見出し画像

ウクライナの歴史5 ロシア革命と中央ラーダ

1.はじめに~ウクライナの国旗・国歌・国章~

日本に日の丸や君が代があるように、どこの国にも、その国を表すシンボルとして国旗・国歌・国章があります。
ウクライナの国旗は、最近見かける機会が多いと思いますが、上が青、下が黄の2色旗です。この2つの色は、青が大空を、黄が麦畑の広がる大地を表すと言われています。

ウクライナの国旗

ウクライナの国家は「ウクライナは滅びず」というもので、ウクライナの不屈の自由とウクライナ人がコサックの一族である誇りを歌い上げています。これは1860年代に、民族学者パヴロ・チュビンスキーが作詞し、カトリック教会司祭だったミハイロ・ヴェルビツキーが作曲された歌を、原型としています。


そして、国章は青地に黄の三叉戟が描かれており、これはキエフ・ルーシのヴォロディーミル1世の紋章が使用されています。

ウクライナの国章

これらが正式に国旗・国歌・国章となるのは、当然現代のウクライナがソ連から独立した以降なのですが、実はそれ以前に、同じシンボルをもった国がウクライナには存在していました。それは、1917年のロシア革命を機にロシアから独立したウクライナ人民共和国でした。

2.2月革命の勃発

1914年に勃発した第一次世界大戦は、ロシア帝国の社会と経済に深刻なダメージを与えました。前線への補給が最優先され、都市部における物資不足が深刻化していたのです。首都ペトログラード(ドイツ風のサンクトペテルブルクから改名された)では一般市民への食糧供給が困難になり、さらに、物資不足から軍需工場が操業停止し、何万人もの労働者が解雇されました。

1917年2月23日、労働者による大規模なゼネストが発生し、やがて「ツァーリ打倒」を掲げたデモ隊と警官隊・軍隊との武力衝突へと発展していきました。2月革命の勃発です。事態を収束させるため、皇帝ニコライ2世は退位し、弟のミハイル大公に譲位しようとしましたが断れたため、300年間続いたロマノフ朝は終焉しました。

2月革命時のデモ行進
ニコライ2世の退位

自由主義者たちはロシア帝国の後継として「臨時政府」を発足しましたが、社会主義者たちは労働者・農民・兵士たちの代表機関である「ソヴィエト」を結成したため、二つの政権が並立する二重権力体制とよばれる状態になりました。

3.中央ラーダの創設

2月革命の知らせが届いたキエフでは、ウクライナの民族主義諸政党や労働団体が集い、ウクライナを代表する機関である「ウクライナ中央ラーダ」を結成しました。議長にはミハイロ・フルシェフスキーが、内閣に相当する行政機関「総書記局」の局長にはヴォロディーミル・ヴィンニチェンコが、軍事委員長としてシモン・ペトリューラが、それぞれ就任しました。

ミハイロ・フルシェフスキー(1866-1934)
ヴォロディーミル・ヴィンニチェンコ(1880-1951)
シモン・ペトリューラ(1879-1926)

中央ラーダは、労働者、兵士、農民の各層から支持を受け、ウクライナのすべての社会階層の代表機関として拡大強化されました。6月には「第1次ウニヴェルサル(宣言)」が発布され、ウクライナの自治が宣言されました。臨時政府は、中央ラーダの影響力を無視できなくなり、またウクライナがロシアから独立することを恐れたため、中央ラーダとウクライナの自治を承認しました。

4.ウクライナ人民共和国とボリシェヴィキとの闘い

「略奪的な帝国主義戦争」の停止と「真に民主的な講和」を主張していたウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキは、ペトログラード市民からの支持を受け、ソヴィエトの多数派を占めるようになっていました。そして、10月25日、ボリシェヴィキによる武装蜂起により臨時政府は打倒され、ソヴィエト政府が樹立されます。これを「10月革命」といいます。

ウラジーミル・レーニン(1870-1924)
「冬宮への突撃」1920年の再現群像劇

中央ラーダはボリシェヴィキを非難し、「ウクライナ人民共和国」の成立を宣言します。一方ボリシェヴィキは、ハルキフで「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立したため、両共和国は対立し、1918年1月には武力衝突が始まりました。中央ラーダ軍はボリシェヴィキ率いる赤軍に圧倒され、2月にはキエフから撤退します。

