#東日本大震災から8年
すべてを変えた あの日…(8)
翌朝は朝一番でお花を買い彼にもう一度会いにいった。
そして、三人で一緒にお花を植えた。
奥様が帰ってきた時によろこんでもらえるように。
再会を約束して私達は南三陸へ向かった。
M医師から聞いていた支援が行き届かない場所を見つけようと探したが見つからない。
迷いながら偶然に南三陸町港地区避難所が目の前に現れた。
聞いていた所ではないが車を停めた。
小さな集会所を避難所にされているようだ。
すべてを変えた あの日…(7)
翌日、気仙沼小学へ立ち寄り朱い鳥居がある道へと向かう。途中、夫が急にハンドルを左に切る。もうそこは海だ。[ここ気になるから入るよ]という。今は住人がいないその場所は、海水浴で賑わう風光明媚な所であったと想像できる。
全て流されコンクリートの基礎だけになった土地。そこに色とりどりの花がいくつも塀があった場所に添い植えられている。そこには軽トラが停められていて、男性が三人話しをしていた。
ひときわ
すべてを変えた あの日…(6)
ここまでの想いを巡らしていた。
悪性リンパ腫末期ガンから生還し、何とか少しずつ生活を取り戻しつつあった夫が感染症の蔓延する国へ苦しむ人々の命を撮影に行ったこと。その後すぐにこの震災で東北の地へ。初めての体験ばかり、そして縁が結ばれていった人々。
結果けとしてなにが残せたのだろう…。活動の最終報告として富士フイルム本社での2週間の写真展示。展示期間の来場者数は19000人。多くの方々に何か少しで
すべてを変えた あの日…(5)
亘理小へ戻り、出発の挨拶をして山元町、夕方福島県新地、相馬まで南下した。
海岸線はもうここまで。入れない。内陸部に入りそのまま帰宅するつもりでいた。
自宅への距離が近づいて行くほど、違和感を覚えた。今までいた見えていたものと全く違う景色なのだ。これが私達が暮らしていた場所なはずなのに、どちらが現実か分からなくなって混乱した。娘も犬も待っているのに、早く帰ってあげなきゃと思うが遠く感じてしまう。
すべてを変えた あの日…(4)
大郷町から仙台へ。石巻、仙台港から亘理小学校でへ取材へ向かう。
石巻は津波と火災の爪痕。ある家が気になり行っては戻り何度もカメラを回している。
そこには子どものおもちゃがたくさん残されていた。この家でおもちゃで兄弟やお友達と遊んでいただろう声が聞こえてきそうで、おかあさんと呼ぶ声が聞こえてきそうでしばらく離れられずにいた。どれぐらいの時間佇んでいたのだろう…ふと、気がつき海の方へ向かう夫に追い
すべてを変えた あの日…(3)
4月20日 12時に自宅より出発した。高速道路では自衛隊の車列、警察車両がすれ違う。非常事態であるという印象の一つとして目に焼きつけられた。道路は激しかった揺れを思わせる爪跡が所々に見られた。無事に辿りつけるのか。助手席に座りながら体に力が入り緊張していった。
18:30盛岡に入った。矢巾町にある国民宿舎から翌朝岩手医科大でのネット会議、山田町ふるさとセンターでの看護師、保健師の活動を取材した。
すべてを変えた あの日…(2)
14:46
埼玉県の片田舎の公園に夫と犬の散歩にきていた。築山がありてっぺんに登りかけたとき…地面が揺れた。
土の下からぐおーおおおおと音がする。
座り込んだ土の下が回っていた。
駐車場に停めた車がひっくり返りそうなほど左右上下に私達と同じように揺れていた。
揺れがおさまったあとも公園は静かだった。
いつもと変わらない空気。
いや、何かが、大変な何かが起こった。
こころが何事
すべてを変えた あの日…(1)
8年…ずっと語れなかった
時が満ちたのだとおもう
焼き付いてこころから離れない記憶を残していこう
今だから分かる
私が 私達家族三人が生きていく起点はここにあったから
そしてあの日からのこころの旅の終着駅にたどり着いたから
彼の地で出会ったたくさんの生き続ける魂を宝物として抱いてきたから
誰かに 何かを 伝えることができるなら
ずっと彷徨ってきたこころを 書きとめておこう
瞬間に