【BL連載】雨だれに傘を差す06

   06

 さて、と話題転換をはかるように、宮は上体を前へのりだす。
「今日は僕から説明するだけだけど、もし智理がOKなら主催との打ち合わせにも参加してほしい」
 宮の指がテーブルに散らばったコピー紙に触れる。
 ホチキスで冊子にまとめられた資料を宮から渡され、智理は姿勢を正した。ぱらぱらと捲り、目に入った文字や画像を拾う。
 一ページ目に戻ると、尚枝からのメールにあった『描(びょう)――糸永瑞行の視る世界』という文字が真っ先に記されていた。
「今回は、瑞行先生の集大成になるような展示にしたいと思っている。先生の視た世界、そこから先生の人物像を浮き彫りにするようにね」
 宮の説明に、智理はわずかに眉をひそめた。八十を過ぎたとはいえ――いや、だからこそか――存命している画家の集大成というテーマに、些か疑問をおぼえる。先生は怒らなかったんだろうか、と智理は首を捻った。それとも、この年で画家引退を決めたのだろうか。
 顔をしかめる智理を置いて、宮は説明を続ける。

「著名な作品はもうリストアップされているけれど、もっと踏みこんだ作品も展示したいんだ。五ページ目が会場の間取り図」
 言われて智理は指定されたページを開いた。
 場所は帝国中央美術館。伝統ある一流の美術館だ。その展示ホールを使ったプランが載っている。
 一階をまるまる使うらしく、区切ったホールといくつかの小展示室を順路で繋いだ図には、智理も興奮に胸を膨らませた。いつか自分もこれくらいの個展をしてみたい、と叶うはずないと思いつつ願ってしまう。
 智理は指で間取り図の線をなぞった。この無機質な壁に作品が展示されているところを想像する。
 先生の? いや、自分の……
「時系列に並べるのが一般的だけど、もっと各側面にクローズアップした小展示があってもいいと思うんだよね。たとえば、先生は植物の絵が多いだろう。椿だけで百点以上あるし。あとは……人物画だけの部屋とか」
 宮の涼やかな声に、智理の体に緊張が走った。
 中学生の自分によく似た横顔が展示室の壁に飾られ、来場者の瞳が見上げている。
『蕾』は晩年の名作に数えられている。瑞行は発表してから展示会で数回飾ると、『蕾』を智理に贈っていた。今も、雨谷家の倉庫に眠っている。
 は、と乾いた息が漏れ出て、智理は一度口を閉ざした。唾を飲みこんで、もう一度開く。

「でも、それだったらやっぱり尚枝さんが選んだ方がいいんじゃないですか。俺は、せいぜい十年くらいしか弟子としていなかったんだし」
 糸永瑞行は十七歳から画家として活動している。その間に描いた作品は習作を含むと千点を超えていた。
 智理が瑞行の弟子になったのは、瑞行が七十歳の頃だ。もちろん、それまで智理は瑞行の作品を鑑賞し、勉強していた。弟子になった後も、瑞行は積極的に自分の絵画を智理に見せていた。それでも、そこに込められた思いを汲み取るには、あまりに短い。
 智理の提言に、宮は眼鏡を直す。
「……ナオさんともそれは話したよ。それで、智理にやってもらおうってことになった」
「先生は? 先生は今回、展示に関わらないと仰ってるんですか?」
 自分は描く。それをどう飾ろうがそれは他人がすること。瑞行はモットーに従い、一度も足を運ばない個展もあったという。気難しいというより、作品を他人が鑑賞することに興味がないのだ。
「あー……それは……」
 珍しく言い淀む宮に、智理は急激に心が波立つ。胸の辺りが痛い。
 智理が関与しないところで、何か大きなことが動いている。そして、それを知らされないまま今ここにいる。
 確かめたい。
 二つの思いがせめぎ合う。
 瑞行と顔を合わせたくない。幼い反抗心と劣等感で、きっとひどい気分になる。
 瑞行に会いたい。姿を見てこの不安を拭いたい。苦い気持ちがわいても、変わらぬ様子を見ればこの黒い霧のような恐怖は晴れるはずだ。

「宮さん」
 振り返ると、尚枝がお茶の入ったグラスを持ってきていた。
「それは私から言うから」
 尚枝は屈んで盆を膝の上に置き、智理と宮の前にグラスを置く。
 ――何? なんなんだ?
 尚枝の皺ができた目尻を凝視していると、尚枝の目が智理を捉えた。有無を言わせぬ強い瞳が、智理をますます混乱させる。
「智理」
「はい……」
 心底怖かった。すがるものがなくて、智理は資料の端を握りしめる。
「後で、少し時間ある?」
 やつれた尚枝の頬が力なく笑った。
 中学生に戻ったように、智理は受動的に頷く。
 淀み、滞っていた水が流れだす。その奔流に飲みこまれまいと、智理はスリッパの中の足指に力を入れた。

 それから、宮と展示についての話を再開したが、内容はあまり憶えていない。
 心ここにあらずの智理を宮は気遣って「後で読んでくれ」と必要な資料をコピーして渡した。
 宮が帰り際に尚枝と挨拶している間も、智理はソファーに身を沈めてまとまらない心で天井を見つめていた。悪い想像ばかりが膨らみ、手足は自然と冷たくなっていく。
「智理。お待たせ、行こうか」
 大きなトートバックを担いだ尚枝が、応接間にいる智理を呼んだ。
 智理は靴を履くと、傘を差して門扉の前で待つ。
 尚枝が玄関隣のガレージから乗用車に乗りこんだ。
 車庫のシャッターを開けて屋敷の前につけると、尚枝は車に乗るように智理を目で促した。
 足が前に進みたくないと言う。どこへ逃げることもできず、智理は回りこんで助手席に座った。
「あの……」
 どこへ行くんですか?
 いくつか予測はしている。それでも、そうなってほしい答えは一つもない。
 車はゆっくりと人気のない路地を進んだ。
 ワイパーが規則正しく左右に振れる。丸く落ちる雨粒の跡を消す。何度も、何度も。

(続)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?