今を生きる=忘れてしまうね説

「今を生きる」という姿勢がある。

第一回にとりあげた「空(くう)」とは別に、こちらも「今を生きるってスゴイ勢」というか、「今を生きる」を究極のメンタル姿勢としているむきもある。

私もそれを頭で理解しようとしたり、体で実感しようとしたり、したのだが、何かよくわからなかった。

おそらく「今」という概念が、自分の感触に落とし込めない点が問題なのだろうと思う。

「『1』ってなんですか?」「『何』ってどういう意味ですか?」のようにあらためて意識すると何かよくわからなくなるものがある。今もそれと似ているのだが、そこを「ああ『今』ね、知っているよ」という風にスルーしてしまうため、そうしたもやもやが残るのではないか。

もちろん「頭で考えるからこうした袋小路に陥ってしまうのであって、『今』は感じるものだ」という線の方が有力だとは思う。

しかしそういう線に乗るには「今」という感触が「痛い」「眠い」などのように既知の感触でないと、「あーこの状況は、たしかに「今」だな」という検証ができないと思う。

人によって違うのだろうが、私の場合は、意識が何層もあって、「あ、君はなんとなく「今を生きてる」と思ったみたいだけど、それってそういう事にしたいからしているだけなんじゃない?検証できてる?」「いやいや、検証とかいってるけど、人間はそもそも生物なのだから、薄くとも感じることから入らないと」みたいなことが行われる。

そうした結果「私は『今』という概念がわからないので、『今を生きる』もわからない」という事になっている。

それがさきほど、何かの拍子に少し光明が見えて、「ああこれは是非noteに書いて、自分なりに育てていこう」と思い書き始めたのだが、ここまで色々思考したことによって忘れてしまった。

以上