退屈の一歩手前

長所:何についても問題を感じないところ 好き:わんこ にゃんこ 銀閣寺 毛布 ウォンバ…

退屈の一歩手前

長所:何についても問題を感じないところ 好き:わんこ にゃんこ 銀閣寺 毛布 ウォンバット 地球46億周年

最近の記事

久しぶりに振り返った

久しぶりにnoteを開いた。 そして自分の過去のブログを読んでみた。 そうしたら面白かった。 こういう話しを面白いと思ってくれる人が10人くらい見つかったら良いな、という思いもあってブログを書いたのだが、あまり読まれていない。 であれば、 ① 閲覧数の多いブログを読んで参考にする ② note自体が提供している「ブログの書き方ポイント」みたいな記事があったからそれをまず見てみる ③ 今盛り上がっている単語を入れてブログを書く ④ 個別に「ブログ見てください」とお願いして周

    • 今日も一日何もなかった

      ひさしぶりに書こうと思う。 昨日・今日とnoteの記事を色々と見てみた。 全体として「生きづらさもあるけれども、今日も楽しいことを感じて生きています」という風な内容のものが多かった。 「楽しいこと」のバリエーションは広く、 音楽、ゲーム、イベント、本、知り合い、景色、新たな気付き・・・など。 確かに楽しいことを求め感じるのは良いことと思うのだが、 一方で「何も無い良さ」もある気がした。 「今日も一日、何も感じることがなく、良い一日でした」みたいなnoteはないのだろ

      • 思ってるだけじゃ

        「思ってるだけじゃ伝わらない」というフレーズがある。 「伝わる事が良い事だ」とは言っていないし、「言葉にすれば伝わる」とも言っていないが、この2点が暗に含まれているケースが多い。 これについては疑問があって、まずわかりやすいところから述べると 「思ってるだけでもその人の雰囲気とか、仕草とか、そういうもので伝わることもあるよね」というものだ。 まあこの点については賛同する人も多いだろうから、ここでは取り上げない。 私が不思議に思う1点目は「伝わった方が良い」という考え方だ

        • パラリンピックへの期待

          パラリンピックって、今までオリンピックの付録みたいなイメージでしたが、今後は期待できるコンテンツなのではないかと思った。 理由は ・本家オリンピックは20世紀から続く、超競争志向・超商業志向・超エリート志向・ブラック志向であり、令和時代にフィットしなくなってきていると感じる。 ・一方パラリンピックは、競技自体が新鮮であるし、いろいろなツールを使う点はコンピューターゲームに通ずる工夫の面白みがある。 ・超エリートのオリンピックプレイヤーに比べ、各プレイヤーのドラマが老若男女に

        久しぶりに振り返った

          空白のほう

          今日のnoteに書いた「幹を眺めるひととき」を体験をしてからというもの、何かあらたな感触が宿ったようだ。 それが何かを探っていて(私はこうして自分のなんとも言えない感触を探ることは好きだ)、「空白のほうを見ること」だと思った。 例えば、漫画で人物が1人描かれているとして、その人物の描かれていない空白を見て、感じるということ。 例えば、自分についても、自分本体ではなく、その周りにある部屋の壁でもなく、そのあいだの空白、そこに漂う空気感というか、季節感というか、そういうもの

          幹を眺めるひととき

          さきほど、踏切で電車を待つことになったとき、ふいに訪れたひととき。 さいしょは、日陰があるので、桜の木の陰に入った。 電車がこないので、桜の幹を見ていた。 そうしたら、蟻が幹を伝っていった。 それを見ていると、幹も見れるようになった。 電車はこないけれども、ひとときだな、と思った。 踏切を渡ったあとのひとときと同じ価値のあるひとときだなと思った。 そこに静けさと、自然と、自分と、夏と、幹の筋を、感じた。 そして、何故このような感触になれる自分なのか、不思議に思

          幹を眺めるひととき

          やりたいことのある人はごく一部が自然

          「やりたいことをやろう!」「やりたいことがみつからない」という言葉をよく聞く。 人類を一つの集団と見た場合、ごく一部の人間がイニシアチブをとり、他の多くの人間がそれに従う、という構図がチームプレイとしては合理的だと思う。 現在の人類の動きを見ていると、そのような構成になっていると思う。 従って「やりたいことがなく、ただなんとなく動く烏合の衆」が大半を占めるのは自然なことだと思うし、合理的な状態だと思う。 しかし、冒頭の「やりたいこと云々」のムーブメントはどうしたものだろ

