【BL連載】雨だれに傘を差す08

   08

 体が冷たい。
 寒気に意識が表出する。
 暗くぼやけた視界に智理が目を凝らすと、そこは自宅の客間だった。少し離れて土間が映る。
 畳の固い感覚が体に響いた。手足を丸める。
 あれから、どうやって帰ってきたのか憶えていない。髪や服がびしょ濡れだ。傘を差さなかったのか、どこかへ忘れてきたのか。
 真っ暗な室内に、雨音が聞こえる。
 怖い。
 雨粒が降る音の小さな振動が、棘のように智理の神経を冒す。
 耳から離れない。闇の中に透明な足跡を残していく。
 ずっと、体から消えないように。
 雨は脳裏の水面に波紋を広げる。思考が揺らぎ、凪ぐことはない。
 瑞行に抱いていた反抗心や承認欲求。焦がれながらも退けたい、両義的な思慕。
 それら全てが、どうでもいい。
 全て。
 自分の今も。
 創作意欲や、命すら。

 暗闇で、玄関の引き戸がガラガラと鳴った。
 ――ああ。
 嘆息に似た切望。厭いながらも、両手を広げて迎え入れたい衝動。
「こんばんはー……いる? 智理さん?」
 控えめな木村の声が、静寂に浸透する。
 今日は糸永家へ訪れてからスマホを見ていない。また何時に帰るだの何が食べたいだの送ってきていたのだろうか。
 喉の奥から、せりあがるものがあった。うまく形にならず、また腹に戻っていく。
 土間を踏みしめる音がした。雑音すら智理の胸に染み渡る。
「智理さん!?」
 木村は闇の中で智理を見つけると、鋭く叫んだ。慌ただしく靴を脱いで畳を駆けてくる。
 鞄を放りだし、木村は智理の傍に跪いた。上体が畳すれすれまで倒れ、驚き焦燥した顔が智理を覗きこむ。
 丸まる肩に触れ、木村は智理が濡れていることに気付いたようだった。
「どうしたんだよ!? と、とにかく着替えて、風呂沸かすから……」
 バタバタと縁側の廊下を走る足音が遠ざかっていく。奥で蛍光灯をつけた光がガラス戸に反射した。

 智理は浅く、ゆるく息をする。
 ここにいるという実感がわいてくる。
 自分は二十六歳で、一人暮らしで、画家活動を休止している。
 二年前、瑞行の家を離れてから、時間はしっかりと動いていた。
 動いていたんだ。悲しく、残酷なほど。
 慌ただしい騒音が近づいてくる。
「智理さんっ、風邪ひくから着替えて」
 木村が智理の前に座り、手にした衣服やタオルを広げた。
 手が頬に触れる。
「ほら、冷えてる。何か温かいものを――」
 いつもそうだ。
 絶対に自分が持っていないものを持っている。それを示してくる。分け与えようとする。
 その気遣いが愛おしくて、苛々して、泣きだしたくて、消えてしまいたくなる。
 智理は木村の手を払った。
「――いい」
「え?」
「雨、やまないから、いい」

 いつもついて回る雨が降る音。安心する。自分の心に、まだ雨が降るとわかるから。
 つくりだしたいイメージ、におい、音、色……それらが雨のように心に注がれる。時に天気雨のように、時に豪雨のように。智理は差す傘もないまま、その雨の中に見えるものを手で描き起こす。雨による濁流に飲まれまいと踏ん張って、ずぶ濡れになって手をのばす。
 それが、自分の性だと思っていた。業、とも。誇らしかった。糸永瑞行のように生涯を捧げるのだろうと、疑わなかった。
 今は、その雨が何を自分に伝えたいのかも、自分がそこに何を見ているのかもわからない。わからないまま、形をなさない物体を描く。何も生み出せないよりはいいと。
 瑞行の寵愛した弟子としてしか見られなくても、傑作と言われる作品が生み出せなくても。智理は絵を描く行為が好きだ。
 瑞行が引き出した本能だ。理性の奥にある感情だ。
 しかし、糸永瑞行の今を目の当たりにした時、それはあやふやで不確かになった。
 もし、また自分が何かを描けたとして、瑞行がそれに何かを感じることはない。褒めてくれることも、ない。見返すことも、できない。

