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原田マハさんの「生きるぼくら」を読み、なんだか親に連絡を取りたくなった日

社会人になって3週間目。
ベンチャーの仕事はそれはそれで大変だけど、それなりに慣れてきて、学生モードからの脱却、社会人へのオンボーディングを身に染みて感じる日々。

平日は立ち止まる余裕なんてなくて、特急列車のように新たなタスクが降ってくる毎日。一日中パソコンを眺めていた眼は、電車の中で起動できるわけもなく、自然と瞑ってしまう自分に驚きを隠せない。

それでも。

休日になると、一度自分を見つめなおす余裕が出てくる。
読書を楽しむ余裕が出てくる。

知り合いの先輩の勧めで原田マハさんの本に没頭していた僕は、
偶然、古本市で原田マハさん著作のある本と出合った。

タイトルは『生きるぼくら』。

この本の本質はまた別のところにあるのだが、
冒頭読むだけでも、なぜか涙が込み込みあげてきて。
途中を読めなくなってしまって。

そして不覚にも、久々の親につい連絡をしてしまった。

『生きるぼくら』で動かされたこと

この本を最後まで読み終えていない段階で感想文的なものを書くのもやや抵抗を感じるが、それでもあまりにも印象が強かったため筆の赴くままに書いてみる。

まず最初に強く感じるものがあったのは、主人公・麻生人生の人生だ。
学生時代の両親の離婚・新生活での慣れない中でのいじめ、不安定な生活という一般的に言えば"不幸"な人生を送った結果、気付けば引きこもりとなり4年目。母親の差し入れであるおにぎりとカップ麺を主食に、コンビニに買い物に出ることすら拒否し続ける男。

インターネットの効能により動かずとも情報を得られ、時に誹謗中傷を書き込み書き込まれ、それでも外出する理由のなさから同様の日々を経続ける人生。その一方で、母親は昼夜問わずパートを続け、少ないながらも生きていけるだけの収入をなんとか稼ぎ続ける日々。

ふたりのコミュニケーションは、朝キッチンに置かれたコンビニのおにぎりだった。

しかし突然の母の別れ。「もうだめです」との遺書と残された5万円、10枚の年賀状。
これまでに当たり前と思っていた母との暮らしが突如崩壊した人生。
自然と涙がこぼれてくる。
母親の前では決して見せなかった感情の高ぶりのせいで。
そこまで追い詰めてしまっていた、自分のわがままのせいで。

両親との時間と、これからのこと

今考えてみる。両親との時間はあとどれくらいなのだろうと。
大学1年次までは、両親と毎日顔を合わせること自体が普通だった。
なんなら、それを時にうっとうしく感じるときもあった。
それが自然であり、大人になることだと信じてやまなかった。

大人になるということは、親と距離を置くということ。
それは本心からでた言葉だろうか。

今の当たり前は、恒常的な当たり前ではない。
分かってはいるけれど、受け入れがたい事実。
それを受け入れることは、
怖いから。抵抗を感じるから。
見てしまうと恐れを抱いてしまうから。
見てみぬふりをしていた感情。それに目を向けざるを得なくなったとき、
僕はどうなるのだろう。

両親が要介護になってしまったら。
何か不測の事態が生じたら。
それでも、仕事の都合ですぐに駆け付けられないとしたら。

きっと、その後悔を一生背負うことになる。

親。それはありがたいことに切っても切り離せない縁。
いったんは嫌いになったとしても。
ずっとい続けることがつらいとしても。
一時期離れ離れになったとしても。
最後の拠り所は親という人も多いのではないか。

だからこそ、何かあってからでは遅い。
表面上だけで判断してはならない。
子に心配をかけまいと、あえて連絡をしてないかもしれないから。

会えるうちに会っておく。
一緒に家で飲むのでもいいし、些細であってもプレゼントを渡すのもいい。
もし可能であれば、旅行に行きたい。
そう、子供の頃に連れて行ってくれたように。

そうした中から、それぞれの壁がはがれてきて。
自然と素で話せるようになる。

土日だけでもいい。
せめて1時間だけでもいい。
顔を見て話したい。
その時間を取る余裕が取れるうちに。

だからまず第一歩として、親にLINEを送ってみた。
これまでは何か用事がなければ送らなかったけど。
送ってきたメッセージにも大した返事ができていなかったけど。
たったひとこと、話してみたいと。

返ってきたのは、なんかいいよねと言う言葉。
それだけでいったんは満足だ。

次に会いに行けるように。屈託なく話せるように。
その先のステップを見据えて、今改めて行動してみる。

手遅れにならないうちに、今。


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