ、その走りはぐんぐんと私を引っ張って家路に向かわせてくれた。

 五 信じる者にこそ神は微笑む

 私は、家に帰りつくと、チッチにことの一部始終を話して聞かせた……。
 そのホテルは小さいながら、近辺には観光地があることもあって、それなりに客足がよく、近年、人気が出てきているホテルであること。当該の支配人は人当たりがよく、四十代半ばで、若い私にも敬語を使って話し、丁寧な物腰の人物であること。
 現在、二階建ての一軒家に家族と住んでいること。その給料は年俸制で、一千二百万ほどの年収があること。ヤクザのベンツを傷つけ、脅されていること。自動車保険だけでは賄いきれない修理代がかかること。それに後ろから追突された所為で、むち打ち病になった可能性もあり、それの慰謝料もかねて、二百万円を要求されたこと。
 二百万円のうち、百五十万円は奥さんと相談して辛うじて用意できたが、あとの五十万が調達できないこと。三日後に、その二百万円をしっかり耳をそろえて用意しなければ、相手がヤクザだけになにをされるかわからないということ。会社に来られてごねられでもすれば、オーナーに迷惑をかけるばかりか、ホテルの評判を落とすことにもなる。そうなれば、自分も支配人を首になることは眼に見えている。
 そんなわけで、三崎さんには本当に申し訳ないが、来月のボーナスが出れば、その五十万に二十万を上乗せするので、なんとか都合してやってほしい……。
 彼女はこれらのことに対して一切の質問も差し挟まず、最後まで静かに私の言葉に耳を傾けてくれた。そして、すべてを言い尽くして、あとが続かなくなってしまった私を制するようにして口を開いた。
「伝えたいことはわかった――」
 彼女は、そこでひと呼吸をおいて続けた。「で、結論はどうなの」
「結論――というと……」
「あなたとしては、そこの仕事が欲しいの」
「ああ、もちろん。欲しい……」
 私は口ごもりながら、つぎの言葉を探した。「欲しいことは欲しい。だけれど、問題は、その現金がこの三日以内にぼくたちに用意できるかどうかということだ。それのあるなしで、今後のすべてが決まると思う」
「それがあれば、あなたは旨く行くと考えているのね」
「旨く行くかどうか――。それは、わからない……」
 彼女の言質を取るかのような言い方にちょっとした苛立ちを覚え、私はあえて回りくどく、持って回った言い方で答えた。そこまで断定的な問い方をされると、自信が持てなかったからだ。断定的な質問には、希望的観測の入る余地はない。
「今回の手助けをしたからといって、感謝されこそすれ、仕事はもらえないかもしれない……。すべては蓋然的だ。これは、あくまでもぼくの勘にすぎないし、こちらの勝手な推測から生まれた欲望の産物でもある。だけど、ことと次第によっては新たな局面が進展しないとも限らない……」
「わかった。あなたがそこまで言うなら、わたしがそのお金を用立ててあげる」
 私は、彼女の言葉に耳を疑った。その言葉は予想外のものだったし、驚きでもあった。というのも、もし彼女が私の考えに同調してくれたら、もっともらしい理由をこじつけて会社から借り入れを起こそうと考えていたからだった。
 それが、まさか我が家に存在していようとは――。
「ただし――」
 彼女が決然として言い、呆気に取られてなにも言えないでいる私の眼をまともに見据えて続けた。「そのひとには、もう一日だけ、待ってもらって。いくらヤクザだからって、お金が手許に入る以上、文句は言わない。一日や二日は、きっと余裕があるはずよ。どうせ使う充てもない泡銭――。期限はブラフだと思うわ」
 その慧眼には、なにも言えなかった。こういう判断が決然と行えるところが、優柔不断で実行力のない私には魅力だった。
「それと、もうひとつ――」
 彼女が、私の両の眼の前に人差し指を立てて言った。「その二十万は受け取らないで――。受け取ったら最後、あなたは完全に駄目になる。仕事をもらえるどころか、あなたは、そのひとに利用されるだけのひとになる」
「なるほど、足元を見られて、好きなように操られる人間になる……」
「だから、もらっちゃ駄目――。いいこと、相手はこれを機会に、あなたを見ようとしているのかもしれない。恩を売るつもりなら、それは受け取っちゃ駄目。元金だけ返してもらって、それでチャラにするの。そうすれば、あなたは、その支配人と対等の関係になれるし、イーブンな物言いができるようになる」
「ビジネスは、ギブ・アンド・テイク。お互いに貸し借りなしで勝負する」
「そ。だから明日は、そのように伝えて――。言われた金額は都合するから、もう一日だけ待って――って……」
「わかった……。支配人には明日、電話でそのように伝えるようにする」
「それが待てない――というのであれば、そこの仕事を獲るのはもう、諦めたほうがいい。おそらく仕事は来ないし、通うだけ無駄なところになる」
「で、ほんとに――」
 私は心配になって、恐る恐る彼女に訊いてみた。「そんなお金、きみにあるの」
「ないわ」
「ない……」
「あるわけないじゃない。あなただって、持ってないでしょ」
「持ってないよ……。だけど、さっき……」
「わたしだって、持ってない。だけど、借りる力はある。ひとり五万として十人も当たれば、多少の多い少ないはあるにしても、それくらいの金額にはなる――」
「そうか……。そういう意味だったのか。だから、日にちが必要なんだ……」
「そ。あなたも、当たってみて――。多分、あなたの場合、当たれる人数は限られてるから、そんなには集められないでしょうね。わたしの場合は、建設会社や設計事務所やってる会社の道楽息子なんかが多いし、給料やお小遣いにしてもそこそこもらってるだろうから、それくらいの額なら、なんとか融通してくれると思う」
「そうか。実を言うと、ぼくは、きみがオーケーしてくれたら、会社から借りようと思っていたんだ」
「いいわよ。そんなことしなくったって――」
 彼女は躊躇することもなく、さらりと言った。「ある意味、わたしの友達は、あなたのファンだから、あなたが仕事を取るために、そのお金が必要なんだ――と知ったら、喜んで応援してくれるわ。カンパとまではいかないとしてもね」
「いやいや、それはぼくの所為じゃなく、きみの人徳のなせる業だよ。ぼくには、そんな力はない。ぼくがいうと、なぜかお涙頂戴的になってしまって、エールよりは同情票のほうが多くなってしまうようだ」
「ま。そんなことはともかく――。やるだけは、やってみましょう。人生は一か八か。なるならないは、運の用い方と度胸の使い方次第。まさに『病は気から』よ。気の持ちよう次第で、運も開けてくるって――」
「そうだな。その駄洒落を聞いて、少しは心が軽くなったよ。ありがとう」
「どういたしまして……」
 明くる日の月曜日の朝、私はホテルに電話をかけ、支配人を呼び出した。そして昨夜、チッチと打ち合わせしたとおり、金員は用意することにしたが、こちらにも算段の都合があり、期日はもう一日だけ待ってほしいと告げた。
 相手の返事は、それで結構です――ということだった。
 返事は、意外とあっさりしており、こっちが拍子抜けするほどだった。それも周囲に従業員もいて聞き耳を立てている可能性を含んでのことだったろうから、その手前もあってのポーズなんだ――と了解した。
 こうしたことは、この手の業界に限らずよくあることだった。
 声音で相手に不信感や不快感を与えてはならない。あくまでも慇懃丁寧な口調で、無駄なく的確な受け答えをしなければならないのだ。
 もちろん、感謝の言葉は丁寧に述べられ、必ず約束は守るから――と誠意と安心感をもたらす態度で応対してくれたのだった。
 そうしてさらに二日後、チッチが友人たちから掻き集めてくれた五十万円をもって支配人の待つホテルに向かった。五十万円といえば、当時の私の給料の四倍強に当たる金額だった。つまり、四ヵ月分の給料を前借したのも同然の金額だった。
 そんな大金をひとに貸すのはもとより、使ったことすらなかった。もしこれが戻ってこなかったらどうしよう――という思いが一瞬、脳裏をよぎった。だが、応援してくれた皆の思いを考えると、なんとかしてこれを仕事につなげなければ――と思い直した。みんなの気持ちに応えるためにも、ここは踏んぎるしかない……。
 結果はどうなろうと、決して後悔しないことだ。彼女もいうように変に気に病んでいると、失敗する可能性のほうが高くなってしまう。病は気から――というより、成功は信じることから始まる。まずは、己を信じることだ。
 どこかの宗教もいうように、信じる者こそが救われる――。
 信心なくして神仏はない。信じる者にこそ、神は微笑んでくれるし、仏は救いの手を差し伸べてくれるのだ。
 ホテルに着くと、支配人は、お待ちしておりました。こちらへどうぞ――とマネージャー室に私を案内し、応接椅子のひとつを勧めたあと、あのときのように「コーヒーと紅茶、どちらがいいですか」と聞いてくれた。
 私がコーヒーと答えると、デスクの前に行き、その上の電話機のボタンを押しながら、コーヒーをお願いします――と言った。職業柄か、このときの支配人の動作はきびきびとし、その口調も私を客として遇する態度に変わっていた。
 自宅でのやり取りと違って、職場での振る舞いはどうしても職業病が無意識に復元してしまうのだろう。まさに形状記憶のようなものだ。なんらかの刺激を与えられると、以前のその姿に戻ってしまう。ホテルマンの悲しい性といえるかもしれない。
 彼は、私のテーブルの前に腰を下ろし、よく決心してくれましたねと言った。早速ですが、例のものはお持ちでしょうか。
 ええ。ここに――と言って、カバンから茶封筒入りのそれを差し出すと、彼は背広の内ポケットから白い封筒を取り出してテーブルの上に置いて言った。
 借用書をつくっておきました。そこには、ボーナスが出たその翌日に約束の二十万円を上乗せして、お借りした五十万円をお返しする旨が書かれてあります。すべて自署で、わたしの実印が押印済みとなっています。お確かめください……。
 封筒からなかにあった便箋を取り出し、文面を読むと、彼の言うとおりの文言が日付入りで書かれ、自筆氏名の名前の上に実印らしき複雑な形にデフォルメされた書体の印がしっかりと押されてあった。
 確かに――仰るとおりの文言になっています。
 そうですか。ありがとうございます。お蔭さまで助かりました。一時は、どうなるかと家内ともども気を揉んでおりましたが、これでようやくひと安心です。本当にありがとうございました。
 そういうと彼は、テーブルの上に置いてある五十万円入りの封筒を両手で大事そうに頭の上に持ちあげ、重ねて私に礼を言ったあと、それを胸ポケットに収めた。
 ほとんどその動作が終了したのと同時に、ドアがノックされた。彼がどうぞと言ったすぐあとに、女性がいい香りのするコーヒーを盆の上に載せて入ってきた。
 三崎さん。大変申し訳ないんですが、わたくしこれから行かなくてはならないところがありまして、これで失礼させていただきますが、どうかごゆっくりなさって行ってください。ご存知だとは思いますが、このブレンドコーヒーは世界的に有名な銘柄のものでして、とても美味しいんですよ。当ホテル自慢の――。
 え、ああ。ありがとうございます。言いながら、私は、彼が「これから行かなくてはならない」行先というのが、例のヤクザのところなのだと直観した。――というのも、急に慌てだした彼の態度の落ち着きのなさに不穏なものを感じたからだった。
 手渡し期限を二日も延ばしたことで、彼には相当のプレッシャーがかけられたに違いない。そのそそくさとした態度に、独特の惧れと慄きが看て取れた。
 私は、部屋を出ていく彼の後姿を見送ったあと、窓の外に広がる湖面の光に眼を細めながら、香りのいいコーヒーを啜り、その深みのある苦さを味わった。

 六 よこしまな動機が仇となる

 世に「貧すれば鈍する」という俚諺がある。心貧しくて欲多ければ、必ず失敗をしてしまう。だから、心まで貧乏になるな――とは、私の母の口癖だった。
 確かにこの頃の私は、功を焦るあまり欲をかき過ぎていたのかもしれない。自らの貧が撒いた欲の種とはいえ、敵が用意した陥穽にまんまと墜ちてしまったのだ。その失敗の原因は私にあった。そしてその責任の所在も私にあった。
 役所でのボーナス支給日が過ぎ、民間のそれが過ぎて一日目は、まあ、昨日の今日だからとのんびり構えていた。そして二日が経ち、三日が経った……。
 さすがの私も、ちょっぴり不安になってきた。言うまでもなく、支配人からの連絡が一向に来なかったからだ。私は、会社の行先ボードに支配人のいるホテル名とその他の営業先の名前を書いて、ホテルに向かった。営業車は個人用を併用(ただし、ガソリン代は会社持ち――)していたから、例のシビックでの訪問だった。
 梅雨入り宣言がなされていたとはいえ、空梅雨だからなのか、それ以来、雨は一日たりとも降らなかったし、降る気配もなかった。空は、どこまでも青く澄み、白い雲は遠方に、小さな流線形の鮫のような形で浮かんでいるだけだった。
 道中は、私の気持ちとは裏腹に快適だった。相変わらず、シビックは私をぐいぐい引っ張ってくれていたし、峠の坂も簡単に乗り越えてくれた。
 私は、途中で思い直し、ホテルよりはまず自宅に行ってみよう――と思った。
 ――というのも、ホテルにこられて金を返せと言われても、支配人としての面子があろうし、自宅ならば奥さんに言づけることもできる。なにかと対面を重んずるホテル業は、よきにつけ悪しきにつけ、口コミをなによりも重視する。ことは、なるべく穏便に済ませたい――というのが双方の本音であるはずだ。
 私とて、裏心があるから、その件についてはなおさらだった。
 このまま収まりがつけば、それでよし――。業腹ではあるが、返す気さえ見せてくれるのであれば分割払いでもよい。そこまでの腹を決めて、ようやく見えてきた杉林の間を抜け、支配人の家に辿り着いた。
 この間のように、その家の門柱の前にシビックを横付けすると、ドアベルを鳴らした。数秒経っても、奥からは返事がなかった。もう一度、ドアベルを鳴らした。今度は、さきほどより長めに押した。十秒も押したろうか……。無音だった。
 私は、不安が倍増するのを感じた。ベルを押す時間を三十秒ほどにしてみた。
 だが、一向に返事はなく、ドアの隙間に耳を当てて、物音がするかどうかを試してみた。それらしい音は、聞こえてこなかった。聴こえてくるのは、遠くの湖面を吹いているらしい間欠的な波の音だけだった。風が強くなってきたのだろう。
 それから少しドアを叩いてみたが、結果は同じだった。ひとのいる気配はなく、ただ死んだような静けさだけが、そこにあった。
 こうなれば、ホテルに向かうしかなかった。探偵でもあるまいし、近辺に聞き込みを開始するわけにはいかない。もし彼に返す気があり、なんらかの事態が生じて、それを履行する機会がストップしているのだとすれば、そのような行為は蛇を追い出す下地をつくることになる。
 ひょっとしてヤクザに監禁されているのか――まさか、そんなことはあるまい。
 口コミは、ホテルマンにとって最大の脅威なのだ。その最大の脅威をなによりも怖れる彼の前にちらつかせることは、今後の展開にとってマイナスになる。ここは慎重にいくにしくはない――私は思った。
 彼の評判を落とすような行動は慎まなければならない。でなければ、元も子もとれなくなってしまうだろう。結果、私がよこしまな動機をもっていたことが露見し、世間の嗤い者になるのは眼に見えている。そうなっては、すべてがアウトだ。
 やや小ぶりだが、瀟洒なホテルが見えて来た。果たして支配人は、期日に約束を守らなかったことに対して、どのような言い訳を用意しているのだろうか。私は、その理由が知りたいと思った。さきほど想像したように内容次第によっては、多少のずれは許しても仕方がないと思っていたのだ。
 ところが、ホテルに着いて、思いがけない事態になっていることが判明した。
 そこには、支配人はおらず、オーナーの中年女性が私の対応をしてくれた。彼女はK市のみならず全国的に有名な老舗の和菓子製造会社会長のお妾さんで、元このホテルチェーンのオーナー社長でもあった会長に寵愛され、そのひとつであるこの湖畔沿いのホテルを譲り受けた。
 会長には三人のお妾さんがいたが、それぞれにレストランやホテルの経営を任せ、そのうちでもっとも若いのが、このホテルのオーナーだった。
「そうでしたか。三崎さまには、ご迷惑をおかけしましたね」 
 オーナーは、私の話にじっくり耳を傾け、優雅な笑みを絶やさずに私の話を聞き終えたあと、落ち着いて穏やかな表情で口を開いた。「あの者は、このホテルの従業員にも同じようなことを言って、お金を集めていたようです」
 私のような人間は、ほかにもいたのだ。
 つまり、オーナーが、かくも落ち着いた表情で私に対処していられるのも、そのような事態に対する暴発的感情を乗り超えた心境に達しているということなのだ。おそらく会社のほうも相当な額に上る被害に遭っていることだろう。
 あの切れ者の支配人が寸借詐欺レベルの金額で満足するはずがない。恐らくその額も数百万、いや、数千万円クラスのものになるかもしれない。
 しかし、オーナーとしては、そのことは持ち出さない。持ち出したところでどうなるわけのものでもない。一介の広告屋にそんなことを嘆いてみたところで、自らの経営者としての力量が疑われるだけだ。むしろ、慌てず騒がず、じっとしているのがいい。変な噂が立てば立つだけ、ホテル経営は不利になる。
 仕入先も黙っていないだろう――。旅館ホテル業は、現金仕入れではない。すべて掛けで仕入れているのだ。そういう意味では、即座に困るわけではない。しかし、業者にしてみれば、掛けが溜まると、それだけ不安が増す。月日が経てば経つほど、自分たちの仕入れ用資金も滞ってくるのだ。勢い噂が噂を呼ぶのは間違いない……。
 レストランの客や宴会客などなら、現金支払いだから、まだなんとかなる。
 しかし、宿泊費など旅行エージェントからの支払いはクーポンなどでのものだから、実際に現金を手にするには何か月も先となる。もちろん、手数料も引かれる。資金力というより、キャッシュフローがなければやっていけない商売なのだ。
「で、迫田支配人はいま、どこにおられるのですか」
 私は、同情めいた表情で私を見詰めるオーナーに問うた。
 言い方は悪いが、キャッシュフローがあろうとなかろうと、ホテルの経営が今後どうなって行こうと、所詮、畑違いの私が関知するところではない。このひとはホテル経営のプロなのだ。そこは大人の知恵で何とかするだろう。
 心配すべきは、私自身のことなのだ。なんとしてでも、あの金は取り戻さなければならない。これでは、チッチやその友人たちにも顔向けができない……。
 その心を読んだのかどうか、彼女は静かに口を開いた。
「残念ながら、そのお金は取り戻せないでしょう。わたしたちも四方八方、手を尽くして探してみましたが、関係先には一切、顔を出していないようです」
「というと、諦めろと……」
「そうですね。申し訳ないですけど、そうとしか……」
 ますます同情の籠った顔をして、申し訳なさそうに眼を伏せるオーナー。
 その抗いもしない佇まいを見ていると、私はなにも言えなくなってしまった。
 彼女とて、その被害者のひとりなのだ。しかも、その額も相当大きなものになるに違いない。法人は有限責任である――とはいうものの、基本的に代表取締役という役職は個人保証させられているのが一般だ。そうである以上、巷の手合いがよくやるように、やれ経営者責任はどうなる、雇用主責任は――などと、責めたり凄んだりするような浅はかな気分にはなれなかった。
 悔しくはあったが、所詮は、身から出た錆。心を貧しくして欲をかいた所為だ。
 私は自分の愚かさを責めるしかなかった。これからどうやって、あの金を工面して行こう。とりあえずは、会社から前借でもしてみんなに返さなければ――。明日からの生活を思うと、背筋に冷たいものが戦くのを感じた。

