【近現代ギリシャの歴史11】キプロス紛争~最後のメガリ・イデア~
こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第11回目です。
前回の記事はこちらから!
近現代ギリシャ史を語るうえで外すことができないのが、キプロス紛争です。キプロス島は地中海北東、トルコの南75キロ、シリアの西105キロに浮かぶ島であり、古代以来ギリシャ文化圏に属し、近代ギリシャはこの島の併合を目指していました。今回は、キプロスを巡るギリシャ、トルコ、そしてイギリスを中心とする紛争について見ていきたいと思います。
1.正教とイスラムが共存する島
キプロス島にギリシャ人が入植したのは、紀元前14世紀ごろと考えられています。キプロスの支配者はアケネメス朝、プトレマイオス朝、ローマ帝国へと変わり、395年にローマ帝国が東西分裂して以降は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属すことになります。12世紀まで続くビザンツ時代を通して、キプロスには正教・ギリシャ文化が根付きました。
1571年、キプロスはオスマン帝国に占領され、以降300年間はオスマン領となります。オスマン時代になると、イスラム教徒が島へと流入するようになり、また、非イスラム教徒には納税の義務が課されていたことから、正教からイスラムへ改宗する者も少なくありませんでした。しかし、それでも正教徒とイスラム教徒の比率は4対1と、正教・ギリシャ文化の優位は揺るぎませんでした。
しかし、正教徒やイスラムという宗教の違いは、近代以前において問題になることはありませんでした。オスマン帝国は宗教的寛容であり、他のオスマン領と同じく、キプロスでも両者が共に暮らすコミュニティが数多く存在していました。正教徒とイスラム教徒は、お互いの祝祭に参加し合ったり、同じ市場で商売をしたり、両者が協力してオスマン当局の支配に抵抗することさえありました。
2.メガリ・イデアと「エノシス」
1830年にオスマン帝国から独立したギリシャ王国は、歴史的・民族的にギリシャ的と見なされる土地を統合しようとする「メガリ・イデア」を提唱していましたが、その矛先は当然キプロスにも向けられるようになります。こうしたギリシャ本土への統合という思想は「エノシス」と呼ばれ、学校教育や文化協会、教会を通して、キプロスの正教徒民衆に浸透していきました。
1878年のイスタンブル協定によって、キプロスの施政権はイギリスへと移されました。イギリスは住民が団結して支配に抵抗しないよう、キプロスの住民を分断する政策を推進しました。行政や教育を通して、正教徒は「ギリシャ人」、イスラム教徒は「トルコ人」というアイデンティティが強められ、従来の共存関係は徐々に崩壊していきました。
1925年にキプロスが正式に英領植民地へと組み込みまれると、ギリシャ系住民のエノシス運動は徐々にエスカレートしていきました。しかし、キプロスは中東政策の戦略的拠点と位置づけられたため、当然この要求は退けられました。また、ギリシャ本国でも、1922年のギリシャ・トルコ戦争での敗戦以降、メガリ・イデアは失速しており、イギリスとの友好関係が損なわれる懸念もあり、戦間・戦中期を通して、キプロス問題への積極的なアプローチは行われませんでした。
3.キプロス独立
1950年1月、キプロスではギリシャとの統一の賛否を問う住民投票が実施され、トルコ系住民がボイコットしたこともあり、賛成票が96パーセントに上りました。キプロス代表団はギリシャ政府に国連への提訴を働きかけ、当初は乗り気でなかったギリシャ側も親キプロス世論の高揚に圧され、1954年についにキプロス問題を国連総会に提訴します。
しかし、イギリスはキプロス統一を断固拒否する姿勢を示しており、話し合いで決着は見込めませんでした。そのため、「エノシス」を目指すギリシャ系住民は武力闘争に訴えるようになり、1955年4月、ゲオルギオス・グリヴァスによってキプロス民族闘争機構(EOKA)が結成され、イギリス植民地当局を攻撃するようになります。
事態がギリシャへの併合へと進みだすと、キプロスのトルコ系住民は危機感を覚えるようになり、ギリシャとトルコによる「分割(タクスィム)」を主張するようになります。キプロスの両住民の対立はかつてないほど高まり、EOKAに対抗するトルコ系武装組織も登場し、流血の争いが展開されました。また、トルコ本土でも、ギリシャ系住民への集団暴力が行われました。
