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わたしと、森

リトアニアに来てからというもの、真冬をのぞいては、ほぼほぼ2週に1度のペースで森を訪れています。

都会で生まれ育ったけれど、身体中が包み込まれるようなあの気配は、生き物としてとても安心するようです。


日本にいた頃から、なんとなく森という存在には憧れがありました。あと湖も。

小さな頃に何か特別な経験をしたというわけではなく、そもそもしょっちゅう旅行に行くような家でもなかったのですが、今から思えば小学生の時に知って以降ずっと大好きな作家・梨木香歩さんの著書に影響を受けている、ように思います。


彼女の植生に関する描写の細やかさ、そして文字から想像できる、生き生きとした表現が、とてつもなく好きで。

おかげで、わたしは都会に生きていても、読書をしている間だけはさまざまな世界へ旅をできていました。


で、森へ話を戻すと、たぶんはっきりと「森」という存在を身近に感じた瞬間は2度あります。

ひとつはノルウェー滞在中、もうひとつは、以前も書いたリトアニアの田舎暮らし(わたしはここを「森の農園」と呼んでいます)。


ちなみに、かつてノルウェーにいた頃、森へ行った話を友人のブログで書かせてもらっていたのですが、読み返したらめっちゃキノコの勉強になってなかなか面白かった(自分で言うな)ので、興味のある方はぜひ読んでみてくださいね。


というわけで、前置きが長くなりましたが、森について好き勝手に綴っていきたいと思います。


あるときはやさしく、あるときは恐ろしい

これは自然全般に言える話だと思うのですが、森って特に、季節や時間帯によって表情というか、雰囲気が全然違うもの。

それに、初めて行く場所だと「ちょっと怖いな」って思っちゃったりします。

でもそれって、人間が本能的(無意識的?)に感じるものなのかもしれない。だから世界中で自然崇拝なるものが生まれたのでしょう。


以前、どこかで触れた気がしますが、リトアニアにも自然崇拝なるものが存在します。よくバルト三国のくくりではラトビアの話が前に出がちですが、実は欧州で最もキリスト教の布教が遅かったのはリトアニア。

その影響もあり、この国でもか〜な〜り強く「これは自然崇拝の名残なのかな?」と思うポイントが見られます。


実際、森の農園にいた頃に訪れたある森は、聞けばPegan(自然崇拝、あるいはRomuvaって呼んだりするらしい)の跡が残る場所なんだそう。

中に入ってみると、岩に特別な力を見出していたり、大きなパインツリーを神聖な木と定めていたり。自然のあらゆる対象に神の存在を見出していたようです。


わたしは自分の信仰を「半分仏教、半分神道(というかPegan的な感じ)」と思っているのですが、そうでなくてもかつての人々が自然を畏怖し、崇めていたというのもよく理解できる気がします。そしてそれは、今でもあると思っている。

今もよく森に入る中で、森に足を踏み入れる瞬間は心を清められる気がするし、森を後にして町へ戻った時の虚しさのような気持ちは、やはり自分が森をどこか特別な存在だと思っているからなのかしら。


あと、森にいるときに、突然雨に降られたりすると、一気に暗く冷え込んで不安を感じる一方、木々が雨粒から身を守ってくれているような感覚から、安堵のような気持ちも芽生えたりするもんです。相反する感情のようだけど、こういうのも表裏一体なのかもしれない。


そんなことを感じさせてくれる場所って、色々考えてみても、やっぱり森くらいしかないような気がします。


本来、人との距離が近い「森」の存在

リトアニアでは、とにかく人と森との距離が近いな〜と感じます。もちろん、町の暮らしに慣れてしまっている風の人も多いけれど。

ただし、上のノルウェーの例に被りますが、こちらでも自然享受権なるものが存在し、ベリーやキノコなど、ほぼなんでも・誰でも採っていいルールになっています。


だから、特に夏休みから晩秋にかけて、年齢問わず森へ足を延ばす人は本当に多い。わたしがよく行く場所はいくつかあれど、犬の散歩に出る若いお兄さんとか、広い森林から突然ひょっこり現れるおばあちゃんとか。


しかもリトアニアの場合は山がなく、全体的にとっても平坦なのです。なので、ほとんどの場所は起伏が少ないために、かなり歩きやすい。

場所にもよると思いますが、いちおう首都に住んでいる今も、バス1本もしくは徒歩でも、いろいろな森へ行けてしまうのが魅力です。住宅裏の森はもちろん、自然公園もあって、ここはビルベリーやリンゴンベリーの低木がたくさん生えているのだ。


