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まるで定年後の我が家のような構図


紅い芥子粒さんのレビューに感銘を受けて、さっそく読んでみました。

これは、嫁と姑の物語でありながら、世上よくある体のものではなく、実に立場の逆転した「嫁姑問題」の啓示であった――。

なぁんて、エラそーに始めましたが、読めば読むほど、我が家の構図と全く同じなのではないかと思え始めました。

我が家は、ちなみにわたしと家内しかいませんが、その関係がまさにこの二人と瓜二つなのです。家内は働き者で、それこそこの民さんのように片時もじっとしていません。いつも何やかやと動き回っています。かと言って、なにも多動症だというのではなく、ひとより先んじてなにかをし置いてから、自分のことに専念するタイプなのです。

ところが、それを自分だけに課すのならともかく、わたしにも要求するのです。わたしたちは、互いに年金生活で、裕福でこそないものの、どちらかといえば、独りでのんびり読書でもしていたいわたしには、その時間を与えられないのが不満なのです。炊事・洗濯は長年の習慣でやってくれますが、その他のことはすべてわたしの役目となります。

それで、この小説の主人公の住さんのように嫁のいうことがイチイチ苛立ちの元になります。最初のほうこそは感謝もし、喜びもしていたのですが、いまやその忙しなさは苦痛でしかありません。

それで、半ば本気で「早く死んでくれればいいのに――そうすればもっとゆっくり読書に親しめるのに」なんて、ちらっと思ったりするのですが、この民さんのようにつぎのように返されれば、わたしとても返す言葉はありません。

「お前さんはそれでも好からうさ。先に死んでつてしまふだから。――だがね、おばあさん、わしの身になりや、さう云つてふて腐つちやゐられなえぢやあ。わしだつて何も晴れや自慢で、後家を通してる訣ぢやなえよ。骨節の痛んで寝られなえ晩なんか、莫迦意地を張つたつて仕かたがなえと、しみじみ思ふこともなえぢやなえ。そりやなえぢやなえけんどね。これもみんな家の為だ、広の為だと考へ直して、やつぱし泣き泣きやつてるだあよ。……」

確かに齢も70過ぎて骨身も軋んでいるだろうに、老骨に鞭打って、いまだよく動いてくれている女房です。文句は言えません。

わたしが感動した書評を書いた「紅い芥子粒」さんは、次のように言います。

住の心には、民への怒りがむらむらと沸き起こる。
自分は死ぬまで、この鬼のように働く嫁に、下女のようにこき使われるのか。
そんな姑に嫁は言い放つ。
「おまえさん、働くのが厭になったら、死ぬより外なえよ」

確かに、我が家一番の毒舌家である家内のこと。それくらいのことはハッキリ口に出すでしょう。「休むのは死んでからよ、なにを言ってるの」と……。

あああ、そんな風にして思えば家内がいなくなったあとの空虚感を思い視るだけで、わたしは怖気をふるってしまうのです。
だから、今のうちに謝っておきます。あああ、ごめんなさい。もう二度とそんなことは思いません、と。

お民、お前なぜ死んでしまつただ?

などと後悔しないためにも……。




芥川龍之介『一塊の土』【本が好き!】noelさんの書評より転載

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