 七 悪さを仕掛けてやろうと思う輩

 その日の夕刻、会社から家に戻ると、私はチッチの前で畳に両手をつき、皆から借りた金が無駄になってしまったことを詫びた。
「済まない。あの金は無駄になってしまった。おそらく仕事も来ない。支配人は、誰からも似たような話で寸借詐欺を働き、それがある一定の金額になった時点で逃亡していた。家にも誰もいなかった。オーナーの話によると、家は借家で、家族は息子二人と奥さんがいたが、二ヶ月ほど前に離婚が成立し、ぼくに話をした時点ではすでに一人住まいになっていた……。つまり、計画的だったんだ。オーナーはなにも言わなかったが、おそらく相当の金額が持ち逃げされているようだった」
「もういいよ。わかったから、顔を上げて――」
 チッチが畳に両手をつく私に言った。その声に苛立ちのようなものはなかった。その代わり、私には余計に情けなさを感じさせる優しさが籠っていた。「そんなことをいつまでもしていたって、ことは解決しないわ。起こってしまったことは起こってしまったこと――。どんなに悔しくたって、認めるしかないじゃない」
「金は、とりあえず会社から前借してみんなに返す」
「いいわよ。そこまでしなくても……」
「きみの顔を潰してしまったことは、このとおり謝る――。だから、せめて借りた金額だけでも返却させてくれないか。そうでないと、助けてくれたみんなに顔向けができない。頼む。そうさせてくれ」
 再度、畳に両手をついて頼み込む私に、根負けしたように彼女は呟くように応じた。
「わかった。あなたがそうしたいなら、そうして――。わたしは、どちらでもいいから……。いずれにせよ、この件についてはみんなには報告しておくわ」
 明くる日、私は他の社員が誰もいないときを見計らって、個人的なことでちょっとお願いしたいことがあるのですが――と鳩山専務に切り出した。
 ちょうど昼前の時間帯だったことが加勢した。いつもに似ない私の改まり方に専務も違和感を覚えたのだろう。いまから昼飯を食いに出るのだが、よければ一緒にどうだ。話は、そのときに聞くということでいいかな――と言ってくれた。
 彼が先に立って連れて行ってくれた場所は、最近できたばかりという雰囲気を漂わせた横文字のレストランだった。こじんまりとした控えめな店だった。
「イタリアンでもいいだろ。軽いもののほうが、きみも話し易いだろうからな」
 内部は、小粋としか言いようのないほど洒落た感じを与えるインテリアが設えられていた。壁にさりげなく飾られている小さな額は押しつけがましくなく、かといって眼を愉しませる要素を多分に持った色調で描かれた岬の絵だった。
 岬の見える光景は、それが絵画であろうと写真であろうと、私の好きなテーマのひとつだった。リュンと初めての旅行で行った灯台のある岬の風景が想い出された。
「わたしは、カルボナーラにする……」
 いらっしゃいませ――と愛想のいい顔と素早い動きでウェイターがやってきたとき、私にメニュを手渡しながら専務が言った。「いつもそうしているんだ。だが、きみの好きなものを頼んでいいよ」
 専務という立場上、おそらく奢ってくれようとして言ってくれているのだろうから、出してもらう側があれこれ選択するのも厚かましい……。そう思ったので、適当に眼に入ったソースとパスタを和えたボロネーゼを頼んだ。
 小さく設けられた窓からは、周りのイメージに合わせた白く薄いカーテンを通して微かな昼の光が差し込んでいた。なかなか切り出せなかった。ふたりの間に沈黙が降りてしまったが、専務は私ほど気にしている様子はなかった。
「ここはね――」
 私が感じている気まずさに気づいたのか、専務が明るい口調で続けた。「二ヶ月ほど前にできた店なんだ。会社の行き帰りに気にはなっていたんだけど、どうしても店構えの控えめなのが甚く気に入ってね。会社の帰りに思い切って入ってみることにしたんだ。そしたら、味は最高だし、シェフは親切だし――で、つい病みつきになってしまった。それで昼の時間にも、ここでこうしてご厄介になってるというわけさ」
「そうだったんですか」
 私には、専務のその気遣いがありがたかった。よほど今回の出来事の最初から打ち明けようかとも思ったが、それはやめることにした。下手に話して自分の愚かさ加減が知れてしまうと、信用してもらえないかもしれない。
 ましてや私はまだ、駆け出しの身なのだ。それこそ、あの支配人ではないが、よほど周到で納得性のある話を拵えなければ、右から左においそれと肝心のものを用意してもらえない可能性だって出てくるのだ。
 そんなことを考えているうちに、ふたりの料理がほとんど同時に出てきた。見た目にも、食欲をそそる眺めだった。最初に出てきた茹で立てのカルボナーラの香りが周囲に広がった。ついでボロネーゼがテーブルに置かれた。どちらも食欲をそそるに十分な量だった。専務が私に手の合図で食べることを促し、自らもそれを口にした。
「どうだ。なかなかいけるだろ」
 さきに食べ始め、満足そうな笑みを浮かべた専務が感想を訊いた。
「はい。美味しいです」
 本当に美味しかった。スパゲティも美味しかったが、専務の優しい心遣いがそれに倍して嬉しかった。当人にしてみれば、普段通りの心遣いをしたに過ぎないのかもしれないが、このときの私には効き過ぎた。鼻水が出そうになり、口にしているのがスパゲティの類いでよかった――と思ったほどだ。
「で、個人的なお願いというのは、なんなのかな」
 専務がナプキンで自分の口を拭い終えたあと、静かに訊ねた。その口調は急かすでもなく、あくまでも私の思いを優先するという態度でのものだった。
「実は、そのう、なんと言えばよいのか……」
 口ごもる私に、専務は静かな眼差しを向け、きみが言いたくなるまで、いつまでも待つよ――という風に口を閉ざしたまま私を見ていた。
「先日、実家のほうで……」
「実家のほうというと、きみのお母さんと妹さんの家で――ということだね」
「はい」
「井上部長によると、きみのところは母子家庭なんだそうだね」
「ええ」
 井上部長というのは、私がチッチと同居することになって、双方ともの母親を呼んで食事会を催したとき、祝儀袋を手に出席してくれた上司だった。
「普通は、こういったことを口にしちゃならんのだろうが、わたしも母子家庭育ちだから構わん――と思っていうんだがね」
「はい」
「ま、いわば、わたしたちは歳こそ違え、そうした意味では兄弟みたいなもんだ」
 なにを答えていいかわからなかった。黙って聞くだけにした。
「ま、わたしから言わせれば、三崎くんは嘘が下手だ。わたしもそうだが、嘘を吐くと、言葉が上ずる。そして心臓の音が相手に聴こえやしないか――と不安になる。それが、ついつい顔に出る。いつぞやは、井上部長がきみの獲った得意先にお礼の挨拶に伺ったとき、相手の部長さんは、きみにこそ礼を言ってあげなさいと言ったそうだが、まさにその通りで、きみにはひとにはない特別のオーラがある。それは、社内の衆目が認めるところだ。おっと、わたしばかり喋っているが、いいかな」
「はい。それは、もう……」
「もちろん、このわたしもきみには一目を置いている。きみには才能がある。『ひとたらし』というのではなくて、その逆の『こいつにはなんとかしてやりたい』という気にさせるなにかがある――」
「そうなんですか……」
 私は、あまりの誉め言葉に、ある意味、半信半疑になって専務を見た。
「そうそう。その眼だよ。その眼がわたしたちをその気にさせるんだ。もっとも、その眼に付け込んで、悪さを仕掛けてやろうと思う輩も出て来るんだがね」
「どういうことでしょう……」
「つまりだ。きみがいま言わんとしていることは、わたしにはもう判っている。みなまで言うな――ということだ」
「仰ることの意味がよくわからないのですが……」
「実をいうと、レイクサイドホテルのオーナーから、朝一番にわたしに連絡があった。きみが支配人の巧みな作り話に乗ってしまったことで困っているようだから、会社としてもなんとかしてやってほしい。こちらも彼にはお詫びの印になにかお手伝いをしてもらおうと思っているから――とね」
 この言葉を聞いたときの、私の驚きがわかるだろうか――。
 専務は、私の思いなどどこ吹く風とばかり、話を続けた。
「とりあえず、その五十万は会社が立て替えておく。あとは、きみが稼いだ分から返却していってくれればいい……。『あるとき払いの催促なし』ってやつだ。その五十万にしても、ポケットマネーなんかじゃあるまい。きちんと返すことだ」
「あ、ありがとうございます」
 私は専務の言葉についに涙腺が切れ、顔をくしゃくしゃ(おそらくそうなっているだろうことは想像しなくてもわかる――)にして号泣してしまった。

 八 幸せな気分に酔いしれた一夜

 専務は独断で、その日のうちに五十万円を立て替えてくれた――。
 その気持ちの有難さと嬉しさの籠った五十万円入りの封筒を胸ポケットに、私はシビックを駆って自宅に戻った。早くこの朗報を彼女に伝えたくて、二階に上がるのさえもどかしく感じたほどだった。チッチの驚く顔が早く見てみたい――。
 玄関に入ると、ただでさえ狭い玄関に、ぴかぴかの革靴や吐き古したスニーカーなど、色もとりどり、大きさもまちまちの男女の靴がきれいに並べられていた。
 なんだか、いっぱい来ているみたいだな――と聞こえるように言いながら、いつもは開いている奥の部屋の襖を開けると、「お帰りーっ」と大勢の男女の声がした。
 そこにはチッチのかつての学友や新しくできたバイト先の女友達がいて、にこやかな笑みを浮かべ、私を拍手で迎えてくれたのだった。
「なんだ。これは――。みんなどうかしたの」
 あまりにも晴れがましい出迎えに、そう訊ねるしかなかった。なぜこんなに集まっているのか理解できなかった。狭い六畳間に六人も詰め込まれているのだ。
「あなたのことを話すと、みんなが今日は残念会だって、こうして集まってくれたの」
 チッチが言うと、みんなが一斉に「いぇーぃッ」と気勢を上げた。
「で、今日は焼き肉パーティをしてくれることになって、みんなであなたを待ち構えていたというわけなの」
「そうか。済まない、みんな、聞いてくれ――」
 私はみんなの動きを制するようにして言った。その場のみんなが凍り付いたように神妙な顔つきになり、なにを言うのだろう――とばかり私に注意を注いでいる。「結果的にぼくは、みんなの好意を無にしてしまった。だけど、その気持ちはほんとに有難かったし、いまも感謝している。このとおり、礼を言う。ありがとう」
「そんな――。いいですよ。ぼくたちは三崎さんの役に立てばと好きでやったことなんですから。なぁ、みんな」
「おおーっ」
 リーダー格の玉井君が言うと、そこにいる全員が唱和した。
「そんなことより、まずは乾杯と行きましょうよ」
 最前から各自のコップにビールを注ぎながら、私の話を聞いていた蓑田君が言った。
「そうだ。そうだ。まずは、乾杯だ―っ」
 玉井君が頭上高くビールの入ったコップを持ち上げながら言った。
「あたしたち、三崎さんとチッチさんを応援してるから――」
 チッチと同僚のアルバイト先の篠川さんもコップを持ち上げながら言った。
「そ。わたしと篠ちゃんはチッチの味方なんだ。三崎さんは、『サリー』みたいな存在なんだからね。みんな応援するわよ」
 峰岸優ちゃんも、コップを持ち上げながら言った。
「さ、みんな揃ったところで、かんぱーい」
 タッキーこと滝下君と、グッチーこと田口君がビールの入ったコップを持ち上げて言った。いつもお互いのニックネームで呼び合っている、仲のいいふたりだ。
 私とチッチもそこにいる全員と、それぞれが持つコップをかちかちと合わせたあと、玉井君の音頭で乾杯をした。全員が「ぷはーっ」というような声を出した。
 急場しのぎだった所為か、あまり冷えていなかったが、それでもその気持ちが嬉しかった。窓は開け放ってあったとはいえ、狭い部屋のなかは、焼き肉の匂いでいっぱいだった。全員がそれぞれの小皿にとって食べ始めた。
 それぞれがそれぞれの食べ方で頬張り、一様に同じ笑顔を浮かべて肉を噛みしめているのだ。悔しくないはずがない。私にはわかっていた――。みんな私のことを思って、心では泣いてくれているのだ。だから、これは残念会――なのだ。
「三崎さん。悔しいでしょうけど、頑張ってくださいね」
玉井君が私にビールを勧めながら言った。「ぼくたち、おふたりを応援していますからね」
「ありがとう、玉井君。そして、みんなも聞いてくれ」
 私は、注がれたピールには手を付けず、テーブルの上に戻して続けた。「今日は、こんなにも集まってくれて、ほんとにありがとう。気持ちは嬉しいが、実は、これは残念会ではないんだ」
 みんなが、「え」という顔をした。なにを言い出すのだろう。あまりの悲しさに気でも狂ってしまったのか――。そんな顔だった。なかには、グッチーとタッキーのように焼き肉を頬張ったまま、固まってしまった者もいる……。
「見てほしい。ここに五十万円がある――」
 私は胸ポケットから五十万円入りの茶封筒を出して続けた。「これは、みんなに返す。なぜなら、これはみんなから預かったお金だからだ」
「なに言ってんですか、三崎さん――」
 玉井君が話を続けようとする私を片手で制するような動作をして言った。「ぼくたちは返してほしいなんて思っちゃいませんよ。いわば、あれは、ぼくたちの三崎さんに対する先行投資です。だから、返さなくてもいいんです」
「そうですよ。玉井さんの言うとおりです」
 蓑田君が玉井君のあとを続けて言った。「ぼくたちは、三崎さんを見込んで投資したんです。だから、返してくれなくていいんです」
「いや、そういうわけにも行かないよ。少なくともぼくは、ぼくの作り上げた思惑からは失敗した。つまり、みんなの期待を裏切った。逆に言えば、きみたちは先行投資に失敗したということでもあるんだ」
「だったら、なおさらよ――」
 お姉さん格の優ちゃんが言った。「先行投資したわたしたちの読みが甘かったというだけのこと――。三崎さんに、その責任はないわ」
「そうですよ。俺たちが勝手にやったことなんで、気にしなくていいですよ」
 蓑田君が言った。その顔には、ひとのいい笑みが浮かんでいる。
「みんなの気持ちはほんとに有難い。でも、聞いてくれないか――」
 私はみんなの気持ちが痛いほどにわかった。それだけに、ここはしっかりみんなに真意を聞いておいてもらわねばならなかった。「下種な話だが、ぼくは仕事を取りたくてこの話に乗った。そして、そのことに成功したんだ」
「え、どういうことですか――」
 弟格のグッチーが訊いた。怪訝さは隠しようがない。
「そうですよ、なにか言いたいのか、ぼくたちにはわからないですよ」
兄貴格のタッキーが言った。ちょっと興奮気味だ。
「つまり、なんだかだあったけど、結果的には仕事はもらえることになったんだ」
「もひとつ、よくわからないな……」
 玉井君が小首を傾げながら問うた。「もう少し平たくっていうか、具体的に説明してくれませんか、三崎さん。でないと、ぼくたちには理解できませんよ」
 わかった。では、一から説明しよう――。私は、今日あったことの一部始終をみんなに話して聞かせた。
 先方のオーナーからは、従業員の不首尾を詫びる電話があったこと。お詫びの印になんらかの仕事を手伝わせてもらえるようになったこと。それに免じて五十万円が前借できるようになったこと。そしてその五十万円は、専務から――というより、会社からの好意で、あるとき払いの催促なしという好条件で返せばよいということになったこと、などなど……。
「よかったですねぇ」
 全員の喚声のあとの拍手が終わり、ひと呼吸置いてから、玉井君が感極まったような表情で続けた。「世の中、悪いひとばかりじゃないんですね」
「なにを言う。きみたちだってそうじゃないか」
 私は言った。「きみたちが出資してくれなかったら、この仕事は取れていないかもしれない。もっとも、『結果オーライ』ってレベルの話ではあるけどね」
「それでも、よかったですぅ」
 篠ちゃんが、その小さな唇の口角を上げ、最高の笑顔を見せて言った。「わたしたちがふたりの力になれたというだけで嬉しいわ」
「ありがとう、篠ちゃん、優ちゃん、そしてみんな――。ほんとによくしてくれて、ありがとう」
 それまで涙ぐんで聞いていたチッチが、本格的にしゃくり上げて言った。
「いいよ、いいよ。三崎さんも言うように結果オーライになったんだから、ここは残念会ではなくて、激励会ということにして、乾杯だ」
 玉井君が言った。
「そうそう。じゃ、皆でもう一度、乾杯ーっ」
 蓑田君が応じた。
「おおーっ」
 その夜、私たちは酔いつぶれるまで飲み、朝までぐっすりと眠った。誰もが幸せな気分に酔いしれた一夜だった。