こうしてギリシャへの統合が手詰まりになると、キプロスの指導者である大主教マカリオス3世は、エノシスでもタクスィムでもない第三の道、すなわちキプロスの独立という選択を採りました。この頃になると、イギリスもキプロスを維持し続けることが困難となっていたこともあり、1960年、妥協の産物としてキプロス共和国が成立することになります。
4.トルコ侵攻と分断
独立からわずか数年後、キプロスでは再び緊張が高まりました。独立キプロスの体制では、人口の2割に満たないトルコ系住民に大きな配慮が与えられ、議会・内閣・公務員の3割、治安部隊の4割はトルコ系でなければならないとされていました。マカリオスはこれがキプロス政治の機能不全をもたらしていると考え、憲法改正を提案したところ、これを「エノシス」の足掛かりになると捉えられたトルコとトルコ系住民から大きな反発を招いたのです。
1963年には両住民の間で武力衝突が発生し、翌64年にはトルコ軍による空爆が行われると、対立は頂点に達しました。マカリオスは国連による調停を要請し、キプロス平和維持軍(UNFICYP)が派遣され、事態は収束を見ました。しかし、この危機の際、米国の調停案を拒否し、ソ連や第三世界とも連帯する姿勢を見せたマカリオスは、米国から「地中海のカストロ」と名付けられ、目を付けられるようになります。
1967年、ギリシャで米国の強い影響下にある軍事政権が樹立すると、マカリオスはエノシスを完全に放棄し、共和国の維持独立に傾斜していきます。しかし、軍事政権側はあくまでもキプロス統合にこだわり、EOKAの指導者であったグリヴァスを秘密裏に派遣し、EOKAを再結成させ、マカリオス体制を内部から切り崩そうとします。
1974年7月15日、軍事政権はEOKAに反マカリオス・クーデターを起こさせますが、これは失敗に終わります。そして、この事件をきっかけに、エノシス阻止とトルコ系住民保護を掲げたトルコ軍がキプロスに上陸し、そのまま島の北部を占領してしまいました。マカリオスを消したい米国は、軍事政権によるクーデターもトルコの侵攻も黙認したため、島はそのまま南北に分断されることになります。
5.分断の固定化
トルコ軍はキプロスの北部37パーセントを占領し、首都ニコシアもかつてのベルリンのように分断されてしまいました。南北キプロスの間には国連PKOが展開し、緩衝地帯が設けられました。分断の際、北部に住んでいたギリシャ系住民は南部へ、南部に住んでいたトルコ系住民は北部へと移動し、それぞれで難民となりました。
1975年、北部では「キプロス・トルコ連邦」の樹立が宣言され、83年には独立の「北部キプロス・トルコ共和国」の建国が宣言されます。こうしてキプロスは、南北にギリシャ系とトルコ系の二つの政権が並立する分断国家となってしまいました。南北両政権は対話を重ねますが、一つの中央政府を望む南キプロスと、二つの主権国家を望む北キプロスとの交渉は平行線をたどりました。
南北統一の最大のチャンスが訪れたのは、キプロスのEU加盟の際です。キプロスは2004年5月にEUへと加盟することが決定していましたが、この1か月前に国連提案の「アナン・プラン」に基づく統一の是非について、住民投票が行われることになったのです。しかし、アナン・プランを自分たちに不利と見たギリシャ系住民の多くは反対票に投じたため、実現には至りませんでした。これ以降、統一に関する具体的な動きはなく、現在もなお分断は続いています。
6.まとめ
来年でキプロス分断からちょうど半世紀になります。分断以降の世代が主流となったこともあり、南北ともに統一への動きは鈍く、分断は事実上固定化されている状態にあります。現在では南北の人の行き来は自由になっていますが、難民となった人々の元の住処はすでに別の人の住居となっているケースが多く、帰還は困難となっています。
キプロス紛争の行方は誰にもわかりませんが、当然ギリシャへの統一もなければ、南北統一もなく、このまましばらく分断されたまま状態が維持され続けるのではないかと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主な参考
◆◆◆◆◆
連載を最初から読みたい方はこちらから
次回
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?