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洪水を堰き止めるための巨大ダムを建造するしかない。


言葉の伝え方がわからなくなるときがある。


自分では「何を伝えたいか」は明白なのですが、


複雑な感情を備え、複雑なバックグラウンドを持ち、複雑な存在である、

「他人」に向けて、言葉で伝えるとなると、話は別。



言葉の使いかたは適切だろうか?

正しい意味が伝わっているだろうか?

おかしな奴だと思われていないだろうか?

自分の言葉によって、相手はどう思うだろうか?

自分の言葉によって、自分はどのような人間と映るだろうか?



こういった感情が洪水のように脳の隅々に押し寄せてくる。

脳の隅々にその水が染み渡るように。


特に、私より年下の「他人」と話すとき、この傾向は顕著になる。

いわゆるジェネレーションギャップというやつだろうか。

実際はそんな大それたものではない。

ただ単に、私のコミュニケーション能力不足である。


例えば、ただ言葉を「言葉のまま」で伝えても、意味やニュアンスは伝わりにくい。最悪のケースでは誤解されることもある。


だから、人は何か伝えるという目的があるとき、言葉以外のツールを使う。

代表的なものが顔の表情、声の抑揚、言葉そのもの使い方、ジェスチャーなど。高度な場合では、タイミングなんてものがあるらしい。


私はそんな言葉以外のツールを使いこなすことが苦手だ。

言葉そのものを、意味どおり、直接的に伝えるから、面食らう人も多い。

でも私にとっては、なぜ面食らうのかが理解できないときがある。



必要なものをしっかり伝えればいいじゃないか。

婉曲的な表現は、伝えることができないではないか。

できるだけ余計なことは省略したほうがいいではないか。



こういった感情が洪水のように脳の隅々に押し寄せてくる。

脳の隅々にその水が染み渡るように。




これまで書いたとおり、私が他人と何かコミュニケーションをとる際には、脳は常に洪水でびちょびちょになる。


他人と言葉を交わす際、自分でも脳に今、洪水が押し寄せていると感じ、気付いたときにはびちょびちょだ。

だからこれ以上言葉を交わすことを止めようと思う。


また、私と話している「他人」も、私が洪水まみれでびちょびちょになっているのがわかるから、自分も「濡れないように、溺れないように」と、私と言葉を交わすことを止めようと願う。


結局のところ、私が他人と会話をするときは、大体、脳内洪水警報発令中なので、自分からも、相手からも寄り添おうとせず、コミュニケーションが成立しない。



洪水を堰き止めるための巨大ダムを建造するしかない。



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