 九 史絵先生にならなければ……

 支配人事件が起きてから、ほぼ一月近くが過ぎた頃、ナオから電話があった。
 この夏の終わりに、ふたりで旅行したいというのだった。そう言われれば、私たちはこの三年ほどの間、旅をともにしたことはなかった。彼女が以前、言っていた「フリューゲル・デァ・フライハイト」という言葉が、なぜか脳裡に浮かんできた。
 そう、自由の翼だ――。思えば、私たちはこれをひとつの合言葉にして繋がっていたんだと思った。就職し、社会人となって、いまはもう、まったく用のなくなってしまったドイツ語を媒介にして、私たちは知り合ったのだった。
 軛からの逃走。空中を飛翔して初めて地上の軛から逃れることができる――。
 彼女は、そう言っていた。確かにふたりはドイツ語から自由になった。私は院試から、彼女は就職活動から――。さらにいま、ふたりは就職し、定職に就いている。そこには、ある一定の心の平安が保たれ、自由からの軛や束縛はないはずだった。
 というのも、これまでの彼女との逢瀬には、なにかしら抑圧めいたものとのせめぎ合いが絡んでいたからだった。図書館で初めて会話を交わしたときの背景もそうだったし、アリアナ・グランデのような激しさで私を求めたときもそうだった。
 ほかにも、それらしいときを感じたことが何度かあったが、彼女の口からはなにも語られなかった。口にしなくとも、私と逢って身体を触れ合わせるだけで、それがいつの間にか相殺され、言葉にするのが不要になってしまったのかもしれない……。
 そんな意味で、私にはちょっとした予感のようなものが脳裏を過ぎってはいたのだが、あえて拘泥せず、深く考えないようにしていた。それを告げる告げないは、本人の自由意志の命ずるところに従うしかないのだから……。
 私はチッチに彼女と二泊三日の旅行に出ることを告げた。日曜日には帰ってくるのね――と彼女は訊ねた。ああ、晩くとも夕方には帰ってくる。だから、夕飯はきみと一緒に食べる――私は答えた。その翌朝、会社に二日間の有給休暇の申請をした。金曜日の朝に出発し、日曜日の夕方に戻る計画だった。あまり急な話だと、会社に迷惑がかかると思い、たっぷり余裕をみた三週間先の予定とした。
 その日までの三週間、私は会社の予定を全てこなし、私の不在中のフォローだけを田丸君の裁量に任せることにした。
 田丸君は、快くその役目を引き受け、例のレイクサイドホテルの仕事も進行してくれることになった。ちょうどこの夏、来年のサマーイベントのための宿泊パンフなど一連のものを一新することになったのだった。
 この頃、メディア・ミックスという言葉はまだなかったが、ちょうどその走りのようなコンセプトでの企画を私が立案し、クルーザーをチャーターしてのCM撮影なども彼の裁量に任せることにしたのだった。こうした一連の仕事も、例の支配人事件が私にもたらした僥倖の一環だった。
 その翌朝、私はナオと約束した時間にK市駅に着いた。八月も終わりに差し掛かっていた所為か、ホームにはいかにも行楽帰りの客といった感じの家族連れはあまりいなかった。その代わり、老夫婦か親子と思しき年配の旅行者や老人会かなにかが主宰した小さな旅行仲間といった感じのひとびとの姿が目立った。
 ある意味、静かで落ち着いた旅を望んでいた私たちには理想的な環境だった。高校生や中学生たちの若さあふれる電車に出くわし、その騒がしさに何度も閉口した覚えのある私にはなんとも嬉しい幸先だった。
「仕事は、どう――。上手くいってる」
 左の窓側に座ったナオが、その顔越しに車窓を眺める私に訊ねた。片側の二人席だけが前方を向いた席だった。電車はその進路である北に向かって、爽やかに広がる田園の風景を後から後へと退け、ひた走りに走っていた。
 この鉄路は、リュンと初めて旅行したときと同じコースだった。
「ああ、色々あったけど、いまのところ順調さ」
「そう。よかったわね」
「きみのほうは、その後、どう――」
「ある意味、順調ね」
「もう、変なひとが訪ねて来たりはしないの」
「どうも、あの先生は諦めたみたい。教え子は、わたしだけじゃないから……」
「それは、よかった。じゃ、その後も安心して働けてはいるんだね」
「でも、例のお局さまだけは、相変わらずだけどね」
「そうなんだ……」
「かと言って、表立って意地悪するようなことはなくなったわ」
「ほう――」
「だって、ほかのひとたちだって、いつまでも彼女の言うことばかり聞いてられないじゃない。みんな右から左に聞き流してるわ。だから、彼女、ひとり浮いてる」
「じゃ、そのうち、居づらくなって辞めてしまうかも……」
「かも――。ね」
「そうか。そうなると、いいね」
「いいね――」
 彼女は、意味ありげな目配せをして言う私に、明るい笑顔を見せて続けた。「この旅で、その辺の垢もしっかり落として帰りたいわ」
「命の洗濯ツアーってわけ――」
「そ。だから、リュウもリラックスして、わたしと付き合って――」
「もちろんさ。羽根は伸ばさなきゃ」
「だよね。ふたりで初めての旅行。『自由の翼』を羽搏かせなくっちゃ」
 彼女は私の左肩に顔の右半分を預けて言った。
 車窓は、相変わらず田園の風景のままだった。線路の単調な音に加えて長閑な風景が後から後からやってきては去って行った。幸せな気分だった。
 彼女が私の左腕をとり、自分の首の後ろに回した。割れた髪の間から顔を見せた、彼女の貝殻のような耳が私の頬に触れた。少しひんやりとした感触が伝わった。イヤリングは相変わらず着けていなかった。
 そのままの姿勢で、車窓に眼を向け、彼女はなにも言わなくなってしまった。
 ふたりは長い間、そうしていた。退屈はしなかった。彼女が私の右手に自分のそれを静かに重ねた。いつもの、優しさの籠った触れ方だった。そうしていると、その手の温もりがひと呼吸をするたびに、心の隅々に沁みとおっていく気がした。
「ねぇ、リュン……」
 長い長い沈黙を破って、彼女が言った。その言い方は、深い眠りから醒め、眼の前に私がいるのに気づいて問いを発したような、物憂い言い方だった。ふたりがこの姿勢になってから、何時間が過ぎているのかわからなかった。
 私には、時間の経過する感覚そのものが停止していた。
「わたしたちって、不思議な縁――というか、不思議なカップルね」
 問われる意味が解からず、なにも答えないでいた……。
 なんらかの反応を示すことはできたのだろうが、そのような問いのされ方では、どのように答えていいかわからなかった。一瞬の沈黙の後、彼女が続けた。
「あなたには、リュンという奥さんがいて、チッチという彼女がいる。そして、わたしという恋人もいる。そういう関係をずっと続けてきた……」
 そのとおり――。私は心のなかで答えた。私の沈黙を見届けて、彼女が言った。
「だからといって、わたしにも彼氏がいないわけでもない」
 つぎの言葉を待つしかなかった……。私は彼女を見つめた。
「でも、わたしにとって、リュウは彼氏でもなければ、旦那さんでもない。リュウもそう思ってくれていると思うけど、ほんとの意味で、リュウはわたしの恋人なの。わたしは、リュウのことが好きで好きで堪らないの。いつも一緒にいたいって思う」
 彼女は、そこで言葉を切り、車窓に眼をやった。そして暫く、やや緩やかになったスピードで後退りする風景を眺めたあと、その顔を私に向けてじっと見つめた。まるで私の眼の奥に、彼女の見知っているなにかが潜んでいるのを見届けようとでもするかのように――。こちらから見る彼女の眼の奥からは、小さな光がゆっくりとこちらに向かって進んできているように見えた……。
 だが、よく見ようとしたその瞬間、小さな光は消えた。
「いまの彼氏とは別れてもいい。彼とは決して仲が悪いわけじゃないの。でも、リュウとは別れたくない。わたしにとって、リュウはたったひとりの恋人なの。だから、信じてほしい――。わたしは、あなた以外の誰も好きにはならない」
 私は黙って彼女の独白を聞いていた……。その声を聴きながら、彼女に対する愛おしさが、ますます募って行くのを感じていた。彼女は、抱きしめられなければいけない。わたしは、史絵先生にならなければならない――。
 そんな感情が、私の内側から溢れ出しそうになっているのがわかった。
 そうして私が彼女の両肩に手を伸ばし、彼女を抱きかかえたとき、車窓の風景が一転し、辺りが暗くなった。車内に明かりが灯っていた。トンネルに入ったのだ。なんて愛おしいやつなんだ。なんていじらしい子なんだ。私の感情が沸点に達した。
「わかっているよ、わかっているよ、ナオ――」
 まるで幼児にするように頭を撫で、その髪に触れ、顔を出している貝殻のような耳に唇をつけて言った。「もうそれ以上、なにも言わなくていい……」

 十 遠いシーンに思いを馳せて

 その日の夕方、私たちは駅から二十分ほど離れた海岸を小一時間くらい散歩し、その途中で見つけた宿に一泊することにした。リュンと泊まった宿とはもちろん違ったが、同じ程度にこじんまりとした、気の差さない宿だった。
 新鮮な海の幸が少量ずつ小皿に盛り付けられた料理に、美味しい、旨い、さすが海の近くだけはある――などと舌鼓を打ったあと、ひと風呂を浴びてさっぱりした私たちは二階の内縁にあるテーブルに向かい合わせで座り、冷えたビールで乾杯した。
「海が見えるね」
 ナオがコップに入ったビールを飲み干したあと、窓の外に顔を向けて言った。確かに内縁のそこからは、道路をひとつ挟んでその向こうにある海が見えていた。
 海が見える――とはいっても、青空の下のそれではなく、薄暮に近い時間帯のそれで、街燈の点った道路の向こうに光る波の動きが、それと知らせる程度の見え方だった。その方向からは網戸を通して、潮風とともに波の音が静かに届いていた。
「静かね。波の音がここまで聴こえてくるわ」
 彼女が潮風に揺らされた髪を払い、耳の後ろにかけるようにした。そのまま、例の貝殻のような耳が、その小さな耳たぶとともに露わになった。彼女は、その耳たぶを吸われるのが好きだった。くすぐったいけれど、気持ちいいと言った。自分からそれを望むこともあった。そのことを憶い出したが、口には出さなかった。
「もう、この時期になると、海水浴客もこないのかもしれない……」
「そうね。電車に乗っていたひとたちも、ほとんどがご年配ばかりだったわ」
 当たり障りのない会話だった。心も心臓も静かに凪いでいた。
「あんな風に静かに老いる――っていうのも、いいかもね」
 しばらく物思いに耽っていたように見えるナオが、ぽつりと言った。
「あんな風に――って……」
「私たちの斜め右の対面座席に、仲のいい老夫婦が座っていたでしょ」
「ああ。憶えてる――。両方ともしっかり白髪になってて、奥さんがいつもにこにこして、ご主人の言葉にひとつひとつ頷いてた……」
「そう。あんな風になれたらいいな――って思うんだ」
 眼を細めた感慨深げな言いぶりに、私は言葉が挟めなかった……。
 彼女は、ふたりのいるこの場所とはまた違った遠いシーンに思いを馳せ、なにか深い感情をその湖の底から手繰り寄せているようだった。
 彼女のいう「あんな風に」なれるのは誰なのか、なりたいという希望はわかるとしても、誰とそういう風になりたい、いや、なれたらと望むのか。そこのところがわからなかった。私と――なのか、それとも彼女自身か、彼と――なのか……。
 しかし、私には、いまの彼女に問いを発することは憚られた――。
 生来、能天気な性格ではあったが、ひと昔前に流行った言葉でいうと「空気の読めない」私には迂闊なことを口にするとろくなことは起こらない――ということを経験則的に体感していたからだった。
 たいてい、私が口にすることは相手の心を逆なでした。いわゆるデリカシーというのがないのだった。そして、それ以上言い募ると、決して触れてはならない相手の逆鱗に触れ、全治不能の大火傷を負ってしまうというパターンになるのだった。
 いつだったか、クライアントになってもらおうと画策し、電話でアプローチした外国女性があまりにも日本語がお上手だったので、失礼かとは思ったが、年齢を訊ねてしまったことがあった。おそらく二十年以上は日本に住んでいるはずだ――。でなければ、こんなに巧く話せるはずがない。そう読んでの誉め言葉がらみの質問だった。
 それまでは、それこそトントン拍子の和気藹々で、このままで行けば確実に仕事にできると確信できるほど、ふたりの空間には信頼性のある親密感(ラポート)が形成されていた。だが、年齢を聞いた途端、相手の態度は一変した。
 それ以降のやり取りは、まるで木で鼻を括ったような会話となった。ラポートは完全に崩れ、他人同士の関係より気まずくなったのだった。その豹変ぶりは、さきほどまでの、あの態度はなんだったのだと言いたくなるほどのものだった。
 もう、この轍は二度と踏むまい。――と、そのときは、思っていたのだが、生来的に物忘れの多い私――というより、マイナスとなる記憶は極力、忘れ去る能力に長けた私には、そうした負の記憶を長く保持しておくことはできなかった。それから二年もしないうちに、またぞろ似たような失敗をやらかした。
 ま、そのことは、またの機会に譲ることとしよう――。
 誰の小説だったかは失念してしまったが、「男が寝返りひとつ打つのに三十ページも費やす必要があるのか――」と出版社の編集者に言われ、原稿を突き返された作家がいたという。おそらく頭の固い編集者だったのだろう。いまどき、たった一回しか登場しない店員の服装や人相を表現するのに数十行を費やす小説はザラにある。
 だが、読みたくもない下りを読まされる身には堪ったものではないだろう。
 それと同じ轍を踏まないためにも、余談が余談を生むプロットは避けなければならない。興が乗ってさえいれば、書く分には楽しいだろうが、読まされるほうにしてみれば、本題はどうなったんだ、その続きを早く読ませろ――ということになって、小説手法としては、スピード感を削ぐ足枷ともなるのだ。
 かといって、情緒たっぷりの思い入れを連綿と聞かされるのが好きなひとには、堪らない魅力ともなろう。いずれにしても、それがどんなシーンであっても、読者サービスの一環となり、それが牽引車の役割を果たし、待たれるのであれば問題はない。
 もっとも、いま書いているこの駄文にそれなりの効果があって、ドライブ感をもたらしているというのであれば幸いなのだが……。
 窓の外はいつの間にか昏くなり、街燈の光も心なしか鮮明さを増して、私たちを鼓舞しているように見えた。ひょっとして、この旅が私たちの最後の旅になるかもしれないという予感が、ふと私の心を過ったが、あえて無視した。
 いまは、少なくともそんなことに思いを深める場合ではなかった。最後であろうとなかろうと、いま現実にその旅を履行中なのだ。彼女も言うように、いまはフリューゲル・デァ・フライハイトを使って羽搏いている最中なのだから……。
 野暮は言うまい。下手な干渉や思い込みはぜひとも避けねばならない。
 羽根は使わなければ退化するのだ。狭い空間に閉じ込められたノミが何度も飛翔するうちにその空間の狭さに気づき、いつの間にかそれ以上の高さを飛べなくなり、ついには飛ぼうとすらしなくなるように……。あるいは、部屋飼いをするために羽根を切られ、いつの間にか飛ぶこと自体を忘れてしまったインコのように……。
「静かな、いい夜ね――」
 確かめるように私の眼を見て、ナオが言った。
「ああ、いい夜だ」
 私は答えたが、そのあとを、どう続けていいかわからなかった。だから、そのまま口を閉じてしまった。
「このまま、ずっと続くといいわね」
 陳述の意味が推測できなかった。その意味を問えばきっと、彼女の意識が乱れると思った。せっかくの凪ぎを崩したくなかった。彼女の湖は穏やかだった。湖面に沈むなにかを彼女は見つけられたのだろうか……。
「多分、わたし、この夜を忘れないと思う」
 今度は、私の湖面が騒めいた。だが、顔には出さないようにした。
 ぼくだって、忘れないよ――心のなかで思った。翼があるかぎり、ぼくはいつだってきみの望むところに飛んで行くよ。だから、忘れないで。ぼくもずっと、この夜のことを心のなかに大切に仕舞っておくから――。
「ねぇ――」
「ん」
「わたしがお婆さんになっても、リュウはわたしのことを想ってくれる」
「お爺さんになっても、ナオのことは想っていると思う」
「本当にそう思う――」
「本当にそう思う」
「ありがとう。それを聞いて安心したわ。信じていいのね」
「ああ、もちろんだとも――」
 私はついに質問を発した。「でも、どうしたんだい。さっきから、ちょっと変なんじゃないか。いつものナオらしくないよ」
「ううん。なんでもない。初めてのリュウとの旅行だから、ちょっと感傷的になってるだけ……。明日になれば、元気になるわ」
「そう。なら、いいけど……」
 私は、コッブのなかに半分ほど残っていたビールを飲み干した。
 すでに温くなっており、美味くはなかったが、喉のおくの、さらに向こうにある渇きだけは潤せた気がした。

 十一 ゆうらり、きらり、波の面

 翌日の朝も快晴だった。空はどこまでも青く澄み、海は水平線の彼方で空と繋がっていた。私たちはその宿に連泊することにし、昨夜に歩いた海岸に向かった。
 すでに海水浴場は閉鎖されていたので、実質は、海の家や屋台などが出ていないだけで、本来の自然がそのままに広がる、光あふれる空間が待っているはずだった。
 案の定、浜に着いてみると、そこには誰もおらず、想像どおり光あふれる広い空間だけがあった。浜辺の砂は柔らかく、乾いた音が足の裏で鳴っていた。夜よりは、朝のほうが高く聞こえた。そのぶん、砂が乾燥しているということなのだろう。
 サンダルを脱いで裸足で歩くと、くるぶし近くまで砂に埋まった。きゅっきゅっと高く軋む音が辺りに広がり、耳にも足の裏にも心地よかった。
 宿からもって出たのは、二人分の水着と飲料水を入れたナイロン製ナップザックとフローティングベッドセット一式。そして、財布などの貴重品をしまった宿の金庫の鍵だけだった。少なくともこれだけは失ってはならない……。
 私たちは、もっとも見晴らしのいい場所に居を定め、水着に着替えた。二人とも裸だったが、誰の眼も気にすることはなかった。見ているのはやや東にある太陽、そしてあくまでも澄み渡る青空と、見渡す限り広がりを見せる海だけだったからだ。
 彼女のそれは、目の覚めるようなエメラルドグリーンに、白く小さな水玉模様をバランスよく配し、ブラの下部分に短いフリンジをあしらったビキニだった。その上下の布切れは、丸みのある長い脚と細い腰をもつ彼女によく似合っていた。
 確かに、いま思えば、彼女の肢体はアリアナ・グランデのそれと実によく似ているといえた。そのいっぽうで、私の水着(おそらく興味はないと思うが――)はといえば、きわめて普通のトランクス型で、紺色の無地のいかにも素っ気ないものだった。
 早々と水着姿になった私は早速、フローティングベッドを広げた。長さは一八五センチ、横幅が七五センチほどのエアマットだった。色は彼女の水着に合わせたように見事なエメラルドグリーンに白い水玉藻用。空気の層はいくつにも分かれていて、ひとつずつが円筒形に空気を保つように設計されているのだった。
 ナオが、それに備え付けのプラスチックでできた簡易ポンプを使って空気を満たした。全部の層に空気が満タンになるには、思ったより時間がかかった。
「やっと入ったわ――」
 ナオがポンプを押す動作を停止し、額の汗を拭うようにして言った。「これで、大丈夫よね……」
「ああ、大丈夫。これ以上は入らないよ。お疲れさま」
 出来上がってみれば、確かに随分と頼りがいのあるエアマットに見えた。上から押さえてみても、かなり弾力があった。おまけに鳩眼のような孔が片隅に設えられており、そこにロープを入れて引っ張れるようにしてあるのだった。
「これは、いいね――。これがあれば、海に入っても安心だ」
 私が感嘆したように言うと、ナオが明るい微笑みを返して答えた。
「この日のために買ったのよ――」
「そういえば、色や模様まできみの水着とそっくりだね」
「でしょ――。随分、苦労して探し当てたのよ」
 彼女は、さきほど脱いだ二人のTシャツやズボン、下着、ペットボトル入りの飲料水、金庫の鍵、プラスチック製の簡易ポンプの入ったナップザックを私に持たせ、自分は丸めたエアマットを抱え、意を決したように言った。「さあ、行きましょ。これで何時間でも好きなだけ、海の上にいることができるわ。楽しいわよ、きっと」
「そうだね」
 私はナップザックから中身が落ちないように紐を結わえたあと、その紐を首から斜めに肩へ掛けて言った。「これだと相当、沖のほうまで行けるかもしれない」
「風がなくて、海もあんなに凪いでいるから、いまのうちよ」
 私たちは走って海に向かい、海にエアマットを浮かべた。
 さすがに「フローティングベッド」とネーミングされている商品だけあって、縦の長さも十分なら、横幅も十分な広さを持っていた。ナオに乗るように勧めると、彼女はマットに腰を下ろし、その上へ仰向けになった。
 私は、彼女の足元に立ってマットを押した。片手でも軽々と押せた。抵抗感は全くなかった。マットは、ナオがその上に乗っても沈みはしないばかりか、楽々と彼女の体重を支え、なおかつ余裕があるほどの浮力を保っているのだ。
「もう、いいんじゃない――」
 私が海のなかを歩いて腰の深さまで達したとき、彼女が言った。「それ以上は無理だから――。あとは、海に任せましょ」
 そうしようと思い、マットに上がりかけたが、気が変わった。
「その前に、ひと泳ぎするよ。これは、渡しておく」
 私は、諸々のものが入った背中のナップザックを外してマットの上に置くと、海に浸かり平泳ぎをした。久しぶりの海だった。波はなく、私たちのベッドは、まるで湖面を滑る木の葉のようだった。
「どう。気持ちいい――」
「ああ、最高だよ」
「わたしも泳いでみようかな……」
「ああ、そうするといい。きっと、気持ちいいと思うよ」
 私は、彼女が降りてくるのを待ち受け、海のなかで彼女を受け止めた。
「本当だ――。気持ちいい」
 首まで海に浸かった彼女が言い、後ろにのけぞるように背泳ぎで泳いだ。上手だった。片腕が上がる度、その側にある胸の膨らみが交互に揺らいだ。
「結構、上手なんだね、泳ぎ……」
「実は、泳ぐの大好き――なんだ」
 彼女はますます勢いよく器用に腕を後ろに回転させ、海を進んで行った。そして、暫く泳いだあと、私が捕まえているエアマットのある場所に戻ってきて言った。
「長崎の五島に高浜海水浴場というのがあってね。小さい頃から、お父さんとお母さんに連れて行ってもらっていて、お気に入りの場所だったの。中学校のときはもちろん、高校生になっても泳ぎに行ったわ。ここより砂が細かくてさらさらなんだけど、東シナ海に繋がっていく海の色は、波打ち際が水色で、もう少し向こうに行くと、青色になって、そのつぎにはエメラルドグリーンになるのよ」
「そうか――。だから、ナオもエメラルドグリーンが好きなんだね」
「ピンポーン。でも、ドラゴンブルーも大好きよ」
「というと……」
「だって、ドラゴンブルーはリュウの色だから……」
「なるほど。その洒落に『座布団一枚』あげるよ」
 私は照れ隠しに訊ねた。「ドラゴンブルーっていうのは、藍色のこと――」
「そう。最終的には、高浜の海は外海だから、水がとても澄んでいて、遠くのほうの海はエメラルドグリーンよりは藍色に近い色に見えるわ」
「綺麗だろうね……」
「とっても、綺麗よ。あなたにも見せてあげたいくらい……」
 彼女はエアマットの端を掴み、その上に上がった。これもなかなかの技だった。普通、後ろからあと押しでもされなければ、海からは這い上がれないはずだった。
 現に、私がその上に上がろうとして苦労した。足がかりにしようと足をどんなにもがこうとも、水中にはそんなものはどこにもなかった。結局は、情けないことに彼女に両腕を引っ張り上げてもらい、その上に四つん這いになることで、はじめて「船上のひと」ならぬ「マット上のひと」になれたのだった。
 ベッドとはいうものの、このマットは、ふたり並んで横になるには中半端な広さしかなかった、それよりほかの姿勢で二人がマットにいることはできなかった。傍から見れば(天よりほかに私たちを見ている者はいなかったと信じるが――)、ちょっぴり恥ずかしく思える格好になっていたかもしれない……。
「リュウって、意外と不器用なのね」
 彼女は私を下から仰ぎ、その両腕を柔らかく私の背中に回して言った。
「ああ。こういうのは、苦手なんだ――」
 私は両肘を彼女の両脇に置き、自分の体重が彼女の負担にならないようにして言った。かなり窮屈な姿勢だった。しかし、無理はいえない。「もともと農村の田んぼ育ちみたいなもんでね。K市の市営プールで初めて泳ぎ方を覚えた。友達に連れられて行ったプールでね。水に顔を浸けることから教わった。潜ると、泳ぎやすいんだ。小学校四年生くらいだったかな。それで、やっと泳げるようになった……」
「へぇー、そうなんだ。そういう意味では、わたしは海岸育ちの浜乙女――ってことになるかも……」
 彼女は言って、身体を横向きにするためか、身をよじりながら続けた。「ねぇ、そんな姿勢じゃ疲れるでしょ。後ろから私を抱くようにすれば、楽になるわよ」
「ああ、そうだね――」
 私は言って、そのとおりにした。確かに、このほうが遥かに楽だった。ただし、こうすると、海は見えても、彼女の顔は見えなくなった。
「ね、楽になったでしょ」
 彼女が顔を横に向けて言った。こうすれば、彼女の横顔と垂れさがった髪の間から顔を出した彼女の、貝殻のように小さな耳が目の前に見えた。「昔、英語の本で見たことがあるんだけど、こういうのを『スプーニング』っていうんですって」
「スプーニングって、あのスプーンからきているのかな――」
 私は、右腕を彼女の腰に回して言った。彼女の右腕はわたしの腰に回されている。
「そう。スプーンという名詞を動名詞にしたものなの。こうやって、恋人同士がふたりぴったりと合わさるのね。それをスプーンがふたつ合わさっている様子に見立ててスプーニングしてる――っていうみたい……」
「なるほど。確かにスプーンがぴったり合わさっているのが眼に見えるようだ」
 私は感心して言った。そういう風にすると、すべてがぴったりと合わさっている気がするのだった。呼吸も心臓の音も、そしてふたりの気持ちも……。
 私たちは、そのままの姿勢で、凪ぎの海の波の上を緩やかに吹く風に任せ、静かな浮遊感とゆらゆらと揺れる心地よさを愉しんだ。太陽は中天に差し掛かり、陽射しは眩しいほどに明るかったが、気温そのものは暑くなかった。むしろ、波の上を吹く風が涼を感じさせ、ふたりをうっとりとさせるほどだった。
 その感じは、まさに私がつくったあの歌の歌詞にそっくりだった。

