【BL連載】雨だれに傘を差す07

   07

「智理が来なくなってからかなあ」
 尚枝は前を見据えたまま、世間話のようなトーンで話し始めた。
 喋ると動く薄い頬を見て、智理はシートベルトに指を引っかける。
「お父さん、元気なくなっちゃって。孫みたいなものだから、しょうがないかなって思ってたんだけど、ちょっと長く引きずりすぎておかしいなって。それで病院の検査受けたら、認知症って」
 スコン、と側頭部を強い力が殴った。視界が点滅し、直前に聞いた単語が抜け落ちる。
 ――なんて?
 全身が内側から揺れて、吐き気がした。それなのに生唾が出るどころか、口の中はパサパサに乾燥する。
 智理は、永遠に時間が止まってほしいと思った。この先に進みたくない。蒸し暑い夜の悪夢なのではないか、と狂いそうな心を慰める。
 ちら、と尚枝が智理を一瞥した。
 何てことを言うんだ、と智理は尚枝を恨めしく睨む。たちの悪いイタズラだ、自分が困っているところが見たいのか、とさえ思い、憤った。
 違う、そんなわけがない。
 つながる。瑞行がここまで出てこないことも、尚枝がこれだけ疲弊していることも、智理に手伝ってほしいと依頼がきたことも。
 様々な要因が、これは事実だと語る。
 嘘だ。
 客観的に推測できても、智理の心は叫んだ。事実のはずがない。
 自分が人を唸らせる作品を描けなくても、何もつくりだせなくても、瑞行は変わらず巨匠と呼ばれるにふさわしい画を生み出し続けている。
 それが、智理の疑うはずもない未来だった。
 愕然と口を開いた智理を見て、尚枝は小さく息を吐いた。
「もっと早く言ってあげたかったんだけど、言おう言おうとしてる間にコラボで忙しい大事な時期になって、なかなか、ね」
 尚枝がすまなそうに眉間に力を入れる。
 そこに孤独と委縮をおぼえる。おぼえて、すぐに忘れた。
 もう心はいっぱいで、溢れて零れるばかりだった。

 車は四階建ての小さなビルの駐車場に入った。
 尚枝について降りる。入り口の脇には『つばきの家』と彫られた銀色のプレートが掲げられていた。
「智理」
 入り口の前で尚枝が立ち止まり、振り返った。智理の顔を確認して、薄い眉がぐにゃりと曲がる。
「大丈夫?」
 浅い息を飲みこんで、智理は首を縦に振った。
 無言であることが無理をしているようで、
「はい」
 と、強引に声を引きずり出す。
 正直なことを言うと、踵を返して逃げだしたかった。辛苦しか出てこないことを知っていて、地獄の蓋を開けたくなどない。
 しかし、ここで帰って瑞行の姿を見ないことの方が怖い。不確かな想像は肥大化し、やがて智理の心を食い潰すだろう。
 蒸し返す空気に、じわりと汗が滲んだ。指の先までやけに神経が冴える。そのくせ、体の内部は空洞であるかのように空虚な感覚で満たされた。

 入り口で靴を脱ぎ、尚枝は受付の紙に名前を書く。
 看護師が「こんにちは」と近づいてきたので、智理はわずかに後ずさった。
「こんにちは、糸永さん。息子さん?」
「父が晩年とってた弟子の子なの」
 あらあら、と呑気な笑みを浮かべて、看護師が智理を見つめる。
 気持ち悪い。
 智理は会釈するふりをして、顔を伏せた。
 尚枝は慣れた様子で奥へ進み、エレベータのボタンを押す。
 ふわり、と病棟独特のにおいがした。悪臭ではないのに、背筋が冷えるにおい。そこに死を見て、智理の胸はざわつく。
 三階でエレベータを降り、尚枝は看護師に挨拶をしながら個室が続く廊下を歩いた。
 どくどく、と智理の耳の傍で心臓の音が聞こえる。
 半開きになった戸を引き、尚枝が一室に入っていく。智理は息が詰まる中、扉脇の名札を見つめた。『糸永瑞行(いとながみずゆき)』とある。

