【日露関係史16】新思考外交下の日ソ交渉
こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第16回目です。
前回の記事はこちらから!
ソ連が高圧的な外交姿勢を取り続けた結果、日本では対ソ感情が著しく悪化し、1970年代末から日ソ関係は冷却化していきました。しかし、1985年に登場したミハイル・ゴルバチョフ書記長は、「新思考外交」を掲げて西側との関係改善を改善する姿勢を示したため、日本政府も長年の問題である北方領土問題を解決すべく、ソ連に接近を開始します。果たして、ゴルバチョフの登場は、日ソ関係にどのような変化をもたらしたのでしょうか。今回は、ゴルバチョフ時代に行われた、北方領土をめぐる日ソの交渉について見ていきたいと思います。
なお、ゴルバチョフについては下記の記事でもまとめていますので、興味のある方はご覧ください。
1.日ソ関係の「冬」
日中平和友好条約妨害のためソ連が高圧的な姿勢を示し続けた結果、1970年代末には、日ソ関係はすっかり冷え切っていました。太平洋艦隊の軍備増強、北方領土への地上部隊配備や大規模軍事演習などの示威行動を受け、日本では「ソ連脅威論」が声高に叫ばれるようになりました。特に、1979年のアフガニスタン侵攻開始による米ソの緊張や、1983年の大韓航空機撃墜事件は、国民世論を一気に反ソへと傾けることになります。
それまで政治的緊張とは裏腹に、一貫して好調だった日ソの経済関係にも陰りが見え始めました。1973年以降、日本はシベリアでの資源開発プロジェクトに出資していましたが、その多くに遅れが出ており、アフガニスタン侵攻以降は、日本が西側の対ソ経済制裁に参加したことで、頓挫してしまったのです。大韓航空機撃墜事件の発生後は、対ソ貿易は前年比で20パーセント以上も落ち込みました。
こうした中、日本政府はソ連に対し強気の姿勢で臨みました。鈴木善幸内閣は、1981年に日露和親条約が締結された2月7日を「北方領土の日」に制定することを閣議決定しました。さらに、次代首相中曽根康弘は、1983年の訪米でレーガン大統領に有事の際の日米連携を呼びかけ、さらに同年のG7サミットでは、対ソ圧力のための西側の団結を訴えるとともに、ソ連が異議を唱えていた米国の中距離核ミサイルの欧州配備への断固支持を表明しました。こうした動きにソ連は猛反発し、日ソ関係は戦後最悪レベルに悪化してしまいます。
2.ゴルバチョフの対日認識
1982年11月にブレジネフ書記長が死去すると、アンドロポフとチェルネンコという高齢指導者による短命政権が続き、1985年3月に、ミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任します。若い指導者の登場に期待を寄せた中曽根首相は、弔問外交によって対ソ関係改善を目論み、モスクワに乗り込みます。「戦後政治の総決算」を掲げる中曽根にとって、「北方領土問題」は是が非でも解決したい問題だったからです。
中曽根は短時間ながらゴルバチョフとの会談に漕ぎつけることに成功します。しかし、ゴルバチョフは北方領土については「新たに述べることは何もない」と答えるだけで、中曽根からの訪日の要請にも消極的な姿勢を示しました。そして反対に、日本が「非核三原則」を掲げながら、核兵器を搭載した米国艦船が沖縄に停泊していること、日本がNATOの軍事行動に賛意と連帯を表明していることを指摘し、非難したのです。結局、中曽根の弔問外交は成果をあげられませんでした。
なぜゴルバチョフはこのような態度をとったのでしょうか。実は、当時のゴルバチョフは日本に関する知識に乏しく、北方領土問題は解決済みであると認識しており、そもそも北方領土とは何という島で、何島あるのかすら知りませんでした。そのため、同席していたグロムイコ外相から渡されたメモをオウム返しするしかなかったのです。また、ゴルバチョフの主眼は軍事的緊張関係にある米ソ関係、そして中ソ関係の改善にあり、軍事的脅威のない日本との関係改善は漸進的にしていけば十分と考えていました。
3.新思考外交と対日政策
ゴルバチョフの対外政策の基礎となったのは、「新思考」という理念であり、過剰な軍事費を削減するために、諸外国との関係改善を推進しようとしました。手始めに行われたのが、28年間も外相を務めた「ミスター・ニェット」ことグロムイコの解任で、後任には、ゴルバチョフの長年の盟友であるエドゥアルド・シュワルナゼを選ばれました。さらに、長年駐カナダ大使を務め、西側の事情に詳しいアレクサンドル・ヤコヴレフが呼び戻され、国際政策を担当することになりました。こうしてシュワルナゼとヤコヴレフという両輪によって、「新思考外交」が推進されていきます。
1986年1月、シュワルナゼは訪日して安倍晋太郎外相と会談、同年5月には今度は安倍が訪ソします。両外相の会談の結果、年1~2回の外相定期協議の開催が通例となりました。また、シュワルナゼは「日米安全保障条約が存在する状況下でも日ソ平和条約の交渉は可能」と発言し、日米安保を容認する考えを表明します。さらに、1976年に中断していた北方領土への墓参が再開し、シベリア抑留者問題に関して、抑留者の名簿や墓地所在地に関する資料提供、遺骨返還などに協力する態度を示しました。
