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【コミュニティデザイン】勇気と覚悟は断じて否、同義語ではない【覚悟とは領域展開である】


  • この記事は『ジェイラボ』のメインコミュニティメンバー(研究員)のために書いたものですが、外部の方(潜在的メンバー)にも読んでいただけるよう敢えて公開してあります。


 以下は、僕が運営するコミュニティ『ジェイラボ』内での個人情報の取扱いについて、メンバーにアンケートを取って多少の意見をいただいた結果をもとに、僕自身の意図をメンバーに説明するために書いた文章である。外部の方には一部伝わらない箇所もあると思われるが、あくまでのぞき見と割りきってご了承いただきたい。

1. 覚悟なきジェイラボの始まり

ジェイラボはそもそもの始まりからオンラインコミュニティとしては異例だった。まず、僕は有名人ではない。そして、そんな名もなき人間の理念(言葉)のみによって参加する人間が繋ぎ止められてゆく奇妙な場所。コミュニティを大きくするためのあらゆる手法を無視して(否定ではなく無視したので部分的にマーケティングに適った要素はあったかもしれないが頓着していない)ただ自分の信念のままに動かしてきた。

当初から、明らかな参入障壁になることがわかっていながら、僕という無名の人間と顔出しでビデオ面談することを一部の活動への参加資格として義務付けた。それは、非対称性の排除が活動のテーマに含まれていたからだ。最初期から、いずれこのコミュニティではリアル情報を完全オープンにするつもりであった。非対称性を除くにはそれしかない。ただ皆がありのままでいることを実現するには、皆が意思を持った生身の参加者である、すなわち皆の「顔が見える」ことが必須だった。一番初めの年は、一回だけ1,000円程度支払えば他に大した義務もなく一年間ずっと参加できる形にしていた。極めて緩い参加障壁にすることで、無名な人間のコミュニティなりに何とか人を集めた。しかし、その当時からいまもずっと参加し続けてくれている人はほんのひと握りである。ほとんどの人が消えていった。理由は簡単で、ジェイラボという活動への覚悟がなかったからである。(もし当時のメンバーでこれを読んでいる人がいるなら、覚悟を決め直してまた帰ってくるのはどうだろう笑 あの頃ともはや環境は全く変わった。僕はずっと君を待っている)

2. 勇気と覚悟

覚悟という言葉は人によって意味の振れ幅が大きい。このコミュニティを三年ほど回してきて、これほどまでに意図が伝わらない単語は、僕が勝手に作った言葉(無名性など)を除けば、他にない。

上の記事中にて、「覚悟とは出口が見つからない可能性を受け入れることである」と述べた。「どこに逃げも隠れもしない」という表現も用いた。それでも、まだ伝わっていない可能性を感じたので、改めてより具体的に覚悟とは何であるかを説明して伝えたいと思う。いつも僕の説明は抽象的で実践しづらいと言われるので、たまには噛み砕いてみた。これでわからないと言われたらなかなか困ってしまう。なお、本質的な意味は全て同じ源泉につながっているが、説明によって見え方は変わるかもしれない。わかりやすい解釈を採用してもらって良い。では、改めて考えてみよう。

覚悟とは何を指しているか。

勇気との比較から入ってみる。覚悟があれば、恐怖に飛び込むために勇気を振り絞ることができるのか。否。全く違う。覚悟があれば、恐怖に飛び込む際にそもそも勇気が要らなくなるのだ。僕は、ジョジョラーということもあり、勇気という言葉をとてもよく使う。本当の未知にぶつかってそこに飛び込むには、絶対に勇気が必要だ。

