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映画Log.「シェルタリング・スカイ」

このところ旅行に行けていないな〜と思いながら、今回は旅がテーマの映画の話。

ベルナルド・ベルトリッチ監督の1990年公開の映画「THE SHELTERING SKY(シェルタリング・スカイ)」を観た個人的な感想です。

※ネタバレを含みます。そして特にあらすじ解説をしているわけでもないので、できれば映画を観てからどうぞ。

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「旅をする」の本質

第二次世界大戦後の1947年にアメリカ人の夫婦と、その共通の友人(付き添い人?)の3人が北アフリカを旅をするというストーリー。考察する要素を私が一つ挙げるとすれば「旅」というものの本質について描かれていることが印象的でした。
3人のキャラクターを通して「旅」に対する捉え方が三者三様に描かれており、その本質について考えさせられたので語っていきます。

”Traveler”と”Tourist”

冒頭の、Tourist(観光客)Traveler(旅行者)との違いについて語られる3人のやりとりが、初っ端から粋すぎ・・・!とため息。

ざっくりその流れをまとめると、
付き添い人のターナーは、夫婦にTraveler(旅行者)とTourist(観光客)の違いが何なのかについて尋ねる。
夫・ポールが「着いてすぐ帰ることを考える人を”Tourist(観光客)”」
妻・キットが「Traveler(旅行者)は帰らないこともある」と返す。

妻・キットの言う「旅」とは、「帰らないこともある」と語っての通り、自分たちの変わらぬ日常を異国の地の人と同じように「生活」することの意味を含んでいるようだ。

夫のポールはというと冷めきってしまった夫婦関係を異国の地で取り戻したい。1〜2年(仮)の長期滞在という旅程から、妻と同じTraveler寄りの考え方にも感じられるが、「ここ(アメリカ)じゃないどこか」へ行くことで妻との関係を取り戻し、異国の地での何か特別な何かを期待しているようだ。変わらぬ「生活」というよりは現状からの「逃避」という側面を感じる。目的地に到着して早速、現地の娼婦と遊んで危険な目に遭ったりな。それからキットとターナーの不倫関係に勘づいてからはターナーを旅から引き剥がそうとするくせに、ホイホイ特別なことすなよ!ってな。

ターナーはいわゆる「観光客」の象徴として描かれている。常に「いつかは自国に帰ること」が前提になっているやりとりや行動が見られるし、キットと関係を持ったり、ちょっと非日常的なハプニングが起こったり。

壮大な砂漠の地にて彷徨う

圧倒的に美しく壮大な北アフリカ世界でのめくるめく冒険も心もラビリンス。
「愛」を取り戻す旅路、中盤でポールが腸チフスに罹り、亡くなってしまう。それからのキットですが、死後の喪失感と後悔を消化するように、夫を失った自分との焦点を合わせるように、キットはさらに旅を続け混沌としていく。そのさまは覚醒に近いものを感じた。

キャラバンに助けを求め行動を共にしたその先の異国の地でしばらくの時間、翻訳なしのアラビア語のみのセリフが続く場面。キットの心境が迷宮入りしていくような表現は痺れます。
キットはキャラバンの若大将の妾となり、予期せぬ展開ではあるものの、キットの思い描いていたような「旅」が叶う瞬間のようにも感じられる。
しかし異国の地の人間にはなれず、追放されてしまったところでアメリカの大使館員に保護されるという悲しい結末だ。

大使館員と共にタンジールに戻って来ることになるのだが、そこにはキットを捜索していたターナーが待っているという。
それにもかかわらず、キットを心配して捜索していたターナーの心配をよそに、それでもまだキットは「旅」を続けるかのように車から逃げ出す場面、良いですよね。あなたとは違うと言っているようにすら思えた。

しかし結局キットは道に迷っているうちにまた同じ場所に戻ってきてしまう、まさに砂漠の迷宮入り。

ぼくはあと何回、満月を見るだろう

坂本龍一氏の自伝のタイトルにもなっていますよね。

映画の最後でキットが迷い込んだ、旅の初めにも訪れていたバーにて常連と思しき老人が放つ最後の教訓ー。

”人は自分の死を予知できず、人生を尽きぬ泉だと思う
だがすべて物事は数回起こるか起こらないかだ
生きているあいだにあと何回満月を眺めるだろうか。せいぜい20回だろう
だが人は無限の機会があると思うのだー”

シェルタリング・スカイ』(The Sheltering Sky)1990年制作 映画本編より

つまり、
「旅」とは時の概念に過ぎず、行き先やその期間であったりその目的が特別なものであろうとそうでなかろうと、人生の時間の軸ということで言えば同じ時の流れの一部であり、私たちの暮らしや人生はそこにあるすべてである。
それは旅という概念に頼って何かを期待しても、特別な機会が与えられたり取り戻せたり何者かになれるということではなく、機会はいつも近くにあることに気づかず、しばしば先送りにしてしまうものだ、
というところでしょうか。
特別な何かに期待なんてするな、どこへ行こうと常に時は流れている。
そもそも当たり前なんてものは無いのだから。

身に沁みます。

それにしても北アフリカの大地やキャラバンと共にする砂漠のシーンの美しさったら。。。大量のハエも愛でられるのだろう。(ターナー以外)
石膏みたいなクロワッサンっていう表現も個人的には好きだな。そのパンの不味さが伝わり過ぎてくるって・・・!

そして言わずもがなですが、坂本龍一氏のオリエンタルな劇判が一層映画の魅力を格上げされておりました・・・!

個人的な話ですが、上京したての頃の自分、まさに「観光客」みたいな感覚で東京暮らしをしていたと思う。
いつかはここを離れるという前提が心の中にずっとあって、地に足のつかないフラフラと不安定な毎日で。あの時はそうか、もはや私、東京旅行中だったみたい。(笑)旅が時間の概念であるとするならば、今はここにいるけど、その地とは一線を引いているターナーみたいに、故郷が恋しくなりながら東京で生きていた。そんな時期もありました。

この作品の考察をしながら、「旅」といえば「訪問先」という「場所」にフォーカスしがちだったけど、それって観光客的な発想なのかもしれない。誰かと共にする「タイミング」とか自分が体験する「機会」とか、「時」にフォーカスできるのがTravelerなのかね。

もう絶版だけど、ポール・ボウルズの原作小説も機会があったら読んでみたいな。
この時代設定・40年代後半のアメリカと北アフリカの関係性というころも社会学の知識不足なので、まだまだ私も考察を深めたいなと思います。

そしてこの映画、何を隠そう「恋愛映画」なのに今回「愛」についての考察がいっさい無いじゃない・・・!ということで恋愛映画を何本かみた後に愛についてもまた考えたいとは思います。

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