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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史15 20世紀ウクライナの正教会と合同教会

1.はじめに

現在のウクライナには、ウクライナ正教会を名乗る組織が2つ存在しています。1つは2018年に設立されたウクライナ正教会であり、もう1つはロシア正教会の下部組織としてのウクライナ正教会です。前者は別々の教会が統合されてできたものであり、それ以前は3つのウクライナ正教会が存在していたことになります。そしてここに、カトリックと正教会が合同して創設された合同教会が加わります。

どうしてこのような複数の教会が併存することになったのでしょうか。今回は、20世紀におけるウクライナの教会の歴史を見ていきたいと思います。

2.ロシア革命とウクライナ自治独立正教会

ロシア革命後、ロシアからの自治・独立を目指すウクライナ人たちは、ウクライナ人民共和国を設立し、ペトログラードの臨時政府、そして10月革命によって成立したボリシェヴィキ政権に対抗しました。こうしたウクライナの独立運動に刺激され、ロシア正教会からウクライナ教会を独立させる試みがなされました。

1918年7月9日、全ウクライナ教会会議はウクライナ自治正教会を設立します。しかし、ロシア正教会のモスクワ総主教はこれを認めず、1921年10月にウクライナに総主教代理を設置しました。これに対抗して、同月、全ウクライナ人教会会議がキエフで開催され、モスクワ総主教庁からの独立が宣言され、ウクライナ自治独立正教会が成立し、キエフおよび全ウクライナの府主教が任命されます。

ヴァシリー・リプコフスキー(1864-1937)
ウクライナ自治独立教会の総主教となったが、後にスターリン体制下で粛清される

同教会は、儀式での言語としてウクライナ語を採用し、急速に勢力を伸ばしました。1924年には信徒が数百万人を数えたと言われています。当初、ソ連政府は同教会を容認していましたが、スターリンが権力を握る1927年以降規制を強め、1930年には臨時教会会議を開催させて、解散に追い込みました。

その後、独ソ戦が勃発し、ドイツがウクライナを占領した1942年~44年にかけて、ウクライナ自治独立正教会の再建が試みられ、司祭の聖別や全ウクライナ総主教の選出が決定されました。しかし、ウクライナが赤軍によって再占領されると、同教会は再びソヴィエト政権によって弾圧され、戦後、ロシア正教会へと強制的に併合されました。

3.大戦間期の合同教会

オーストリア帝国の支配下におかれ、合同教会が命脈を保っていた東ガリツィアでは、1918年に西ウクライナ人民共和国が設立されて独立を試みるも、ピウスツキ率いる新生ポーランド共和国によって鎮圧され、ポーランド領となります。

両大戦間期のポーランドの領土の変遷
右側の黄色の部分がウクライナ・ベラルーシから併合した領土
By den store danske - http://denstoredanske.dk/Geografi_og_historie/Østeuropa/Polen/Polen_(Historie_-_Det_moderne_Polen), CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=50260467

独立国家となったポーランドは、国内の最大マイノリティであるウクライナ人のナショナリズムを警戒しました。実際に、東ガリツィアのウクライナ人たちは、独立の機会を奪ったポーランド人に敵意を燃やしており、ルソフィリズム(ポーランド人・カトリックへの反発志向)も高まっていました。ポーランド政府は、合同教会をウクライナ・ナショナリズムの温床と見なし、聖職者や信徒に対し圧力をかけ、カトリック化を促そうとしました。

府主教シェプティツキーは、こうしたカトリック化政策に対抗しようと、当時、ポーランド領となっており、もともと教会合同が最も進んだ地域であったベラルーシ西部への教区拡大を計画しました。ベラルーシの側でも独自の合同教会教区再建運動が起こりますが、1939年の独ソ戦勃発により、この試みは頓挫しました。

ハーリチ=リヴィウ府主教シェプティツキー(1869-1951)

4.社会主義体制下の合同教会

1939年から45年にかけて、ソ連は領土を西方へと拡大しました。ポーランド東部領の一部はウクライナへと編入され、400万人と言われる合同教会信徒がソ連の領内に入りました。

ロシア革命後のウクライナの領土の変遷
黄色、茶色、ピンク色の部分が第二次世界大戦期に編入された領土
By Spiridon Ion Cepleanu - History Atlases available., CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17831314

1944年の編入当初、ソ連政府は合同教会を当面の間容認することにしましたが、翌45年になると本格的な迫害を始め、46年には合同教会を非合法化しました。同年3月8日から10日にかけて、スターリンの指示によってリヴィウで行われた教会会議では、1596年のブレスト教会合同の撤回ロシア正教会への統合が決定されました。ソ連もまた、ウクライナ人のナショナリティの拠り所として、合同教会を警戒したのでした。

時の府主教ヨシフ・スリピーはじめ高位聖職者たちは逮捕され、投獄あるいは強制収容所送りになりました。しかし、多くの合同教会聖職者は、表向きだけ正教会聖職者として振舞ったり、地下で司牧活動を続けるなど、秘密裏に合同教会の教義を実践し続けました。