『ジョジョの奇妙な冒険第1部』3巻より

人間は恐怖を知っている。人間は勇気なくして真の恐怖を克服することなど絶対にできない。ただ「逃げちゃダメだ」などと突然いくら唱えてもゼロから勇気を絞り出すことなどできない。勇気の有無は、後天的な訓練もできるのかもしれないが、僕の経験上、ほとんどは生まれ持った才能によるものと感じる。真の恐怖とは、想定外で予想もつかない未知なるものから生まれる。勇気とは言い換えれば既知を飛び越える想像力のことだ。恐怖を振りきって飛び込んだ結果に想像力が及ぶからこそ、その未知という恐怖に飛び込めるのだ。想像力で先回りすることで、可能性の中で未知を既知に引きずり落とす。そうすれば怖くなくなるという道理である。可能性を検討せず(恐怖を感じず)ただ闇雲に突っ込むノミのごとき蛮勇は勇気ではない。ツェペリさんもそう言っている。

そして、ほとんどの人は全くの未知(未体験)に対して、およそまともな想像力が及ばない。想像力とは可能的な未来を感知するある種の超能力みたいなものと僕はとらえている。世の中には、ほぼ想像力の欠如している人間しかいないからだ。想像力など、統計的には存在しない力とさえ言えるのかもしれない。そんな超能力をもって未来を想像できるからこそ、勇者は恐怖にも打ち勝てるのである。はたして勇者を訓練で作り出せるのか、僕にはわからないが、別に僕は勇者養成所を運営しているわけではない。異世界に勇者を送り込むのは僕の仕事ではない。ジェイラボで必須なのは、勇気ではなく覚悟である。

先ほど、覚悟とは恐怖に飛び込む勇気を不要にするものと述べたが、意味が伝わっているだろうか。おそらく、ほとんどの方にとって覚悟と勇気は同義語なのではないか。しかし、僕はそれぞれの意味を全く異なる心理段階に割り当てている。「覚悟を決める」とは言うが、「勇気を決める」とは言わない。つまり、勇気は意志によって簡単に決められる心の在り方を超えているということだ。しかし、覚悟は、その気になれば誰にでも決められる。そこが決定的に違う。覚悟とは、自分で展開した領域内での事柄に対して、以後いちいち勇気を振り絞らなくても行動できるようにする「縛り」のことである。すなわち、一定対象の既知事項に対して「これは怖くない、大丈夫」という刷り込みを事前準備として行なっておくことで、勇気なんて大層なものに頼らずとも、以後いちいちビビる状況をなくすこと、これが覚悟を決めるということである。

『ジョジョの奇妙な冒険第5部』7巻より

覚悟という言葉について、曖昧な使用をしていた人が多かったのではないだろうか。覚悟とは経験と準備に基づくものである。だから、覚悟が決まっていれば、事前準備の段階で心の中で思ったことはすでに行動は終わっていると、もちろん言えるのである。僕は明確にこの意味で「覚悟」という言葉を使う。もちろん、そう覚悟を決めている。

『ジョジョの奇妙な冒険第5部』7巻より

上の一連のコマの初まりで瀕死のプロシュート兄貴を行動させている源泉は勇気ではない。自分が死ぬことまで事前準備で想定していたからこそブレないのだ。そう、これは明確な人生経験に基づく覚悟である。そして、それを見たペッシがギャングとして行動を起こせるようになったのは覚悟という「縛り」を一時的に受け入れたからである。それまでのペッシは覚悟として事前に想定する領域を、まるで持っていなかったのだろう。あらゆるわずかな恐怖にビビり倒していたペッシが、兄貴が今にも死ぬという「経験」から、覚悟を得て生まれ変わる。もっとも、作中ではその後、人生はそう甘くないことが描かれるのだが……。

