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(雑文)素朴な功名

【タイトル絵:アブダクション(部分)2021】

コロナ禍も1年経ちました。私自身は変わったような、変わってないようなです。あいも変わらず中途はんぱ。

生活様式の変化。先行き見えぬ状況。1年前も現在も、不安が全くないわけではないです。ですが私自身にとってはコロナ禍による功名も大きかったです。

(よくもわるくも)勢いよく流れていた空気(時流?時勢?)はコロナ禍により停滞し、思いもよらぬ形で緩やかになってしまいました。社会全体が緩やかであれば、そこに属する個人の私は穏やかどころか活動圏がぐっと狭まり生活圏から出られず。思わぬ立ち止まりの状態は不安感も招いたものの、自分自身をみつめたり、考える機会をもたらしてもくれました。

立ち止まり考える時間が生まれた中で、特に「良かったな」と思う事。手を動かして何かをつくるのは好き。でもそれ以上に、私は考える事が好きなのだ。そう気づけたことです。

考えるといっても、頭を絞って社会の難問に立ち向かうわけではないです。日常の中で素朴な問いを立ててること。素朴に「なんでだろう」と考えてみる行為です。深掘りして熱心に調べたり、すっきりとする解を求めるのではなく「ああかしら?」「こうかしら?」と自分なりの仮説を立てていく事。とにかく世の中を自分なりに"不思議がる"事。これが好きなのです。

素朴な問いに対する答えを求めるように創作活動が......というと嘘になります。そういう場合もあったりします。ですが自分にとって創作活動もまた「素朴に問う」行為なのです。「なんとなく」きになる事や「どうしてか」描きたくなってしまう気持ちを、画材という"他者"を介して「どうしてなんだろうなあ」と自身に問いかけ、手を動かす。身体を動かす。その末にモノが立ち上がってくる。私にとって創作活動はそんな行為。

「この形・この色」はよくて、「あの形・あの色」はよくないと思うのはなぜだろう。制作中の駆け引きそのものにも、素朴な問いは生まれてきます。そりゃあ、技術論や○○史や引用を駆使しすれば、ある程度はがちん、とした"言葉"に落とす事はできると思います。たぶん。

けれども、せっかく創作上に湧いてきた「問い」を"そういった風"に「解読」してしまう事はとっても、とっても、野暮だなあと思ってしまうのです。先人方の培ってきた知恵をないがしろにしたいわけではないです。むしろ、先人方の知恵や創作物無しで今の自分はありえない、と思っています(これでも、不勉強なりの謙虚さは持ちあわせているのです!)。

私の原動力は「答えにたどり着く」事ではなく「素朴に問う」事にあるのです。問いのかたちにぴったり合う答えを見つけたい。そういった探究心はありません。私自身の中に眠る(私が忘れてしまっている)見聞や経験、素朴に問うた集積のあれやこれや。これらの「雑多な蓄積」を創作を通じえいや、と自分の中から引きずりだして、問いのかたちと「面白く」呼応するように紡いだり、掛け合わせてみたいのです。

創作より問う方が好き。創作を介した問いは好奇心やいたずら心も満たせる。このロジック(なのかな?)は創作を続ける私流のコツなのかもなと思いました。

というのが私のコロナ禍での気づき。未曾有の状況によって、自問ができる時間がなければ、いたって素朴(ゆえに素敵)な気づきを見つけられなかったかもしれません。社会がこのまま緩やかであろうが、再びせかせかとしようが、素朴に問う意志だけは離さないように過ごしていけたらと思います。

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