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西崎景
2020年3月12日 22:18
13 空は灰色から青へと色を変え、雨雲ではなく入道雲が浮かぶ。ますます蒸し暑さは加速し、照りつける日差しと相まって連日警報が出るほどだった。 智理は木村とともに、糸永瑞行の個展へ足を運んだ。暑さも人混みも嫌いだが、関係者のみに公開されるプレオープンデイだ。『NIHON-GA アンブレラ』と同じように早い時間に赴いた。 天井が高い広大なホールに、瑞行の作品が美しい配置で並んでいる。ほと
2020年3月11日 22:12
12 小さな骨が、うすい皮膚を押し上げている。 木村は智理の首の付け根を、指の腹で柔く撫でた。髪の間から脊椎がカーブを描いてタオルケットの中に潜りこんでいる。ところどころ吸った跡が赤く残っていた。「ん……」 くすぐったかったのか、寝返りを打った智理が木村の正面を向いた。 胸の真ん中で力なくまとまった手、そのくぼんだ手首を見ながら、木村は昨晩ちからいっぱい握りしめた感覚を思い出す。
2020年3月10日 21:52
11「どうして、よりによって白さんなんだよ」 くそっ、と木村が地面を蹴った。 情けない顔が上がる。智理と瞳が合うと、木村はふてくされたように肩を小さく落とした。「悪い」 大人げない所作を謝り、木村はまた大きく息を吐く。「安心した。既読ついたのに返信ないから、また倒れてるかと思った」 どう返したらいいかわからないまま智理の家に宮が来訪して、メッセージを放置してしまっていた。
2020年3月9日 22:14
10 自分を引きずるように自宅へ戻ると、買った食材を冷蔵庫にしまえないまま、智理はしばらくちゃぶ台に倒れこむ。 どうして、こんなに自分を持て余すのだろう。木村は……木村だったら、どう振る舞うだろうか。 あの憎らしいほど輝いている笑顔は、やはり手にすることができない。そう打ちのめされた気分だ。 ピンポーン チャイムが鳴った。 智理は鈍る足を叱咤して、サンダルをひっかけ引き戸を開
2020年3月8日 22:11
09 朝起きると、何日ぶりかの青空が広がっていた。 すぐに次の低気圧が来て夜から雨だと天気予報が告げるので、智理は溜まった洗濯物を洗う。 傘立てを確認して昨夜、木村が差した夕日の傘は会社から持ってきた新品だとわかった。愛用していた方は、どうやらどこかに忘れてきたらしい。せっかくの晴れ間に干そうと思っていたのに、かわいそうなことをしたと智理は肩を落とす。 せかせかと家事をするのは、昨
2020年3月7日 22:16
08 体が冷たい。 寒気に意識が表出する。 暗くぼやけた視界に智理が目を凝らすと、そこは自宅の客間だった。少し離れて土間が映る。 畳の固い感覚が体に響いた。手足を丸める。 あれから、どうやって帰ってきたのか憶えていない。髪や服がびしょ濡れだ。傘を差さなかったのか、どこかへ忘れてきたのか。 真っ暗な室内に、雨音が聞こえる。 怖い。 雨粒が降る音の小さな振動が、棘のように智理の
2020年3月6日 21:44
07「智理が来なくなってからかなあ」 尚枝は前を見据えたまま、世間話のようなトーンで話し始めた。 喋ると動く薄い頬を見て、智理はシートベルトに指を引っかける。「お父さん、元気なくなっちゃって。孫みたいなものだから、しょうがないかなって思ってたんだけど、ちょっと長く引きずりすぎておかしいなって。それで病院の検査受けたら、認知症って」 スコン、と側頭部を強い力が殴った。視界が点滅し、
2020年3月5日 22:20
06 さて、と話題転換をはかるように、宮は上体を前へのりだす。「今日は僕から説明するだけだけど、もし智理がOKなら主催との打ち合わせにも参加してほしい」 宮の指がテーブルに散らばったコピー紙に触れる。 ホチキスで冊子にまとめられた資料を宮から渡され、智理は姿勢を正した。ぱらぱらと捲り、目に入った文字や画像を拾う。 一ページ目に戻ると、尚枝からのメールにあった『描(びょう)――糸永
2020年3月4日 22:03
05 雨戸の向こうから、シトシトと静かに雨が降る音が聞こえた。 頭が重い。昨夜のことを考えながら眠ったからか。 スマホから機械的なメロディーが流れている。アラーム音ではない。 智理は錆びついた腕をのばす。スマホを掴むと、霞む視界で相手先を確認できないまま通話ボタンを押した。「……もしもし」 聞こえてきたのは、涼しげで明瞭な声だった。『あはは、ひどい声だ。さては、寝てたな』
2020年3月3日 22:12
04 木村が智理にそうする根元に何があるのか、わからないわけではない。直接的な言葉にはしないが、視線に、口元に、手に、所作の全てに心は滲んでいる。 紳士的で友達然と接するその奥に、似つかわしくない色を見る。 智理は自分の容姿について認識はしている。線が細く、女性から「美人」とよく言われた。そして、一部の同性愛者から好まれることも、この何年かでよくわかっていた。 自分が羨望する相手が
2020年3月2日 22:19
03 スーパーストアのカゴを手に取り、智理は買い物リストを確認しようとスマホを叩く。 スリープを解除すると、母からショートメールが入っていた。『もう描かないなら、あの家売ろうかと思うんだけど、どう?』 まず脳を支配したのが怒り。その後、すぐに悲しさに取って代わった。 両親にとって、描かない自分に価値はないのだ。少なくとも、あの土地代に勝るだけの価値は。 幼い頃から、両親は智理
2020年3月1日 22:08
※やや性表現あり 02「雨谷先生、か」 久しぶりの呼び名に、智理は胸のしこりがまだあることを確認した。当然だ、消えるわけがない。停滞したままで、消えるわけがない。 春になる頃から『先生』と呼ばれていない。智理がそう望んでいるからだ。 自宅への坂道をのぼる。急勾配で足取りは重くなる。 早見總本店とのコラボから、智理は作品らしい作品を生み出していない。いや、『NIHON-GA アン
2020年2月29日 22:14
雨は少し安心する。 名前に『雨』という漢字が入っているからだろうか、と雨谷智理(あまがいさとり)は考えて、傘立てに置きっぱなしの雨傘を取った。 梅雨の早朝は灰色の雲が空を覆い、水気が肌にまとわりつく。まだうすく残る冷気を感じるが、数秒経てば皮膚の下から汗が滲んだ。 玄関の引き戸を閉め、砂利の中に置かれた飛び石を踏んで門扉を出る。 不透明に濁る空を見上げると、傘の内側に描かれた風景が視界に