見出し画像

ウクライナの歴史6 農業集団化とホロドモール

1.はじめに~農業大国ウクライナ~

ウクライナには世界の黒土帯(肥沃な黒色土壌が分布する地域)の約30パーセントが存在しており、耕地面積は日本の国土面積とほぼ同じで、「ヨーロッパの穀倉」と言われています。特に、小麦、大麦、トウモロコシの世界的輸出国であり、ヒマワリの種とヒマワリ油については、世界トップの輸出国となっています。現在、ロシアのウクライナ侵攻により農作業が停止し、また、黒海沿岸の港が封鎖されていることから、輸出量が減少し、世界的な食糧価格の高騰につながると指摘されています。

しかし、豊かな農業国であるはずのウクライナは、ソ連体制下において、3度にわたる大規模な飢饉が発生しました。1度目にあたる1921~22年、および3度目の1946~47年の飢饉は、それぞれ内戦や戦争という外的な要因がありました。しかし、2度目にあたる1932~33年の飢饉は、そうした外的要因ではなく、人為的な要因によるものでした。

2.新経済政策

1918~21年まで続いた内戦期には、農業において深刻な危機が発生しました。ソヴィエト政権はウクライナなどの占領地で土地の国有化し、穀物の強制徴発を行いました。穀物は食糧不足に悩むロシア本土へ送られたため、農民たちが強く反発しました。そして、そこへ干ばつが重なり、1921年には大規模な飢饉が発生し、100万人以上が亡くなりました

「飢饉」イヴァン・ヴラディミーロフ,年不明
1920年代の飢饉を描いている

1921年3月、ウラジーミル・レーニンの強い主張により、食糧を確保しつつ、農民の抵抗を和らげることを目的として、新経済政策ネップ)」が開始されました。ネップにより、農民たちは所定の税を払った後は、市場で自由に収穫物を売ることができるようになりました。収穫が多ければその分豊かになることができたため、生産量の増加にもつながりました。

3.スターリンによる権力掌握

1924年にソ連建国の父であるウラジミール・レーニンが亡くなると、共産党内部で権力闘争が行われ、レフ・トロツキー、グリゴリー・ジノヴィエフ、ニコライ・ブハーリンらを追放し、ヨシフ・スターリンが権力を掌握しました。共産党内では分派が禁止されており、また、古参幹部たちが次々に追放されたため、スターリンは独裁的な地位を固めました。


ヨシフ・スターリン(1878-1953)

スターリンが権力を掌握した1920年代末~30年代初頭においては、共産党による一党支配が確立し、検閲体制が整備され、政治的に異論を表明できる公的な機会や経路はなくなっていました。

4.第一次五ヵ年計画と農業集団化

1929年4月、大規模で急進的な工業化を実行する「第一次五ヵ年計画」が採択されました。スターリンは、資本主義勢力によって包囲されている状況下で、工業力・軍事力の飛躍的強化が必要だと考えていました。しかし、工業化のためには欧米から設備を購入する必要があり、設備を購入するためには穀物輸出により外貨を確保する必要がありました。

そこで、輸出穀物を十分に確保するため、農民に穀物を強制的に供出させる「非常措置」が発動されました。しかし、非常措置には多くの農民たちが抵抗しました。これを抑え、穀物を供出させるために全面的な「農業集団化」が図られました。農業集団化とは、個人経営の農民たちを国営農場(ウクライナ語:ラドホスプ、ロシア語:ソフホーズ)や集団農場(ウクライナ語:コルホスプ、ロシア語:ソフホーズ)へ強制的に加入させることでした。

「集団化の途上」
農業集団化を理想化したポスター

これに対し、農民たちは激しく抵抗しました。農民たちは穀物の供出を拒否し、収穫物と家畜を自分たちで濫費するという、伝統的な抵抗を行いました。ソヴィエト政権は、抵抗する農民を「反革命」とみなし、北方やシベリアへ追放したり、強制収容所に送り込みました。

「コルホーズからクラークを追い出せ」
食糧を供出しない農民は、富農(クラーク)とレッテルが貼られ、階級敵とみなされた。
しかし、実際には必要以上の食糧を貯めこんでいる農民はほとんどいなかった

ソヴィエト政権は、農村の統制を強化しました。1932年8月には、穀物の取り引き、落穂拾い、穂の刈取りが「人民の財産の収奪」と見なされ、10年の禁固刑を科す決定がなされました。また、10月には、非常委員会が設置され、穀物調達の不履行に対してコルホーズ員やコルホーズ議長、現地の党員や行政職員を対象に、野外における公開裁判を実施し、弾圧しました。12月には、国内パスポート制が導入され、コルホーズ員の移動を制限しました。

5.大飢饉の発生

集団化を強いられた農民は生産意欲に乏しく、トラクターや肥料も不足していたため、全体的に穀物収穫高は減少しました。ウクライナでは、集団化が開始された1930年の収穫高は2200万トンでしたが、1931年には1770万トン、1932年には1280万トンにまで減少しました。

しかし、収穫高の減少に関わらず穀物調達量は変更されませんでした。1930年には収穫高の35パーセントが調達されましたが、1932年には50パーセント以上が調達されました。

コルホーズからの食糧を強制徴収する「プロレタリアの革命の波」
ハルキフ州

農民たちのもとには自己消費分の穀物すら残されず、ウクライナでは大規模な飢饉が発生しました。農民たちは飢えをしのぐため、ネズミ、木の皮や葉、犬や猫などの愛玩動物、さらに人肉まで口にしました。ソ連政府が国際的威信が失墜することを恐れ、国際連盟や国際赤十字などの国際的救援を全て断ったことも、被害を拡大させました。

飢饉の発生範囲(黒い部分)
ウクライナからヴォルガ川流域、カザフスタンに及んでいる

6.まとめ

1932年~33年に発生した飢饉は、「ホロドモール(飢餓による殺人)」と呼ばれています。その被害者の数ははっきりとわかっておらず、250万人~750万人までの様々な見解があります。

「走る男」カジミール・マレーヴィチ(1933-34)
ソ連の芸術家マレーヴィチの作品。
ホロドモールを告発したもの、という解釈がある。

欧米では、すでに20世紀後半に、ホロドモールはウクライナ民族に対する大量虐殺ジェノサイド)であるという見解が現れました。ソ連では、グラスノスチによって言論統制が緩められるまで、飢饉の事実には全く触れられませんでした。独立後のウクライナにおいては、欧米と同様にホロドモールをジェノサイドであると認定する法案が最高会議において採択されています。

一方、ロシアにおいては、1932~33年の飢饉は、ウクライナ人だけでなく、ロシア人やカザフ人にも被害が及んでいる点が強調され、特定の民族を対象にした飢饉が組織されたという歴史的証拠はないとされています。こうした解釈の違いにより、ウクライナとロシアの間では、歴史認識問題が発生しています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

◆◆◆◆◆

前回

次回

参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
松戸清裕『ソ連史』筑摩書房,2012年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)

この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?