生まれつき、能力として勇気を持った子供は確かにいるだろう。しかし、覚悟を決めるとは経験のみによって為せる一種の技術であり、経験の乏しい子供に真似できることではない。だから、皆さんがもしいま僕が伝えようとしている「覚悟」の意味をこれまで認識せずに生きてきたのだとしたら、このペッシのように簡単に「心」で理解できたと思わないで欲しい。きっと足元をすくわれる。覚悟とは心の強さではなくカバーする領域の広さのことである。プロシュート兄貴の覚悟領域は自分の死すらカバーしていた。つまり、事前にどれだけのことに対して心の準備をしているかが覚悟の強さのことなのだ。覚悟が究極まで到達すればあらゆる物事に一切動じなくなるだろう。当然、逃げも隠れもする必要もなくなる。ともかく、カバーする領域の広さ、準備の量が頼みの綱になるゆえ、覚悟を身につけるのに何より必要なのは「心」の在り方ではなく「経験」と「時間」の絶対量なのだ。

それは僕も初めからわかっていた。だから、時間経過とともにメンバーには、いま僕が定義した意味での覚悟も少しずつ固まっていくだろうと考えていたし、ジェイラボ自体もそうした覚悟を育てるデザインのコミュニティにしようと、これまでも少しずつ工夫してきた。

3. 現在のジェイラボ

現在、ジェイラボは複数のレイヤーから構成されており、最もユルいレイヤー(『箱舟』と名付けたDiscordサーバー)は完全に匿名空間にしている。そこでは、むしろオフラインでの交流を禁止している。禁止したところで勝手に交流されたら止めようはないが、少なくとも公式に運営が絡まないメンバー同士の勝手なオフライン交流は推奨していない。覚悟(縛り)のない人間同士が交流してもロクなことにはならないからだ。

そこから一歩中に入ってもらうとメインのコミュニティ空間として『ジェイラボ0ちゃんねる』というSlackのサーバーを準備している。このレイヤーに参加するには、ちょっぴりだけ追加での経済的負担が発生する。それが一応の「ふるい」にはなっている。

さらに一歩踏み込むと、ジェイラボ内の部活動を行なうための『D号棟』と呼んでいるDiscordサーバーが準備してある。部活動とは、一定の専門性を共有した者同士が自由に活動し、それを一定期間ごとにアウトプットするという名目の活動である。この活動に参加するには、いまの方針では僕との一対一のビデオ面談が必要ということになっている。これは、冒頭で述べた通り、コミュニティを始めた黎明期にできるだけメンバーの顔が見える空間を作りたい、そのためのメンバーの覚悟を引き出したい、そういう意図であった。

先にはっきり言っておくが、覚悟を問うために試される何らかの行動、負荷というのは、それ自体は実はどうでもよく、そこで線を引くこと、つまり縛りという覚悟を引き出すことだけが目的である。

4. 顔と名前は死守すべき個人情報か

ここからは、ジェイラボ内での個人情報の取り扱いの話に入ろう。

今期は、ジェイラボ内のメンバーの個人情報の取り扱いとしては、メインのコミュニティに参加してもらっている方のうち、学生の方はその会費を学割にするために学生証を提出してもらっていることだけである。社会人の方には何も求めていない。

僕は、今期の初めに、可能なら内部での活動内容を来期に向けた広報に利用しようと考えていたが、残念ながら現状そこまでは行き着かなかった。もちろん、それは全て、コミュニティをデザインしている僕の責任ではある。マーケティング手法を無視しているせいで非常にゆっくりとした足取りでしかジェイラボの進化は進まない。そして、今期のコミュニティデザインもまだ完成系に到達するには程遠かった。

結局のところ時間をかけるしかないのだが、人間の寿命には限りがある。進化の歩みが遅いなら遅いなりに、変えられるべき制度はその都度ちゃんと変えながら進めないと、この活動はあっという間にしぼんで消えるだろう。いま、一番手を入れるべきポイントは、参加メンバーのレイヤーデザインだと感じている。それも、一番深い部分のレイヤーをこのコミュニティのテーマである「家族」のレベルまで持っていくにはどうすれば良いかである。これには、おそらく皆さんが考えているのと「逆の発想」が必要である。順を追って説明する。

