【BL連載】雨だれに傘を差す03
03
スーパーストアのカゴを手に取り、智理は買い物リストを確認しようとスマホを叩く。
スリープを解除すると、母からショートメールが入っていた。
『もう描かないなら、あの家売ろうかと思うんだけど、どう?』
まず脳を支配したのが怒り。その後、すぐに悲しさに取って代わった。
両親にとって、描かない自分に価値はないのだ。少なくとも、あの土地代に勝るだけの価値は。
幼い頃から、両親は智理の道を熱心にサポートしてくれた。時間も金も投資した。道具もそろえたし、一人暮らしがしたいと言えば家も与えた。ずっと地続きで支援してきたからだろうか。二十六歳になる智理の生活に、まるで小学生にするように干渉したがる。
智理のことを金を生む機械だとか、自慢するための手札だとか、そう思っているわけではないことは知っている。しかし、息子に対しての愛情は、画家への愛情の前では霞む。子どもとして見ているのか、それとも自分たちが生み出した才能として見ているのか、智理にはわからない。混在しつつ、とても歪に両親は智理を慈しんでいる気がする。
特に母にとっては『描く』か『描かない』かでしかなく、そこに両義的な苦悩や葛藤があることが理解できないようだった。描きたいけど描けない、描きたくないけど描いてしまう、そんな気持ちの機微にいつも首を捻っていた。
返事ができないまま、智理はショートメールのアプリを閉じた。
尚枝へのメールも五日ほど返していない。
受けるにしろ受けないにしろ、早く答えなくては迷惑がかかる。それは重々承知している。
しかし、なんて言えばいいのかが出てこない。わき起こる自分の感情の前に、喉は動くのをやめる。先送りにしてしまう。
沈んだ面持ちで、智理は鶏肉のパックを手に掴んだ。
蒸し暑さにあまり肉が食べたい気分ではないが、少し入れないと文句が飛んでくるだろう。肉と濃い味の料理が好きだ。舌が子どもなのだ。
料理は得意ではないが、一人で暮らし始めて食生活が荒れてからは気に掛けるようにしている。正直負荷が大きいが、放っておくと一日二日食べないことがあるため義務として料理し、食事する。
生活の全てが作業だった。生きるためにこなすノルマ。
それが、この何日かで小さく変化した。
夏野菜をカゴに入れ、まだピークを迎える前のレジにすべりこむ。高校生らしき少年が、スーパーの制服を着てスタッフとして立っている。智理が来たことで、彼はリズミカルにレジ台を叩いていた指をとめた。
音楽をやっているんだろうか、と智理は推測する。アルバイトの規定内の落ち着いた髪色で、アクセサリーはつけていない。最近の音楽少年はあまり派手な身なりではないのかもしれない。
ピッ、ピッとバーコードを読んでいく動作もどこかビートを感じる。
心に染みこんだ好きなもの。それに頭も体もつき動かされているようで、智理は目をすがめた。
勝手に想像して、勝手にセンチメンタルを感じることこそ、自分への鏡だ。
チノパンのポケットにしまっていたスマホがふるえた。
『六時に会社出る』
短いメッセージに、自然と顔がほころぶのがわかる。
真っ当な人間として生きているようで、視界が甘やかに彩りを与えた。
ガラガラ、と引き戸が開く音がして、智理は顔を上げた。
台所の壁にかけた時計へと振り向く。八時過ぎ。時間通りだ。
一応は顔を出すか、と智理が台所から土間を通って玄関を覗くと、スーツ姿の木村が傘を畳んでいるところだった。
「ばんはー。はあ~、腹減った」
躊躇いなく土間で靴を脱ぎ、あがってくる木村に、智理は形ばかり眉をしかめる。
ゴミ捨て場で会った日に、木村は智理に連絡を入れてきた。最初は社交辞令の挨拶程度。それが、次の日には夕飯を食べに家に来て、連絡手段は会社のメールからメッセージアプリへ。この一週間弱、ほぼ毎日智理の家で夕飯を食べている。
コンビニ飯だと言うから、家も近いし食べに来たら、と告げたのがいけなかったか、と智理は台所に戻って、鍋のラタトゥイユを椀へよそった。
「? どしたの、智理さん」
鞄を茶の間の端に置き、ネクタイを外した木村が土間の縁から智理の仏頂面を覗きこんだ。
「……一週間でこうも慣れるか? 遠慮しろよ、もっと」
最初の夕飯が週末だったので、缶ビールで乾杯した。会社のことやコラボ企画のことを話しながら、次第にお互いのプライベートに触れ、同い年だと判明してから木村はさらに人懐こくなった。乾杯した次の日には『雨谷先生』から『智理さん』へ変わった。
「したじゃないすか」
茶の間から木村が身をのりだして、智理から盆を受け取る。
まるで毎日のことのように、木村は盆から智理が準備した夕飯を食卓に並べた。
「食費入れることは、な。考えること他にあるだろ、他に」
夕飯の食費を払うとすぐに言いだしたところに、智理は木村の生真面目さを感じる。それが好ましいとも思う。
だからというわけではないが、それから木村は我が家とばかりに入ってきた。夕飯があるものとして帰宅連絡を送信してくる。
都心の会社から特急を使って片道二時間弱。智理もその時間配分がなじんでしまった。
ほとんど使われていなかった茶の間のテレビは毎日電源が入れられた。他愛もないバラエティー番組に茶々を入れながら二人で観て、智理が埃をかぶらせていたゲーム機のソフトを持ってきたと言うので、二人で遊んだ。
木村は食卓を整えて、智理の座椅子の対面に座布団をセットする。
「お、なんだっけ、これ。……ラタトゥイユ!」
「……明日はカレーな」
「二日目は味がしみて美味いもんなあ」
向かい合って座ると、木村は手を合わせた。
「いただきます」
律儀に声に出して、頭を下げる。
すぐに距離を詰める。訝しんでしまうほど、素早く。頼って。甘えて。
智理は呆れながら、木村の世話を焼いてしまう。
それなのに、食費を払い、「いただきます」と「ごちそうさま」と「美味かった」は絶対に外さない。必ず洗い物とテーブルの片づけをしていく。
はふはふと料理を頬張る木村を見つめながら、智理は野菜を噛みしめた。
まるで人らしい生活をしたのは、いつ以来だろうか。誰かと食事をともにし、日常のことを報告しあうのは。
木村と過ごしていると、ここにいてもいい、と言ってくれているようだった。自信を持って頷き、感謝し、詫び、またなと笑って帰っていく。
自分もこうなれると、錯覚してしまう。
それが智理には、眩しい。そして、たまらなく妬ましい。
(続)
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