【近現代ギリシャの歴史10】戦後ギリシャと軍事独裁政権
こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第10回目です。
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枢軸国による占領から解放後の数年にかけて、左翼・共産主義者と右翼・王党派との凄惨な内戦を経験したギリシャ。その爪痕は戦後も残り続け、右翼・保守派が権力を握り、「共産主義の脅威」がことさら叫ばれる言論の自由のない社会が築き上げられていきます。今回は、保守が権力を握った戦後ギリシャと軍事独裁政権について見ていきたいと思います。
1.西側の「飛び地」ギリシャ
1944年10月、英国チャーチル首相とソ連最高指導者スターリンとの間で、戦後のバルカンにおける勢力分割についての密約が結ばれました。通称「パーセンテージ協定」と呼ばれるこの協定の中で、ソ連はルーマニア、ブルガリアを勢力圏に入れる代わりに、イギリスはギリシャを勢力圏に入れることになりました。こうして戦後のバルカン諸国が軒並み共産国化する中、ギリシャだけは「飛び地」のように西側陣営に所属することになりました。
西側陣営の盟主である米国は、ギリシャをバルカン・東地中海政策の要と位置づけ、多額の軍事的・経済的資金援助を行うとともに、その内政に直接的・間接的に干渉しました。この時期のギリシャは、米国の承認なしにはあらゆる政策決定ができない状態にありました。また、1951年には、NATO(北大西洋条約機構)へと加盟し、53年には米軍基地が常設されることになりました。
こうした情勢もあり、戦後のギリシャでも「共産主義の封じ込め」政策が継続されました。CIAの全面的バックアップの下に創設されたギリシャ諜報機関(KYP)、さらに警察と非合法の自警団によって、左翼・共産主義運動は厳しく取り締まられました。国民は身分証明書を常に携帯せねばなりませんでしたが、警察は思想・信条に疑いのある者に対し、その発行を拒否しました。
2.中道派の台頭
こうした監視・抑圧体制の中でも、国政選挙は続けられました。選挙のたびに選挙制度が改変され、共産党は非合法化されていたため、議会では右派・王党派が多数派を占め続けました。しかし、裏を返すと安定政権が形成されたため、戦後の経済的混乱を収束させることに成功します。1955年から63年まで続いたコンスタンディノス・カラマンリス政権期には、工業や観光業の発展や国民所得倍増といった高い経済成長が実現しました。
しかし、1960年代に入ると、右派に対する国民の不満が高まります。内戦期の記憶が薄れたことで、左翼・共産主義の脅威という右派の宣伝が説得力を失ったこと、さらに戦後の経済成長によって、新たな中間層が形成されたことが大きな原因でした。1961年の選挙では、右派による選挙妨害にも関わらず、ゲオルギオス・パパンドレウ率いる中道連合が議会第二党に躍進、63年及び64年の再選挙では第一党となり、戦後初の中道政権が成立しました。
パパンドレウは国民的和解を提唱し、刑務所に収監されていた左翼・共産主義者の大半を釈放し、警察による取り締まりの緩和、反共産主義自警団の解散を命じました。また、防衛予算を削減し、それを財源として社会福祉政策や教育改革を行うなど、経済的に下層の人々を対象とした政策を実施しました。外交政策も一部転換し、東側諸国との関係改善などの独自外交路線を展開しました。
3.軍事クーデターの発生
パパンドレウの政策は右派勢力を著しく不安にさせました。彼らは、パパンドレウが国家を左翼・共産主義の脅威にさらし、米国やNATOとの関係を否定していると捉えらえたのです。軍内部の左翼将校グループ「アスピダ」の活動に、首相の息子アンドレアスが関与しているというでっち上げに基づく中傷さえ行われました。1965年、軍の統帥権を巡って国王コンスタンディノス2世と対立してしまい、パパンドレウは辞任に追い込まれました。
パパンドレウを支持する国民は各地でデモを組織し、1年半以上にわたってデモ隊と警察との衝突による無秩序状態が続きました。1966年12月、秩序回復のため、翌67年5月に総選挙が実施されることが決定しますが、中道連合の勝利が確実であったことから、軍の中堅将校グループは「共産主義による乗っ取りを阻止する」という口実のもとにクーデターを敢行し、軍事力によって政権を奪取しました。
