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【日露関係史7】日露戦争

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第7回目です。

前回の記事はこちらから!

20世紀の歴史の中で、日本はロシア(ソ連)と4度にわたって戦争を繰り広げてきました。その最初となるのが、1904年の日露戦争です。大陸進出を目指す日本は、19世紀末になると満州と朝鮮半島の権益をめぐってロシアと対立を深めていき、ついに両国は最初の本格的な戦争へと突入していきます。日露戦争については以前にも記事をまとめていますので、興味があれば合わせてご覧ください。


1.満州と朝鮮をめぐる対立

日清戦争に勝利した日本は、講和条約である下関条約の中で清国に対して遼東半島の割譲を要求します。当時東アジアへの積極的な進出を進めていたロシアは、半島の割譲がさらなる日本の大陸への膨張を招くと考え、自国の権益を守るためにドイツ、フランスとともに遼東半島を清国に返還するように日本に圧力をかけました。いわゆる三国干渉です。日本はやむなく遼東半島を清国へ返還することになりましたが、その4年後の1889年に、ロシアは日本が放棄した旅順及び大連を含む関東州の租借権を獲得します。

1901年当時の満州の地図
遼東半島を獲得したロシアは、その先端に位置する大連を商港に、旅順を太平洋艦隊の軍港に定め、両港を中東鉄道を経由してシベリア鉄道と接続させた。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=83029690

これと並行して、朝鮮半島においても日露の利害は衝突するようになっていました。朝鮮(1897年からは大韓帝国)の独立維持を望むロシア政府は、1898年、日本に韓国の完全独立と内政不干渉を認めさせる協定西=ローゼン協定)を結びます。ところが、その後もロシア海軍が朝鮮半島南部の馬山浦の土地買収を進め、対日強硬派の退役軍人アレクサンドル・ベゾブラーゾフが満州と朝鮮半島の境目にある鴨緑江の沿岸の林業調査を繰り返すなど、ロシアによる韓国への干渉は続きました。日本はますますロシアへの不信感を募らせます。

現在の馬山浦
1899年5月1日、韓国政府は馬山浦を開港し、世界各国が利用できるようになると、ロシアと日本は競って土地買収を進め、緊張を高めた(馬山浦事件)
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=26318758

日本とロシアの緊張をさらに高めるきっかけとなったのが、義和団事件でした。清国では、過激な排外主義思想を掲げる新興宗教団体「義和団」が勢力を拡大しており、これを利用した清朝が1900年6月21日に列国へ宣戦布告したのです。日本とロシアを含む8ヵ国が清国へ軍隊を派遣して事件の鎮圧にあたりましたが、ロシア軍は建設中の鉄道保護を名目に事件後も満州に駐留し続けました。ロシア軍は満州占領を一時的な措置と考えていましたが、日本側は極東におけるロシアの軍事的優位を決定づけるという危機感を抱きました。

義和団事件の際に出兵した兵士たち
左から、イギリス、米国、オーストラリア、インド、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、日本。
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2.戦争回避を目指す伊藤博文

ロシアによる満州占領を受け、日本は満州におけるロシアの権益獲得を認める代償として、韓国における日本の権益獲得を認めさせる「満韓交換論」によって交渉しようとします。しかし、韓国問題についても有利に進めたいロシア側はこれを拒否し、その代わりに、韓国の中立化を提案しますが、今度は日本側が交渉に応じず、空振りに終わりました。こうして、両国間では手詰まり感が漂い始めました。

小村寿太郎(1855‐1911)
義和団事件の際に駐露公使を務めており、「満韓交換論」を提案した。交換論が不発に終わると、その後は日英同盟へと傾いていく。
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こうした中でも、伊藤博文外交交渉で事態を解決する望みを捨てていませんでした。日本政府内では、ロシアと対立するイギリスとの同盟を求める声が高まっていましたが、伊藤は韓国に何の利益もないイギリスよりも、利害関係を持つロシアと協商を結ぶことが「得策」であり、「本道」だと考えていました。1901年5月に内閣を総辞職した伊藤は、自らロシアへ赴き交渉を行うことになりました。