府主教ヨシフ・スリピー(1892-1984)
ソ連当局からロシア正教会への帰依と引き換えに、キエフ府主教座の地位を約束されたが、これを断り、逮捕された
By Pkravchenko - Own work, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7751198

戦後社会主義国となったポーランドでは、合同教会信徒はより過酷な経験をしました。第二次大戦時、ウクライナ人の民族主義者たちは、独立の機会を奪い、カトリックを強制したポーランド人に対する恨みから、大規模なポーランド人虐殺を行いました。戦後のポーランドはこれに対する報復措置として「ヴィスワ作戦」を展開し、ドイツから獲得した西部・北部の「戦後回復領」へとウクライナ人を強制移住させました。

強制移住させられるウクライナ人(1947年)
戦後のポーランドはソ連と住民交換を行っており、ポーランド領内にいた48万3000人のウクライナ人がソ連領内へと強制移住させられた。その多くは合同教会信徒であった

現地からウクライナ人が一掃された結果、ポーランド領内の合同教会教区は瓦解しました。教会資産の多くは国有化されるか、カトリックと正教会に分与されました。ウクライナ人に対し怒りを抱くポーランド人と隣り合って暮らすことを余儀なくされたウクライナ人たちは、民族的アイデンティティの主張を控え、マジョリティであるカトリックへと改宗し、ポーランド人に同化していきました。

5.合同教会の復興と正教会の分裂

ゴルバチョフによるペレストロイカが進展すると、合同教会復興の動きが出てきました。1987年、ウクライナ・カトリック教会再建委員会が結成され、合同教会の合法化を求める署名活動を行いました。しかし、ゴルバチョフ政権はこの動きに対し弾圧の姿勢をとり、刑法で合同教会のミサを行った場合の罰金を定め、ロシア正教会と協力して対抗活動を行いました。ソ連政府の頑なな態度に対し、合同教会側の活動も先鋭化していき、やがて民族主義の様相を呈するようになりました。

合同教会にとって転機となったのは、1989年のゴルバチョフのバチカン訪問です。ローマ教皇と会見したゴルバチョフは、合同教会の合法化を約束しました。その後、合同教会は活動の自由を得たものの、西ウクライナ各地でロシア正教会との深刻な対立や紛争を引き起こすようになりました。

ゴルバチョフと会見したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920-2005)
史上初のポーランド人教皇であり、東欧のカトリック教会や合同教会の問題について特別な関心を寄せていた
By Quirinale.it, Attribution,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=116480934

ペレストロイカによって、ウクライナの正教会も活動を開始しました。1990年にはウクライナ自治独立正教会が合法化され、ロシア正教会に取って代わるように勢力を拡大しました。同年6月には総主教制の設置を宣言し、ムスティスラフ・スクリプニクが初代総主教に選出されました。

1991年末、ウクライナのソ連からの独立にともない、キエフ府主教フィラレート・デニセンコロシア正教会からの独立を画策し始めました。これに対し、ロシア正教会はフィラレートを解任し、ヴォロディーミル・サボダンキエフ府主教に擁立しました。その後、1992年に独立したウクライナ正教会・キエフ総主教庁が設立されたため、ウクライナの正教会は2つに分裂してしまいます。

1990年6月に開催された、モスクワ総主教選出のための教会会議
中央にいるのがフィラレート

6.まとめ

今一度、独立期のウクライナの教会について整理したいと思います。

まず、モスクワ総主教庁系ウクライナ正教会。これはモスクワ総主教をトップとするロシア正教会の下部組織であり、1686年以来続く最も伝統的な教会です。独立当時、唯一世界的に公認された正教会でもあります。

次に、ウクライナ正教会・キエフ府主教庁。これは1992年にモスクワ総主教庁から独立して成立した教会です。ロシア正教会からは破門されており、世界的に公認もされていませんでした。

そして、ウクライナ自治独立正教会。これは1920年にモスクワ総主教庁からの独立した教会で、ソ連時代は非合法化されましたが、1990年に合法化されました。ウクライナ正教会・キエフ府主教庁とともにロシア正教会から破門されています。

なお、2018年にウクライナ正教会・キエフ府主教庁とウクライナ自治独立正教会は統合され、現在では1つのウクライナ正教会となっています。

そして、最後に合同教会です。これは1596年のブレスト教会合同で成立した教会で、ローマ教皇の首位性を認めつつ東方典礼を維持している教会です。こちらもソ連時代は非合法化されていましたが、1989年に合法化されました。

このように、ウクライナで複数の教会が併存することとなったのは、ロシア正教会がロシア民族主義と結びついたように、ウクライナにおいても民族主義と教会は結びつき、分離独立していったためでした。この状況は現在に至るまで大きく変わってはいません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ロシア革命期のウクライナの独立運動については、こちら

ソ連体制下のウクライナについては、こちら

合同教会が成立したブレスト教会合同については、こちら

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