5.スコロパツキー政権

中央ラーダ政府はボリシェヴィキに対抗するため、ドイツ・オーストリアと講和を結びます。同盟国軍の支援を受けた中央ラーダ軍は、4月にキエフを奪還します。しかし、ウクライナに進駐した同盟国軍は中央ラーダ政府を解散し、より都合のいい傀儡政権として、コサックの子孫にしてロシア帝国の軍人であったパヴロ・スコロパツキーを首班(ヘトマン)とする新政府を立ち上げます。

パヴロ・スコロパツキー(1873-1945)

スコロパツキー政権には、ロシア語話者の官僚、将校、地主、資本家、中間層が参加し、行政の立て直しとヨーロッパ諸国との外交樹立などが進められました。しかし、長引く戦争による食糧不足に悩まされていた同盟国軍は、穀倉地帯であるウクライナで食糧徴発を実施しました。それがあまりにも過酷であったため、各地で農民反乱が相次ぎました。

11月11日に同盟国軍が協商国軍に敗れると、ヴィンニチェンコ、ペトリューラら中央ラーダの残党が「ディレクトリア」を組織し、キエフへと進軍します。独墺の後ろ盾を失ったスコロパツキーは破れ、ディレクトリアはウクライナ人民共和国の復活を宣言します。さらに、1919年1月には、オーストリアの敗戦より独立した「西ウクライナ人民共和国」との統一が宣言されました。

6.激化する内戦

しかし、ウクライナをめぐる状況は一層深刻化していました。ボリシェヴィキ率いる赤軍、オーストリアより独立したポーランド軍、帝政ロシア復活を目論む白軍などの軍勢が、ウクライナに進軍していました。

国内ではアナーキストのネストル・マフノの率いる農民パルチザンが各地で反乱を起こしていた。さらに、政府内部でも、ソヴィエト政権との協力関係を推し進めようとするヴィンニチェンコと、ロシア以外の諸外国との同盟関係を築こうとするペトリューラとの対立が先鋭化していました

ネストル・マフノ(1888-1934)

1919年2月、赤軍の攻勢を受け、ディレクトリア政府はキエフを撤退しました。1919年夏には、今度はアントン・デニーキン率いる白軍が、赤軍をウクライナのほぼ全土から退却させます。しかし、農民パルチザンによって補給基地を断たれたことで急速に力を失い、1920年2月には再び進軍してきた赤軍によって、逆にウクライナから駆逐されてしまいます。

アントン・デニーキン(1872-1947)

1920年5月、ポーランドと同盟したペトリューラ軍はキエフを奪還するものの、6月には再び赤軍によってキエフを占領されてしまいます。その後は戦線が膠着したため、10月にポーランドはペトリューラを見放し、ウクライナ・ソヴィエト共和国と和平のためにリガ条約を結んでしまいます

リガ条約を批判するポスター
ベラルーシがポーランドとソヴィエトに分割され、
ウクライナは両者によって踏みつけにされている。

7.ボリシェヴィキの勝利

マフノ率いる農民パルチザン軍は、赤軍と協力関係を築くこともありました。しかし、白軍、ペトリューラ軍を倒した赤軍は、用済みとなったパルチザン軍を潰しにかかり、1921年8月に20万人以上を虐殺し、鎮圧します

ペトリューラはポーランドで亡命政府を築き、キエフ地方のゲリラを支援しますが、1921年末にはこれも鎮圧されます。その後、彼はパリに亡命しますが、1926年にソ連のエージェントによって暗殺されます。

最終的に、西ウクライナの大半はポーランドが、北ブコヴィナはルーマニアが、ザカルパッチャ地方はチェコスロヴァキアが、それぞれ領有することとなります。それ以外のウクライナはウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国として、ソ連に加盟することとなります。

1921年のウクライナ国境。
濃い緑系がウクライナ領、西側の薄緑がポーランド領、
橙色がチェコスロヴァキア領、ピンク色がルーマニア領

8.まとめ

ウクライナ人民共和国は、近代ウクライナ史上初の独立国家でしたが、非常に短期間で崩壊してしまいました。ソ連時代は、ウクライナ人民共和国は「ブルジョワ的民族主義、分離主義」として否定的に扱われてきました。ソ連崩壊後は「ウクライナ革命」と呼ばれるようになり、正式にウクライナの歴史学の一部となりました。

一時的にせよ独立を果たしたことは、ウクライナという意識とアイデンティティを確かなものとしました。また、冒頭で触れたように、現代ウクライナの国旗・国歌・国章は、ウクライナ人民共和国で採用されたものが継承されており、現代ウクライナがウクライナ人民共和国の後継者を自認していることが伺われます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

◆◆◆◆◆

前回

次回

参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)


この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?