  ゆらーり、ゆうらり、ゆらり
  ゆらーり、ゆうらり、ゆらり
  遠ーい、遠ーい、空の果て
  ゆうらり、きらり、波の面
  きっと、きっと、帰れるさ
  ゆうらり、きらり、波の面

「ねぇ、リュウ――」
「ん」
「わたしたち、帰れるかしら……」
 なんという偶然か――。私は自分の耳を疑った。
 彼女に、この歌の存在を教えたことはない。歌詞の意味するように、もっと深い意味を私に解からせようとして言っているのだろうか……。
 しかし、それはつぎの言葉で、私の思い過ごしだったことが分かった。
「だいぶ沖へきてしまったようよ。見て。浜があんなに遠くに見える――」
「ああ、大丈夫。帰れるさ」
 私は、彼女の肩を叩き、自分でつくった歌の歌詞をなぞるようにして答えた……。

 十二 「意志の弱さ」を褒めてやる

 海辺や宿で楽しい時間を過ごし、そして半島の棚田や岬巡りの半日バス旅行も存分に堪能し、あっという間に日曜日の午後を迎えた私たちは、K市に帰る列車のホームに立っていた。私には思い出深い旅になった――との実感があった。
 しかし、ナオにはそうではなかったようだった。
 彼女は、宿を出る辺りから、塞ぎ込んだ様子を見せるようになった。それまでの快活さが急に失われ、ときとして、それを振り払おうとでもするかのように、唐突に快活な様子を見せたり、にこやかに笑ったりするようになっていた……。
 情緒不安定――というより、心がひとつ処に定まらないで、同じ想念だけがぐるぐると脳内を経巡っているような感じだった。ある意味、それは来るときの列車内で見せた深い湖の底に沈んで行くときのような項垂れた思考のかたちに似ていた。
 私はまたもや、あのときと同じ金縛りに遭ったように、口を閉ざさざるを得ないに気持ちに陥った。少なくとも相手の心を逆撫でするようなことだけは口にすまい。ここは、彼女の自由な想いに浸らせておくにしくはないのだ……。
 ややあって、彼女がくぐもった声で口を開いた。
「ねぇ、リュウ――」
「なに……」
「聞いてほしいことがあるの」
「うん……」
「わたし、帰りたくない」
「帰りたくない――」
「ええ。帰りたくないの――」
「どうして……」
「勝手なこと言ってる――ってわかってる」
 哀願するような表情で、揉み手をしながら彼女は続けた。「でも、もう少しリュウと一緒にいたいの。あとひと晩だけでいい。ここじゃなくても、K市に帰ってからでもいい――。今夜、もうひと晩だけ、リュウといたいの。ね、お願い……」
 私は、返事に窮した――。
 今夜は、チッチと夕食をともにすることになっているのだ。約束は、守らなければならない――。ただでさえ、彼女はひとりで私の帰りを待っているのだ。そんな彼女との約束を反故にすることはできない。
 いくら能天気で、無責任で、いい加減な私でも、それはできない……。私は声に出さずに伸吟した。心がふたつに裂けてしまいそうだった。
「ほんとに、たったひと晩でいいの。今夜だけ、一緒にいて――」
 その表情は、ますます深刻となって行った。ここで拒否すると、これまでのなにもかもがすっ飛んでしまうような気がした。こんな我がままを、ナオはこれまでに一度も口にしなかった。いつも素直に、またね――と言ってくれていた……。
 それだけに、この頼みは聞き入れてやりたい。この私もナオと一緒にいたい。いてやりたい。しかし、チッチとの約束は破れない……。
「駄目だ。今夜だけは駄目なんだ。悪いけど、その頼みだけは聞けない」
 今度は、私のほうが懇願する番だった。「その代わり、明日は逢おう。約束するよ。必ず逢う。だから、それで許してほしい……」
「いやよ。明日はいや。今日じゃなきゃ、駄目――」
「頼むよ、ナオ――。どうして今日は、そんなに聞き分けが悪いんだ」
 私は、両手で私の胸を叩くナオを抱きとめながら言った。「いつもは、ちゃんと聞いてくれるじゃないか。頼むから、今日だけは、ぼくの言うことを聞いてくれないか。お願いだ。約束は守ってくれなきゃ……。約束は約束だろ。ナオだって、そうするって言ってくれてたじゃないか。な、頼むよ。機嫌を直して、ぼくの言うことも聞いてくれないか。ほんとに約束する。明日の夕方、きみのところへ行くよ。だから、待っていてくれ。頼むよ、ナオ。信じてくれ。きっと行く。ほんとに行くから……」
 私は必死になって懇願した。こんなに真剣にひとにものを頼んだり、約束したりすることはなかった。それこそ、親友のきみにさえ、これほどの頼み方をしたことはなかった。覚えているだろうが、あの強行ツアーだった神戸行きのサイクリングにしても、私が懇願したものではなかった。
 もちろん、私が発案し、私が誘った旅ではあったが、きみはさほど抵抗なく受け入れてくれたのだった。しかるに、このナオの場合は、私の人生最大の懇願を必要としたのだ。
「わかった……」
 ナオがしゃくり上げるのを無理に堪え、涙を手の甲で拭いながら続けた。「明日は、ほんとに来てくれるのね」
「ああ、行くさ。ほんとに行く――」
「ほんとよ」
「ほんとだ」
「じゃ、待ってるからね。約束は守ってね」
「守るよ。きっと行く。必ず行くから――」
「わかった」
 ようやく気持ちを落ち着けたらしい彼女が、いつもの笑顔と元気を取り戻し、積極的に話しかけてくれるようになったのは、K市行きの列車に乗り、座席に着いてから三十分ほども経たあとのことだった。
 この旅は、私の境涯でもっとも印象深い旅となったが、このときはまだ、そうした自覚はなかった。ただ苦しかったことだけは覚えている。
 K市駅に着いてから、彼女の乗るバス停まで歩いた……。
 本当は駅前のターミナルにもそれはあったのだが、別れ難かったため、あえて二駅ほど先のバス停まで足をのばしたのだった。そこでの別れ際、彼女は荷物を道路に置いたまま両手を広げ、私を抱いた。そして唇を求めた。甘く切ない味がした。
「きっとよ。きっと、きてね。待ってるから……」
 彼女は、名残を惜しむように求め続けていた唇と腕を私から離すと、柔らかな口調で続けた。「リュウは、もう行っていいよ――。バスがくるまで待たれると、また離れられなくなっちゃうから……」
「ああ、わかった。じゃ、明日――」
 私は歩を進めたあと、肝心なことを言い忘れていたことに気づき、ナオに向けて片手をあげて言った。「この旅行は、本当に楽しかった。ありがとう」
「わたしも、楽しかったわ――」
 彼女も、私に向かって手を振って言った。「明日、逢おうね」
「ああ――」
 今度は振り返らず、腕だけを彼女に見えるようにして高く上げた。
 それから、私は駅に戻り、私鉄沿線沿いにある家に向かった。最寄りの駅に着き、そこから十五分ほど歩いて家に辿り着いた。心なしか、足元が不安定だった。安アパートの二階に上がり、ドアを開けると、たまたま台所にいたチッチが、お帰り――と迎えてくれた。いい天気続きでよかったわね。楽しかったでしょ――彼女が屈託なく言った。少なくとも、私にはそう見えた。
「ああ、お陰さまで楽しかったよ。ありがとう」
 私は四畳半の居間にあるテーブルの前に腰を下ろして言った。「こちらは、なにもなかった」
 それ以外の言葉は、なにも思いつかなかった。
「ないわ――」
「そう」
 言いながら、私はナップザックから、駅近くにあった土産物屋でナオがチッチにと選んでくれたキーホルダーを取り出した。「これ、ナオからチッチにって……」
「あ、そう。キーホルダーね。ありがとう。アパートの鍵に着けとくわ」
「それと、これは、ぼくからのお土産――。小さな真珠と貝殻のついたブレスレット」
「まあ、可愛いわね。ありがとう」
 一連の儀式だった。そこは大人であろう――としていたのだろう。
 彼女の顔には、屈託めいたものは見受けられなかった。一応、帰って来ただけでもよかった――と私は思った。少なくとも約束だけは守ったのだから……。
 基本的に、私たちにはナオやリュンとのような間柄はなかった。確かに性的接触は何度か行ったことはあるものの、そこに情熱のようなものはなかった。
 以前にも触れたが、それは行きがかり上、そうなった――としかいえない類いのものだった。だから、私に言わせれば、私たちの関係は「同棲」というより「同居」というものに近かった。もともともは、「一人口」よりは「二人口」のほうが経済的に助かるということで一緒になったふたりだった。
 だからといって、一緒に暮らしていれば情も移れば、情けも湧いてくる。ましてや男と女だ。そういう関係にならないほうがおかしい――というひとがいるかもしれない。確かに世間的に見て、そういう風にとらないことのほうが、むしろ可笑しいといえたろう。だが、それ以上に、私たちがそういう関係を好まず、同居形態を維持し続けたには,それなりの事情があった……。
 ひとつには、彼女の名誉のためにも、ここには書けないが、彼女にはそういうことに関するトラウマがあったからだった。そのトラウマゆえに彼女は、あまりそういうものを好まなかったということが挙げられるだろう。いまひとつは、かつての恋人との間にできた子どもを流産してしまったことが関係していた――。
 それがもとで彼女は、性的な交感(セクシュアル・コミュニケーション)が楽しめない女性になっていたのだった。いまでいうPTSDだったのだろう。
 その点については、男次第という考え方も一方ではあったろう。だが、私にはその能力はなかったし、どうすればそれがノーマルなものになるかという知恵も働かせることができなかった。そういうこともあって、私は徐々に彼女にそういう事柄を求めなくなっていたし、その必要性そのものも感じなくなっていたのだ。
 そのことがあってかどうか、彼女は心理セラピーのカウンセリングを受けていると言っていた。ひと月に何回か、どこかのクリニックに通っているようだった。だが、私はあまり深くは訊ねなかった。
 彼女が自ら話さないかぎり、私は深入りしないようにしていた……。
「あなたが好きな塩サバがあったから、買っておいたわ」
 彼女は、数少ない食器をセッティングしながら言った。「それと、お味噌汁と卵焼き。香の物なんかは適当に冷蔵庫から出してね。ご飯はすぐに炊き上がるから、それまで待って――」
「ああ。ありがとう。でも、急がなくていいよ」
 私は言った。そう言ったあと、立ち上がって、すでに切り揃えてタッパーウェアに入れてある梅酢漬けの干し大根を冷蔵庫から取り出した。そのついでに麦茶の入ったプラスチック容器も取り出し、ふたつ並べたコップに注いだ。
 部屋にテレビはなかった。ラジオもなかった。音のするものはなかった……。
 一般的な家族が住む家庭なら、どこでもあるであろう音の出る電化製品は、この家にはひとつもなかった。それらを買う金もなかったし、買う気もなかった。もしひとりここに住んでいれば、これほど静かな家もなかった。
 それこそ、どこかの戯れ歌ではないが、屁をひって面白くもなし独り者――という生活そのものだった。もし私が今日、ここに帰って来なかったら、彼女はたったひとりで、この食事をしていたはずだった。
 私は、それを思い、押し黙った。逆に言えば、ナオもまたひとりで食事をとっているはずだった。私は、なんと罪深いことをしているのだろうか――。
 我が家の食事は基本的に、日曜日くらいしか一緒にしなかった。
 今日がその日曜日だったが、普段は別々に取っていた。
 というのも、彼女はバイト先で済まして帰るのが習慣になっているからだった。そして私は、塾時代――というよりポルノ荘時代から、ひとりで食事をして帰るのが、これまた習慣になっていたからだった。
 その意味で、この日曜日だけが唯一我が家にとって、一般的な家庭でいう一家団らんの日だったのだ。私は、自分の選択が間違っていなかったことを神に感謝した。
 あのとき、ナオの言い分を聞き、その想いに沿っていたら、チッチはどうなっていたろう。いくら気丈で磊落な性格の彼女とはいえ、その内実は歯噛みするような思いだったに違いない……。
 もとより、神仏を信仰するタイプの人間ではなかった私は、感謝をする先をどこに求めていいかわからなかった。だから、少なくとも自分の意志――というより、約束を破れなかった自分の「意志の弱さ」を褒めてやるしかなかった……。