いま、僕がこのコミュニティ内の多くのメンバーに対して最も問題に感じていることは、恥をかこうが気にせず「自分を出す」という覚悟のなさである。それがないため、何か意見を投下しようと思っても、必然、初動が遅くなり、すぐに面倒臭くなり、段々足も遠のく。君が意見を投下できないのは、議論が難しいからでもないし、生来の面倒臭がり屋さんだからでもない。明確な覚悟がないからである。そして、それがないのは経験の絶対量が足りないからである。実際にリスクを負わずにリスクを負う経験などできるはずがない。バーチャルトレードで鍛えて実際のトレーダーになろうとするようなものである。あるいは、入試問題が解ければ人生の問題が解けると感じるようなものである。あまりに愚かで意味がない。

ジェイラボというコミュニティの活動はある種の「理念の実現」に向けたものであるゆえ、その最も深いレイヤーで活動していただくためには、どうしても理念を理解する一定のリテラシーは求められる。現在、僕の中ではつまりジェイラボの中では、資本主義そして能力主義的な世の中に対する答えを探すことがテーマになっている。そういう意味では、能力が不足しているからといってメンバーを追い出すようなことは能力主義を否定する理念に反するし、コミュニティ全体としては能力の有無に関係なく誰でも迎え入れられるようにはすべきと思う。しかし、ジェイラボの本質は「家族」である。ただ共にあるという感覚は冷やかし半分で参加してもらって済む概念ではない。一定の「ふるい」は要る。いまは理念を理解できる人間を優先して、とにかくコミュニティの雛形を固める段階である。

さて、以下の話は、予想以上にメンバーの反対を受けているのでまだ確定事項ではないが、僕は来期からSlackのメインコミュニティ内の人間同士の最低限のリアル情報(顔写真と実名)は内部で共有させたいと思っている。お互いの呼称自体はカタくなるので実名より愛称を推奨する。並行して、現在社会人に課していない身分証明書の運営への提出も全員の義務にしたいと考えている。普通に考えれば、これでめでたく新規の参加者がゼロになり、嗚呼ジェイラボは完全に終了する、そう感じるかもしれない。しかし、僕の意見は全く逆だ。

まず、現時点での活動の、特に大学生の活性が非常に低い。忙しいはずの社会人の方が発言してくれていたりするくらいである。これは、完全に覚悟のなさの問題である。しかし、リアル情報を共有したからといってそれが即覚悟を促すものでもないし、そんなことしなくても活動の中だけで十分覚悟を示せるのではないか。そう感じる人もいるだろう。当然である。僕もその可能性を多少なり感じたからこそ、今期「そのように」運営してきた。結果、現状、活性は高まらなかった。これは一体何が原因か。もちろん責任は全て僕にあるが、原因は何かということである。僕は手順を踏んで実験を続けてきた。だから、それでもなお「このまま放っておけばいつか良くなるだろう」という現状維持の安易な提案を継続するわけにはいかない。皆が互いのリアルを共有する新しい状況で活動した時に、それでどうなるかの対照実験が必要である。

そして、何より気になるのが、やはり一部のメンバーの個人情報に対するリスク意識である。先ほどからメンバーの意見を否定してしまう僕の意見を隠さず述べているが、どうか勘違いしないで欲しい。これは互いの想いを吐き出してぶつけ合う、いわば浄化に属する行為の一環であり、何ら特定のメンバーを責める意図などない。むしろ違う意見をきちんと伝えてくれたことに感謝している。いずれにせよ、育った環境の違う人間の意見が違うのは当たり前のことで、どう違うか、なぜ僕は違う考えを持っているのか、それを知って欲しいだけである。知った上でなお意見が変わらないなら、そのまま議論を続ければ良い。

話を戻そう。閉じたコミュニティ内の深いレイヤーに限定してなおリアル情報の共有に抵抗があり、運営(僕)に対してすらリアル情報を開示することに抵抗がある。単純な好奇心として、何故そこまでの恐怖を感じるのかが知りたい。僕には理解できない。