ちょうど今は、リンゴンベリーと、何といってもキノコの季節。ほとんどキノコの名前はノルウェー語で覚えてしまっているわたしですが、リトアニア語ではgrybaというそうです。


実は今日、様子見も兼ねて、今年初のキノコ狩りへ出かけてみたのですが、あるわあるわ。特にkremle sopp(日本語でなんというの?)とkantarell(アンズダケ)が。

ノルウェー、とりわけオスロの森は急斜面も多かったのですが、こちらは平らで見渡しやすく、生えてきたばかりのキノコもわかりやすく見つけることができ、ひとりでは十分すぎるほどの量が採れました。

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途中からkremle soppあり過ぎじゃない?となったので、これでも抑えた方です(実は食べられないキノコも少量ありますが、帰宅後に調べたくて持って帰ってきたものです)。


ちなみに、Kremle soppは中に虫が入っている場合もあるのですが、森を歩いていると、時々すでに誰かが中を割って確認した後の子たちが転がっていたり。

Kantarellはこれで、黄色くてとても目立つ人気者ということもあり、すでに誰かが採った痕跡(かけらが残っている)もちらほら。


森を歩いていて、誰かに会うことって実はほとんどないのですが、ベリー摘みにしてもきのこ狩りにしても、こうして人の手の跡をちょいちょい見るあたり、やっぱり暮らしの中で森でのアクティビティって、今もとても身近なんだな〜と、改めて感心したのでした。


こういうの、別に今に始まったことではなく、昔から続いていることなんでしょう。けれど現代に至るまで受け継がれている「森の恵みをいただく」ことって、単純に食料を確保するための行為に終始していない気がするというか。

今まで自分が実際にやってみて、食べられるもの・食べられない(おいしくない)もの・食べてはいけない(毒がある)ものを見分ける力も付く。つまり、生きる力がつく。そして何より楽しい。

一口に「キノコ」といっても旬や採取できるポイントは違うし、気候条件もかなり関係するので、森そのものの環境を把握することは、年月ごとの気候の違いなどにも敏感になれるもの。


今、「史上最悪の〇〇」とか「ウン十年に1度の大雨」といった文句がかなりの頻度で聞かれるようになったからこそ、こうした森との関わりから見えること、たくさんあるように思います。

つまり、災害の多さに憂いや恐怖を覚えたり、そこだけに向かって対策を講じるのではなく、そもそも「なぜ、それが起きているのか?」を知ることが大事。そのためにも、森は人の暮らしを考える上で、実は本当に身近な存在なんじゃないかしら。


季節の移り変わりや天候によって、さまざまな景色を見せてくれる森。もちろん食べ物だけじゃなくて、野花から立派な樹木までが共生し、動物や虫・土の中の微生物が上手に暮らしている場所でもあります。

そこで人間は、お金のためとかではなく、他の生き物と同じ「森に生きる生態系の一部」として、暮らしの中で上手に関わっていくことが、これからも永く森と仲良くしていくために大切なのではないでしょうか。


と、最後はなんとなく大きな話になってしまいましたが、森は昔から人に最も身近な自然のひとつって結論には変わりない。


スピってない「森林浴」の話

「森林浴」という言葉を知らない人はいないんじゃないかと思うくらい、日本ではポピュラーですが、この数年ですっかり世界共通語のように「Shinrin-yoku(Forest bathing)」というワードが浸透してきました。


きっと日本では、未だ多くの人にとって、森林浴は「森で癒されるセラピーのようなもの」みたいな感覚なのかもしれませんが、実は科学研究がかなり進んでいて、森林浴によるストレス軽減・精神病(鬱とか)への効果などなどが立証されています。

森とまで言わなくとも、コンスタントに自然と触れ合うだけで、かなり意味があるようです。


なんとなく「スピリチュアル」のような「森林浴」ですが、本当は全然スピっていなかったという話です。ここでは面倒臭いので載せませんが、日本語で検索してもいろいろ出てくるので、興味のある人は是非。


(余談ですが、この「科学的エビデンスに基づいた情報」って、個人的にはとても大事だと思っている。特にこういう「森」とか「自然」というワードを出すだけでも、なんか知らない宗教に邁進してしまっているのでは?と心の中で疑う人もいるような気がしている)



毎度のごとく、ただ「森」というワードで思いつくことを書き連ねてみました。全体のまとまりはないですが、これを読んで何か感じることがあれば、それだけで嬉しいです。

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