 十三 運命的な「裂け目」でのキス

 私にとっては休暇明けでも、会社にとっては、いつもの慌しい月曜日に過ぎなかった。月曜日は週の初めでもあって、朝礼にしても、みな気合が入っていた。
 朝から電話が鳴っていた。みんながてきぱきと動き、電話で会話をしていた。いつもどおりの賑やかさだった。留守中の経過報告を訊くと、田丸君は予想どおり、上手く業務をこなしてくれていた。言うことはなかった。
 私は、田丸君に礼を言い、今度、なにかを一緒に食おうと言った。彼は、いつでも誘ってください。どこでもご一緒します――と剽軽に受け止めてくれた。
 私は、彼が撮影に立ち会ってくれたパンフ用のポジのなかから、もっとも相応しいと思われるものをピックアップし、CR(制作室)の野村君に手配した。このパンフレットは、旅行エージェント向けのものだ。こうして事前に作って「根回し」しておかないと、エージェントは動いてくれない。ホテルの悲しい性だった。
 その他、種々の仕事を片付け、そのホテルとはまた別のクライアントとの打ち合わせやミーティングを済ませて会社に戻ると、時刻は六時を疾うに過ぎていた。私は慌てて、タイムカードを押し、会社をあとにした。
 会社から歩いて十分ほど離れたM橋は、敢えてやり過ごした。そして、そのさらに五分ほど先にあるⅠ大橋の右岸に辿り着き、その下流側の歩道を東に向かった。
 いつもふたりが別れるとき、私は、この下流側の歩道を通って帰る彼女を見送るのだった。ナオの下宿は、Ⅰ大橋の東岸から三百メートルほど離れた下流にあった。
 その意味では、ここからナオの下宿に向かうのは遠回りだった。
 会社から行くのであれば、M橋を渡って東岸を北上するほうが時間的にも距離的にも、そして肉体的にも、よほどロスが少ないのだった。しかし私は、ここからでしかナオに逢いに行ってはいけない気がしていた……。
 なぜならこの橋は、ふたりにとって運命的な「裂け目」だったからだ。
 そうしてようやく私が、橋のほぼ中央辺りに差し掛かったとき、短めのスカートからすらりと伸びた両脚を素早く動かしてこちらに向かってくる女性の姿が見えた。日はやや暮れかかっていたが、私はひと眼で、それがナオのシルエットだと判った。
「リュウ――」
 ナオも私に気づき、私の名を呼んで駆け寄ってきた。そして片手に鞄を持ったままの私に抱きついて言った。「きっとリュウは、ここを通ると思っていたわ」
「どうして、ここだとわかったの――」
 私は、彼女の腕に巻かれたまま訊ねた。「道は、ほかにいくらでもあるのに」
「いいの。わたしたちが逢うときは、この橋の上でなきゃいけない。わたしはそう決めているの。結果的に、それは間違いじゃなかった」
「確かに……。それにしても、凄い勘だね」
「勘じゃない。これは法則。わたしたちにとってのルールなの」
「そうか……。ルールなんだ」
 私は、彼女と向き合い、お互いを抱きしめながら言った。「実を言うと、ぼくもそうでなきゃいけないと思ってた……」
「ね。だから、リュウもこの道を選んだんでしょ――」
「ナオには勝てないな――。その天才的な閃きには脱帽するよ」
「嘘、言っちゃって――。心にもないことを言ってると、このナオ大王さまがリュウのこ憎らしい舌を引き抜いちゃうぞー」
 彼女は言って、両手のふさがった私の唇を奪った。いつだったか、彼女が言っていた言葉が蘇った。そうね、Ⅰ大橋のど真ん中でしてみたいわ。K川の上を流れる柔らかな風を感じながら、リュンがどぎまぎするのを見てみたい……。
 私は、鞄をその場に置き、彼女の動きに合わせて唇を重ねた。確かにハイヒールを履いた彼女は、裸足のときより背伸びをする必要がなくなっていた。
 それとも、あれからまた背が伸びたのだろうか――。
 このように路上で立ったままキスをすることを、最近の用語では、「路チュー」などというらしいが、考えてみれば、私たちにとってのこれは、有史以来の歴史的な路チューだった。いや、橋の上の歩道だから、「歩チュー」なのかも……。
 確かに、どぎまぎした。辺りの人影が気になった。行きかう車のライトや騒音どころか、川の水の音さえも……。
 それを知ってのことだろう――。
 彼女はますます大胆になって、私を強く捕まえて動けないようにし、その甘く潤む舌を幾重にも絡ませてくるのだった。これでは、まさに立場は逆だ。男勝りというか、女だてらにというか、私はたじたじだった。
「一度、これがしたかったの――」
 運命的な「裂け目」での濃厚なキスを終え、彼女は言った。
 ほかの女となら、私はとっくに突き飛ばすか、その場から逃げ出していたろう。
 だが、ナオとはそれができなかった――。
 抗しきれない愛おしさが身内からあふれ出し、彼女の異様なまでの執着がなにに起因しているのか、そしてなぜそこまで私を求めるのか、それがまだ私には理解できていなかった。ただ、その求めに応じることが、いま私に与えられた宿命なのだ――ということを本能的に感じていただけだ。
 いつか見た、いかにも狡そうな眼をした斑猫が、おまえのことはなんでも知っているぞ――と言わんばかりに私を見ていた光景が、なぜか脳裡に浮かんだ。その猫は暫くの間、呆れたように私を眺めたあと、尻尾を立ててその場を去って行った。
「さ、行きましょ」
 ナオが私の鞄を拾い上げて言った。もう片方の手は、私の腰に回されていた。陽だまりにいた猫が大欠伸をしたあと、丁寧に肉球を舐めている姿が眼に浮かんだ。そうかもしれない――。私は思った。ナオは私にとっての猫なのかもしれない。
 敏捷で、しなやかで、すらりとして身が軽く、どこへでも無理なく入って行ける細いけれど丸みのある体型と心の動きが、私にそう感じさせるのだ。
 まだ完成されてはいないが、未完成がゆえに持つことのできる優雅さ、そして知性的な閃き、柔軟な志向性。そんなものがナオにはあった。文系の私にはない理系の感性。割り切りと大胆な行動力……。そのすべてが私にないものだった。
 私は、今すぐにも彼女に入りたいと思った――。
 彼女に入って、彼女の見る世界を見てみたいと思った。彼女の思考するさまを感じてみたいと思った。その世界は、その視界は、どのように広がり、どこへ繋がろうとしているのだろう。そして私をどこへ連れて行ってくれるのだろう。
 未知の世界、私の知らない理系の世界――。それは、どんな驚きを私にもたらしてくれるのだろう。私は白昼夢を見ているような気分になっていた。
 私は、ひょっとして催眠術にかけられているのだろうか。ナオに手を引かれ、連れて行かれるままに、私は夢遊病者のように歩いていた。きっと、私は夢を見ているのだ。運命的な「裂け目」での逢瀬は、いつも私を惑わせる。
 あの橋には、魔力がある。恋人たちを虜にする魔力が潜んでいる。私は、それを信じた。信じざるを得ないほどに、あの橋は私を魅了する。
 おそらく彼女も、そうだったのだろう――。
 その証拠に彼女もまた、あの橋に固執していた。そしてそのとおりになった。
 私たちは、互いに同じを想いと意志をもって、あの橋に向かった。示し合わせたわけでもなければ、そこで逢おうと約束を交わしたわけでもない。より科学的に言うならば、「自然発生的に」私たちは、あの橋の中央で落ち合った。
 これを偶然と片付けるのは、非常に容易い。心理的に私たちが同化していたとしても、その確率はそんなに高いものとは言えなかったろう。ユングなら、きっとシンクロニシティとしか呼ばないであろう必然が生み出した結果なのではあるまいか。
 いつだったか、あの木村先生にユングのアルケーティプスの話をしたとき、ふんと鼻を鳴らされ、そんなものは読まないほうがいい――と言われたことがあった。現象学の見地からすれば、ユングなど唾棄すべき存在と考えていたに違いない……。
 とまれ、どのような見解や解釈があったにせよ、私にはこの出逢いがふたりの思いが通じた結果としか思えなかった。それほどに強い想いと意志が、ふたりをあの運命の裂け目で出遭わせたのだと――。

 十四 退院後に読ませてもらう小説

 ナオの下宿は、立派なお屋敷だった。――というより、昔はおそらく相当なお金持ちの旧家だったというほうが似合っているかも知れなかった。それこそ、ポルノ荘と較べると、月とスッポンほどの違いがあった。
 いや、較べる対象そのものが間違っている。まるで比較の対象にならないものを比較したところで意味がない。それはまさに、良家の邸宅といえたろう。
「声は出さないで――」
 ナオが唇を人差し指で押さえ、その形を円くして言った。「男のひとの声がすると拙いから……」
 立派な設えの引き戸を開け、長い三和土を通ると、いくつもの部屋が障子で閉ざされ、奥へと続いていた。その通り庭には、昔ながらのおくどさんがあって、タイル張りの台所や流しがあった。しかし、そのいずれも使われていないようだった。
 途中、ちょっとした日本庭園のようなものがあり、そこには背の低い植栽が綺麗に刈り込まれて、青々とした緑の葉を見せていた。五月とそれとは別の花の咲く樹木のようだった。小さな橋も設えられていた。泉水があり、切支丹灯籠があった。
「ここよ。入って――」
 一番奥の部屋を手で示してナオが言った。心なしか声が上ずっていて、聞いていて苦しそうだった。部屋からは、裏庭が眺められるようになっており、いわゆる離れと言われるもののようだった。おそらく隠居部屋にでも使われていたのだろう。
「凄いね――」
 私は、その見事さに感動して言った。
「でしょ」
 ナオも同調して続けた。「わたしも最初は、びっくりしたわ。なんて心落ち着く部屋なんだろう――って……」
「それに、とても静かだ」
「この時間帯は、あまりひとがいないの。学生さんが多いから、余計ね」
 彼女が縁側の障子を次々に閉めながら言った。「もう声を出しても大丈夫よ」
 障子が完全に閉まると、部屋はやや暗くなり、ふたりだけの世界になった。
 辺りを見回してみると、八畳間の部屋になっていた。天井は網代。庭と反対方向には、一段高いところに床の間があり、その上に布団がベッドのように設えてあった。
「いつも、あそこで寝ているの」
 床の間を、なるほど、巧く考えましたね――と言わんばかり面白そうに眺めている私にナオが言った。「ちょうど寝室になるような具合だったから、布団を敷いてみたの。そしたら、ぴったりだった。以来、そこが私の寝床になっているのよ」
「確かに、あまりに広いところだと、落ち着かないよね」
 私は言った。もともと私は、広い部屋には慣れていない。彼女でなくても、そうするだろう――と私は思った。
「ね、きてみて――」
 彼女が床の間に入って横になり、私を手招いて言った。
 私が彼女と並んで横になると、彼女が言った。
「ね、落ち着くでしょ」
「ああ、ほんとだ」
 枕許には小さな電気スタンドがあり、茸のような形をした笠は、ミュシャの描くような模様になっていた。彼女は笠の内側の器具からぶら下がっている、小さな紐を引いた。幻想的な淡い光が穏やかに広がり、そこだけがひとつの空間のようになった。
「眠れないときは、こうして本を読むの」
 彼女は布団の上に腹ばいになって下を向き、枕に顎を預けた。「そうすると、半時間もしないうちに、いつの間にか眠ってしまっているわ……」
「ぼくも、K市に越してきてからは、いつもそうして本を読んだり、ものを書いたりしていた。机というものがなかったんだ」
「そうなの」
「ああ。とても貧乏だったんだ。部屋も狭いし、机を置く場所もなかった」
「可哀そうに……」
 彼女は隣りにいる私の頬に優しく触れ、見つめるようにして言った。「リュウは、小さいときから苦労してきたのね」
「そうでもないけど、不自由は、さほど感じなかった。それが当たり前だと思っていたからね――」
「そう。でも、偉いわ、リュウは。そうやって我慢してきたんだもの――」
 彼女は、布団の上に伸ばした私の左腕に頭を乗せて続けた。「その点、わたしはダメ娘だったわ。我がままばっかり言って、両親を困らせていたの。あれ買って、これも買って――。隣りのまり子ちゃん家には、○○がふたつもおいてあった。だから、わたしもそれが欲しい。買ってくれなきゃ、学校へ行かない――なんて……」
「普通は、そんなもんじゃないのかな。一般家庭では、それが普通で、ぼくの家は特別だったんだ。だから、我慢強いわけでもなんでもなく、ただ欲しいものが買ってもらえなかっただけのことなんだ」
「そうかしら。私には相当な忍耐力を必要とする事柄に見えるんだけど――」
 彼女は暫くなにか考えたあと、ゆっくりと言葉を繋いだ。「でも、ある意味、我慢強いっていうのは、損することも多いわね」
「というと――」
「折角、チャンスが巡ってきているというのに、我慢するあまり、その機会を逃してしまったり、遠慮して挑まなかったりして、好機をバネにすることができない――。そんなことって、あるでしょ。リュウは、そんなこと、ない――」
「なくは、ないね――。小学生になったとき、お祖母ちゃんにランドセルを買ってもらったんだけど、母方のお祖母ちゃんが買ってくれようとしていたランドセルのほうが、ぼくのお気に入りだった。だけど、父方のお祖母ちゃんが選んだほうをプレゼントされてしまった……」
「悔しかったでしょ」
「ああ、悔しかったね。でも、それを言い出せなかった」
「遠慮したのね」
「ああ」
「そういうときって、あるよね」
「あるね、確かに――。K市に越してきて暫くしたとき、盲腸になった。だけど、お腹が痛いって、なかなか言い出せなかった。最終的には白状したんだけど、もう少し言うのが遅れれば、手遅れになるところだった。お陰で、その部分が化膿してお腹にぽっかり穴が開いちゃった。その穴に薬剤を塗ったガーゼを看護婦さんに毎日出し入れしてもらって、治るまで二ヶ月近く入院していた。季節は、ちょうど今頃だった」
「そういえば、リュウのお腹には盲腸の痕があるわね」
「そう。普通は、お腹の皮と横隔膜は繋がらないんだけど、ぼくのは化膿した所為で、お腹の皮と横隔膜がくっついちゃってる。だから、余計に笑うと痛かった」
「盲腸は、手術をした後からが大変っていうわ」
 彼女はなにを想い出したのか、くすくすと笑いながら続けた。「わたしの友達に桜子ちゃんって子がいたの覚えてる」
「ああ、覚えてる。いつか紹介してくれた、眼のくりくりっとした、よく喋るひとだよね。大学の研究室でお手伝いをしてるとかいう……」
「そうそう。その子が盲腸を手術した先輩のところに見舞いに行ったんだって――」
「うん」
「彼女は、先輩の退屈しのぎにと思って、なにを持参したと思う」
「わからないな……」
「なんと、筒井康隆の『農協 月へ行く』の入った文庫本を持って行った――って言うの。傑作でしょ」
「そりゃ、お腹の傷には相当、効いたろうね」
 日本の小説はあまり読まない私には珍しく、この本だけは読んだことがあった。私が思い出し笑いをしながら言うと、彼女はそれにつられてますます、くすくすと笑いはじめた。暫く待ったが、思い出すと笑いが止まらないようだった。
「それで、その先輩がね……」
 数十秒後、ようやく笑いを押し殺せた彼女が言った。「この本は、退院してから読ませてもらうから、いまは勘弁して――って言ったらしいわ」
 私も笑わざるを得なかった。
 あの微妙な痛さは、盲腸の手術を経験した者にしかわからない。少し笑っただけでも引き攣るのだ。ちょっぴり下品でブラックな笑いにはなるが、あの小説の面白さを知っているひとなら、盲腸の手術後だけは読み返したくないというだろう。
 私たちは、その話題でひとしきり盛り上がり、さんざん笑い合ったあと、急に沈黙し、どちらからともなく顔を近づけていった。ナオの瞳のなかに私が見えた。おそらく私の瞳にもナオの顔が小さく映っているだろう。
 互いが互いの眼に吸い寄せられながら、唇を重ねた。甘く長い口づけだった。
 彼女の手が私のカッターシャツのボタンに伸ばされ、私は彼女の七分袖のフレアスリーブになったブラウスのボタンに手を伸ばした……。

 十五 精神的に独立した生活

 これといって取り柄のない私にも、生涯で一度でいいから叶えたい――ことがあった。それは、これまでに書き溜めていた詩を詩集として出すことだった。
 以前にも書いたことだが、それが芸術的に価値があるか否かは別の話で、まさにマスターベーションに等しいものであったにせよ、私にとってはひとつのささやかな夢の実現だった。それが後々祟ることになるとは、夢にも思わなかったにせよ……。
 詩の中身は、リュンを始め、チッチやナオのことを謳ったものが主だった。
 前にも登場したので、ご記憶の方もあろうが、中出君がいつもそれを読んでくれていた。それで、本の贈り物好き(?)の彼がプレゼントしてくれたのに、エリュアールの詩集があった。それを読んで驚きだったのは、ガラやヌーシュといった複数女性に対する愛の讃歌がひとつの詩集のなかに収められている――ということだった。
 私には、それが衝撃だった――と同時に、そういう提示の仕方が許されるのだという新たな啓示が私に芽生えたことが、詩集制作に対する原動力のひとつとなった。
 いまにして思えば、浅はかな錯覚ではあったが、そのときはそんな解釈になるとは想像すらもしていなかった。それこそ、ナオにせよ、チッチにせよ、そこに彼女たちの幼い時の写真や旅行をしたときの写真などを使用することは了解を得ていたし、また彼女たちも、そこに収められるのを喜んでくれていた。
 だから、できうれば、エリュアール詩集のように著名な写真家(マン・レイだったと思うが――)の写真ではないにしろ、彼女たちやその他の仲間と撮った写真も入った詩画集風のものに仕上げたかった。
 この頃、私が詩を書いているのを知っているのは、この四人ともうひとり、チッチのお姉さん、そして学友のひとりで、自分でも詩を書いている戒田君というのがいた。中出君がくれたエリュアール詩集から感じた衝撃の影響もあって一念発起した私は、その戒田君とチッチのお姉さんに相談した……
 戒田君とチッチのお姉さんとは仲が良く、私と同じゼミの仲間だった。
 ふたりは、私の話を聞くと、私の下手な字で書きなぐった詩の清書や校閲、誤字脱字の校正などの手伝いを買って出てくれた。
 私の草稿のまま、印刷所に回すことは憚られた。というのも、学生論集に論文を掲載したとき、私が手を入れなかった所為で、誤字がすこぶる多く、欧文などは滅茶苦茶なスペルになっていて、大いに後悔したことがあったからだ――。
 そんなわけで、ふたりが主になって編集をしてくれたのだった。
 前書きは、戒田君にお願いした。さすが詩人志望の文学青年だけあって、上手な文章を書いてくれた。内容は、おおむね満足の行くものだった。
 詩集のタイトルは、『飛翔と空間』というのにした――。
 その動機的裏づけとなった一因に、エリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』という小説があった。この本は当時、ちょっと進んだ女性たちに大受けした小説だった。
 もともと、この本はナオが、いま読んでいるけど、面白いよ――と言って紹介してくれたものだったが、この時代の空気をしっかり捉えていて、当時の私たちの気分にぴったりのものだった。
 いまの時代であれば、一向にセンセーショナルではないのだが、当時の女性たちにしてみれば結構、感じさせたドラマなのではないだろうか。現代でいえば、おんな版『失楽園』のようなものだったといえる――かもしれない。ただ私個人は、渡辺淳一氏のそれを読んでいないので、なにをいう資格も権利もないのだが……。
 もちろん、自己満足のためのものだったので、大部は刷る気はなかった。
 ほんの二百冊ばかりを印刷した。ページ数は記憶していないが、束の厚さが普通の書籍用紙で1センチ強はあったから、二百ページ以上あったのではないだろうか。かかった費用は、当時の金で三十数万円ほどだったように記憶している。
 そのうちの二十冊をリュンとナオ、そしてチッチのそれぞれに捧げることにし、編集を手伝ってくれた戒田君とチッチのお姉さんにもそれぞれ二十冊ずつ、田丸君その他の友達数人にも三冊ずつを受け取ってもらおうと考えていた……。
 三冊にしようと思ったのは、学部時代に仲良くなった英語の非常勤講師から、彼の手になる詩集をプレゼントされ、なんで三冊もなんですか、一冊でいいのに――と遠慮して訊ねる私に、ひとに自著を差し上げるときは三冊にするもんなんだよ――と書籍贈呈の「ジョーシキ」を教えてもらったからだった。
 先生によると、一冊は手元に置き、あとの二冊はひとにあげるものなのだそうだ。
 それで、残りは『飛ぶのが怖い』の主人公がそうしていたように旅先に携えて行って、それを旅費と名刺代わりにしながら、新たな出逢いのできる旅ができたら――と乙女チックな夢物語を考えて愉しんでいたのだった。もちろん、本気でそんなことを実行しようと考えていたのではなかったが……。
 話は戻るが、ナオとの旅行から二週間ほどが過ぎ、朝夕がだいぶ涼しく感じられるようになった日の夕方(このとき、詩集のゲラはまだ戒田君の手中にあり、あとは印刷に回すばかりになっていた――)、会社から帰ってきた私にチッチが言った。
「折り入って、あなたにお願いしたいことがあるんだけど、いい――」
 その顔の深刻さに、私はなにごとだろう――と思った。
「ああ、いいけど。急になんなんだろ……」
「実は、わたし、この家を出ようと思ってる――」
「家を出る――。それは、またどうして……」
「あなたは、もうひとりでやって行けると思うから……」
「それで、きみはどうするの――」
「当分の間、わたしもひとりでやってみることにした――」
 彼女は、ある意味、決然とした口調で続けた。「この家にあるものは全部おいて行く。だから、慰謝料とまでは言わないけど、引越費用くらいはみてほしい」
 彼女らしい単刀直入な言い方だった。つべこべ言う必要はない。下手な言い訳や理屈は要らない。結論だけでいい――そんな感じだった。
「そうか。いずれ、こんな日がくるとは思っていた……」
 私は肩を落として言った。ここまで面倒みてくれただけでも有難いことだった。
 逆に礼を言わなければならないくらいだ。こんな身勝手で中途半端な男をよくぞここまで我慢して引っ張ってきてくれた――と……。
「で、いくらくらい必要なんだろう……」
「部屋は一応、確保した。敷金・礼金、そして二ヶ月分の家賃ともで、三十万円あれば足りる」
 手つかずにしていた夏のボーナスが丁度そのくらいあった。詩集の印刷代は、これまでに蓄えておいたものだ。これで私の有り金は一銭もなくなった。その代り、会社から前借した、あるとき払いの催促のなしの負債だけが残った。
 働けば、その借財は消すことができる――。
 だが、彼女には、いますぐにも必要な、その金が用意できないのだ。
 彼女は、これまでアルバイトで食いつないでいた。いまここで、財布は別々だったふたりの「同居生活」に完全な終止符が打たれた――ということなのだ。
 私には、彼女の巣立ちを止める権利はない。本来なら、面倒を看てもらった私のほうこそが巣立つべき立場だったろう……。
「わかった。それは明日、用意する」
「ありがとう。あなたには、世話になったわ……」
「いや、こちらこそ長い間、ぼくのような者の面倒を看てくれてありがとう」
 不思議と悲しくはならなかった。これからのことを想うと、寂しくは感じたが、意外とさっぱりした気分だった。「どこに行くにしても、頑張ってほしい」
「ええ、頑張るわ――。あなたも、頑張ってね」
「ああ」
「そしたら、わたし、明後日、荷物を取りに来るから――」
 彼女は、ふうっと深く溜め息を吐いたあと、意を決したように言った。その眼には意志の固さのようなものがみなぎっていた。
「え。それまでどうするの――」
「田丸君のところに泊まるわ。そうと決まった以上、もうここで寝泊まりすることはできないでしょ」
「え、え。ど、どういうこと――」
「あなたがナオさんと旅行に行っているとき、彼が訪ねてきてくれて、わたしの決意を話したの。そしたら、応援するって言ってくれて……」
「なんの応援――」
「わたしの独立……」
 彼女はそこまで言って口を閉ざし、暫く経ってから口を開いた。「このままじゃ、お互いに依存しているだけの関係になる――」
 そういえば――と、私は憶い出した。
 その田丸君が以前、彼が前の会社をなぜ辞めたかの理由について、私たちに語って聞かせたことを……。彼は、職場の先輩の奥さんを好きになり、その不倫がばれて会社を馘になった――と言っていたのだった。
 しかし、それでも私は、彼女を責める気にはならなかった。そのような男に告白してみる気にならせた、私の身勝手な行動……。それに主たる原因がある――と思ったからだった。事実、私は度々家を空けていたし、朝まで戻らないことも多かった。
 そこに、寂しさの生じなかったはずがない……。
 いくら財布は別々、夕食も別々の同居生活だったとはいえ、将来の展望の見えない男との生活は彼女には酷だったに違いない。だからこそ、彼女は心理カウンセラーのクリニックに通っていたのだ。
 もしその田丸君が彼女の汝になり、ふたりでひとつの「我=汝」空間を形成するのなら、私としてもなにも言えなかった。おそらくカウンセラーは、私のような男とはできるだけ早く別れて、精神的に独立した生活を確保しなさい――とアドバイスしたに違いなかった。
「彼には、そのときに正式に挨拶させるわ――」
 彼女は長い沈黙のあと、静かに告げた。「でも、勘違いしないでね。あなたが嫌いになったわけじゃないから……。それと、彼とは結婚しないと思う。そんな関係じゃないから」

