見出し画像

職業選択の自由。

おはようございます。
まいどのことながら、暑いですね。
ほとんど、家飲みの私ですが、
昨晩は居酒屋で一杯飲んできました。
外で飲むのもいいですね。
いい気分転換になりました。
職場がある都心は、
外国人観光客がたくさんいて、
街はにぎわっていますが、
私が住んでいる町は、
コロナ前と比べると、
歩いている人、飲んでいる人、
少なくなりました。

前回の記事で、
福祉の仕事はお勧めできますが、
農業はお勧めできない。
と書いたわけですが、
「職業選択の自由」
が頭を過りました。
ですので、今朝は職業について
書かせていただきたいと思います。

私の両親は、私が22歳のときに離婚して、
婿養子だった父は家を出ました。
父は機械設計の自営業をしていまして、
従業員を数人雇っていた時期もありました。
私は将来は後を継ぐものだ、
と小さなころから思っていました。
中学生のころは、政治や、経済に関心が
あり、社会の授業が好きで、
成績はいつも5をいただいていました。
ですが、後を継ぐものだとも思っていましたし、
自分が描いた図面が製品になるという仕事
は面白そうだったし、
社長になりたいという憧れもあって、
遠方にある高専に進学することを決め、
親元を離れ、寮生活をしました。

高専を卒業し、某自動車メーカーの
グループ会社に就職しました。
配属されたのが、設計部。
憧れだった職業、希望の職種に
就くことが出きたのです。
しかし、設計の仕事を、順調にこなす
ことは出来ませんでした。
自動車のパワステや、
ミッションを設計していましたが、
とにかくミスが多かった。
上司からの指導、説明が、
頭に入らず、仕事を覚えられないのです。
要は、私は統合失調症だったのです。
寮生活等のストレスから、
高専時代から発症していたわけですが、
社会人になってから気づき、
大病に発展してしまいました。
田舎の病院に強制搬送され、
会社を退職してしまいます。

退院後、父の経営していた会社で
働くことになりました。
世間には、父もいい年だし、
後を継ぐためにUターンしてきた、
と説明してきましたが、
それは「建前」
そのころ、バブルが弾けた後遺症で、
仕事を頂けるような環境ではありませんでした。
仕事はほとんどなく、CADの勉強をする日
がほとんど。
父も、母も、CAD操作はリハビリで、
そのうち仕事をいただけて、設計できる
ようになる。
と励ましていただいていたのですが、
ついに限界がきて、会社を廃業すること
になりました。
同時に、父は家を出ました。

その後、私は町役場の臨時職員になりました。
マラソン大会の運営のお手伝いです。
仕事は超楽で、公務員はいい仕事だと
思いました。
簡単な仕事をこなしていくことは、
私にとっていいリハビリになっていました。
マラソン大会を無事に成功することができ、
臨時職員の任期は終了するのですが、
福祉課で一人職員が退職したので、
任期を延長してみないかとのお誘いを受けました。
母や祖父母の考えとしては、
大病した私が、普通の民間企業で働くのは
不可能で、給料がどかちんと安くても、
町役場で働けるのであれば、それでいいと
いう考えでした。
私は、福祉課で働くことにしました。
そのとき、町役場の職員たちは、
「これから結婚して、家庭を築かなければ
 いけない男性が、役場の臨時職員を
 続けていいんですか?
 民間企業で、技術職として働くべきでは
 ないのですか?」
そうおっしゃる方がたくさんいました。
それって、女性に結婚はしないのか?
とか尋ねるセクハラと同じだろ!
と思いはしたのですが、
普通はそう言うよね、正論だよねと思いました。

福祉課では、老人施設、障害者施設、保育園、
今までとは異なる分野の方々とかかわることが
出来ました。
このころ、福祉の分野への関心で出てきて、
職員さんに相談すれば、福祉の分野で働く
ことも出来たのです。
1年間働いたころ、隣町にある、
某電気メーカーの子会社で、
サーバーのメカ設計技術者の募集がありました。
当時の私は、まだ設計という職種に未練があり、
体調も良くなってきた自分は、設計で
やっていけるという自信もありました。
結婚して家庭を築きたい思いもありましたし。
母は反対しましたが、私は設計技術者としての
道を改めて歩むことを決めました。

今の妻と出会い、結婚し、娘も二人授かり、
仕事の苦労は多々ありましたが、
幸せに暮らしていました。
しかし、会社の経営状況が悪化し、
リストラされ、東京の全くの別会社の
社員になることになります。
職種も、設計部ではなく、品質管理部です。
職種も、住む場所も、希望したわけではない、
好きでそうしているわけではない、
迷ってばかりいる自分がいました。
町役場の臨時職員を続けていれば、
結婚しなければ、こんな苦労はせずに
済んだのではないのだろうか。
更に前にさかのぼれば、
高専には進学せず、進学校に進学し、
大学、経済学部に進学すれば良かった
のではないだろうか。

昨日、土曜日でしたが、仕事でした。
営業所のある方から、
感謝のメールがありました。
テスト無事終わったよと、
東京に近い関東の大学に通う娘から、
ラインがありました。
昨晩はいい気分で、少し奮発して、
居酒屋で旨い酒を飲みました。

希望ではない、好きでそうしているわけではない。
でも、好きな酒を飲むことは出来ているではないか。
しっかりご飯を食べ、
世のために働いているではないか。

「道に迷って、道を覚える。」

高専への進学も、
町役場の臨時職員を辞め、
民間企業への再就職を決めたのも、
決めたのは「自分」なのです。

「職業選択の自由」

私は、自由に選択させていただいてきました。
これを自分のものに出来るかはかは、
私次第なのです。

私の父とは、あれ以来会っていません。
年齢からして、もうこの世にはいない
可能性が高いです。
「お父さん、私は二代目として、
 一人前になることは出来なかった。
 でも、お父さんが会社を営んでいた
 ことで、私に歩んでいく道が出来たよ。
 ありがとう。」

今日は夜勤。
頑張ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?