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(雑文)「料理をしながら」

先日、油絵画家・今井麗さんの画集「MELODY」を眺めていました。実物の絵を拝見した事はないのものの、画集に並ぶ朝食のトーストや果物、ぬいぐるみなどの手に届く範囲のモチーフ(※1)を描いた作品群から、目を留めてしまう魅力を感じました。

絵の中のモチーフに対する目線が、普段生活している中で、特に意識せずに身の周りの「物」を認識している、その感覚・情報量を思い起こします。一見するとすっきりと描かれているけれど程よく「雑味」が残っていて、そこに情報量のリアリティを感じるのかもしれません。実際の絵と対峙してみたらきっとまた新たな印象を受けるでしょうし、いずれどこかでその機会が巡ってくる日が楽しみになりました。


画集の巻末に、作品やいくつかのキーワードを元にした今井さんの文が綴ってありました。育児や家事とともに制作をしてきた事にも触れており、興味深く読んでいると「キッチンで煮込み料理を作りながら制作している」という一文が。最初は「たくましい人だな」と、他人事のようにさらりと読み流したつもりだったのですが、画集を閉じた後にじわじわとその一文が頭に残ってしまいました。

料理の合間に制作。料理の合間に、制作… 頭の中に何度か言葉が浮かんでは消えると「料理の合間での制作、これは”あり”ではないだろうか」と、まるで自分への啓示であるかのように頭からすとん、と”腑”に落ちる感触がありました。

料理の合間に制作という発想、今まで思いつきませんでした。ですが料理と制作に関する経験は以前からありました。それは、日中に充分な時間を割いて制作に集中できた日は、その後夕飯を作るときに料理の手際がよくなるというもの。明らかに手先を中心に身体中の感覚が敏感になっていて、包丁さばきから調味料の具合まで「なんとなくこれくらい」というさじ加減が決まる。普段もたもたと料理をするだけに、この時の無敵感といったらありません。「煮込み料理を作りながら制作」という今井さんの言葉がじわじわと引っかかったのも納得です。

相乗効果があるかはさておき、少なくとも料理が絵の邪魔をする事はないだろうなという予感はします。料理と絵筆を持つ制作には、どこか原始的な、ゆるやかなつながりを感じるからです。ただし、これがデジタル制作の場合は違います。同じように料理の合間に制作はできるでしょうが、体感としてお互いが繋がらず、ぶつ切りになってしまうのが目に浮かびます。隙間時間にメールの返信をする感覚に近いかもしれません。それは料理を蔑ろにするようでもあり、制作の方も後ろめたい切迫感が生まれてしまう。それでは精神衛生上、よろしくないです。

生活と制作は表裏一体。お互いに気持ち良い関係でいられるに越した事はなく、その在り方もまた一つとして同じものはない、作家の個性であるのかもしれません。

さて、料理の合間制作は私に合うでしょうか。頭の中で考えていても仕方ありません。まずは試してみようと思います。


名称未設定のアートワーク

※1・・・〔モチーフ〕絵の題材、動機となったもの

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