私なんてものはどこにもない
みなさん、こんばんは。【話を聞く人】をしているおかぴと申します。
記事を開いていただきありがとうございます。
noteでは私が考えていることを毎日発信しています。
最近は存在についてよく考えている気がします。年内に「私と存在」の記事を投稿する予定です。
特に昨日今日、ぼんやりと存在を考える中で気がついたことがあります。
それは「私なんてものはない」という事実。
きっかけは「私のままでいいんだ」とか「私らしさとは」とか、そういう話をよく考えてみたことかもしれません。
私のままを指す”私”ってなに?
私らしさを指す”私”ってなに?
と<”私”について考えているときの「私」は一体何なんだ?>という問いを探る中で見えてきた事実です。
結論を言ってしまえば、よくわかりません。
わかんないんかい!と厳しい声が聞こえてきそうですが、私が未熟なせいなのかどうしてもわからないのです。
一人称としての私やおかぴの名前でnoteを書いている私は確かにいます。本名の私もいます。○○さんの友人という私もいます。
でもこれらはすべて肩書きです。それこそ、○○さんと会って話しているときに”友人”という奇天烈な存在でいるわけではありません。
どんな状況であれ、そこにはゆるぎなく存在している”何か”があるのです。
○○さんと話しているときも、私と呼ばれる不思議な”何か”が常にそこにいて、受け答えをしています。
たとえ仕事が変わろうとも、人間関係が変わろうとも、心を病んだとしても、”何か”はいます。
・この”何か”は果たして「私」なのか?
・それとも「私ではない」のか?
・それとも「私であり別の何かでもある」のか?
考えるうちに「私なるものはないのでは?」と思えてきました。この言葉の意図は、虚無ではありません。何もない空っぽだとか、ごみくずだとかの発想ではありません。
正確に言えば、”何か”は「私」と呼ぶのには相応しくない何かがあるということ。話が巡ってわかりにくいかもしれませんが、何かがあるけど何かはわからないのです。ああ、もどかしい。
もしかしたら、私の語彙が少ないせいで”何か”を表現できないのかもしれません。ああ、悔しい。
すごく個人的なことを話せば、存在について考えたことで、私はないんだなとスッキリすることはできました。余計な殻を1つ外したような感覚です。
わかりにくい文章で惑わせてしまったらすみません。気になることがあれば、コメントでもTwitterでも質問してください。
それではこのあたりで失礼します。また明日も前向きに生きてみます。
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