伊藤博文(1841‐1909)
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11月25日にロシアへと入国した伊藤は国賓として迎えられ、28日に皇帝ニコライ2世に謁見します。伊藤はニコライ2世から「露日間の協商は十分可能である」という言葉を聞き感激し、12月2日に外務大臣ウラジーミル・ラムスドルフ、その翌日には蔵相セルゲイ・ウィッテ会談したことで、自信を深めました。12月4日、日本が韓国に対する政治・経済活動に関する排他的権利を持つことを認めさせる協定案を渡し、そのまま帰国していきました。

ニコライ2世(1868‐1918)
極東進出に積極的だったニコライは、伊藤にリップサービスとして日露協商の可能性を説きながらも、日本が韓国を支配することは断じて認めない姿勢を示した。
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3.外交交渉の挫折

しかし、伊藤の協定案にはロシアへの向かえりが提示されていなかったことから、ラムスドルフ外相はこの案に失望しました。そこでロシア側の修正案が作成され、日本の排他的権利は「優先」という字に変えられて弱められ、さらにロシアの満州における行動の自由と優先権も書き加えられました。しかし、伊藤は韓国に対する排他的権利こそが合意に至る唯一の可能な基礎であるとし、ラムスドルフ案に反発しました。

ウラジーミル・ラムスドルフ(1845‐1907)
外務大臣。蔵相ウィッテと並び、日本との戦争には反対の立場を示した。
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対露交渉を上手く進められなかった伊藤は、政府内で立場を失っていきます。山県や桂太郎首相はイギリスとの同盟へと傾き、12月7日の元老会議で正式に日英同盟を結ぶことが決定しました。それでも伊藤は日露協商への未練を断ち切れず、イズヴォリスキー駐日公使と連絡を取り、桂首相に日露協商の成立を何度も打診しています。しかし、政府はロシアとの交渉にはすっかり消極的になっており、伊藤は桂首相の策略で枢密院議長に任命され、交渉をする立場から引き離されてしまいました。

桂太郎(1848‐1913)
第11代、13代、15代内閣総理大臣。日露交渉に固執する伊藤を邪魔に思い、枢密院議長へと推薦した。
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1903年4月、ロシアが満州からの撤兵を見合わせ占領を継続することに決定したことで、日露間の緊張はさらに高まります。外交交渉は引き続き行われますが、韓国における日本の影響力を制限したいロシアとの交渉は難航し、世論も開戦に向けて沸騰していきます。まだ外交を諦めていなかった伊藤も閣僚たちを説得し続けましたが、翌04年1月末、とうとう開戦による事態解決を認めました。

4.開戦とロシア軍の敗退

2月7日、韓国について日本側に譲歩するロシア側の最終案が東京に届きますが、すでに日本側はすでに外交関係断絶を通告しており、2月8日には宣戦布告のないまま、旅順と仁川を攻撃しました。開戦に際し、伊藤と並んで消極的だったのが明治天皇です。天皇は閣僚から説得されて開戦を認めましたが、「今回の戦は朕の志にあらず」と述べており、その日は一睡もできず、食事も進まなかったようです。

明治天皇(1852‐1912)
明治天皇は伊藤に「万一戦の敗れた場合は、一体どうするのか」と尋ねたり、ニコライ2世へ親書を送って戦争を回避しようとするなど、開戦にはあくまで消極的だった。
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しかし、明治天皇や伊藤の憂慮とは裏腹に、戦況は日本軍に有利に進みました。ロシア軍は開戦当初の奇襲攻撃により出鼻をくじかれ、またシベリア鉄道の輸送能力の限界から十分な兵力を確保できず、これに加え、指揮官の間で戦術上の意見の不一致が起こり、意思の統一を欠いました。1905年1月1日、ロシアの太平洋艦隊の拠点であった旅順要塞が陥落し、日本側に明け渡されました。さらに、2月末の奉天会戦では、25万の日本軍に32万のロシア軍が敗北するという大敗を喫しました。