 十六 最後の砦

 三日後の夕方(それは土曜日だった――)、チッチと一緒に現れた田丸君は、悪びれた様子もなく彼女と付き合うことを宣言し、彼女がセットしておいたわずかな荷物と彼女を車に乗せて去って行った。
 呆気ない幕切れだった。ただ酷く気になった言葉があった。それは、田丸君がチッチとの交際宣言をしたときに発した、不用意な(おそらく――)言葉だった。
「これで、ぼく、三崎さんに勝ちましたね――」
 私は、なにも言わなかった――。いや、返さなかった。
 そこには、さまざまの理由があり、種々の意味が附与されていた……。
 まず、真っ先に挙げられる理由があるとしたら――。それは、私の男としての不甲斐なさにあったろう。これを措いてほかに、返事のできなかった理由を述べることは適わない。私は彼の言に対して、形あるものとしての解を提示することはできなかった。ある意味、それは悔しさを誤魔化すための黙秘だったかもしれない。自暴自棄な八つ当たりの暴言を封ずるための沈黙だったかもしれない……。
 いずれにせよ、この時点でなにを言ったとしても、そのすべては負け惜しみにしか聴こえなかったろう。第三者にとって、敗者の弁ほど聞き辛く醜いものはない。言い訳を聞けば聞くほど、自分自身も醜く惨めな存在になってくるのだ。
 その夜、私は詩を書いた……。それも、深夜の三時ごろに――。
 きみにもし子どもができれば、気宇と名付けよう、そしてこの父が、空高く抱き上げて「高い高い」をしてやろうという内容の詩だった。いわば、負け惜しみの、悔し紛れに生み出した自己弁護のための歌だったかもしれない……
 誰の詩だったか忘れたが、一番惨めで哀れなのは「忘れられた女」というのがあった。リュンがいつだったか、私に寝物語で教えてくれた詩のひとつだ。マリー・ローランサンというひとの詩だったかどうか、いまは記憶の彼方にある。
 それと同じく、捨てられた男も同様だ。捨てられた男に同情の余地はないし、慰められもしない。捨てられるには、捨てられるだけの理由があるのだ――。
 きっと、ひとはそう思っているに違いない。恋を、もしくは愛を、勝敗の視座でしか捉えられない男の価値観をとやかく言ってもなにも始まらない……。
 そのことは、しかし、その言を発した男自身が一番よく知っていよう。
 彼は、私から彼女を奪った、もしくは私の束縛から彼女を救ったという気になってその言葉を口にしたのだろう。事実はその逆で、彼女は私を束縛しないことに決めたのだ。この男はもう、わたしを必要としない――と……。
 彼には、そのことがわかっていなかった。その証拠に、彼女は独り暮らしを始めて二ヶ月後に、彼との交際をストップしたことを私に報告した。理由を聞くと、彼のそういう捉え方が自分の思いと異なったから――というのだった。
 彼女が彼に求めていたのは、「奪った・奪られた」あるいは「勝った・負けた」というようなものではなかった。ましてや、彼の思うような「彼の女になる」という感覚のものでは決してなかった。互いが互いを自分のものとして拘束し合うのではなく、互いが互いを高め合う自由な存在として措定することにあった。
 後日、彼女が私に伝えたところによると、彼は新たに入った会社を辞め、その後、行方知れずになっているという。だからといって、私が彼女と縒りを戻したということではない。むしろ、現在では私にとっても彼女は行方不明になっているのだ。
 私が、彼女を最後に見たのは――。
 いや、話が先走ってしまったかもしれない。時計の針を少し戻すことにしよう。
 田丸君は、彼女の荷物を引き取りに来たその翌々日、会社に辞表を提出し、その月の末日をもって退職することをみんなの前で表明した。
 理由は、親父さんの経営する会社が危うくなり、それを盛り返すため、長男である彼がそちらのほうで力を尽くすことになった――というのだった。私と同じ職場で顔を突き合わせて仕事を続けるには、相当な勇気が必要だと判断したのだろう。
 同僚たちのささやかな歓送会も催されず、彼は月末に去って行った……。
 詩集は、彼女のインディペンデント・デイ、すなわち「独立宣言日」から二週間後に完成した。私は、印刷所から届いたそれを四十冊用意し、シビックに乗せた。そして、たまたま彼女が出て行ったあと、タンスの底に見つけた彼女の和服と詩集に使った彼女の少女時代の写真を届けてやろうと思った。
 このふたつは、彼女にとって世界にひとつしかない宝物のはずだった。
 当人は恥ずかしがっていたが、路地裏で粗末なスカートに身を包み、素足に下駄を履いた彼女の姿を撮った写真は、まるで「じゃりン子チエ」そのもの――。
 それは、かつての私の妹の姿を彷彿とさせており、今日の基準感覚でいえば、ちょっぴりブサカワ寄りのものではあったが、元気いっぱいで、いたずらっ子風の姿にいたく感動して掲載した写真のひとつだった……。
 そんな写真を彼女が承認したその裏には、なんでだよ、可愛いじゃないか――と褒めた私の言葉が気に入ってということがあった。その容姿は、彼女にとって最もコンプレックスを感じる部分だったのだ。
「その後、どう――。彼とは巧くいってる」
 私は、下宿(二階建て木造の民家――)の一階に降りてきた彼女に訊ねた。
「引っ越し祝いにワインを持ってきてくれたわ」
「そう。それは、よかった」
 私には、そんな親切心や器用さはなかった。また田吾作だったこともあって、ひとにワインを贈るという習慣はおろか感覚すらもなかった。しかも、ワインを飲んだ経験ですら皆無だったのだ。
「彼は優しいよ。寒いときには、自分の上着を脱いで着せてくれるの」
「そう……」
 それ以上の言葉は口にできなかった。こんな場合、いったいどんな風に答えればいいのだろう。
「それに、道路を並んで歩くときも、車道側を歩いてくれるの――」
「そうか……。彼は、そういう男なんだ」
「で。今日は、なに――」
「詩集ができたんで、持って来たんだ」
「そう。ようやくできたのね」
「ああ――。お姉さんたちに手伝ってもらって、やっとできたんだ」
 私は、詩集を入れてきた段ボール箱の蓋をを開け、彼女の着物の包みを取り出しながら続けた。「それと、タンスを整理していたら、きみが大切にしていたこれが出てきたんで持ってきた。きみが忘れているんじゃないかと思って……」
「忘れていたんじゃないわ……」
 彼女は、それを眼にした途端、半ば呆れたように顔を曇らせて言った。「馬鹿ね、わざと置いておいたのに――。最後の砦にしようと思って、そのままにしておいたんだけど……。わざわざ持ってこられたんじゃ、どうしようもないわ――」
「というと……」
「もう、いいよ――」
 彼女は両手で顔を塞いで続けた。その声は上ずっていた。「あなたっていうひとは、どうしてひとの気持ちがそんなに読めないの……。でも、考えてみれば、馬鹿はわたしのほうよね。覆水盆に返らず――。自業自得って、このことだわ」
 言葉の返しようがなかった。間抜け面をし、下を向いて黙っているよりなかった。
 それから、長い時間が経った――。
 ふたりは一言も交わさず、長い間、上がり框に座ったまま、沈黙を続けていた。そして、感覚的に一時間ほどが経った頃、じゃ、ぼくは、これで帰るから……。この詩集は、約束どおり田丸君やきみの友達にも適当に配っといてくれていい。彼によろしく――。そう言って、私は彼女の下宿をあとにした。
 彼女もそうだったかもしれないが、私も相当に惨めだった……。
 あの夜、彼女の気持ちを引き止めるために、発作的に詩を書いた。彼女と同様、あの詩も私にとっての最後の砦だったのかもしれない。そんな詩を新たに加えてしまったことを後ろめたく思った。あんな詩を書かなければよかった。いや、所収しなければよかった。そうすれば彼女も、もっとすんなり私を吹っ切れたかもしれない……。
 しかし、印刷され、手渡してしまったものをどうすることもできなかった。あれを書くことで、私は彼女になにを期待していたのだろう。彼女が、あの着物をタンスに残しておくことで為そうとしていたものと、果たして同じものなのだろうか――。
 私はシビックを駆りながら考えていた……。
 例の斑猫が、どこからともなく私の脳裡に現れ、地面に両肘をついて私をじっと見ていた。そのずる賢そうな眼に見つめられていると、濡れ衣を着せられているような嫌な気分になった。私は罪を犯しているのではないか。男として犯してはならない罪を犯しているのではないか――。
 後戻りすべきなのだろうか。それとも、このまま無視すべきなのだろうか。私の心は引き裂かれる痛みに狂い出しそうになっていた。
 いや、いくら泣き叫んでみたところで、もう遅い。いまさら後戻りすることなんてできやしない。彼女だって、そう信じているに違いない。賽は投げられたのだ。
 覆水盆に返らず。自業自得って、このことだわ……。
 彼女の言葉が重く蘇った。少なくとも元の木阿弥になることだけは避けねばならない。そうでなければ、私たちはなんのために同居生活を解消したのだったか。お互いに独立した存在として己を解放し、自らの選んだ道を歩むためではなかったか。
 そのための、独立宣言であり、別居願いだったはずだ。
 そう宣言した彼女に、私から歩み寄り手を差し伸べることは、彼女にとって屈辱以外のなにものでもないはず――。私は、彼女からなにも言ってこないかぎり、こちらからはなにも働きかけないことにした……。

 十七 永遠の孤独の始まり

 日曜日、本を読んでいると、電話がかかってきた――。
 晩い昼食を済ませたあと、コーヒーを飲んでいたときだった。昼食は昨日のカレーの残り。コーヒーはインスタント。砂糖はコーヒー・シュガーならぬ上白糖。読んでいた本はアーシュラ・K・ル=グィン。その世界に吸い込まれていた……。
 電話は何度も鳴ったが、受話器は取らなかった。小説のほうが気になった。
 それでも、電話は何度も鳴った。七回目のコールで電話に出た。
 チッチの友人で、彼女がもっとも仲のよかった玉井君からだった。彼女が田丸君との交際をストップした――という報告を聞いてから、半月ほどが経っていた。
 話の内容は実に月並みで、客観的に見て、私の近況や心情を訊ねるのが目的のようだった。聞いていて、自分でもこそばゆくなるような電話だった。
 基本的に私は、玉井君とはそれほど親しくはない……。
 にもかかわらず、旧来の友達のような口調で話しかけてくるのだ。チッチが仲を取り持つよう彼に頼んだわけはない。彼女はそんな女ではない。ひとのいい玉井君が勝手に気をまわして、ふたりの仲を取り持とうとしているのだと感じた。
 あの詩集は、懺悔の書なんですよね、三崎さん……。そのとき、彼はそんなことも言っていた。読ませてもらいましたが、ぼくにはそうとしか釈れませんよ――。
 それから一~二週間に一度は、彼から様子見のような、ご機嫌伺いのような電話がかかってくるようになった。そして、それだけならまだしも、彼女のお兄さんからも、どうしてるんだ――と頻繁に電話が入るようになった。
 お兄さんのほうでは、煮え切れなさや頼りなさを感じるのか、私の優柔不断な姿勢を叱咤し、勇気を鼓舞するような電話が多かった。お前も男なら、いい加減、眼を醒ましてしっかり歩いたらどうなんだ――といった類いのものだ。
 ふたりが示し合わせているとは思えなかったが、私はだんだん電話に出るのが億劫になってきた。もともと叱咤激励されて奮起するようなタイプではなかったし、どちらかといえば、煮え切らない男だった私にそれらの言葉は重すぎた。
 それで、お兄さんには手紙を書くことにした。
 私には彼女と一緒に住むようになる前から、恋人(結婚相手と書くと、二重婚のような誤解を生むので、それは書かなかった――)がいて、その恋人と別れるつもりはなかった。それを彼女には承諾してもらった上で、ふたりは一緒に住むようになった。
 そうした意味での同居生活を続けるうち、彼女には恋人(これも「汝」と書くと説明が面倒なので、この表現にした――)ができ、ふたりは同居生活を解消し、それぞれ別の道を歩むことにした。それで、私は彼女と一緒に住む気はなく、彼女もまた同様の気持ちであるはず――といったことなどを書き綴った手紙を投函した。
 それ以来、お兄さんからの電話はかからなくなった。
 いっぽう、玉井君からの電話も徐々に少なくなって行った。彼にしても、いつまでも他人事に首を突っ込んでいたくないと思い始めたのだろう。数ヶ月もするうちに完全に電話をしてこなくなっていた。
 これで、完全にチッチの交友関係とは縁が切れたのではあったが、我が家は、ある意味、火が消えたようになった。それだけ、彼女がらみの友人がいかに多かったのかを思い知らされた格好だった。
 そうして何回目かの日曜日が訪れた。今日も、その日曜日だった。狭い部屋とはいえ、朝方から誰の姿もない家は、がらんとして寂しかった。
 ひとの声の聴こえない生活は、ラジオやテレビといった音の出る電化製品を持たない私には、深い森の中で生活しているに等しかった。そんな部屋で、アーシュラ・K・ル=グィンを読んでいると、「永遠の孤独」という言葉が脳裡に浮かんだ。
 地球から遠く離れた、どこかの星でたったひとり、自分の真上にある空を視て佇んでいる気がした。目蓋の裡の視界には、暗い空のほかにはなにも視えなかった。
 そうしていると、吐き気がして、台所のシンクで吐いた。水のような粘り気のある液体だけが喉の奥からあふれ出て、鼻の奥に詰まった。ライプシュプラッヘという言葉が脳裡に浮かんだ。身体が嫌がっているのかもしれない――と思った。
 永遠の孤独という言葉が、また脳裡に浮かんだ。今度は声になっていた。
 その声が言っていた。おまえは孤独だ。そして、それは決して終わることのない未来永劫の孤独なのだ――と……。
 私は、ナオに逢いたいと思った。今日は、どんな無茶を言ってでも彼女に逢いたいと思った。いまこの瞬間、私を理解し、私の相手をしてくれるのは、ナオそのひとでしかいない――そんな切羽詰まった気分だった。
 彼女と話がしたい。内容はなんでもいい。無意味な話でもよかった。耳を傾けてくれるだけでよかった。その声が聴きたい――。その顔が見たい――。
 まるで、駄々っ子のようだった。かつての彼女がそうであったように、私にもそんな瞬間が訪れたのだ。あのときのナオの気持ちが分かったような気がした。
 私はナオの下宿に電話を入れた。
 どうしたの――。取次の女性に代わって電話に出た彼女は、驚いた様子で訊ねた。
 どうしても逢いたいんだ。構わないかな――。私は言った。
 いいけど、夜は行かなければならないところがあるの。だから、それまでならいいわ……。その声は、いつもとは違い、どことなく沈んでいるように聞こえた。
 構わない。いますぐ行くから――。私は言った。
 彼女の下宿には、二十分ほどで着いた。時刻は午後三時を回っていた。
 彼女は下宿の前ですでに私を待っていた。その前にシビックを横付けすると、彼女がドアを開け、助手席に座った。暖かそうな襟の付いたブルゾンに脹脛まである黒いブーツ、やや短めのスカートを穿いていた。そこからは丸い膝小僧がふたつ並んで顔を出していた。手には、色んな道具が一式入っていそうなバッグを持っていた。
「すまない。無理を言って――」
「いいわ。気にしないで……」
「お腹は空いてない――」
「空いてないわ」
「そう。じゃ、その辺でコーヒーでも……」
「コーヒーは、いい――」
 彼女は、フロントガラス越しに真正面を見て言った。「このまま、真っすぐ行って」
「真っすぐ――」
「そう。あのホテルに行って――。わたしたちが初めて夜を明かしたあのホテル」
「Ⅰ大橋の北にある、あのホテルのことだよね」
 ラブホテルの名前は口にしたくなかった。彼女もそうだったのだろう……。
「ええ。朝まで話し続けて、なにもしなかったあのホテルよ」
「あのときは、愉しかったね」
 表情が気になって、彼女の横顔を見て言った。その顔は前を見ていた。それでも、彼女の顔を見られただけでもよかったと思った。
「ええ。とても愉快だったわ……」
 彼女は前方を見たまま、遠いものを見るような眼になって続けた。「あなたがとても眩しく見えたし、わたしも若かった――」
「そういえば、あれからもう四年以上も過ぎているんだね」
「そうね」
 そう言ったまま、彼女は口を閉ざした。
 私も黙ったまま、シビックを走らせた。ホテルのガレージに着いて車のドアを開けると、川面を渡ってきた風が頬に届いた。K川の上流を吹く冬の風だった。
「風が冷たいわ」
 彼女が丸めた両手に息を吹きかけるようにして言った。その風に吹かれて、彼女の小さな耳が髪の間からこぼれた。胸のなかのなにかとなにかが接点を求め、ぴちっと結ばれた気がした。思わず、彼女を振り向かせてその唇を塞いだ。
 唇を重ねたそのままの姿勢で部屋に入り、私たちは転がるようにしてベッドに倒れ込んだ。逢いたかったんだ。ほんとに逢いたかったんだ。私は、彼女から唇を離しては同じ言葉を繰り返した。そして唇を重ねては、彼女の衣服を剥いでいった。
 なんでもいい。どんな言葉でもいい。なにか話していてくれ。きみの声を聴いていたいんだ。胸の包みを剥ぎ、唇を重ね、ふたつの膨らみが現れると、それの先に硬く屹立した小さな蕾に口づけをし、また唇を吸った。声を出していてくれ。声が、その声が聴きたい。彼女のほうも、狂おしく唇を重ねるたびに私の衣服を剥ぎ、最後の一枚を剥いだ。硬く屹立したそれに手を伸ばし、言葉にならない喘ぎを漏らした。
 その言葉にならない声が私の心を満たし、私はさらに硬くなった。彼女が硬くなった私をさらに硬くし、私を導き入れた。その瞬間にあふれ出た喘ぎが、私を固く引き締め、彼女の湖をさらに満たし、うるおいをあふれさせた。
 お互いがお互いの声に反応し、お互いの息遣いに合わせて呼吸した。
 何度も何度も、私たちは互いの名を呼んだ。相手の名前を呼んではそれに応え、自分の名前を呼ばれては相手の名を呼んだ。感情の嵐が何度もふたりを襲い、その度に私たちは気を遣った。互いが互いの身体を強く抱きしめ、その都度、相手の存在の深まりを確かめ、深め合い、互いの精気をむさぼり合った。私は何度も彼女のなかに果て、彼女は何度もアクメに達した叫び声をあげた……。
 これほどまで相手を求め続けたことはなかった。まるで今生の別れのように私たちは愛し合った。あたかもこうすることで、永遠の孤独が癒されるかのように……。
 ベッドの上で抱き合った姿勢のまま、私たちはどんな夢も見ることなく、ぐっすりと寝入ってしまっていた。気がつけば、時計の短針は六時を過ぎ、長針は三十五分を指していた。一時間近くも眠っていたことになるのだった。
 私たちは急いでシャワーを浴び、服装を整え、シビックの待つガレージに戻った。
「今日は、ありがとう。リュウ。逢えてよかったわ」
「ああ。ぼくも逢えてよかった。逢えなかったら、どうしようかと思っていた……」
「きて、リュウ。もう一度抱いて――。そしてキスして」
 そう言って、彼女は腕を伸ばし、私を抱いた。私は彼女を、その胸ごと力いっぱい抱きしめた。そして求められた唇を吸った。
「もう、ここでいいわ、リュウ。今日は楽しかった」
 彼女が唇を離し、私を抱きしめていた両腕をほどいて言った。「わたしは、ここからタクシーで行くことにするから……。リュウとはこれで、さよならね」
「なに言ってるんだ、ナオ。ちゃんと家まで送るよ――」
「駄目。家じゃないの。そこへは、わたしひとりで行けるから……」
「なんで――」
「なんでも――。ねぇ、リュウ、わたしの言うことを聞いて……。もう時間があまりないの。行かなくちゃいけないのよ」
「だから、なんで――」
「なんでも――。送らなくていい」
「どこだか知らないけど、送って行くよ。車で行くほうが……」
「もお。リュウの馬鹿、馬鹿。どうしてわかってくれないの」
 彼女は、私の痩せた胸を音が出るほど、何度も何度も両手で叩いて言った。その眼には涙さえ浮かんでいた。さきほどまでその気持ちを隠してものを言っていたのだとわかった。
 あのときと同じだった。いや、あのときと逆だった。
 しかし、能天気な私は、まだその先にある彼女の本心に気づいていなかった。彼女は、あのときの私のように板挟みになりながら、私を振りほどこうと藻掻いていたのだ。私は彼女を宥め、シビックに乗せて、彼女のいう場所に向かった。
 K市駅の近くの貸しガレージにシビックを駐車し、彼女について行くと、そこは夜行高速バスのターミナルだった。そこには、若い男女数人が彼女を待っていた。たったひとり見覚えのある桜子ちゃんを除いて、すべて私と面識のない若者だった。
 彼らは、彼女のかつての学友たちのようだった。彼らの和気あいあいとした仲睦まじい様子を見ていると、強烈な疎外感を覚えた。まさに私は場違いな人間だった。私はそこにいないも同然に、彼らは思い出話に花を咲かせていた……。
 これで、ようやく能天気な私にも事情が呑み込めた。彼女はこの日この時間、彼らに見送られて故郷に旅立つことを決めていた。それで、わたしに悟られまいと、ひとりで行くと言っていたのだ。つまりは、たまたま私が電話をしなければ、彼女はあの詩集を受け取った日を最後に、私とは永遠に訣別しようと決めていたことになる――。
 それを知って、私は愕然とした。むしろ、彼女の配慮に感謝しなければならないのは私のほうだった。彼女としては、私に恥をかかせたくなかったはずだ。だが、私は強引に我を通し、彼女の意向を無視した。
 それどころか、親切ごかしに彼女の手伝いを買って出て、却って彼女の顔を潰してしまったのだ。彼女の手前、顔にこそ出さないが、彼らはきっと心のなかで思っていよう――。なんなんだ、このおっさん。ナオと一体どういう関係があるんだ……。
 自らの物わかりの悪さが招いた気まずさに、私は彼らの間で交わされる会話について行けないまま、苦しい笑顔を浮かべてそこに突っ立っているしかなかった。
 暫くそうしていると、バスがターミナルに到着した。二階建ての、見るからに快適そうなバスだった。ナオが搭乗し、車窓から私たちに手を振って去って行った。
 初めて会った彼らに別れの挨拶を交わし、私はシビックのある駐車場に戻った。彼女の予想したことではあったろうが、確かに惨めな気分だった。
 これで、完全に終わることのない「私だけの孤独」が始まったのだと思った。

