見出し画像

すべてを変えた あの日…(2)

14:46

埼玉県の片田舎の公園に夫と犬の散歩にきていた。築山がありてっぺんに登りかけたとき…地面が揺れた。

土の下からぐおーおおおおと音がする。

座り込んだ土の下が回っていた。

駐車場に停めた車がひっくり返りそうなほど左右上下に私達と同じように揺れていた。

揺れがおさまったあとも公園は静かだった。

いつもと変わらない空気。

いや、何かが、大変な何かが起こった。

こころが何事かも分からず急く、ざわめいた。

娘が心配になり、急かされた体はただ車に乗り込み小学校へ。校庭に出されていた子供たち、先生方、迎えに来る親達で騒然としている。その最中にも揺れた。緊迫感で皆が強張っている。

娘を連れ帰ると安堵したが、家族皆一緒にいなければ、片時も離れてはいけない、これから何が起こるのか…漠然とした不安だけを感じていた。

家の屋根瓦が落ち、台所はコーヒーメーカーやボウルなど安定感がないものや高いところに置いてあるものが床に全て落ちていた。

ガスも電気も使えない。家中のロウソクや懐中電灯、ホカロンや毛布などをかき集めコンビニへ水を買いに自転車で走った。店内の食料品や飲料など品物がなくなりつつあった。

何が起こっているのか、こころはまだよくわからないままライフラインの確保に体は奔走していた。

少しずつ落ち着いて順番に物事を考えられるようになると東京の事務所の様子が気になり、引き上げられるものは持って帰ろうと夫と即断し、娘と犬を連れて夜になって車で皆で移動した。

埼玉県から東京都の境を流れる荒川に架かる橋には私達と逆へと向かい黙々と歩いてゆく人波。

日常目にしない道路を歩く大勢の人。

灯りが消えた真っ暗な街。

静けさが怖かった。

日常がひっくり返る大変なことが起こったのだ。

事務所の中はパソコンが落下し、辺り一面物が散乱していた。壁には亀裂が入っていた。倒壊しそうなビルの中で一晩眠れずに過ごして積めるだけの荷物を引き上げた。神経が昂ぶったまま、無事に自宅へと辿り着くことだけを祈った。

夜が明けても歩き続ける人がいる。

途中のファミレスで朝食をとり、
新聞を見て少しずつ状況が分かり始めた。

自分自身のこころも分かろうとし始めた。

戦争も体験していない平和な日本で生まれてから生命の危険を感じる災害や事件事故もなく暮らしてきた私には遥か想像を超えた事態が起こったということはうっすら感づいてはいても実感していくという感覚の解放を閉ざしていた。

抱えきれない経験したことのない恐怖から自己防衛するためだろう。

それが土の下からの轟音、体全体振り回されるような揺れ、娘の安否、ライフラインが途切れ、今にも倒壊しそうな事務所ビルでの一夜、真っ暗な静まりかえった街、その道路を黙々と歩く行列の人など…否が応でもこの体に刻みつけられていく感覚の小さなカケラたちが塊となって扉を押し開けたのだ。

「受け入れなさい」と。

こころが置いてきぼりの現実から一夜が明けた。状況を理解しようと扉を開けてしまってから、耳や目にはいってくる情報を知れば知るほど怖くなり身慄いした。行方不明となっている人の数は、まるで戦争が起こったのではないかと思えた。

畳み込むようにこころがどんどん溢れてくる。


今こうして息をしていて家族無事でいることは、当たり前のことではないのかもしれない。

もしかしたら自分や家族にも起こり得たことなのではないか。こうして生きていることは

生かされているからだ。自分が生きているから家族が無事だからよかったではないことだ。

人ごとじゃない!自分ごとじゃないか!


居ても立っても居られない、何かできることをしなければという焦燥感にとらわれていった。

写真家である夫も同じ思いで、来る日も来る日も二人でどうしたら現地に入ることができるのかその話ばかりだった。夫はこの時三年前に余命1カ月と宣告された悪性リンパ腫の癌の闘病生活から抜け出しかけていた所で体調には未だ波があった。前年、主治医から止められていたにも関わらず結核の予防、治療活動されている状況の撮影取材にアフリカのザンビアへ、異変を生ずることなく帰国したが、病から生還した生命の火種を残しているようだった。彼にとっての病が、ザンビアが、生と死に向き合ったことが急き立てているようだ。再び頂いた生命の意味を探しているのだろう。体調に何が起こるか分からない中、一人では行かせられない。そして私達には何ができるのだろうと話し合った。

私達にできること、写真を撮って記録を残していくことだ。生かされた人びとと裸で向き合ってこころの底からの声を記録していくことだ。そして亡くなっていった方の声を掬い上げていくことだ。自分ごとだからこそ自分を捨てて深く深く入っていこうと私達は決めた。

前年のアフリカのザンビアを撮影させていただいたご縁で4月20日盛岡に現地入りし活動されている医療チームと合流する運びとなった。

私達は盛岡から福島まで見ていこうと計画した。小型車の車に載せられるだけ思いつくだけの物資を買い込み準備を始めた。
コンタクトレンズの洗浄液、オムツ、生理用品等など日常当たり前に有ったものは多めに持っていてもいいだろう。種類を多くと考え隙間なく詰め込んだ。おそらく一週間はかかるだろう。どうなっているのか、余震が続いていたので何が起こるのかわからない。とにかく車中泊できるよう、トイレができるように準備をした。

小学生の娘と犬を一週間も実家に預けていくのは正直忍びなかった。分かっているかいないのかさえ分からないが、正直に私達の思いを説明した。

「今いかなければならない」と。


あなたの心に翼あることばの一つ一つが届いて和らいで解き放たれていきますように。 サポートよろしくお願い致します✨