 怖い。
 一生拭えない苦悩を抱えていくことが。
 自分が、芸術も日本画も忘れてしまうかもしれないことが。
 智理は体を小さくする。悪い病に罹ったように、全身が破壊されるような痛みがする。
「智理さん」
 いつまでも濡れた服のまま横たわる智理の腕を、木村が掴んだ。
「いいからっ!」
 智理は全力でそれを振り解く。
 木村の顔を見ることができず、智理は畳に顔を押しつけた。
 木村の足音が離れていく。当然だ。それだけの拒絶をした。
 何も知らないであがってきて、優しく触れて、笑って……。
 妬ましい。
 それでも、はねつけたことが苦しくてたまらない。
 客間から土間への段差の木が鳴った。
 ああ、帰るんだな。そりゃそうだ。
 顔に跡がつくことも厭わず、智理は畳に顔を擦りつける。
 玄関で音がして……戻ってくる。
 伏せた視界に、光が灯った。
 それが、すぐに何かによって遮られる。
 智理は瞳を上げた。
 傘が、智理の上に広がっていた。

 幼き故郷の夕日とすすき、そして湖が、傘の骨のむこうに映る。
 木村は、手元を支えにして、傘を畳みの上に立たせた。視界いっぱいに広がる風景は、中学生の智理が何日も通って描いたものだ。放課後、自転車をこいで湖へ行き、真っ暗になるまでイーゼルを立てた。絵の具を混ぜて、筆を走らせ、自分の見た世界がそこに生まれることが何より楽しくて、夢中になった。帰宅が遅れて親に叱られたこともいい思い出だ。
「オレにはよくわからないけれど、雨はやむよ」
 夕日の向こうから、木村の声がした。
「また降るかもしれないけれど、でも、傘がある」
 何も知らない木村の言葉は、どこか無責任だと思う。それなのに、胸があたたかい。冷えて感覚のなくなった体に力がわいてくる。
 鼻の奥がツンとして、涙が流れた。
 夕日の赤をうまく表現するのに苦戦したこと、雲の形はうまくいったと自画自賛したこと、水面の質感に挑戦して試行錯誤したこと。
 ああ、好きだ。
 糸永瑞行や宮がいない時から、それが自分の世界にあった。
 智理は畳に放られていたタオルを手繰り寄せる。
 今日起きたこと、この二年で起きたこと、自分の半生で起きたこと。
 言葉や感情として一元化されない激流を吐き出すように、智理はタオルに顔を埋めて泣いた。
 木村の気配は、どこにもいかなかった。
 何も言わず、何もせず、ただそこに座っていた。
 茜の夕日が、そこにあった。ずっと、ずっと。

 嗚咽を漏らして体がカラカラになった頃に、木村が「あ」と悲鳴をあげる。
「やべ、お湯出しっぱなしだ」
 傘の向こうで、また忙しなく走る気配がする。
 木村が去ってから、智理はゆっくりと起き上がった。傘の世界から出れば、がらんとしたいつもの自宅がある。
 体にはりつく服が急に不快になって、智理はシャツを脱いだ。布地が重たくなるほど水を含んでいる。駅から自宅まで徒歩二十分の距離を、ずっと雨に打たれていたのだろう。ぺたぺたと肌に触れると自分でも冷えているとわかる。
 立ち上がり、ジーンズを皮膚から剥がしていく。重くまとわりつき、うまく足から離れない。ようやく自由になると、一気に解放感が押し寄せた。
 今まで纏っていた外殻を脱ぐ。羽化とは程遠い。けれど、世界は確かに色づいている。

 背後でガラス戸が揺れて、智理はそのまま振り返った。
 戻ってきた木村と目が合う。それはすぐに逸らされた。苦笑する。笑うのは木村の照れ隠しだ。
「何かつくるから、あったまってきたら?」
「そうする」
 智理は素直に頷き、濡れた服と着替えを手に廊下を歩いた。
 冷たい体の中で、心臓が脈打つのを自覚する。
 湯気のこもった風呂場に足を踏み入れると、智理は体の力が一気に抜けた。浴槽につかると、脱力して溺れてしまいそうになる。
 皮膚をあたたかさが包み、空洞だった体の中がエネルギーで満たされていく。
 自分と世界がダイレクトに触れあっている。

 智理が風呂からあがると、木村は冷蔵庫にあるものでつくったらしい味噌汁と小鉢を食卓に準備していた。
 具材や味付けから手慣れていることがわかり、智理は小さな苛立ちをおぼえる。それならば、いつも当てにするばかりではなく、つくってくれてもよかったのに、と。
「美味いっしょ」
 木村が自慢げに訊ねてくるので、智理は味噌汁を啜って答える。
「美味いよ」
 率直に褒めると、木村は鼻の頭を掻いた。「いただきます」と「ごちそうさま」と「美味かった」のお返しだ。
 ふと、雨の音が聞こえないことに気付いた。
 雨戸の向こうでは、今日も降っているだろう。
 それでも、この家の、この食卓では、聞こえなくてもいい。

(続)

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