【BL連載】雨だれに傘を差す12

   12

 小さな骨が、うすい皮膚を押し上げている。
 木村は智理の首の付け根を、指の腹で柔く撫でた。髪の間から脊椎がカーブを描いてタオルケットの中に潜りこんでいる。ところどころ吸った跡が赤く残っていた。
「ん……」
 くすぐったかったのか、寝返りを打った智理が木村の正面を向いた。
 胸の真ん中で力なくまとまった手、そのくぼんだ手首を見ながら、木村は昨晩ちからいっぱい握りしめた感覚を思い出す。
 細っこい骨はすぐ、ぽきり、と折れてしまうだろう。乾いた音が周囲をふるわす振動……想像すると、現実にしてはいけないとわかっている理性の奥で、本能が昂る。
 儚く頼りなげな可愛らしさが、か細く壊れやすい感触が、木村はたまらなく愛おしい。
 決して、口には出せない。
 これまで親しくしてきた人間にも、告げたことはなかった。
 骨を触るのが好きなんだね、と笑われたことはある。まさか、折ることを想像して撫でているとは言えなかった。
 昨晩、首や背中をはじめ、骨盤、膝、踝、手首……骨の形を確かめるように愛撫した。
 智理は気付いているだろう、と木村はぼんやりとではあるが確信を持っている。
「折っても、いいよ」
 うわずった声でそう呟いた智理に、木村は胸を掻きむしられる思いがした。それを隠すように進めた。
 まだ目を覚まさない智理の瞼を見つめる。これが開いた時、どんな瞳が向けられるのか。木村は、どうしようもなく怖い。

 雨戸の外からはかすかに雨音が聞こえた。
 夏になる。雨の朝だというのに、涼しさはどこかへ消えて蒸し暑さしか感じない。南向きの窓がある木村の住まいから比べると幾分か涼しい気がするが、実感できるほどではなかった。
 木村は床に転がるリモコンを探して、エアコンをつける。
 電子音が浅い眠りのなか聞こえたのだろう。智理がゆっくりと目を開けた。
 あどけない瞳が視界に映る木村を辿り、視線を上げる。
「おはよ、智理さん」
 顔を合わせると、木村の声はわずかにふるえた。昨日から情けないところばかり見せている気がする。
 それでも、傘を差せばいい、と返した智理を、失いたくない。
 思考が形を成すにつれ、智理の視点ははっきりと木村に向けられた。
 感情の薄い表情が、どう歪むのか。小さな筋肉の変化すら、木村には拷問のようだった。
「……おはよう」
 起き抜けの低い声で、智理は囁く。
 そのまま、ぐるりと視線は部屋の天井へと向かう。一周するように、智理は顔を枕に沈めた。
「……腹減った」
 照れ隠しなのか、本音なのか、枕で見えない智理のくぐもった声に、木村はふきだした。
 昨夜、自分の傘に入れてくれた智理が、そこにいる。
「オレも」

 最初は綺麗な絵を描く画家だと思った。色彩、繊細な線、奥行。どうしたらその全てを傘の布地に印刷できるか試行錯誤したものだ。
 興味を持って調べると、艶めいた師弟関係のゴシップ記事が出てきて困惑したが、プレオープンデイでの出会いで全て消し飛んだ。木村が手掛けた傘を見上げる智理の横顔が、少し猫背にカーブした背中や細い手首や指が、木村の心を改めて捉えた。
「はじめまして、木村全と申します」
 声を掛けると、智理が警戒した瞳でおそるおそる頭を下げたのをおぼえている。
「……雨谷です」
「販売用雨傘を担当させていただきました。少しでも先生の絵を再現できていたらいいんですけど」
 智理の茫洋とした目が、雨傘を見つめる。下瞼にある翳りが疲弊を窺わせた。糸永瑞行との決別、痴情のもつれ、才能の枯渇、様々な言葉が記事に躍っていたから、木村も事情の端くらいは想像できる。
 企画の成功を願っていた。自社企画だ、当然だった。
 それが少しでも智理の励みになればいい。傘をつくり智理に惹かれて、その細い首筋を見て木村は望む。
 長い時間、智理は木村の傘に視線を注いだまま、微動だにせず佇んでいた。
「うん、いいですね」
 企画中に、智理が木村の傘に告げた評価は、その一言だけだ。
 落胆がなかったわけではない。
 その半年後、ゴミ捨て場でさらなる評価があるとは知らず、木村は判然としないまでも、その一言を心に留めていた。