 尚枝に続いて布のカーテンを抜けると、八畳ほどの洋室が現れた。電動ベッドとサイドテーブル、椅子が一脚ある。
 胸が、背中が、手足が、目元が、鼻が、喉が、全身が痛い。
「お父さん、今日はお風呂入れてもらったんだって?」
 尚枝の声が皮膚に食いこむ。
「そう、入れてもらった」
 電動ベッドに横になっているのは――誰だ?
 智理の理性はすぐに自身を否定した。
 あれは、先生だ。痩せ細って人相が変わっていても、見間違えるはずがない。感情が高ぶり、目頭にじわりと涙が滲む。
 それでも、誰だと問いたかった。糸永瑞行だということを、否定したかった。
 カーテンの傍に立ちすくんだまま、智理の足は前に進まない。ダメだ、進め。進め。筋肉を動かそうと意識を向けても、足は一分も動かなかった。
 どこか虚ろな目が、智理を認める。冗談のように、智理は体が跳ねた。

「ほら、今日は智理が来てくれたんだよ。お父さん自慢の弟子だものね」
 尚枝が紹介しても、瑞行は要領を得ないとばかりにぽかんと智理を見つめる。一文字に結ばれた口がもごもごと動くたびに、智理は心臓が破れる錯覚に陥った。
 何か言ってほしい。「智理、元気にしてたか」そう声を掛けてほしい。
 何も言わないでほしい。落胆し絶望する言葉を、先生の声で紡がないでほしい。
 お願いだから。
「そうか……思い出せんなあ」
 ぼんやりと瑞行が呟いた。
 智理の視界から、色がなくなる。
 全身を透明の殻が覆うように、五感が世界から切り離された。さなぎの中から外界を覗くように、二、三歩の距離が月との距離と同等になる。
 雨の音だけが、耳の中で響いていた。
「ほら、この写真。お父さんの古希のお祝いの。これが智理だよ」
 すぐそこで話す尚枝の声が、壁を隔てたようにくぐもる。
 尚枝はサイドテーブルに飾られた写真立てを持ってきて、瑞行に智理のことを説明した。
 そのこもった声が、智理の殻の中で反響する。何度も、何度も追い打ちをかける。
「ほう、これがあんたか」
 瑞行は写真にうつる智理を指し、その指先を立ち尽くしている智理へ向けた。ペンを、筆を、顔料を持つ指。智理に触れた、すべらかな手だ。
 瑞行の色の薄い瞳が、智理を茫洋と見上げる。水の膜が張った目は、つくりものの人形のようだった。そこに智理への感情はこもっていない。何も、こもっていない。
「そうなんか。ほお、これが、あんた」
 智理の喉がふるえた。叫びだしたい気持ちを必死に抑え、歯の隙間から漏れそうな嗚咽を飲みこむ。
 自分の気持ちを吐き出して、それが何にもならないと知っている。ただ、尚枝を、看護師たちを、瑞行を混乱させ、傷つけるだけだ。理性を総動員して、智理はわななく唇を噛みしめた。
 瑞行が手にしていた写真立てを放り、ベッドへ身を沈めた。
「お父さん? もう疲れちゃった?」
「疲れた。寝る」
 智理の方を見もしないで、瑞行は蹲る。体力が切れて瞬時に眠ってしまう幼児そのものだった。
「そう? せっかく智理来てくれたのに」
 口では呆れながら、尚枝は足元の毛布を瑞行の肩まで引き上げた。
 瑞行は子どものように毛布を握りしめて目を瞑る。
 すぐに小さな寝息が聞こえてきた。

「……すごく大変だけど、どこかで安心してるんだ」
 爪先まで覆うように毛布を直しながら、尚枝は感情が希薄な声で呟いた。智理は何か返答しなくてはと手の先で思うが、頭は回転しようとしない。
「ああ、解放されるんだ、って」
 動かない脳で、残酷だと思った。娘にそう白状された瑞行に同情した。尚枝に憤慨した。
 しかし、常に屋敷にいた尚枝には、何十年と瑞行と生活をしてきた尚枝には、言う権利があるかもしれない。
 縁の赤い尚枝の目が、智理に視線を送る。
「智理も」
 ――俺も?
 何を言っているんだ、と智理は瞬きをくり返す。
 これが『解放された』というのだろうか。そんな馬鹿なことをのたまうのか。
 肌に巻きつく蔓のように、親子を結ぶへその緒のように、瑞行という人は智理から離れることはない。望もうと、望まぬとも。
 肌の傍を覆う、もう一つの皮膚になって、そこにいた。

(続)

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