【BL連載】雨だれに傘を差す09
09
朝起きると、何日ぶりかの青空が広がっていた。
すぐに次の低気圧が来て夜から雨だと天気予報が告げるので、智理は溜まった洗濯物を洗う。
傘立てを確認して昨夜、木村が差した夕日の傘は会社から持ってきた新品だとわかった。愛用していた方は、どうやらどこかに忘れてきたらしい。せっかくの晴れ間に干そうと思っていたのに、かわいそうなことをしたと智理は肩を落とす。
せかせかと家事をするのは、昨日のことを思い出したくないからだろうか。
これからのことも、うまく道筋は見えない。
ただ、個展を手伝うことだけはぼんやりと覚悟を決めていた。
『智理です。先生の個展ですが、微力ながら手伝わせてもらえたらと思います』
声を聞く勇気がなかったので、メールで宮と尚枝に知らせる。
『ありがとう。あとで詳細送ります』
すぐに宮から返信があった。宮らしい淡泊な文字だ。
家事の後は遅い昼食をとり、宮から送られてきた個展の資料を読みこむと、もう夕方になっていた。
「何つくろうかな……」
たった数時間で乾いた洗濯物を取りこみながら、智理はぽつりと声に出す。
頭はからっぽだった。
「ん?」
何について零した言葉だろう。智理は考えこむ。
最初に浮かんだのは、今日の夕飯。
次に浮かんだのは、ノートとボールペン。
飛翔して高度を増す時と同じ、浮遊感と興奮が全身を巡っていた。
飛びだしたいと、体内で何かが弾ける時を待っている。
それは再認識した『好き』だ。描くことについて、そして――
智理は庭で蹲った。自覚して受け入れる勇気は別だった。
「メシ……メシかな、まず」
夜から雨だという予報を思い出して、智理は傘と買い物バッグを掴んだ。
今日のスーパーのレジに、高校生少年はいなかった。
たまたま係から外れているのか、非番なのか、それとも辞めてしまったのか。智理が知る由もない。
跳ねる指のリズムと、鋭く光る刃のような雰囲気は、会うたびに視線が留まった。誰とも知らない少年に、智理は自分の理想を勝手に映しこんでいた。『好き』を疑うことなく、まっすぐに見据えているような眼差しを、いつか自分も取り戻せるだろうと。
買い物を済ませてスーパーから出ると、青空は分厚い雲で遮られていた。日暮れまでまだあるが、日没のように暗い。
早めに出てきて正解だったな、と空を見上げながら歩いていると、至近距離に何かが入ってきた。智理は急いで一歩退く。
「すみません!」
鼻を掠めるほど近くを通り過ぎた少年が、背中に大きなケースを担いだまま振り返った。
レジの少年だ。
走ることをやめないまま、顔をすぐに前に戻して去っていく。
中学校が終わって駆け足で糸永邸へ向かっていたことを思い出した。
少年が背負う長方形のケースの中身を想像する。キーボードだろうか。智理の知らないものだったら面白い。
智理も少年のように夢中に走りたいと、ふと足元を見つめた。
まだ、走れるだろうか。
スマホが振動して着信を告げる。
淡い期待をして、智理はスマホを取り出した。
表示には『宮 白一郎』と表示されている。
「もしもし?」
雑踏の中でスピーカーに意識を集中すると、宮のなめらかな声が聞こえた。
『ああ、智理? 主催者側から急な依頼があってさ、〝蕾〟のことなんだけど』
ふと現実に引き戻された冷たい感覚がする。アスファルトの歩道に佇む今だって現実なのだから、おかしなものだ。
智理が「はい」と絞り出した声は、低く唸っていた。
『あれ、智理が持っていただろう? 主催者がどうしても〝蕾〟を明日の打ち合わせで見たいって言うんだよ』
少年期の智理を描いた『蕾』は、いくつかの展示が終わった後、瑞行から贈られた。「智理が持っていなさい」と。そこに描かれた少年の自分を忘れさせてくれないのだと、智理は呪わしく思ったこともある。だが、過去の自分の権利を持たせてくれたのかもしれないと、今では受け取っている。
『蕾』は離れの一階にある納戸にしまっていた。受け取ってから、展示に貸し出すことはあっても、一度も自分で開けたことがない。
納戸に入るのか。
そう思うと、智理の頭は鈍くなる。あの場所には、『蕾』だけでなく、過去の自分の作品もしまっていた。作品を描けなくなってから、足は自然と遠のいていた。最後に扉を開けたのは、いつだったか。
『これから、取りに行きたいんだけど』
都合を訊きながら、宮の声には拒絶を許さない強さがこもっている。
智理は手に提げたスーパーの袋を見つめた。夕飯の食材。金曜日だからと買ったビールがずしりと重い。
「わかりました」
どちらにせよ、今回の個展に『蕾』は飾られるだろう。早いか遅いかだ。
通話を切ると、智理はメッセージアプリを開いた。一番上に表示された木村の名前をタップする。
文字を入力していくと、指先がチリチリと痛みを感じた。
『ごめん、今日ちょっとダメだ』
木村にメッセージを送り、歩いていると、すぐに返事を受信した。
『大丈夫? 調子悪い?』
心配する木村の言葉が苦しい。
「うん」とも「いいや」とも答えることができず、智理はアプリを閉じた。何も言わなければ余計不安にさせるとわかっていながら。
会いたい、と当たり前に浮かんだ。
一緒に食事をして、テレビを観て、ゲームをして、今日あったことを話して。
木村に触れてほしい。
形を成すと、智理は頭が沸点に達した。弾けた。
だからこそ、木村に見せたくない。あの作品も、宮といるところも、先生との過去も。
嫌われたくない。
名前を持てば、切なさは苦悶となって体を支配する。
智理は、しばらくその場を動けなかった。
(続)
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