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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史7 ルーシ第二府主教座の興亡

1.はじめに

1240年、モンゴルの侵攻によってキエフは陥落しました。当時、ルーシの教会を統一的に支配していた「キエフならびに全ルーシの府主教座(以下、キエフ府主教座)」は、荒廃したキエフから北東ルーシへと遷座し、最終的にモスクワを座所としました。これはやがてモスクワ総主教座へと発展していきますが、一方で、府主教を失った南西ルーシ(後時代にはルテニアと呼ばれる)では、やがて第二府主教座の設置を求める声が高まりました。今回は、ルーシ第二府主教座を巡る争いと、その興亡を見ていきたいと思います。

2.小ルーシ府主教座の設置

最初に第二府主教座の設置要求は、ハーリチニ・ヴォルイニ公から起こりました。ハーリチ・ヴォルイニ公国は、1199年に、ヴォルイニ公ローマンがハーリチ公国を併合して成立した、キエフ大公国の分領国のひとつでした。重要な河川と陸路の要衝であったことから、国際中継貿易で栄え、さらに、一時はキエフを含むドニプロ川周辺まで勢力を広げるなど、当時の東欧の有力国のひとつとなっていました。

1220-1240年頃のキエフ大公国
ポーランドやハンガリーに隣接する南西部に位置するのがハーリチ・ヴォルイニ公国
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モンゴル侵攻後、キプチャク・ハン国に臣従することになりますが、これを屈辱に感じたダニーロ公は、ローマ教皇に反モンゴル十字軍を要請するなど、その支配に抗しました。しかし、こうしたカトリックへの接近は、キエフ府主教に、モンゴルによって荒廃したキエフから、より安全な北東ルーシへの府主教座の遷座を決断をさせることになりました。

ダニーロの孫ユーリイ公は、キエフ府主教座のウラジーミルへの遷座を受け、1303年、コンスタンティノープル総主教に、独立した新たな府主教座の設置を働きかけました。ハーリチ・ヴォルイニ公国を、これ以上カトリックへと傾斜させたくなかった総主教の配力により、この要求は受託され、公国は自前の「小ルーシ府主教座」の設置に成功します。しかし、府主教となったニフォントは叙聖されてまもなく亡くなり、総主教の方針転換もあり、小ルーシ府主教座は閉鎖されます。

3.リトアニアとモスクワの戦い

次に第二府主教座設置を要求したのは、リトアニア大公国でした。14世紀になると、リトアニアは東南方面へ拡張し、かつてのキエフ大公国領の3分の2を支配下に置くようになりました。リトアニアは、自領内の正教徒を管轄するために、独自の府主教座の設置を求めるようになりますが、これは、キエフ府主教、およびその座所となっていたモスクワ公国との対立を引き起こしました。

14世紀後半のリトアニア大公国領(橙色)
現在のリトアニアは北海道よりも小さい国だが、中世においてはバルト海から黒海にまたがる大国であった
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1316年に即位したゲティミナス大公は、支配下においていたトゥーロフ主教区、ポロツク主教区の正教徒の保護という名目で、リトアニア府主教座の開設をコンスタンティノープルに求め、裁可されました。しかし、モスクワのキエフ府主教テオグノストスの働きかけにより、リトアニア府主教座はすぐに閉鎖に追い込まれます。

次代大公アルギルダスは、今度は、自分の息のかかった修道士をキエフ府主教に据えようとしますが、テオグノストスの後任となったキエフ府主教アレクシイによって阻止されます。アルギルダスは、今度は、コンスタンティノープルに働きかけ、独自のリトアニア府主教を設置しますが、府主教に就任したロマンが亡くなると、再び廃止されます。

自体が落着するのは、1373~74年にかけて行われた、モスクワとリトアニアとの和議においてでした。これは、コンスタンティノープルからの使節キプリヤンの仲介によって成立したものでしたが、この和議において、リトアニア府主教座の設置恒久的に認められました。当時オスマン帝国からの圧力を受けていたビザンツ帝国は、強大な軍事力を有するリトアニアを反イスラーム同盟に組み込もうと、リトアニアの要求を飲んだのでした。

キエフ府主教たち。左からフォティオス、キプリヤン、テオグノストス
府主教となったキプリヤンは、ロシア教会の自主性を抑え、ロシアの精神的指導者となっていた聖セルギイを叱責するなど、厳しい指導を施したが、同時に教会文化の振興に努めた

4.フェラーラ・フィレンツェ公会議とキエフ府主教座の分裂

モスクワとリトアニアの和議以降、ルーシを管轄する主教区は、モスクワを中心とするキエフ府主教座とリトアニア領内に置かれたリトアニア府主教座の二つに分裂することとなります。しかし、当初はキプリヤンが両者を兼任することでルーシの府主教座は統一を保ち、その後コンスタンティノープル総主教から派遣されたギリシャ人府主教たちも、この方針を踏襲しました。

事態が変わるのは、15世紀半ばになってからです。1437年~1439年、イタリアのフェラーラ及びフィレンツェ公会議が開催されました。この公会議において、ビザンツ帝国は、西ヨーロッパ諸国に反オスマン帝国のための軍事援助を得ようと、正教会側がカトリックに譲歩する形で、教会合同の協定が調印されました。

しかし、この教会合同はロシアでは全く賛同を得られず、モスクワ大公ヴァシリー2世は、公会議に出席したキエフ府主教イシドロスモスクワから追放し、代わりにロシア人のイオナを任命します。この事態に対し、モスクワの影響力がポーランド・リトアニアの正教徒にも及ぶことを危惧したローマ教皇ピウス2世は、コンスタンティノープル総主教と一致協力し、合同派の主教グレゴリオスを府主教として擁立します。こうして2つのキエフ府主教座が成立したことで、ルーシの教会は本格的に分裂してしまいました。

