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創作エッセイ

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創作活動に関することや、制作を通じて感じたことをまとめています。 過去記事も時々加筆修正しています。
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(制作の中で)美術は救いではなかった

【タイトル絵 「オリーブを喰む鳥(部分)」】 美術(創作活動)のおかげで今の自分や生活があると思っています。 そのくせに、未だ「美術(ないし創作行為)とは何だろう?」という、感謝よりも懐疑を抱きながら過ごしています。元々がひねくれているせい、あるいは真剣に考え抜いていないからではないか(両方の可能性もある)とも思うのですが、以降の文はその辺りを一旦棚に上げ、もう1つの要因と思われる美術に「救われた」原体験が稀薄である事を掘り下げてみようと思います。 美術鑑賞とわたし 小

(制作の中で)かいほう

相変わらずがっつりとした制作は落ち着いている日々。相対的に来年の展示に向けた、さらさらっとしたスケッチを描く割合が増えています。 私の場合、がっつり描いて"解放"する時間がとれない日々が続くと、なんだかくしゃくしゃした気持ちになってしまいます。 がっつり描くのは、自分の中を潜って潜って...その末に、出口が見えてきて心がちょっぴり軽くなる感じ(出口の先にはまた、道が続いているので決して終点ではありません)。 一方さらさらっと描くのは、あっちへふらり、こっちへふらり。規則

(制作エッセイ)つくるよろこび

制作を続けて10年 美術大学を卒業したのが2014年3月。あっという間に10年経ちました。 気が付けば、今だに制作活動を続けている少数派です。 作家として続けている人の多くは、続けてきたことを肯定的に語ります。続けたからこそ成功したわけですし、成功したからこそ語りたくなる。 美術に限らず、何かしらを続けてきたクリエイターたちのインタビュー。私はそういった類を真面目に読む人間でした。インタビューだけでなく、自伝本もよく読みました。 読む事で励まされてきた側面も大いにあ

(制作の中で)絵を描く事は治療、美術館は病院

【 作品「天狗鼻と、ぐでり」 2023 】https://no5kobayashi.buyshop.jp/items/71914684 "作者にとっての治療" アーティスト・日比野克彦さんは著書「HIBINO LIFE」の中で「絵を描く事は作者にとっての治療である」といった事を語っていました。 「さあ絵を描いてやろう!」なんて意気込むと、気持ちがからまわる時があります。手を動かすだけでは運動。頭の中にあるだけでは妄想。身体に思考が乗って、はじめて"表現"になります。

(制作の中で)「少しづつ」と「過去の栄光」

 時々、必要に駆られて過去の作品を見返します。先日1年前、2年前の作品を見返していたら率直に「最近の方が良いな」と感じました。嬉しい。  昔の作品が悪いわけではなくて、あの頃はあの頃で良いなとは思うのです。それでも、最近の作品と比べるとまだまだ「足りないなぁ」と思える。現状を大げさに評価しているだけというただ傲慢な可能性も無きにしもあらず。ですが少なくとも「過去に囚われずに作れている」とは言えます。それは喜ばしい事だと思います。  時々、賞を取ったり、他人から評価を受ける

(雑文)感覚のバルブ

先日、小沢健二のライブ「So kakkoii 宇宙 Shows」に行ってきました。 本来は2020年6月開催予定だったのが延期され、2年越しの開催。 購入したチケットは持ち越し。席番号もそのままでした。 久々にライブへ行ったため、自分の中の感覚制御弁(バルブ)が緩んだ実感があります。弁が緩んでいるのは体の中がすーっとして心地良いものの、緩みっぱなしだと日常生活がおぼつかなくなる実感があります。ライブは「生活に戻ろう」という言葉(合図)とともに閉幕したにも関わらず、私の弁はま

(制作の中で)「納得いく絵」 と 「好きになれる絵」

絵を描いている最中に、昔描いた絵や、好きな作家さんの絵が頭を横切る事がときどきあります。 先日、制作中にひさびさの「横切り」に遭遇。これ、私にとって良くない時の兆候だったりします。 過去作の整合性〜、リスペクト精神〜といったイメージに付随した言葉まで浮かんできちゃいます。そういった戯言も含めて、これは目の前にある絵と対峙できていない証拠。 抜け出すには、邪な想いが横切った事実を認め、一旦落ち着き、もう一度絵と向き合う他ありません。 「納得いく絵」を求めようとせず、「自分が

(雑文)「料理をしながら」

先日、油絵画家・今井麗さんの画集「MELODY」を眺めていました。実物の絵を拝見した事はないのものの、画集に並ぶ朝食のトーストや果物、ぬいぐるみなどの手に届く範囲のモチーフ(※1)を描いた作品群から、目を留めてしまう魅力を感じました。 絵の中のモチーフに対する目線が、普段生活している中で、特に意識せずに身の周りの「物」を認識している、その感覚・情報量を思い起こします。一見するとすっきりと描かれているけれど程よく「雑味」が残っていて、そこに情報量のリアリティを感じるのかもしれ

熱い取材を受けた話(と、だべり)

タイトル絵:『トムソーヤの冒険』を読んだ後に描いたらくがき (2020.7) 4月下旬〜5月上旬に行なった展覧会 の最中にインタビュー取材を受けました。それもお二方に。お一人は公共スペースに設置したギャラリーのリーフレットに目がとまり、そこからご連絡頂いたライターの方。全くの初対面。もうお一人は昨年お会いした方で、年始頃に取材したいとお声がけいただいていたのですが、諸般の事情で中止していました。展示に合わせて改めてという形です。 お二方共に企業に属して書かれているわけでは

(雑文)素朴な功名

【タイトル絵:アブダクション(部分)2021】 コロナ禍も1年経ちました。私自身は変わったような、変わってないようなです。あいも変わらず中途はんぱ。 生活様式の変化。先行き見えぬ状況。1年前も現在も、不安が全くないわけではないです。ですが私自身にとってはコロナ禍による功名も大きかったです。 (よくもわるくも)勢いよく流れていた空気(時流?時勢?)はコロナ禍により停滞し、思いもよらぬ形で緩やかになってしまいました。社会全体が緩やかであれば、そこに属する個人の私は穏やかどこ

(雑文)だらだらつづり宣言(とその訳)

 そこまでカチッとした文章が書けるかは怪しいものの、最低限のマナーでメールやりとりをしたり、制作活動の中でステートメント(作家としての志、私はこんな事大切にしていますよという声明文)やコンセプト(作品に込めた想い)を書かざるを得ない状況においこまれると、やっぱりそういう体裁で書こうとしますし、ある程度はそれっぽく書けはするわけです。形式をつかめばあとは慣れですし。  形式にどっぷりのっかって書くのは余計な事考えなくて楽ではあるものの、日常的に形式依存な文章と、もっと簡略化さ

(雑文)ある八月の「おっ」

 4年前の八月。東京国立近代美術館へ「吉増剛造」展を観に行きました。六月に一度訪れていたものの、諸事情あり駆け足での鑑賞だったので再訪したのでした。  会場の入り口では吉増さんのサイン会が開かれていました。そんな事があるとは全く知らずに訪れた私。「これも何かの縁」と展示鑑賞前にミュージアムショップへ駆け込み、展覧会カタログを買い、列に並びました。  サイン待ちの列はそう長くはないものの、吉増さんは一人一人とじっくりお話されているようで進みはゆったり。 吉増さんの横には学芸