 色鮮やかなタイルの台所で、昨日智理が買ってきた食材を刻んでいく。
 不思議なもので、この昭和家屋で料理をしていると、とても充実した生活を送っていると錯覚できる。
 いや、実際に充実している。自分と好きな人の食事をつくり、ともに食べ、満腹になるのは、とても充実した生活だ。
 台所の隅に智理が食べているらしいクロワッサンの袋があったので、木村はそれに合わせて空腹に刺さるものを考えた。スピード重視だ。
「前から思ってたけど」
 料理を食卓に並べて手を合わせた後、智理はコンソメスープに口をつけて、恨めしそうな瞳で木村を睨んだ。
「できるなら、しろよ」
 料理を、という意味だろう。
 木村はハムエッグを噛みしめながら「いや」と口癖のように否定した。言葉を選ぶ。
「片道二時間通勤と引き換えに料理はできないのですよ」
 む、と智理が口を閉ざした。眉間に皺は寄っていない。木村が家にいる智理を責めていないことは伝わったのだろう。
 畳に放り出していた智理のスマホが、ムーッムーッと鳴り出す。
 智理は座椅子から身をのりだしてスマホを掴まえた。
 顔が強張る。それで、木村は誰からの着信かおおかたの予想がついた。
「もしもし……はい、いえ。定例? 水曜日、ですか……」
 電話に出る智理の声は、余所行きのようにわずかに高く、張りがある。
 せっかくの朝だ、と木村は食事に集中した。嫉妬はあるが、出すタイミングがある。
「大丈夫です、はい、わかりました……はい、失礼します」
 智理はスマホを耳から離すと、また畳に置いて何事もないように箸を取った。

「白さん?」
 沈黙を和らげるように、木村は訊ねる。
「うん、先生の画展、来週から定例ミーティングに出てほしいって」
 智理と宮が定期的に会うのだと思うと、木村が頑張って上げていたテンションが気持ちとは裏腹に落ちていく。
 それが伝染したように、智理も睫毛を伏せたまま箸のスピードを速くした。
「……なんていうか、大人だよな」
 ぽつり、と智理から降った一言に、木村は箸が止まった。発した智理が慌てて首を振る。
「あ、いや、木村が想像してることじゃ多分なくて」
 智理が瞳を伏せる。前髪の間から覗く白い顔と細い骨格。会った時から感じていたが、智理はどこか浮世離れしている。
「昨日何かありました? って雰囲気が、さ」
「クールというか、ドライというか、白さんは昔から器用だよ」
 昨日、何年かぶりに古傷を抉られた。
 宮白一郎という人間は、木村のコンプレックスを呼び起こすスイッチだ。
 子どもの時は憧れていた。頭がよく、大人びた口調で、何でもできる完璧超人だと思っていた。
 思春期を経て、自分の性的な嗜好や性質が万人にあてはまるものではないと理解すると、宮に抱く感情は嫉妬と劣等感へと変わった。自分を受け入れたいという思いより、世に蔓延る普通を手にしたかった。
 宮白一郎は、それを全て持っていた。妻子という普遍的な家族、仕事、容姿や知識、周囲からの信頼。宮の人となりや経歴を並べれば、誰もが平凡ながら順調な人生だと評するだろう。
 皆が憧れる理想を、宮は持っていた。
 あまりに眩しい宝物をさも当然のように抱く宮が、木村は苦手だった。
 その宮が怒りを滲ませたのは、木村の記憶の中でも昨日だけだ。
「……先生との絆を、そう易々と手放すなよ」
 智理に向けた呻きは、宮が人間なのだという証明のようだった。
 きっと宮にも満たされずに飢えているものがあると、木村は安らぎをおぼえる。
 そうであってほしいと、渦巻く黒い感情が叫んでいる。

 あまり会話の弾まない食卓で朝食を終える頃、智理がそろりと顔を上げた。
「今日、出掛けないか?」
 木村は言葉を探しながら、咀嚼を続ける。
 最初に、夕飯食べに来たら、と誘われた時より智理が幾分か緊張しているのがわかった。
 それを理解すると、木村もむずがゆい気持ちになる。
「その……顔料を見に行きたいんだ。何を描きたいって、わかんないけど」
 夕日の傘の中で涙を流す智理が脳裏に過ぎった。
 あの時、智理がどんな感情で倒れ伏していたのか、木村が全てを知ることはできないだろう。傘をつくっていた木村からすると、智理の中は別の宇宙で満ちている。それが美しい色と線を描く。尊敬と畏怖を抱く。だから、あの時は傍にいることしかできなかった。
 励みになればいいと思っていた。あの時の小さな望みは、着実に智理の元へ流れついていた。
 パンの塊を喉に押しこんで、木村は大きく息を吸う。
「ああ、行こう! 行こう!」
 木村の勢いに驚いて、智理は椀を持ったまま口を開けていた。
「そういや二人でどっか行くの初めてだな」
 いつも夕飯を食べにここへ来るだけだった。この家で完結していたからだ。
 これからは、もっと違う景色を二人で見たい。スーパーや画材屋に買い出しに出掛けたり、電車に乗ってアウトレットモールにも行きたい。徒歩0分の木村のマンションにも呼びたかった。
 智理に降る雨の正体がわからなくても、一緒に傘を差すことはできる。体を形づくる食事をともにして、愛することができる。
「ほんとだ」
 嬉しそうに目を細めて、智理は椀を傾けた。

 今日も、梅雨は終わらずに曇り空から雨粒が降る。
 それならば、傘を差して出掛けよう。その日にしか見えない景色があるだろう。

(続)

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