 十八 最初で最後のプレゼント

 雪が久しぶりに降った日曜日の朝、リュンが訪ねてきた。雪は大量ではなく、すぐに止み、道路までぬかるませることはなかった。そしてリュンが、駅から歩いて私のアパートに辿り着く頃には、地面はほとんど乾いていたらしい……。
 チッチとの別れがあったことは、すでに彼女に告げていた。ただ、田丸君との経緯については伏せておいた。話が長くなるし、説明も面倒になるからだった。
 実を言うと、リュンの来訪は私には意外だった。というのも、あの詩集を彼女から受け取って読んだK市の友人が私に電話してきて、非難したことがあったからだ。
 その非難というのは、あの詩集が複数の女性に対して書かれていて、それぞれの女性に対して失礼だというのだった。リュンはそれに対して、なにも個人的なことは言わなかったが、その友人は私のことを当時、話題になっていた「イエスの方舟」を引き合いに出して、その主宰者かのように看做して非難したのだった。
 結果的にそれは誤解だったとして、私とその友人との確執は潰えたのだが、気分的にはそれなりの屈託がないとは言えなかったからだ。いわば、女の玉井君的おせっかいバージョンという格好だった。ある意味、当の本人たちより、無関係な他人のほうがやきもきする詩集だった――といえるかもしれない。
 もっとも、その詩集はのちになって、魔の詩集(死臭?)と化して、私を責め苛むことになるのだが、まだその時期はやってきていなかった……。
 ちなみに、その友人(女性)というのは、リュンがK市にくるたびに宿泊する寺の一室の住民、そう、私がリュンと初めて出遭ったESSの部長が住む下宿の住民のひとりだった。私は、その部屋を友人の苗字になぞらえて「松本旅館」と呼んでいた。
 この当時、宴会シーズンになると、K市の新聞広告には、必ずド派手な「松本旅館」の宣伝が載っていて、例えとして使い勝手がよかったのだった。
 それで、私は、今夜も松本旅館に泊まるの――と、リュンによく訊ねたものだ。最初の頃は、確かに松本旅館は彼女には重宝したものの、暫くすると、ポルノ荘三崎館のほうに直接、出向いてくるほうが多くなっていた。
 この日も、三崎館での逢瀬でこそなかったが、彼女は前触れもなくやってきた。
 私たちは、互いの顔を見ると言葉もなく、互いに腕を伸ばし、口づけを交わす。言葉を交わす必要はなかった。いつものように腕を伸ばし、相手の身体を包むように歩き、ついこの間、新調したばかりの毛足の長い絨毯が敷いてある六畳間に進んで行く。
 毛足の長い絨毯の上に腰を落ち着けると、ふたりは、そこに座ったままの姿勢で互いの衣服を脱がせ、衣服をひとつ剥いでは口づけを交わす。
 そうして少しずつ、私たちは生まれたときのままの姿になる……。
 すべての衣服を脱ぎ終えると、彼女が脚を開いて胡坐をかいた私に跨り、屹立した私を受け入れる。彼女がゆっくりと腰を沈ませる。眼を瞑る。全長がすっぽりと包まれていくのがわかる。先端が、いつもの小さく、柔らかな孔に突き当たる。
 そのあと、深くそのなかに分け入って行くのを感じる。
 私たちは互いを抱き合い、繋がったその姿勢のまま静止する。動く必要はない。ある一点にだけ精神を集中し、互いの深みに沈み込んで行く……。
 こうして抱き合っていると、嫌なことも悲しいことも、悔しい思いをしたことも、そして苦しい思いをしていることも、すべてが緩やかに溶け出し、海に繋がる河口に向かって流れていくように感じる――。
 私たちは、互いを抱いたまま、たっぷりと気を養った。濃密で濃厚な、それぞれの空間を深く行き来し、暫く逢わなかった間隙を埋め尽くし、精気を取り戻す……。
 ふたりの時間と空間が現実に戻り、私は絨毯の上に仰向けになった。そして、私の胸に顔を預ける彼女の髪に触れながら言った。
「ナオが、どうやら、きみとは逢わず仕舞いになったようだ……」
「どうして」
「わからない……。でも、たぶん、長崎で結婚するんじゃないかな」
「そう……。残念だわ。一度、逢ってみたかったのに――。たぶん、結婚するんじゃ、その必要はないと思ったんでしょうね」
 その声は暗くくぐもっていた。しかし心底、残念がっている風でもなかった。考えてみれば、なんでこんなことを話し出したのか、自分でもよくわからなかった。
「そうかもしれない……」
 私は言ったが、まさか、その当日まで袖にされていた――とは言えなかった。それも、私が電話を掛けるという偶然がなければ、露見しない計画だったはずだ。
「彼女とは、その前になにかあった――」
「なにかあった――とは……」
「たとえば、別れを匂わすようなニュアンスのことを言ったとか、いつもとは違う素振りや行動があったとか……」
 私は、その言葉に頭を巡らせて答えた。
「そういえば、彼女に誘われて旅行に行った――」
「それね、きっと……」
 しばらく沈黙したあと、彼女がぽつりと言った。私はつぎの言葉を待った――。
「彼女、それを最後に、あなたとの関係を断とうと思ったのよ」
 確かに、そんな兆しはあった。
 ううん。なんでもない。初めてのリュウとの旅行だから、ちょっと感傷的になってるだけ……。明日になれば、元気になるわ。
 あの夜、海岸沿いにあった宿屋の内縁で言っていたナオの言葉が耳朶に蘇った。
 無言の頷きで、リュンにつぎの言葉を促した――。
「男のひとと旅行に行くっていうのは、よほどの覚悟がなきゃできないわ」
「確かに……」
「想像だけど、彼女はあなたのことが好きだった。だけど、あなたはチッチと暮らしていた――。それなりに彼氏もいたんだろうけど、その彼と一緒にはなりたくなかった……。会社も、もうひとつだった。そこへ、故郷から、なんらかの働きかけがあった。たぶん、お見合いの話――。あちらのご両親は、ご健在なのかしら……」
「いや、それはわからない。でも、彼女が『早く帰ってこい』って言われるんだって、よくこぼしてた……。ひとりっ子だったからね」
「ナオさんは、幾つになるんだっけ……」
「確か、二十六だったと思……。いや、二十七になったかもしれない」
「それじゃ、なおさらね。田舎じゃ、その歳はお婆さんよ。きっと」
「そうか……」
 私は、自分の能天気さに二の句が継げなかった――。
「彼女は、自分が犠牲になることで、あなたを救ったのよ――」
「どういう意味だろう……」
 お間抜けた質問だと知って、そう訊ねた……。
「もちろん、彼女もそれを選択することで、彼女自身も救ったわ。それ以外に彼女の選択肢はなかった。そうすることで、ご両親も安心させられた――」
 リュンは、そこで一旦言葉を切り、暫く間をおいて続けた。「つまり、その旅行は、彼女にしてみれば、あなたに対してできる『最初で最後のプレゼント』だった。言い換えれば、あなたからの非難を避けるための免罪符ともなり、自分自身やご両親に対する贖罪ともなる、最後の旅行だったといえるわ」
「なるほど……」
「そうやって、彼女は自分の危機である苦悩を乗り越えたのよ――」
「両親を取るか、ぼくをとるかというディレンマ……」
「ディレンマというより、トリレンマね。両親と彼氏とあなたと――そのどれを選択するかという三つの苦悩からの逃走、いえ、あなたのいう『脱却(ブレイクアウェイ)』。その最善の解決方法が、故郷に帰る――ということだったの」
「そうか……。ぼくは彼女をずいぶん迷わせていたんだ」
「そういう意味では、わたしなんかは例外よ」
 リュンが剽軽さを装って言った。「ね、それより、気分転換にどこか行かない」
「ああ、いいね――」
 私は応じた。確かに、いまの私たちにとって気分転換は必要だ。「ぼくも、そんな風に感じていたとこなんだ……」
「じゃ、行きましょ。行ってみたいお寺があるの――」
 そうして服を着ようと傍らにあった服に手を伸ばしたとき、彼女が言った。
「なにか、穿くものはないかしら……」
「穿くものというと――」
「綿パンみたいなのがあればいいな……。スカートじゃ寒いから」
「そういえば、この間、買ってまだ一度も穿いていない白いズボンがあるよ」
「それがいいわ――」
「でも、長さが合わないかも――」
「大丈夫。いくつか折り曲げれば穿けるわ」
「そうだね」
 私はファンシーケースに吊るしていた、白い綿パンを出して彼女に穿かせた。
 確かに、彼女の言うとおり、折り曲げれば穿くことができた。腰回りもさほど大きくはなかった。この頃の私は、五十三キロほどの体重しかなかった。だから、身長以外は彼女と大して違わなかった。
「よく似合ってるよ」
「そうね。胴回りも、少し絞れば問題ないわ……」
 彼女は私を振り仰いで言った。「これ、いただくわ。いいでしょ――」
 アもウも、なかった……。いつもの彼女だった。突然思い付いた、突拍子もないことを平気で言う――。それが彼女の癖だった。
「ああ、いいよ」
 それが、彼女に捧げた最後のプレゼントになろうとはつゆ知らず、私は一度も穿いたことのないズボンを彼女に譲ったのだった。

 十九 沈みゆく夕陽からの旅発ち

 また春が来ていた――。しかし、その春の様子はいつもとは違っていた。
 心のなかは、ついこの前まで、そこにあった冬の風景と変わりがなかった。ひとり暮らしとなった私は、車での外出は極力控え、徒歩での外出が多くなっていた。
 もちろん、日曜日メインでのことだったが、あまりひとの通らない森や林のなかを歩いていると、心が休まる気がするからだった。部屋でひとり本を読んでいても、なんだか落ち着かず、どうしても外出してしまうのだ。
 その日は、ちょっと遠出をし、途中でシビックを公営の駐車場に入れ、K川沿いに北へ向かって歩いてみた。K川の畔には桜花がいまを盛りとばかりに咲き誇り、川べりには当たり前のように恋人たちが、等間隔に並んで日向ぼっこをしていた。
 Ⅰ大橋の近くにある神社の森に足を延ばしてみたが、いつも陽だまりのなかにいて、のんびり昼寝をしていた猫の姿はどこにも見当たらず、そこだけがぽっかりと穴が開いたように空しい光を放っていた。
 あの猫は、どこかへ行ったのかもしれない……。私は思った。
 それとも、死んだのだろうか――。もしそうだとしたら、あの猫にはもう二度と逢えないのだ。そう思うと、私は春とは裏腹な陰鬱な気持ちになった。取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか……。そんな気がした。
 しかし、すべては、自業自得だった。チッチが認めたように、一旦ことが済めば後の祭りなのだ。どんなに嘆き、泣き叫ぼうとも、もうその事実はやって来ない。
 私の身にどんなことが起ころうとも、それは自業自得だった。すべては自らが招いたことの結果だった。感情のままに、欲望のままに、自らを抑制せずに突っ走った結果だった。恨む相手がいるとしたら、それは自分自身の弱さだった。
 どうしても強くなれない自分……。チッチの義理のお兄さんに何度、叱咤激励されても奮起できず、色よい返事ができなかった自分……。彼女の友人の玉井君の親切な労いに促されても、元気を奮い起こし、立ち直ろうとしなかった自分……。
 それらすべてが、自分自身のつくった怠け癖の招いた結果なのだ。修復すべきときに修復しなかった結果が、いまの情況を生んだのだ。私の内面がどうあろうと、春はやってきたし、そのつぎには必ず夏がやってくる。
 経験則的にそのことを知っているにも拘わらず、私はそれを遠いものとして捉え、真剣に考えなかった――。なにごとにも、原因を作れば結果は必ずついてくる。そんなことは、小学生でも知っている理屈だ。
 後悔さきに立たず――。それも理屈では知っている。しかし、それらはすべて他人ごとのように私には見えていたのだ。いつかはやってくる悲劇、苦しみ、悩み。そのすべては、自分が蒔いた結果なのだ。
 傲り高ぶり、自分のほうが偉いと思っていた――。
 その結果が、現状なのだ。現状を打破するには、死を認めなければならない。自分が死する存在だということを認めなければならない。さもなければ、自分は永遠に生き、いつまでも若いと勘違いするのだ。
 死ぬとわかっていて、その準備をしないのは、傲慢といえるだろう。最近では、「終括」といって、自分が死ぬときの用意を生前に済ませるパターンが取りざたされている。それと同じ文脈で、「断捨離」という言葉も人口に膾炙してきている。
 いずれも、この時代、概念こそはあったかもしれないが、一般に流布はしていなかった。御多分に漏れず、浅学非才な私には縁遠い言葉だった。反省の先が見えていなかった。後悔の先が見えていなかった。経験則を活かしきれていなかった。
 そんな私に朗報のもたらされようがない。鬱々とした三月を終え、四月に入って半ばも過ぎた日の夕暮れ、珍しく我が家に電話があった。
 電話に出ると、その声の主はリュンだった。第一声、彼女は言った。
「サルトルが亡くなったわ……」
 朗報どころか訃報だった。彼女の声は暗く沈んで聴こえた。ラジオもテレビも、そして新聞すら読んでいなかった私には、その報らせは、青天の霹靂というより、ああ、ついに彼も天に召される時期がきたのか――という感じだった。
 ヘーゲルなどと違って、彼にとっての死は、決して身近ではなかったはずだ。
 あくまでも他人ごとの事象として認識されていたはずだ。それこそ、ああ、私も死んでしまうのか、実に意外なものなのだな――という感覚だったに相違ない。他人は死んでも、私は百年も二百年も生きる――と、そんな感じではなかったか。
 あの大哲学者にも、経験則は活かされていなかった……。
 落胆の色を濃くにじませた彼女の声に、そんなにも彼のことを真剣に捉えていたのかと不思議に感じた。逆にいえば、この私も、ひとの死を自分の死として捉えられてはいなかったのだ。それにひきかえ、彼女はそれをダイレクトに捉えた。
 その無存在の悲しみを悲しみとして捉え、その存在の無を無として捉えることができた。サルトルは、ボーヴォワールと子をなさぬことによって、その死を予感せねばならなかった。にも拘わらず、彼は、それを拒んだ。自分が、いつまでも生きられ、死ぬことのない存在だ――と信じて……。
 私も、ある意味、その類いの人間だった。自らが老いて行っているのにも拘わらず、それに気づかず、いつまでも若いと思っていた。誰がその死の面倒を見るのか――という問題を、知ってはいても気づかぬふりをしていた。
 彼女は、いや、リュンは自分に老いる未来があることに気づいていた。
 たとえ、ひとりで死ぬとしても、そこに看取る者がいなければならない。たとえ看取る者がいないとしても、そこに屠るひとがいなければならない。ひとりであることの絶対的な孤独――。真にひとりであることの絶対的な虚無感――。それらをひとりで耐えることができる者だけが、一人で死ぬことができる。
「わたしたち、もういいんじゃないかと思うの……」
 彼女は、第一声から一分以上も間を置いたあとに続けた。「色々考えたんだけど、わたしたちは物理的に別々の道を歩んだほうがいいような気がするの」
 その言い方はすこぶる遠慮がちで、断定を避けることで相手を傷つけないように配慮した口ぶりに聴こえた。
 おそらくそうなのだろう。
 別れを切り出すときの気分というのは、億劫なものだ。
 もちろん、私相手の場合は、刃傷沙汰というものは予想できなかったにせよ、穏やかに静かに諭すように、心のなかの澱を取り除くように、事態の成り行きを了解させなければならない。相手を責めるのでもなく、詰るのでもなく、ごく自然に理解が進むようにしなければならない……。
「そうだね――。まず第一に……」
 私は言った。「きみには、歌手として生きて行かねばならない宿命がある」
「仮にもう一度、出遭わなければならないひとがあるとしたら、それはあなたではないかもしれない……」
「どういう意味だろう……」
「でも、あなたの書いた小説が、もしあるとしたら、それは読んでみたい――」
「ぼくの書いた小説……」
「それを読むことで、わたしはあなたともう一度、出遭うことになる。読み終えたあとで、もう一度読み直すかもしれないし、そうしないかもしれない。そして、それとはまた別の小説があるとしたら、それも読んでみたい――という気にさせる小説。あなたには、そんな小説を書いてほしい……」
「ぼくに文才はないよ」
「文才なんかなくていいの――」
 彼女は、アデルのような声で私の耳許へ語り続ける。「もう一度、読みたいと思わせる小説でありさえすれば、それはどんな文体の小説であってもいいの。文学的でなくていいし、芸術的でなくてもいい。セックス描写が入ったり、暴力的な行為が登場したりする小説であってもいい……」
「セックス描写や暴力的な行為……」
「ええ。それが真実でありさえすれば、なんだっていい。そして、どんなに稚拙な文体であってもいいの。読んでいて、実感があり、そのなかに自分を投入し、同じ思いを追求できる空間のある小説――。そんな小説を書いてほしい」
「どうだろう……。ぼくに果たして――」
「わたしは、あなたに小説家になってほしい――と言ってるんじゃないの。そうした小説を書くことで、あなたを振り返ってほしいの。だから、才能も創造力も天才的な閃きも要らない。自分の心に忠実に、素直な心で、感じたことを書き綴りさえすればいいの。それが、たぶん、あなたの生きる支えになると思うから――」
「生きる支え――。確かに、いまのぼくには生きる支えがない……」
「なにかを残す、なにか伝える――。それは他人に対してでなくてもいいの」
「つまり、自分自身に対してのもの……」
「そう。あなたとわたしの――。あなたが、あなたであるための唯一の手かがりを、書くことで構築して行くの。わたしたちには、子どもはいない。子をなすことで共有できる現実の空間はない。その小説がわたしたちの子どもになる――」
「ぼくたちの子どもが小説……」
「わたしは、前にも約束したように、誰とも結婚しない。そして物理的にも一緒にいない。その代り一生、あなたを思い続けて生きて行く……。だから、ふたりの子どもを作ってほしいの――」
「もし書いたとして、それはいつになるかわからない……」
「少なくとも、わたしが死ぬまでに書いて――」
「もちろん、このぼくが生きている間に……」
「そう。生きててほしい。生きてる間に書き上げてほしい……」
「これから、どうするの」
「わたしは、これからも歌い続ける。歌うのをやめない。わたしは、わたしを歩み続けて行くわ。だから、あなたもわたしが消息を尋ねなくても、わかる存在になっていてほしい――」
「では、もうきみとは逢えないんだね」
「残念だけど、あなたのためにもこうするしかないの。わかってくれるわよね」
「ああ。きみは一流の歌手になるべきひとだ」
「じゃ、素敵な小説が書き上がるのを楽しみにしているわ」
 その言葉を最後に彼女の電話は切れた。
 台所の小さく見すぼらしい窓に夕陽が斜めに差し込み、部屋のなかを赤く照らしていた。あともう少しで太陽は、西の空から落ちそうになっていた。数秒もしないうちにそれは、明るさのみを残して地平の向こうに沈んで行った。
 これで、完全に、ぼくは独りになった――と思った。明日から、たったひとりの旅発ちが始まるのだ――と。