当たり前だが、いくらなんでも僕も顔写真と実名を共有さえすれば、即全メンバーが家族のように信頼しあえる、などと考えるほどめでたい頭はしていない。先に、おそらく皆さんとは「逆の発想」だと言ったのはここである。僕の中では、むしろ顔と実名の共有など、信頼関係の構築段階において最底辺の一番どうでもいい位置付けにある。こんなものはリアルなら初対面で交換する情報である。だから、一体何をそんなにリスクに感じるのか、僕には正直なところ、全く理解できない。「リスクがある」と世間から聞かされているから根拠もなくそう感じている人もいるのではないか。顔写真と実名が紐ついてネットに流れたとして、何がリスクなのか。そんなにも後ろめたい生き方をしているのか。

僕はビジネスの経験は偉そうに語れるほど豊富ではないが、ビジネスにおいて顔を見て名刺交換することは(状況や形態によって必須ではないだろうが直接顔をあわせて求められたならやるだろうというのは)当たり前のことである。だから、ジェイラボ内でも前線でビジネスに関わっている社会人メンバーのほとんどの方は、顔と実名の共有などにまるで頓着していない。個人で事業をされている方には若干抵抗感のある方がいるようではある。組織に守られていないからだろうか。しかし、問題はどちらかというと学生であろう。正体不明の脅迫的なリスク観念に追われ、リアル情報が流出することを極端に恐れている。ここでの活動の履歴がデジタルタトゥー化することを恐れているのだろうか。その恐怖の全ての原因は、情報を外部化することへの経験不足(による覚悟のなさ)にあると推察される。まあ、大げさに煽ったが、真面目な話、たとえば出会い系で自分の写真を勝手に使われる、犯罪目的の書類に勝手に写真と名前を使われるなど、一応悪用されるリスクはあるだろう。悪用されるリスクと悪用されることをひたすら恐怖し続けて生きるリスクと、どちらを取るかである。もちろんそれは生き方の問題であるから、僕は強要することはできない。しかしジェイラボという僕が作った空間の中で人生を共に歩むということを考えた時に、リアル情報の流出に極端に怯える人間と人生を共に歩みたいとは、僕にはやはり思えない。可能なら一緒に不足分の経験を積んで欲しい。きっとすぐにそんなもの気にならなくなる。

そして、重大なことを伝えるが、先ほども少し触れたが、そもそも顔写真と実名というリアル情報を内部で共有しておこうという提案は、それ自体が目的では全くないのだ。正直、顔写真と実名の共有を迫った時に即答で皆が「良いですよ」と言ってくれたなら、そこで話を止めて実際に共有するのはやめてすら構わなかった

そういうことなのだ。

ここでの覚悟とは、実際にリアル情報を共有することではなくリアル情報を共有したって別にどうでも良いと「思える」ことである。運営がメンバーの個人情報を預かるリスクという話も出ていたが、まあ一応ちゃんと管理してるとはいえ、正直個人情報と言っても顔と名前が一致するというだけの情報(顔と名前以外の詳細な住所や電話番号などの個人情報まで預かるつもりはない)が漏れて、何なのかという気持ちが強い。先ほども言ったが、そんなことはビジネスマンでは当たり前のことだし、大学生もそのうち社会人になれば同じ道をたどる。あるいは研究者にでもなれば、おそらく顔と名前はどこかの組織でデータベース化されるだろう。医者なんかになった日にはもう経歴は何もかも丸裸にされる。だから、顔と名前が割れることへの恐怖が僕には本当にわからないのだ。それは可能性を狭くするだけのものではないのか。僕は間違っているのだろうか。しかし、独断でいますぐジェイラボを潰すのもしのびないので、皆に納得いただける形を模索して意見交換は続けたい。