教皇ピウス2世(1405-1464)
ピウスが約束したビザンツ帝国への軍事援助であるが、200名の傭兵部隊(枢機卿となったイシドロスも同伴していた)を形的に派遣しただけだった

5.ポーランド・リトアニア支配下の正教会

1385年の「クレヴォの合同」、1569年の「ルブリンの合同」を経て、ポーランドとリトアニアは「連合国家」を形成します。ポーランド・リトアニアでは、正教会とカトリックの間には、大きな格差がありました。カトリックの聖職者と違い、正教の聖職者は議会に議席を持つことができず、また、正教の都市民も都市行政から排除されました。国政において、正教の立場を代弁できるのは正教徒の世俗貴族だけでしたが、彼らもカトリックやプロテスタントへの改宗が相次ぎました。

しかし、こうした不利な状況下でも、正教文化の維持と発展に貢献した正教徒たちがいました。キエフ県知事を務めた貴族コステャンティン=ヴァシーリ・オストロスキーは、所領のオストログに正教の学校印刷所を設置し、教育と啓蒙の拠点としました。オストロスキーに追随した都市の正教徒たちは、「兄弟団」と呼ばれる世俗信者の互助団体を結成し、自らの都市に兄弟団付属の学校や印刷所を開設しました。

コステャンティン=ヴァシーリ・オストロスキー(1526-1608)

コサックの首領(ヘトマン)ペトロ・サハイダーチヌイキエフの再建に乗り出し、次々と教会を再建し、出版所も開設しました。さらに、彼が庇護した「エピファニー兄弟団」は、後にキエフ府主教となるペトロ・モヒラによってペトロ・モヒラ・コレギウム(キエフ神学校)へと発展しました。この学校は、イエズス会の学校をモデルとしており、コサックのエリートだけでなく、ピョートル大帝の近代化改革を支えた人材を輩出するなど、ロシアを含めた東スラヴ社会における最も重要な正教の教育機関となりました。キエフは、モンゴル侵攻後に見る影もない寒村となっていましたが、短期間のうちに東欧の一大文化センターとして再興されたのです。

ペトロ・モヒラ(1596-1647)
彼の開設したペトロ・モヒラ・コレギウムは、当地において最も古い大学であり、1817年に閉鎖されるが、1991年にペトロ・モヒラ・アカデミー大学として復活した

6.教会分裂とロシア正教会への統合

16世紀末、ポーランド・リトアニアの正教会は再び危機に直面します。イエズス会士を重用し、対抗宗教改革を推し進めていたジグムント3世のもと、1596年のブレスト教会会議において、カトリックと正教会の教会合同が成立します。これによって、東方典礼を維持しつつ、ローマ教皇の首位性を認める合同教会が誕生します。

アントニー・イェジェルスキ「合同教会での聖体拝領」1897年
合同教会は、ギリシャ・カトリック教会、東方典礼カトリック教会などとも呼ばれる。現在でもポーランドやウクライナ西部において信者を抱えている

オストロスキーら合同反対派は、同じくカトリックと対立していたプロテスタントと同盟し、合同撤回のために議会で戦います。合同撤回の要求は結局退けられますが、合同反対派教会の合法化を勝ち取り、1620年には合同反対派のキエフ府主教が設置されます。こうしてポーランド・リトアニアには2つのキエフ府主教が並立するようになり、ルテニアの正教会は分裂してしまいます。

合同反対派の合法化後も、主教管区の重複や、聖堂や修道院ごとの所有権をめぐる係争が頻発し、両者の対立は激化していきました。1648年に勃発した、ボフダン・フメリニツキー率いるウクライナ・コサックの反乱は、ポーランド支配に対するコサックの抵抗から始まりましたが、やがて、正教の守護者を任じて「護教」を掲げるコサックたちによる、カトリック、合同教会、そしてユダヤ教徒に対する宗教戦争という様相も呈するようになりました。

ミコラ・イヴァシュク「キエフに入城するフメリニツキー」1912年
正教の聖職者たちが、フメリニツキーとコサックたちを歓迎している

1667年、フメリニツキーの要請で参戦したロシアと、ポーランドがアンドルソヴォで講和を結び、ドニプロ川を挟んで左岸ウクライナをロシアが、右岸ウクライナをポーランドが領有することが決定されました。キエフと左岸ウクライナを併合したロシアは、1686年にキエフ府主教座をモスクワ総主教座の管轄下に置いたため、ウクライナの正教会はロシア正教会に包摂されることとなりました。

首座キエフと信徒の多い左岸ウクライナを失ったことで、ポーランド・リトアニア領内の正教会は弱体化していきました。合同教会の教会組織が右岸ウクライナにも拡大し、合同反対派の主教管区であったリヴィウとプシェミシル、そしてリヴィウの兄弟団までもが合同教会化したことで、合同教会の勝利は決定的となりました。

7.まとめ

キエフ府主教座が北東ルーシ(最終的にモスクワ)へと遷座したことをきっかけに、設置されるようになった第二府主教座でしたが、最終的にモスクワのもとに包摂されることになりました。一方、ウクライナ分割後のポーランド・リトアニアの正教徒たちは、合同教会の拡張によってより不遇な立場に置かれました。彼らは、やがてロシアへの統合を望むようになり、これがロシアの領土的野心と結びつき、18世紀後半に正教徒の解放という大義名分のもと、ポーランド・リトアニアへの干渉が始まります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ウクライナ、ベラルーシを支配下においていたリトアニアの歴史については、こちら

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