 二十 イカロスの翼

 朝、私は突然、目覚めた。
 昨夜は、晩くまで本を読んでいた。例のアーシュラ・K・ル=グィン。それを幼いときのように、布団に寝そべり顎を枕に乗せて読んでいた。そのうちに眠り込んでしまったのだろう。長い物語。しかし、読み飽きないはずだった……。
 だが、その夜はすぐ眠りに落ちた。疲れていたからだろう。いや、内容があまりにも自分の境遇に似ていて、その考えに引きずられ、没頭し、思索し続けるのに疲れ果ててしまったからだろう。気づいたときには、朝になっていた。
 重い気分だった。人生がなにでできているのか――。後悔か、それとも悔恨か。希望か諦念か――。いずれにしても、人生の構成要素は、自らの歩んだ軌跡、いや、残滓のようなものでできているはずだ。過去を過去として生きてゆける人生が、もしあるとしたら、その澱のようなものは捨てて行かねばならない。
 でなければ、ひとは前に進めない。澄んだ心になるには、どうすればいいのか――。
 私の心はあまりにも汚れている。人生の定義をするには、あまりにも汚れてしまっている。私の人生は果たして人生なのか。それとも人生ですらないのか。
 リュンは、私に小説を書け――と言った。そんな私に、いったいどんな小説が書けるというのか――。嘆きの書か。それとも、懺悔の書か。誰かが、あの詩集をそう評したように、私のこれまでの生は跡形もなく崩れ去っているのだ。ただ私のみが熾火のように大事にしているに過ぎない……。
 リュンは、沈みゆく夕陽とともに私の許から旅発って行った。まるで地平の向こうに放たれた一羽の白い鳩のように……。彼女は、明くる日の夜明けの光とともに昇りゆく朝陽に向かって、これからの生を我がものとしていくだろう。
 私には、そんな日は永遠にやってこないだろう。あのイカロスのように、あまりにも高く飛び過ぎた所為で、どの太陽にも焼かれ、その重い翼とともについに海に墜ちてしまったのだ。驕りと傲慢さゆえに焼かれた翼は、すでに灰になっていた。
 私には、もう翔ぶための翼はない――。あの青い空を羽ばたき、自由に翔びまわる羽根はない。第一、翔びまわるための空間そのものがないのだ。空間があって初めて翼は生きる。だからこそ羽根は、それが駆使できる空間を欲する。
 閉ざされた空間、灰になった翼……。
 そこから、いったいどんな物語が紡げるというのだろう。廃墟からの脱却か。潰えた廃屋からの逃走か――。私に訊ねるべき相手はいなくなっていた。質問を発するべき賢者はいなくなっていた。
 辿るべき私の道は、どこにあるのだろう。それとも、私には、その道すらないのだろうか。それが道であると言えるとしたら、どのような道なのか……。
 私の人生に、なにか大きな変化はあるのだろうか。あるとすれば、どのような変化なのか。そもそも私に、変化というものがあったのだろうか。十年一日のごとく、だらだらと生き延びてきただけではなかったのか――。
 この歳まで、同情すべき余地もない自堕落な生活を続けてきて、なにか得るものがあったのだろうか。失ったものは確かに多かった。いや、得たものはひとつとしてなく、失ったものばかりではなかったか――。
 念願の学歴でさえ、手にできなかった。それも浅薄な考えで獲ろうとした資格だったからか――。中身ではなく形として、内実ではなく見栄えのよいものとして、獲得しようとした報いが、これだったのではなかったか……。
 天を恨む気持ちはなかった。誰を憎む気持ちもなかった。それほど私は、莫迦でも愚かでもなかった。それらすべてが、自ら招いた結果だということを知っている。
 もうこれ以上、なにを喪うことがあろう。
 喪失感に打ちひしがれ、泣き喚いたところで、誰も振り向いてくれない。そんなことはわかっていた。私に与えられたのは、ただ行きつくべき所へ、奈落の底へ、墜ちていくだけの人生が残されているのだ。
 眼が醒めたあと、午前中は、なにもすることがなく、ぼんやりとして過ごした。
 溜まった洗濯物の処理や部屋の掃除、シャツのアイロン掛けなど、することは確かに、なくはなかったが、する気そのものが起こらなかった。
 昼からも、適当な昼食を済ませたあと、なにもする気が起こらず、壁にもたれたままの姿勢で、窓の外に見える空を眺めて過ごした。やがて、空が暗くなり、時刻が七時を回っているのに気づいた。最近の日曜日は、こんな日が多かった。
 そういえば――と、松本旅館にこんな男性がいたことを憶い出した。彼は、部屋の一番奥の隅に電気も点けず、ただ膝を大事そうに抱いて、じっと下だけを見ていた。声を掛けても返事をしてくれなかった。
 当時は、変わった男だな――というのが感想だったが、いまにして思えば、あれがいわゆる「引きこもり」というものだったのかもしれない。
 その男性は、その当時、たぶん学生だったのだろうが、そのまま不登校になり、ついには外へ出られなくなってしまった。それで、その部屋の隣に住んでいた松本旅館の主、つまりリュンの女友達がなにかと面倒を看ていた。
 彼女が私に言った言葉が、いまだに忘れられない。
「あなただって、誰にも迷惑をかけていないって言いきれる――」
 そう言われて、反論できなかった。彼女は諭すように続けた。「ね、誰だってなんらかの形でひとの世話になったり、迷惑をかけたりしているのよ」
 確かに、その通りだった。いかに独り暮らしをし、自分の生活費は自分で稼いでいるとは言っても、そこに他人の世話が介在してないとはいえない。大なり小なり、なんらかの形で私たちは他人の世話になっているのだ。
 それを迷惑というなら、私たちは全員が他人になんらかの迷惑をかけながら日々を送っているといえるだろう。つまりは、それを迷惑と解釈するか、あるいは世話をさせていただいていると感謝するかの違いだ。
 かつて、私が塾を辞め、現在の会社に就職し、現在のアパートに引っ越しをしたとき、例の中出君から「お祝い金」という名目のお金を贈られたことがある。そのとき、私にとってあまりにも過分な金員だったため、丁重に礼を言った。
 そのとき彼は、そんなことをさせてもらえること自体、自分は幸せ者だ――と言って喜んでくれたのだった。このときほど、彼の――というよりは、ひとの、温かさが身に沁みたことはない。まさに望外の嬉しさに鳥肌が立つほどだったのだ。
 たとえば、鳩山専務の五十万円立て替えの件もそうだったし、レークサイドホテルオーナーの申し出でもそうだった。古くは書店オーナーの数々の申し出でもそうだった。私は、色んなひとの世話になり、支えられて、今日まできているのだった。
 そんな私に贅沢の言えようはずがない。生きてきたのではなく、生かされてきたのだ。そのことを実感できないまま、私は大人になった。
 心は子どものまま、大人の姿かたちになった……。
 そう、あの史絵先生に抱っこしてもらったときのまま、その姿を求め続けて、私はいまに見るような、甘えん坊で自堕落で、依存心満杯の大人になったのだ。そのことを教えるために、彼女たちは私の許を去ったのではなかったか――。
 そう思うと、彼女たちの悲しさがわかるような気がした。私はアパートの部屋を出て、近くのバス停に向かった。松本旅館に行こうと思ったのだった。
 松本旅館は、言うまでもなく寺院の一角にある宿坊のひとつだが、ガレージの施設はなかった。それで徒歩で向かうことにしたのだ。シビックがこれまでの私の翼だったとしたら、もうその羽根はあまり使わなくなっていた。
 バス停に着いてから暫くの間、バスがくるのを待っていると、黒い車が私の前に横付けされ、「リュウちゃん」という呼び声がした。
 聞き覚えのある女性の声だった――。
 私をちゃん付けで呼ぶ癖があるのは、チッチ以外にはいなかった。
 彼女は、照れ隠しのときや親しみを込めて私を呼ぶとき、ちょっとお道化た感じで「ちゃん」を付け足して呼ぶのが常だった。
「いまからダンスパーティに行くんだけど、一緒に行かない」
 彼女は助手席の窓を開けながら言った。そして、私がその向こうにいる男性を見ているのに気づいて続けた。「このひとは、得意先のひと――。たまたま方向が同じだから、ついでに会場まで送ってもらっているところなの。どお――」

二十一 逃してはならない一瞬の好機

 私は、彼女がいる助手席の後ろの座席に腰を下ろした。
 変な話だが、この際、松本旅館でなくてもいいか――と思ったのだった。そして彼女が、私のことを昔の友人で、ずいぶん世話になったひと――と紹介するのを黙って聞いていた。その話しぶりから、どうやら、ふたりはあまり親しくないらしいことが見て取れた。それで、たまたまバス停に立つ私を見つけて同乗させることで、相手をけん制しようとしているらしい彼女の意図を察することができた。
 おそらく、送り狼となる可能性のある彼の気を削ぐには、それがもっとも有効な思いつきだったのだろう。会場のエントランスに着いてからの、彼女の「ありがとう。お陰で助かったわ――」という言葉がそれを証明していた。
 私がいなければ、会場のなかまで彼はついてきていたに違いない……。
 そうなれば、あとはなし崩しだ――。パーティがはけたあとは、家まで送っていくというに違いない。そこまでの危険性を考えての、私への呼びかけだったはずだ。
 幸運な偶然がもたらした遭遇だったとはいえ、私の姿を眼にとめたことは、藁にもすがる思いだった彼女には、決して逃してはならない一瞬の好機だったろう。
 このとき私は、彼女の不安の海に浮かぶ一本の藁となり得たのだ。そして彼女が男性に礼を言って車を降り、私と連れ立って会場のエントランスをくぐった時点で、事態は収拾されるはずだった。つまり、私は「用済み」となるはずだった。
 だが、彼女はそうはしなかった。たまたま偶然、そうなったのだとしても、行きがかり上、そう言わざるを得なかったのかもしれない。
「来るでしょ――」
 言い方は断定的だったが、眼は強制していなかった。あくまでも、私の意志にゆだねた訊ね方だった。曖昧なかたちの返事をして、彼女のあとについて行く……。
 会場のドアに近づくと、内部の音が外からも聴こえていた。
 これまでに聴いたこともない種類の音楽だった。いかにも、この時代の若者が好みそうな二拍子系の単調なリズムをもつ音楽だった。いまから想えば、あれが初期のレゲエというものだったのかもしれない。
 当時の心境を反映してか、マイルス・デービスやコルトレーンのような重めのジャズが好きだった私には軽くて、どうにも好めない類いの音楽だった。
 彼女がドアを開けると、耳を劈くほどではなかったが、大きな音量とともに軽快というより、わりと能天気な感じのする曲が私の耳に入ってきた。ホールには二~三十人ほどの男女が入り乱れて曲に合わせて踊っていた。なかには、黒人や白人、はてはジャマイカ人と思しき外国人もいて、一種異様な雰囲気を醸し出している空間だった。
「三崎さんも、連れてきたの」
 私の姿に驚き、大声で彼女に訊ねた女性は、以前よく我が家に遊びにきてくれていた峰岸優ちゃんだった。そして、そのあとに続いて私に笑顔を見せた小柄な女性は、その下っ端格の篠ちゃんだった。
 私は、彼女たちに小さく頷くことで挨拶を交わした。
 声を出したところで、私の声量のない小さな声は届かなかったはずだ。いずれにせよ、周りの人間が出す騒めきとホールに流れる音楽の反響音が耳障りで、眼の前で彼女たちが耳打ちで交わしている会話のほとんどは、よほど聞き耳を立てない限り私には聞き取れなかった。
 だが、チッチに耳打ちしている優ちゃんの眼の動きを見ていると、なんとなく私に対して遠慮しているような気配があった。おそらく思いもしなかった私の登場に、なんらかの違和感を覚えているのだろう。口許が隠されているので、なにが話されているのかは掴めなかった。口許が見えさえすれば、それが憎しみの籠ったものなのか、親しみの籠ったものなのかくらいは察知することができたろう。
 だが、少なくとも、その眼は非難めいた感じのものではなかった。
 ホールに流れる外国人男性の英語の歌声は、なにかに「気を付けるように」と言っていた。同じ言葉が繰り返されるので、その部分だけが記憶に残っているのだが、なにに気を付けなければならないのかまでは憶い出せない。
 三人が話をしているとき、外国人男性がふたり、彼女たちの許にやってきた。
 両方とも若かったが、ひとりは白人、もうひとりは黒人――というよりは、黒褐色の肌をもった男性で隣の白人よりは、やや背が高かった。白人のほうがチッチに両手を広げたかと思うと、その身体に腕を回して長いキスをした。
 それは、私には単なる挨拶には思えなかった。単なる知り合い程度の挨拶なら、いくら外国人の習性とはいえ、あれほどまでディープな口づけを交わすことは考えられなかった。その光景は私には、あまりにも醜かった。ついで、彼女は背の高い黒褐色の男性とも同じ行為を繰り返したのだ――。
 嫉妬――からでもない。また妬み――から言うのでもない。
 ただ、その光景があまりにも惨め過ぎて、痛々しかったからだ。私は彼女に哀れを覚えた。それこそ、進駐軍が日本にやってきたとき、いわゆるパンパンがアメリカ兵に媚びを売っているような姿に見えたのだ。音楽はいつの間にか止んでいた。
 思わず私は、その白人に向かって「ワラュー・ドゥーイング」と叫んでいた。
 その声に応えて白人が荒々しく「シーズ・インナワ・ポケッツ」と言ったように聞こえた。おそらく「この子は俺たちのものなんだ」という意味だろうと思った。正しい意味を取りかねて口ごもっている私に黒褐色の男が言った。
「ユゥァーント・ウォンティッディヤ(おめぇさんは、お呼びじゃねえってこった)、ネヴァー・ユゥマインド・ワッウィァ・ドゥーイング・ゥィズア(俺たちが彼女をどうしようが、おめぇさんが気にするこたねぇ)。ドン・ハング・アラウンディヤ、ゴーオンホーム(こんなとこをウロチョロしてねぇで、お家に帰んな)」
 その言葉の終わる寸前、私は男の力強い平手で胸を衝かれ、危うくうしろに仰け反りそうになった。一瞬、肺の機能が停止したかと思えるほどの強打だった。痛みに胸を押さえる私と、その黒褐色の男の間に割って入った優ちゃんが言った。
「ストッピット。ヒーズ・ナッツゥロング(止めて――。彼は悪くないわ)」
「イヒュー・ドン、ユールゲッ・ハート(言うとおりにしないと、痛い目に遭うぜ)」
 黒褐色の男が、また始まった別の音楽の音に負けぬほどの大声で言った。チッチは白人の男に抱き締められたまま、黙ってこちらを見ていた。その腕を振り解こうとしても、あまりにも硬く閉じられていて身動きが取れないようだった……。
 しかし、彼女の表情に悲しさや口惜しさは読み取れなかった。
 助け舟を出してくれた優ちゃんに支えられて出口に向かう私に、彼女が実にすまなそうな詫び声を出して言った。
「ごめん――。あのひとたちを彼女に紹介したのは、わたしなの」
 私には、その答えは用意できなかった。もともと予期しなかった陳述に対してまともな答えの返しようがない。私は黙したまま、出口に立った。
「さようなら――。ぼくがそう言っていたとチッチに伝えて……」
 私はそう言って、優ちゃんに手を振った。これで最後だと思った。もう二度とチッチとは逢えないだろうと思った。彼女をあんな風な女に思われるようにしてしまったのは自分だ――と思った。
 なにもしてやれなかった自分が情けなかった。おそらく彼女は、自分から立ち直ろうとしない限り、外国人たちのみならず、日本人たちの間でも誤解されたままのあしらいを受け続けることになるだろう……。
 しかし、卑怯だが、私にはなにもできなかった。もっとも厭らしく、もっとも狡猾で、もっとも唾棄すべき言い訳が、私の脳裡に囁いた。彼女は、自ら申し出て私から去って行ったのだ。私が望んでこうなったのではない――と……。
 決して逃してはならない一瞬の良心の呵責を、私は故意に無視し、黙殺したのだった。自らの保身のために、そしてなによりも無責任な自衛心に感けて……。
 その後、彼女の行方は知れていない……。
 このときの偶然で、しかも一瞬の出逢いが、私と彼女との最後の別れとなった。峰岸優ちゃんからの連絡もありそうな気がしたが、それもなかった。おそらく本人が、自分のその後の消息を私に教えることを拒んだのだろう。
 私は、このときを境に、ひととの交わりをあまりしなくなって行った。




第四章 籠絡編に続く。https://note.com/noels_note/n/n239ba35187d1

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?