          やりたいことのある人はごく一部が自然

          誰か僕に教えてください

          今日は進化心理学というジャンルを気に入って、いくつか本を読んだ。 他に良い本がないか検索していたところ、いろいろな本のタイトルから 「事実がだいじ」という感触を受けた。 いままでも「○○は事実です」とか「△△というエビデンスがあります」といった、「客観的、科学的、がだいじ」という価値観はよく見かけていた。 「まあそういう派閥もあるのかな」という風には思うのだが、本のタイトル群から感じられるムードとして、何か一大ムーブメントというか「客観的、科学的、がだいじなのは当然」とい

          誰か僕に教えてください

          また、今を生きた

          さきほど「今を生きるヒントを忘れた」という投稿をした。 その後コーヒーを淹れて、忘れたことを思い出そうとしたが、思い出せていない。 ただ、そのかわりに「そういえば、三日くらい前から『これは夏がきた感じする』『ああこの空気の感じ、夏だな』という時々があった。こういうのが『今を生きる』ということかも」と思った。 もしそうなら、そういうふうに説明してくれる本なり記事なり、あったらよかったのに、と思う。 それなりに「今を生きる」について調べたつもりだったが、「呼吸を感じる」と

          また、今を生きた

          今を生きる=忘れてしまうね説

          「今を生きる」という姿勢がある。 第一回にとりあげた「空(くう)」とは別に、こちらも「今を生きるってスゴイ勢」というか、「今を生きる」を究極のメンタル姿勢としているむきもある。 私もそれを頭で理解しようとしたり、体で実感しようとしたり、したのだが、何かよくわからなかった。 おそらく「今」という概念が、自分の感触に落とし込めない点が問題なのだろうと思う。 「『1』ってなんですか?」「『何』ってどういう意味ですか?」のようにあらためて意識すると何かよくわからなくなるものが

          今を生きる=忘れてしまうね説

          投稿をはじめて一週間

          投稿をはじめて一週間が経った。 意外と続けていられることを嬉しく思います。 これもnoteの快適な操作感にささえられています。 そして読んでくださる方もいて、ありがとうございます。 見てくださると、大変励みになります。 以上

          投稿をはじめて一週間

          運命に身を任せる

          「運命に身を任せる」という姿勢がある。 私は「空気に気持ちを任せるようにすると、その時々を爽やかに過ごせる」という感触を持っている。 空気といっても、なにもないという感覚ではなく、そこにある空気とともに居る、という感覚である。 「運命に身を任せる」という姿勢もこれと似ているのだろうか。 Wikipediaを参照してみると・・・ 「運命:人間の意志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと」 とあ

          運命に身を任せる

          メロンパンを食べるか

          暇なのでメロンパンでも食べようと思ったところだ。 しかしメロンパンを食べるのはすぐに終わってしまうし、なにより不健康な食の癖をつけてしまう気がする。 もちろん週1度とか、そういう制御ができればよいのだろうが、そういう方向に踏み出すと、明日は他のお菓子を食べて言い訳をしたりと、良くない習慣に傾くと思う。 なのでこうして文章をかけば、メロンパンを食べることとは別の少しは良い方向に昇華できるのはないか、と思い文章を書いている。 そもそもメロンパンを食べたのは随分前な気がする

          メロンパンを食べるか

          暇なことと忙しいこと

          「暇であると余計なことを考えてしまうから、忙しい方が良い」という考え方がある。 たしかに暇であると、だらだらとした生産的でない思考になるし、つい余計なお菓子を食べて続けてしまったり、気持ちが何やらわだかまったりするので、そういう風にも思える。 しかし忙しい状況になると、余計なことの思考は減るが、知らないうちにお菓子を全て食べてしまい、さらにご飯も早食いかつ大量に食べてしまうとか、気持ちも緊張が抜けなかったり、何か焦げたような疲れた気持ちになったりする。 これらの実感を振

          暇なことと忙しいこと

          暇だから悩むというより

          「悩んでも解決しないなら、『解決しない』ということだから、それ以上悩まない!」というメッセージの動画を見た。 それはそれで勉強になったが、私自身について検証してみると、『悩む』というよりも『暇だから、嫌なことを嫌と感じることで時間を費やしている』という感触だ。 もちろん私自身としても、嫌なことを嫌と感じて時間を費やすよりも、何かもっと気分の良いことに費やしたい。 たとえばこうして文章を書いているのもその対策だ。 いまはこうして文章を書くということを発見し、またそれに着手

          暇だから悩むというより

          noteをはじめて書いてみて

          さきほどはじめての投稿をした。 これが意外にも良い感触だったので、またすぐ文章を書いている。 いままで「アウトプットは正義」みたいなタイトルを見かけても、私にはそれがよくわからなかった。 しかし、今こうしてアウトプットしてみると、意外にもスッキリ感がある。 頭の中が少し整うような感触。 そして、次は何を書こうかといった楽しみが感じられる。 こうして文章を書いているところを見ると、今のところ良い選択だった気がする。 これが3日くらいで飽きてしまうか、暫く続くか、どちらだ

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