このように、高圧的だった従来のソ連政府と一線を画し、ゴルバチョフ政権は柔軟な対日姿勢を採りました。しかし、こうした中でも進展を見せなかったのが、北方領土問題です。シュワルナゼは当初、北方領土は戦略的に重要ではないとして、1956年の日ソ共同宣言に基づく解決を訴えました。ところが、古参の政治局員からの反応は芳しくなく、ゴルバチョフも彼らに同調したため、シュワルナゼも北方領土問題に関しては硬い態度をとることになったのです。
4.苦境と対日接近
1980年代末になると、ゴルバチョフ政権は苦境に立たされます。「ペレストロイカ」という標語とともに推進した経済改革はインフレと商品不足を招き、さらにグラスノスチ(情報公開)を進めたことで、ソ連各地で政権批判や民族主義が噴出、ソ連の体制そのものを揺るがすようになったのです。さらに、新思考外交は米国との冷戦を終結させますが、同時に東欧社会主義圏の動揺を招き、1989年11月のベルリンの壁崩壊を機に、社会主義政権がドミノ倒し式に崩壊していくという結果を招きました。
こうした中、1989年10月、ゴルバチョフは訪日計画を発表します。現状を打破するため、ゴルバチョフはなんとかして日本から経済援助を取り付けようとしたのです。これ以降、ソ連の対日接近は活発化し、同年11月には経済改革調査団が日本を視察に訪れ、続いてゴルバチョフ訪日計画委員会長となったヤコヴレフが来日しました。さらに、90年9月にはシュワルナゼが三度目の来日を果たし、海部俊樹首相と会談してゴルバチョフ訪日の際に調印する予定の文書に関する合意を取り付けました。
ゴルバチョフは北方領土問題の解決に関しても、専門家を集め真剣に検討しました。しかし、四島に対するソ連の立場は十分強いが絶対ではない、とする専門家チームの検討結果に対し、ヤゾフ国防相、クリュチコフKGB議長らが異議を唱え、四島の引き渡しに反対する意見書を提出します。権力維持に精いっぱいだったゴルバチョフは、軍部やKGBなど保守派の無視することはできず、従来通りの姿勢を貫き、今度の訪日においても解決しない方針を決定しました。
5.ゴルバチョフの訪日
1991年4月、ついにゴルバチョフは日本を訪問します。帝政期も含め、ロシアの最高指導者の訪日は歴史上初めてであり、奇しくも、これまでで最も高位の人物であるニコライ皇太子の訪日からちょうど100年目のことでした。ゴルバチョフは4月16日~18日にかけて、延べ12~14時間、計6回にわたって、海部首相との首脳会談に臨みました。
海部は日ソ共同宣言における領土条項の有効性を確認し、北方領土問題に対する日本の潜在的主権を認めさせようとします。しかし、ゴルバチョフは、ソ連からの二島譲渡の申し出に対し、日本が不当に四島返還を要求し、中ソを敵視する新日米安保を締結したために、「日ソ共同宣言は価値を失った」と主張しました。海部はなおも、平和条約締結と引き換えに大規模経済協力を開始する可能性に言及して食い下がりますが、ゴルバチョフは「原則をドルと引き換えに売り渡すような議論はしない」と、反論しました。
4月18日深夜、日ソ共同声明が調印されました。その中では、日ソ共同宣言の有効性は曖昧にされており、領土問題が存在することが認められ、北方四島への旅券・ビザなし渡航などが決定するなど、わずかながら日本に有利な点もありましたが、北方領土問題は解決しないままとなりました。その一方で、ソ連側が求めた経済協力も達成することができなかったため、ゴルバチョフ自身が評すように「引き分け」という結果になったといえます。
6.まとめ
内閣府の世論調査では、ゴルバチョフが登場した1985年6月、ソ連に「親しみを感じない」と答えた人は83.7パーセント、逆に「親しみを感じる」と答えた人はわずか8.6パーセントでした。ところが、同政権末期の1991年には、それぞれ69.5パーセント、25.4パーセントと大きく変化しています。ゴルバチョフ政権期は、日ソ関係がかなりの改善を見た時期といえるでしょう。
しかし、北方領土問題だけはほとんど進展をみませんでした。ゴルバチョフは、治世の前半は自らの知識のなさと対日政策の優先度の低さによって、後半は台頭する保守派に配慮し、一島たりとも日本に引き渡さないとする「旧思考」的な姿勢を示し続けました。それどころか、一時的にせよ二島返還を本気で考えていたフルシチョフ・ブレジネフ両政権よりも大胆なところがなく、北方領土問題に限れば、戦後史上、最も保守的だったといえるかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
日露関係通史については、こちら
北方領土問題については、こちら
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千島列島をめぐる日露の歴史については、こちら
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