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(制作の中で)美術は救いではなかった

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【タイトル絵 「オリーブを喰む鳥(部分)」】

美術(創作活動)のおかげで今の自分や生活があると思っています。
そのくせに、未だ「美術(ないし創作行為)とは何だろう?」という、感謝よりも懐疑を抱きながら過ごしています。元々がひねくれているせい、あるいは真剣に考え抜いていないからではないか(両方の可能性もある)とも思うのですが、以降の文はその辺りを一旦棚に上げ、もう1つの要因と思われる美術に「救われた」原体験が稀薄である事を掘り下げてみようと思います。

美術鑑賞とわたし

小・中と課外授業か何かで美術館へ行った記憶はあります。けれども私にとって美術館は別段魅力的な場所には映らず、どちらかというと退屈で近寄りがたい場所でした。記憶を美化するのも難しいほどに、引っかかるものがないのです。

今でこそ気になる展覧会を観に美術館へ足を運びます。
そうなったのは高校(美術科でした)や大学時代に周りの同級生達に影響されて、あちこちの美術館を巡り、それこそ浴びるように展示を観て回った経験が大きいです。
絵を描く・学ぶ立場であったので、純粋に(という言葉がふさわしいかはさておき)「美術鑑賞」を行なっていたかというとだいぶ怪しいです。

自分がいかに一辺倒な「作品のテクニックを学ぶ」「知識を得る」視点で作品鑑賞をしていたのか。その事に気がついたのは、大学卒業後。
VTS(対話型鑑賞)というものに出会ってからです。わずかですがVTSのファシリテーション(司会進行役)について学び、実践する機会もあり、作家活動を行う側としてはいささか珍しい経験を経たことで、「創作者側」や「教養の為」という視点から外れた「美術鑑賞」にも触れる事ができるようになりました(完璧に脱したとは言い難いですが)。

私が美術館という場の魅力に気づいたのも、美術鑑賞の面白さ・奥深さを味わったのも比較的最近。だいぶ後天的なのです。
一方で幼少期から美術館に通い慣れていたり、美術館という場所や鑑賞行為が「救い」になった人に大勢出会って来ました。美術に対してかけがえのない思い入れを持つ方の存在を知れば知るほど、私の原体験としては美術の希薄さを感じざるを得ません。

美術館の外の「変なもの」


私の身近に美術館の存在はありませんでしたが、実はとても身近に「美術」は存在していました。
どういう事かというと、私の生まれ育った街(立川市)にはたくさんの「パブリックアート」があったのです。ここまで「貧美術体験」を語っておきながらまるで手のひらを返すようですが、「パブリックアート」を「パブリックアート」として認識したのも後天的な美術勉強を経た結果でした。幼少期の私にとって、それらは街中(日常)にある「変なもの」でしかなく、美術どころか誰かの作った「作品」とすら認識していませんでした。強引に美術の原体験として位置付けようにも、特別好きでも嫌いでもない「へんなもの」だったのです。

「へんなもの」を「パブリックアート」と認識し、そこには世界的な作家が参加していたことに気づいた頃には、私は高校生。美術学科にいたので既に美術大学を目指し意識が高まっていました。なので、決してその道を進むきっかけではありませんでした(そうだったらどんなにサマになったことか)。「パブリックアート」を含めても「美術」は幼少期の私を「救い」はしなかった。これは決して変えられない事実です。

原体験ではないからこそ


何が、いつ、どのように救いをもたらすかは人それぞれであり、ゆえに「美術」は万能薬ではないと私は思います。私の場合は原体験から美術の道を選んだ訳ではなく、何となくで美術の道に入り、歩み続けながら(さまよい続けている)、時折見える「景色」が「救い」になりました。

原体験に「美術」を持ち得ないからこそ持ち得ている、後天的に救われた体験を私は大切にしたいです。ただ、何となくではあったとはいえ、特殊な道筋を経たからこそ「救い」にたどり着いたのも事実です。
特殊な道筋に至れたのには「専門的」な「訓練」を受けて「競争」を乗り越えた結果でもある、という一面も存在します。ゆえに伝え方を誤ると「美術大学」というマイノリティな実体験を前提として救われた、という語り口調になってしまいます。そうすると当然「特別な人(≒恵まれた人、才能のある人)の言葉」としてフィルターを通して受け止められてしまいます。

フィルターがあることで共鳴してくれる人もいれば、フィルターがかかる事で届かなくなる人もいます。前者の適任者はたくさん浮かぶので私が無理して振る舞う必要はないように感じます。
どちらかというと後者の人に「美術」を救いの選択肢として伝えられないかなと考えてしまいます。それには適切な言葉選びが重要なのか、あるいは自身の作品に乗せるべきものなのか、切り離すべきなのか.....最適な伝達方法(デザイン)は未だ見出せていません。


などと掘り下げてみたものの、冒頭で棚に上げてしまったひねくれた精神と思考しないオツムがそのままでは格好がつかない戯れ言止まりです。まずは棚から下ろして、そちらに目を向けていかねばと思う次第......

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