奉天会戦
奉天会戦は大激戦となり、日本軍7万人、ロシア軍6万人の死傷者を出した。ロシア軍が撤退を開始したとき、日本軍にはそれを追撃する余力はなかった。
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決定的な敗北となったのは、5月27日から28日にかけて行われた日本海海戦です。7か月半の航海を経て日本近海に到着したバルト艦隊は、東郷平八郎率いる連合艦隊に敗れ、1日半の戦いで22隻中19隻が撃沈されてしまいました。海軍の大部分を失ったロシアは、制海権をとることが不可能になり、日本を降伏させる可能性はなくなってしまいました。

戦艦「スヴォーロフ」
バルト艦隊の旗艦。「三笠」以下日本側の艦船の集中砲火を受け、撃沈した。長期航海後で、訓練も不十分だったロシア艦隊は、士気旺盛で訓練を重ねた日本側にあえなく敗退した。
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5.ポーツマス講和条約

山県は戦争を継続を主張し、ハルビンやウラジオストク、樺太、カムチャツカ半島の占領までも視野に入れていました。しかし、伊藤は旅順も陥落し、奉天周辺からもロシア軍が撤退し、制海権も日本が握り、当初の目標は達成したのだから早期講和を目指すべきだと主張しました。二人の意見は対立しますが、弾薬も枯渇し、財政的にもこれ以上の負担はかけられないとの判断から、4月21日に米国の仲介による講和会議を開くことが決定しました。

セオドア・ルーズヴェルト(1858‐1919)
日露の講和交渉を仲介した米大統領。当時、ドイツやフランスも講和の斡旋に積極的であったが、両国はロシアの同盟国であったことから、日本は中立的な米国を選択した。
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講和会議は8月9日から9月5日にかけて、アメリカのニュー・ハンプシャー州のポーツマスで開催され、日本側の小村寿太郎とロシア側のセルゲイ・ウィッテがそれぞれ全権として交渉にあたりました。日本側は絶対条件として、満州と韓国での利権獲得遼東半島の租借権ハルビンから旅順までの鉄道利権の譲渡を迫りました。しかし、これに関してはロシア側は簡単に譲歩し、韓国に関する日本の指導と保護の権利を認め、遼東半島の譲渡、長春から旅順までの鉄道の譲渡で合意しました。

ポーツマス講和会議の様子
手前側が日本代表で中央が小村、奥側はロシア側代表で中央がウィッテ。
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会議で最も問題となったのは、日本が占領した樺太の割譲および賠償金の支払いについてでした。講和会議直前の7月4日、日本軍は樺太占領作戦を実行に移し、8月1日までに全島を占領していました。日本側は上記の絶対条件に比べれば、副次的なものと認識していましたが、ウィッテは、ニコライ2世から「1コペイカも、1寸の土地も譲ってはならない」と言いつけられていたため、激しい論争となりました。長い交渉の結果、29日、ロシアは樺太の北緯50度以南を割譲する、日本は賠償要求をしないという条件で、妥協案がまとまりました。9月5日、講和条約が調印され、日露戦争は終結しました。

樺太の分割
せっかく占領した樺太の北半分を無償で返還することになったことは、小村にとって交渉の失敗であり、樺太について口にすることを嫌がったという。
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6.まとめ

20世紀における日本とロシアの最初の衝突となった日露戦争。ときおり、ロシアの南下に対する日本の抵抗として、宿命的なものであったかのようにいわれることがあります。しかし、僕はこの戦争は避けられる戦争だったのではないかと思います。

戦争を回避するチャンスは二度ありました。第一に、1901年の伊藤博文の訪露であり、戦後、ウィッテ蔵相やイズヴォリスキー駐日公使は、このときに伊藤の協定案に対する回答が遅れたことで戦争は避けられなくなったと後悔しています。第二に、1904年に協定の最終案が送られたときです。この協定がもっと早く届いていれば、双方が妥協できたことでしょう。なお、協定案が開戦後になって東京に届いたのは、満州における日本軍の電信網破壊が原因といわれています。

避けられたはずの戦争は、日本とロシアの関係に禍根を残しました。日本にとって勝利の歴史である日露戦争は、ロシアとっては敗戦の歴史であり、この敗北の記憶はその後も長くロシア人の記憶にとどまり続けることになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

日露戦争については、こちら

明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら

ニコライ2世とその治世については、こちら

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