ジェイラボは、最終形態を「家族」にすることをテーマにしているくらいなので、バーチャルに閉じた空間を目指しているわけでは断じてない。来期コミュニティのどのレイヤーでどの程度リアルと紐つく活動をするかは確定していないが、永遠にリアルと紐つかないままジェイラボの活動が続くことは、絶対にない。いまは世の中がアレなせいでリアル活動が止まっているが、来期は可能ならリアル活動も始めたいと思っているし、仮に来期見送ってもリアル情報の紐付けはいずれ絶対に必要になることである。実験をしている責任者としては、ここで「待つ」理由がない。もしかすると、先の見えない「実験」に参加していること(僕はそんなことないと思っているが活動を他人に説明できないという意見が多い)自体がリスクなのだろうか。だからリアル情報を隠したいのだろうか。実はジェイラボに参加していることが恥ずかしいのだろうか。それは、なんというかもう、さすがに辞めていただいて、よくあるオンラインサロンやセミナーに鞍替えしてもらうしかないという結論になってしまう。

5. 新規参入の障壁問題

最後に、ハードルを高めると新規参入の障壁になることについて触れておくが、それはもちろん、死ぬほど理解している。しかし、現状ですらコミュニティ内の活性が想定に程遠いのに、このまま低いハードルで追加の人間を招き入れて何か変わるだろうか。あるいは、とんでもない爆発力を持つ逸材が奇跡的に見つかれば絶対変わらないとは言い切れないが、まあ普通に考えれば期待はできない。

それよりも、本来なら今期の活動を広報に活用できると想定した、その活性までもっていけなかったことを反省すべきだろう。参加障壁の高さで新規参入が一時的にほとんどなくなったとしても、内部的な活性をより確かなものにして外部に見せられるものにすること。それが、最もジェイラボの未来につながると、皆さんは感じないだろうか。いまテキトーな方策でテキトーに人を増やすことは、ここまでこの理念を引っ張ってきたことを考えると、それは理念の放棄となり、もはや未来につながらない。少々犠牲を払っても、まず内部の質を高めることが結果的に外部につながるのではないか。それが僕の判断である。

6. 最後に瑣末な話

おまけとして、メンバー向けに瑣末な現実的な話をしておくと、反対がまあまあ多かったので、たとえば顔写真については、サングラスやマスク、サイアク後ろ姿などを許容しても良いとは思う。でも、顔(の部分)を含んだ写真は、それ自体が目的ではなくとも、親近感の前段階(リアル情報を陳腐化する)として必要という僕の意見はなかなか譲りがたい。顔写真を誰かにばら撒かれることに怯える自分。そんなことを気にしない人間の集まりであって欲しい。仮に変な人間が入って来たとして(僕が今考えている来期の制度ではまず防げると思うが)、何の被害があるだろう。せいぜい自分の顔と名前がばら撒かれるだけである。むしろ、初めから自分でばら撒いておけば、なお安心かもしれない。誰かが、LINEなどでのリアルな友達とのSNSのやりとりにおいて、顔写真や実名をプロフィールにしている人は少ないとコメントしていた気がするが、それも当たり前である。明確にリアルを共有し、初めからお互いの顔も名前もよく知っているのだ。そんなもの、誰も興味がない。コミュニケーションとしては、知っている情報からちょっとひねるくらいがちょうど良いのは当然である。しかし、そうではなかった時、隠されてしまうと人は気にするものである。顔も名前も一切知らないと、無駄に気にしてしまう輩は必ず出てくる。多少なりプライバシーをやり取りする空間で、他人の個人情報を探る行為を「取り締まる」ことなど、僕はしたくない。顔と名前くらいさっさとばら撒いて、そんなものは全部陳腐化して、早く次の次元に駒を進めるのはどうだろうか。

いま考えている来期の細かい制度などの話はまたコミュニティ内で詰めて話そうと思うが、とりあえず顔と実名の共有について、今の段階でアンケートを取った僕の意図だけ、まずは伝えておく。

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