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発達障害教育は今後どうあるべきか

第1部発達障害における教育とは ~発達障害は何によって障害となるのか~

まず、印象的だったことは、何より天才たちがろくな学校教育や親からの教育をうけていないこと。それなのに、周りがある意図を持って、天才たちの生涯を改ざんして、都合よく解釈していた。発達障害のわかっていないことが多いという事実を逆手にとって、自分たちの都合の良いように利用するという構造は昔から変わらないようだ。学校教育が意味をなしていなったという事実を、教育が大切であるとプロモーションすることに使われるという何とも皮肉な話。

発達障害と環境や文化は一体になっていたと考える。クロマニョン人の時代には、壁画として描く重役が発達障害に任され、むしろ、社会の中心にいた。日本語は英語と比べて音素の観点からディスレクシアが起きにくいなど、環境や文化によって、発達障害は発達障害となったり、ならなかったりする。そういう意味では、シンギュラリティが起こり、人間とAIの関係 が逆転した社会では、発達障害は発達障害ではなくなったり、また、シン・ホモサピエンスとして重宝されたりするかもしれない。

この本に紹介される天才たちは発達障害と言われているにも関わらず、社会にイノベーションを与え、社会を大きく進歩させた。社会に対してプラスに作用していた。

むしろ、教育の場でおいて、障害となっていた。
私も高校の時、配慮をお願いした際に、担任から「社会に行ったら自分でしないといけない」と嫌味を言われたことがある。しかし、学校教育では、スマホで撮影したり、録音したりするなど様々なICT機器の使用が無意味に制限されている。その中で、「社会」を語っているということがある。

障害は環境によって、障害になる。全てが自由であり、テクノロジーが発展した場所では、障害という概念がないのかもしれない。

往々にして、発達障害への教育は失敗してきた歴史があり、その中でも、淘汰されずに這い上がってきた天才たちが名乗りを上げているのか、そもそも教育が発達障害に対して意味を成していたかはわからない。

発達障害における教育は今後どうあるべきなのか

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