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私の人生における責任を


私の人生における責任を、いったい私以外の誰が取ってくれるというのか。




友人との予定でびっしりと埋め尽くされた予定帳を何度も見返す。

独りの時間が大切で、人と会う予定は1週間に1つまでと決めていた去年までの私が見たら卒倒してしまうだろう。

フェス、飲み、美術館、ライブ、旅行、月に1つでも入っていれば大イベントだった予定が、休日だけではなく平日にも入っている。
生き急ぐかのように詰め込まれた予定だが、不思議と圧迫感はない。

正直、体力的にはすでに限界だ。
体はつねにどこかしら不調を訴えてきている。
しかし、好きな人たちと過ごす時間はそれ以上に心の健康を守ってくれている。


日々仕事に対する自身の無力さに絶望し、休日は休み明けの仕事を考えては恐れおののき、心が休まる時間など一瞬たりともなかった。
家の中で何をするでもなく椅子に腰かけ、目の前のコップを見つめ、気づけば終わっている休日があまりにも悲しく、週末はトイレで泣きながら吐いていた。


遊びの予定を詰め込み無理にでも仕事を忘れる方法は、単純な私に合っていた。
仕事とプライベートを明確に分けられるようになり、プライベートのための仕事に変わりつつある。

しかし、当然だが遊ぶにはお金がかかる。
お金のかからない遊びも世の中には溢れているが、お金をかければより手軽に娯楽を享受することができる。

遊んで、遊んで、ひたすらに遊んで。
もう貯金はほぼない。
限度額を上げたカードさえ切れなくなってしまった。
お先は真っ暗。それでも自分の足元だけは明るい。そのおかげで何とか立つことはできている。





先日、従兄弟の結婚式で久しぶりに叔父と会った。
「お金は貯めてるのか」
「結婚の予定はあるのか」
「家や車を買う予定はあるのか」

どれも曖昧に誤魔化していると、叔父は少しだけ声を大きくして言った。

「ずっとふらふらしてて、本当にお前はろくでもない奴だな。自分のためじゃなく人様のために生きろよ。もっとちゃんとした人間になれ」

ちゃんとした人間。
ちゃんとした人間、の定義などもはやどうでもいい。この歳になってお金に困っている私は、きっと叔父からすればちゃんとした人間ではないのだろう。
しかし、ちゃんとしていようがしていまいが、叔父に何の関係があるのだろうか。
純粋な心からの心配かもしれない。
多くの経験をしてきた年長者からのアドバイスかもしれない。
ただ、叔父は私の人生を知らないではないか。
何を幸せとして、どう生きていきたいのかを。
私の人生を知らない人間が、どうして私の人生の正しい道を示せるのだろうか。



また、SNSでこんなメッセージも送られてきた。私のnoteを読んだ方からのメッセージだった。

「ブスなあなたにはそんなに価値がないし、身のほどを弁えて生きた方がいいですよ。いい歳して恋だとか愛だとか、堅実に生きなさい。幸せになれないですよ」

画面のスクロールが必要なほどの長文で送られてきた内容は、要約するとそんな感じだった。

堅実に生きなさい。
顔すら知らない人間からの命令文。
正直、今までも色々な人から似たようなメッセージを送られてきた。
私の人生を否定し、導こうとしてくれるありがたいお言葉たち。
いつもはスルーするが、叔父の件もあり今まで疑問に思っていたことを素直に聞いてみた。


「もし身のほどというものが存在し、もし私がそれを弁えていなかったとして、誰かに迷惑をかけるのでしょうか。もし身のほどというものが存在し、もし私がそれを弁えたとして、それで幸せになれなかった場合に誰が責任をとってくれるのでしょうか」


もちろん、返信はなかった。




私が自分の人生において言える唯一のたしかなことは、私の人生に伴う結果はすべて私の選択によるものであるということだ。

極論だが、家庭環境や外的要因で選択肢が一つしかなかったとしても、その道で生きることを決めたのは私だと考えている。

だからこそ、今の私の仕事や経済面へのやり切れなさは紛うことなき私の責任である。
私の選択してきた結果の、私が負うべき責任である。

もしかしたらこの先の未来、想像を絶する苦しみや不幸が待ち受けているかもしれない。
そのとき、きっと私は後悔するのだ。
あのとき周りの言葉を聞いておけばよかったな、叔父さんが正しかったな、メッセージを送ってきた人たちが正しかったな、と。
しかし、後悔はしても私はその苦しみを受け止めることができると思う。
繰り返しになるが、それは私が自分で選んできたことによる結果であり、その責任はもちろん私が負うべきであるからだ。


だからこそ、私の価値を決めるのはいつだって私でしかあり得ない。
他人の決めた私の価値を信じたとして、それが間違っていた場合に責任を取るのは私なのだ。
そんな馬鹿な話があるわけない。そうであるならば、やはり自分の価値は自分で決めた方が間違っていた場合も納得できるだろう。

だからどうか。

頼むから、好きに生きさせてほしい。
頼むから、口を挟みたくなっても私の人生の傍観者であってほしい。
頼むから、私の人生の幸不幸を勝手に決めないでほしい。


心から私の人生を心配してアドバイスをしてくれている人もいるかもしれない。
ただ、もう私はアラサーなのだ。
30年近く生きてきて形成された凝り固まった考えがあり、何より私は私が可愛くて仕方がない。
人生どころか顔も知らない人間にアドバイスをされたとしても、自分の考えを捨ててまで素直に受け取れる人間ではないのだ。



あぁ、面倒な人間になってしまったな。
偏屈な人間になってしまったな。

私の人生における責任を、いったい私以外の誰が取ってくれるというのか。

もし私の人生の責任を取ってくれる人がいるのであれば、その人だけには特別に私の人生への口出しを許すことにしよう。

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