クーデターの首謀者であるゲオルギオス・パパドプロスら三人の大佐が実権を握り、軍事独裁政権が樹立しました。パパドプロスは戒厳令を敷き、憲法を停止し、議会を解散し、すべての政党活動を禁止しました。クーデターに反対する者は右派であれ、左派であれ関係なく弾圧し、50年代の監視・抑圧体制を復活させました。
4.国内外での反政府運動
当初はクーデターを支持していた国王も、あまりの強硬政策に耐え兼ね、対抗クーデターを企てましたが失敗し、ローマへと亡命することになりました。その後、パパドプロスは首相・外務・国防・教育・政策大臣を兼務して権力を集中させていきます。独裁政権はあらゆる出版物を検閲し、国家と民族への忠誠が疑わしいと見なした人々を公職から追放し、公安当局に監視させました。
国際世論は、軍事政権に批判的になっていきました。1968年には欧州人権委員会の、69年には欧州評議会による調査が入り、ギリシャの体制は「非民主主義的で、自由がなく、独裁主義的かつ抑圧的」と報告されました。亡命したギリシャ人や国外のギリシャ系の人々も軍事政権を糾弾する活動を展開しました。その中でも、アンドレアス・パパンドレウ率いる全ギリシャ解放運動(PAK)の活動は、軍事政権の問題点を広く知らしめる役割を果たしました。
従来の政治家の多くが亡命し、占領期に大きな勢力を持っていた共産党は分裂状態にあったため、ギリシャ国内の抵抗運動の先頭に立ったのは、学生たちでした。1973年10月、首都アテネでは学生による大規模なデモ行進が行われ、「自由を!パンを!教育を!」といったスローガンを掲げ、アテネ工科大学を占拠しました。これに対し、パパドプロスは軍隊を派遣して鎮圧にあたらせたため、7000名が逮捕、数百人が負傷、80名程度が死亡する事態となりました。
5.軍事政権の崩壊と民主化
アテネ工科大学占拠事件の直後、治安警察長官であったディミトリオス・イオニアディスによるクーデターが起き、パパドプロスは失脚しました。イオニアディスは国民からの支持を回復するため、ナショナリズムを刺激する政策を採りました。それはキプロス島併合です。1960年にイギリスから独立したキプロスは、住民の8割をギリシャ系が占めており、軍事政権はヘレニズムの中心地であるギリシャへと併合されるべきであると考えていました。
1974年7月、イオニアディスは、キプロス大統領マカリオスを暗殺を実行しますが、失敗に終わります。そして、この事件をきっかけに、ギリシャへの併合に反対するトルコがキプロス北部に軍事侵攻する事態となりました。イオニアディスはキプロスへの派兵を命じますが、軍部はイオニアディスの命令を拒否しました。支持基盤を完全に失ったイオニアディスは失脚することになります。
軍部は旧体制の政治家たちと会合を開き、パリから亡命していた右派政治家コンスタンディノス・カラマンリスを呼び戻すことを決定します。11年ぶりに帰国したカラマリンスは7月24日に首相に就任し、軍事独裁政権の解体と民主主義政府の復活に着手することになります。こうして、ギリシャ人は再び自由と民主主義を取り戻したのでした。
6.まとめ
軍事政権の崩壊は、単なる民主主義の再開に留まりませんでした。軍事政権という共通の敵に対し左派と右派が手を結んで挑んだことで、戦中戦後の対立を乗り越えることができたのです。ここにきて、ようやくギリシャは真の自由を手に入れ、民主的な国家建設に取り組むことができるようになりました。
現代の日本でも「共産主義の脅威」を声高に叫ぶ保守派を見かけます。しかし、ギリシャの歴史を見れば、保守や自由主義者だってロクでもないことをしてきたというのがわかるのではないでしょうか。どんな思想でも、民主主義がしっかりと機能していなければ、恐ろしい体制が生まれるのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主な参考
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